著者
薩摩 真介
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.2, pp.1-36, 2020 (Released:2021-09-09)

英西間の一七三九年のジェンキンズの耳戦争に対しては、ウォルポール政権を批判する野党のプロパガンダ・キャンペインとそれに煽られた世論が引き起こした戦争という見方が早くから存在した。そのため、スペインの沿岸警備隊によるアメリカ海域でのブリテン商船拿捕問題などをめぐるこの時期の政治的論争も、しばしば戦争原因の探求という文脈の中で扱われてきた。また近年では、ウィルソンの研究のように、議会外集団の政治参加のあり方を探る政治史的観点からも分析されている。しかし、本論文ではこの時期の議論を、近年の財政軍事国家論の進展を踏まえ、十八世紀半ばのブリテンにおける軍事力、とくに海軍力の行使を正当化ないし批判するロジックの解明という新たな観点から分析する。 使用した主な史料は、新聞・パンフレット類などの出版物、および議会討議録であるコベット『議会史』である。本論文ではこれらを用いて、拿捕問題が議会で論じられ始めた一七三七年から、ジェンキンズの耳戦争がオーストリア継承戦争に合流する四〇年末までの時期について、従来十分検討されてこなかった政権側の議論も含め、また議会外の出版物と議会内の議論も照合しつつ、政治的言説の内容と変化を精査した。 分析を通じて明らかになったのは以下の点である。すなわち、与野党双方ともスペインとの戦争を正当化ないし批判するに際し、商業利害を中心としながらも、それに留まらない地主層を含む幅広い経済的利害の擁護を主張の根拠として援用していたこと、陸軍と異なり海軍自体は批判の対象にはならなかったものの、コストに見合うその有効な活用法をめぐって、政権の「腐敗」とも結び付けられて批判が展開されていたこと、そして政権側の反論を封じる過程で、野党側が「航海の自由」を通商国家ブリテンにとっての妥協の余地なき権利として祭り上げ、さらに開戦後には、それが政権側によっても戦争の大義名分として主張されるに至ったということである。
著者
袁 甲幸
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.2, pp.37-72, 2020 (Released:2021-09-09)

本稿は、明治前期に広く展開されていた府県庁「会議」(各部課署係の正副長ないし一般属官を構成員とし、議会的な議事規則を用いて府県内の重要事案を審査する諮問機関)を対象に、府県行政における意思形成過程の一端を解明することを通じて、近代国家形成期における「公論」の変容過程を考察したものである。 廃藩置県後、府県庁内の官吏と区戸長・公選議員とが交わる「官民共議」的な地方民会が一時に現れたが、公選民会の発達により官吏は徐々に除外された。しかし官側にも、意見集約の場と、対等な議論による意見形成の経路が求められていたため、明治ゼロ年代末から明治十年代初頭にかけて、多くの府県で「会議」が創出された。「会議」の誕生経緯、規則、および議事録からは、「会議」が府県行政、特に議会の議案審査など対議会事務において大きな役割を果たしていたことが指摘できる。府県会が成立したにもかかわらず、議会式な意思形成経路が行政内部に存続しつづけた理由は以下の二点が挙げられる。一つ目は、官僚制内部の階級差や専門性の分化がまだ希薄だったため、行政内部においても対等な議論および議論による意見集約が比較的に達成しやすかったということ、二つ目は、「会議」を構成する属官層が、その出自・教育背景に由来する「公論」観、すなわち「公論」とは「賢明」で「公平無私」な人物の「衆議」によって形成されるものだという認識に基づき、地域利害を反映する議会と異なる役割を自覚していたことである。その後、地方官官制の整備につれ「会議」は上層部のみの部局長協議会へと収斂されていったが、議会制の危機あるいは新たな課題に応じ、「会議」が再び姿を見せることも屢々あった。 このように明治前期においては、行政における「公論」が、「民」側の民会・府県会と、「官」側の府県属官層によって支えられていた「会議」と、すなわち「官」「民」双方の「衆議」で棲み分ける形により、異なる側面の「至当性」を確保しようとしていたと捉えることができるのである。
著者
滝野 祐里奈
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.3, pp.1-34, 2020 (Released:2021-09-09)

ハワイへの官約移民に始まる日本人の大規模な海外移民及び植民は、国内外の政治状況に左右される形で、山谷を繰り返してきた。明治以後、多くの人びとがハワイ、そして北米へと移住したが、1908年の日米紳士協約によって事実上、米国への移民の途を閉ざされるに伴い、海外移民数は落ち込んだ。しかし、1920年代には、年間1万人から2万人もの人々が、再び移住先を、ブラジルを中心とする南米にかえて、海を渡るようになる。本稿は、この所謂「ブラジル移民ブーム」と呼ばれる現象の背景にあった、第一次世界大戦後の海外移植民政策・事業の変化とその規模拡大の過程を明らかにしながら、その政策的・社会的位置づけと特質の描出を試みるものである。 1920年代の海外移民送出数の盛り上がりの直接的な要因としては、1924年に内務省社会局が実現したブラジル移民渡航費全額補助が挙げられよう。大人一人につき200円もの渡航費を数千人規模で国庫から歳出するという同制度を含む、一連の海外移植民政策・事業は、当時、過剰人口問題の解決策と銘打たれていた。ただし、1920年代後半には、国内で食糧と職業を賄えない人々ではなく、一定程度の資産を持つ層を、移民ではなく植民として南米へ送出することへと、政策の軸が明らかに変化した。こうした政策・事業の変化の背景を明らかにしながら、本稿は、前述の目的に沿い、第一次世界大戦後のブラジルを中心とする海外移植民政策・事業について、深刻化する社会問題の解消と、海外への土地投資及び移住地建設を結び付けるような社会的枠組みを与えるもの、即ち、日本勢の海外進出に社会政策の看板を掲げるという、社会帝国主義の相貌を有するものであったことを指摘する。
著者
長﨑 健吾
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.9, pp.1-38, 2019 (Released:2021-09-02)

本論文では天正4(1576)年に法華宗(日蓮宗)教団が京都で実施した勧進に関する史料を分析し、戦国期の都市民における永続的な「家」(イエ)および都市民の社会的結合について考察する。第一章では勧進史料における家の位置付けを「家数」記載や信徒数の集計方法に注目して分析する。法華宗教団は家単位で信徒を把握しようとしていた。信徒の大半は教団側の志向に従って当主名義で家として出資を取りまとめたが、当主以外の家構成員や他宗の檀家に包摂された女性信徒などが個人として出資をする場合もあった。先行研究はこれらの点に留意していなかったため、家について適切に考察することができなかった。 第二章では狩野・後藤・本阿弥・五十嵐等の有力信徒の一族を取り上げ、家と一族の関係について考察する。当該期には婚姻の際に女性が帰依する僧坊を夫に合わせるか否かを選択しており、菩提所を異にする家同士の婚姻によって家や一族内部で帰依する僧坊が複数あるという事態が生じた。続いて上京小川地域における都市民結合について考察した。同地域は武具の製造・販売など武家政権周辺の需要を満たす工房街としての性格を有しており、住民の多くは職縁によってゆるやかに結びついていた。地域内における住民の移動と近隣での婚姻が繰り返された結果、小川地域においては職縁が住民の地域的なまとまりに転化していった。 第三章では西陣地域における都市民結合の特質について織物業者である大舎人座を取り上げて考察する。座衆や染色業者、染色に用いる紺灰の流通を掌握する商人のあいだには法華宗信仰が浸透し、既存の職縁を基に二次的な結合を創り出す媒介として機能していた。大舎人座衆は大宮今出川の辻を中心とする西陣地域内で最も有力な町々に居住しており、座衆自身も有力住民を構成していた。座衆は応仁の乱後にこれらの町々に定着し、西陣地域における地縁的共同体形成の核となった。
著者
小野寺 瑶子
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.10, pp.1-26, 2019 (Released:2021-09-02)

18世紀ロンドンでは、都市化の進行をはじめとする社会状況の変化に対応すべく、治安維持機構の改革が進められていた。近年の研究において、18世紀と19世紀の間に一定の連続性が認められる中で、本論文は、中央集権的な警察機構に強い抵抗を感じていたイングランド社会に、いかにして近代警察が導入されるに至ったかについて改めて探ることを目的とした。パーマーによれば、首都警察導入の背景として、騒擾対応において軍隊を用いる機会が増え、警察への抵抗感も薄れていったのであろうと指摘されている。これに対し、筆者は、軍隊と異なる性質を持つ義勇団の治安維持活動に着目し、治安維持組織改革における義勇団の役割と意義を捉え直すことを試みた。 本論において、まず、ロンドン・ウェストミンスタ義勇軽騎兵団及びシティの2つの武装協会を事例に、義勇団の構成並びに財政のあり方について詳しく考察した。結果、義勇団は国からの支援を受けて国と協力関係を結びながらも、日頃から培われてきた地域共同体のネットワークを基盤としていたことが明らかになった。続いて、対仏戦争期の騒擾対応の検討を通して、社会の変化と共に繁雑となった治安業務について、内務省の緩やかな指揮の下、様々な治安維持の担い手が連携しながら、戦時下の新たな社会状況に対処していたこと、また義勇団の参与により、治安判事と治安官を中心とする従来の治安維持組織の不備が補われたことも明らかにした。さらに、議会議事録や下院委員会の報告書の分析を通して、ナポレオン戦争終結後、義勇団の騒擾対応における働きを念頭に置きながら、共同体の自立した住民から成る組織に軍事的規律を導入し、有用性を高める方向で、治安維持組織改革が検討されたことを明らかにした。首都警察成立はその流れの中に位置づけられると共に、リスペクタビリティよりも実践的な有用性を重視した点において従来の治安維持組織と一線を画していたといえる。
著者
伊東 かおり
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.10, pp.27-51, 2019 (Released:2021-09-02)

列国議会同盟(Inter-Parliamentary Union、以下IPU)は1889年に創設された主権国国会議員から成る現存する国際機構である。1908年、衆議院はこれに加盟して日本議員団を結成し、1914年には排日問題を協議する日米部会を組織するなど、一定の成果を挙げる活動を行った。だが、貴族院は当初から日露戦後の財政逼迫を理由に加盟を拒否し、またやがて第一次世界大戦が勃発すると、衆議院とIPUとの関係も希薄化し消滅する。本稿は、こうした時期にIPUと帝国議会の間を私的に仲介し、日本議員団の再組織と貴族院の加盟に尽力した国際主義者・宮岡恒次郎を取り上げ、ジュネーヴのIPUアーカイヴズや衆議院国際部が所蔵する列国議会同盟に関する史料等をもとに宮岡の活動を検討し、宮岡の背景にあった当該期議員外交の国際環境を明らかにすると同時に、宮岡の視点に立って帝国議会の「国際化」を俯瞰し、そこに内在された問題を浮き彫りにする。 本稿ではまず、非議会関係者である宮岡を介したIPUと帝国議会の言わば「非公式」ルートの形成過程を追う。それによりこの背景にあった国際主義者のネットワークが可視化されよう。次に、宮岡の具体的な行動や情報の流れを整理する。その際宮岡がIPUに書き送った、帝国議会が「国際化」する上での構造的な課題についても検討する。宮岡は議会主義を支持し衆議院の発展を国外に向けて強調しつつも、議員外交にはいくつかの面で貴族院の方が適しているという独自の論を展開し、貴族院の加盟をIPUと帝国議会が安定した関係構築の必要条件と考え行動する。それは一般に言う「外交の民主化」イメージとは異なる、「古典外交」の発想が色濃く残った議員外交の考え方であった. 最後に、「非公式」ルートの結果として、日本議員団再組織の過程と貴族院加盟問題の推移を明らかにし、1920年代以降の帝国議会の渉外活動の展開について展望を述べる。
著者
木村 美幸
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.11, pp.1-26, 2019 (Released:2021-09-02)

本稿では、海軍志願兵募集や「海軍と地域」研究の課題に大きくかかわる海軍と在郷軍人の問題について、海軍の在郷軍人会に対する姿勢に注目して検討した。 海軍は、一九一〇年に在郷軍人会ができると、財源の問題と在郷軍人統制に対する立場の違いから不参加となった。不参加としたものの在郷軍人会に加入する海軍軍人もおり、制度上陸軍のみの団体である不都合を改善するため、一九一四年に在郷軍人会へ正式加入した。加入後に出された勅語には田中義一の影響などがあり、海軍の反対にもかかわらず「陸海一致」の文言が盛り込まれ、これ以降在郷軍人の「陸海一致」の根拠として使用された。 在郷軍人会に加入したものの、陸軍中心の状況は変わらなかった。一九一九年頃には第一次世界大戦の影響によって海軍も在郷軍人統制に力を入れることになり、在郷軍人会からの分離を含めて海軍在郷軍人の立場向上が模索された。一九二一年になると、各地に海軍在郷人の私的団体が結成されていく。これに対し海軍省人事局は、海軍在郷軍人が少数であり在郷軍人会に加入しなければならない地域を考慮して否定的な態度をとるが、志願兵募集状況を勘案した結果、在郷軍人会から分離しない形で事業を行う海軍班を、一九二五年に設置した。 海軍班は各地に設置され、海軍志願兵募集活動や宣伝活動などを地域で担った。しかし、海軍軍人は陸軍軍人と合同の分会の事業も行う必要があり、海軍軍人の不満が高まった。このため、海軍軍人のみで事業の出来る海軍分会を一九三六年に設置した。しかし、陸軍中心の状況は変わらず、海軍関係の事業のみでなく通常の分会としての活動も求められたため、海軍在郷軍人の不満が解消されることはなかった。 以上のように、海軍は独自の在郷軍人統制組織を持たず在郷軍人会に加入し続けた。ただし、これは決して在郷軍人のことを軽視していたからではなく、地域における在郷軍人の立場に配慮した結果であった。
著者
藤井 崇史
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.11, pp.27-51, 2019 (Released:2021-09-02)

第一次大戦期に中国の関税引き上げが日中間の外交問題となると、これに対する寺内正毅内閣の対応を批判して、関西の実業家を中心に大規模な反対運動が起こった。本稿ではこの運動をめぐる政治過程をとりあげ、大戦の長期化のなか展開された寺内内閣の対中政策によって国内政治に生じた問題について考察する。 中国の関税引き上げについては、大戦前の段階から対中輸出貿易への依存度が高い大日本紡績連合会(紡連)などが強い懸念を示していたが、当時は政府・政党もこれらの実業家と問題意識を共有し、その陳情を汲み上げていた。しかし大戦期に再び本問題がもちあがると、当時の寺内内閣は一転して関税引き上げを容認し、代わりに中国への事業投資を促すようになる。これは当時問題となった国内物価騰貴や中国・連合国との外交関係を考慮して提示された政策であったが、紡連に加え関西地方を中心とした同業組合や商業会議所は、国内産業にとって対中輸出が持つ重要性をあくまで強調し、激しく反発した。これに当時の政局が連動することで運動は一層高揚、運動側は政府との対決姿勢を強め広範な実業家に参加を呼び掛けた政治団体の結成を目指したが、対中投資の必要性を認める憲政会や東京実業界との提携は進展せず、最終的に関西の実業家によって大日本実業組合連合会が結成されるに至った。 このように寺内内閣の措置を契機として、中国関税問題は大戦中の日本が抱えるようになった外交・経済問題への対応のあり様を焦点とした政治問題へと発展した。その結果、従来の関税問題をめぐる政府・政党・実業家間の安定的関係は変容を余儀なくされ、寺内内閣の政策構想に批判的な実業家は結集して外交問題への発言力の強化を模索していった。大戦後も関税問題は日本の対中外交の焦点のひとつとなったが、その背景にはこのような問題が潜在することになったのである。
著者
新津 健一郎
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.12, pp.1-32, 2019 (Released:2021-09-02)

本稿の目的は後漢時代における漢帝国の地方統治に対する辺境地域社会の反応を解明することにある。漢帝国は早くから辺境の征服地も含めて体系的・集権的統治制度を整備したが、そうした国家制度と現地地域社会との接触やその展開には検討の余地が残る。そこで、成都東御街で新たに出土した二点の後漢石碑(二世紀中期。李君碑及び裴君碑。総称して東御街漢碑)及び四世紀の地方志である『華陽国志』を材料とし、紀元前三世紀に戦国秦によって征服された西南辺境である四川地域を対象に分析を行った。 東御街漢碑は後漢蜀郡の治所にあたる現成都市の中心部でまとまって出土した。顕彰文の内容によれば、李君・裴君は郡学(儒教の宣布・教習を目的とした官立学校)を振興し、善政を敷いたとされる。先行研究に指摘されるように、この時期、豪族(大姓)は積極的に儒教を習得し、官吏・地方知識人の性格を強めていた。学術を習得する場では門生故吏や同門関係が形成された。成都に設けられた官学は史料上、前漢武帝期の蜀郡太守・文翁に帰せられ、その文教政策は四川の文化水準を引き上げたとされた。 しかし、東御街漢碑の題名を精査すると、立碑者の大部分は学術教授官であり、その姓種は『華陽国志』に蜀郡の大姓として挙げられるものだけでなく、近隣諸郡の大姓と同姓となるものが多く含まれる。このことは郡内の大姓に限らない人的結合を示し、地方長官との公的主従関係と重層する私的関係、かつ遊学を介して同郡内に限られない結びつきが存在したと想定される。その延長上には地方志編纂に現われた郷里意識に繋がる地域的結合を見通すこともできる。四川地域にとり、儒教をはじめとする政治・学術文化は国家権力により外部から移入されたものであったが、それによって出現し、成長した知識人たちの結びつきはむしろ帝国に対して遠心的作用を生み出したと考えられる。
著者
二星 祐哉
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.12, pp.33-61, 2019 (Released:2021-09-02)

『延喜式』陵墓歴名には、天皇やその近親者など計百二十の陵墓が列挙されている。特に『弘仁式』墓歴名の配列や陵墓歴名の成立をめぐって、新井喜久夫氏と北康宏氏の両説が対峙している状況である。そこで本稿では、『延喜式』陵墓歴名から『弘仁式』部分を抽出し、その配列方針を検討することで、陵墓歴名の成立時期や作成目的について考察した。 原陵歴名には、天皇陵の他、天皇の生(祖)母、即位天皇に準じて扱われた天皇の父や諸皇子女、先例となる伝承をもち、かつ王位をつぐ可能性の高かった人物の墓などが存置順に配列されていた。その成立時期は、生母墓や先例となる伝承をもつ皇子墓の編入の初例が見られる欽明朝であった。原陵歴名とは、皇位継承の正統性を保証するために、国家的な守衛の対象となった陵墓を管理するために作成された台帳であった。 大宝令が施行されると、原陵歴名は天皇陵のみを記載する陵歴名と、それ以外の墓を記載する墓歴名に分化された。その墓歴名には、天皇の生母(三后)、天皇号を追尊された人物、先例となる伝承をもつ人物の墓などが存置順に配列されていた。大宝令施行後の陵墓歴名には、荷前陵墓祭祀の対象陵墓を管理するための台帳としての性格が新たに加えられた。また、八世紀半ばころから、血縁意識が高まり、三后や天皇の父の陵墓が陵歴名に加えられ、桓武朝には外祖父母の墓が墓歴名に編入されるようになった。こうした律令陵墓制の変質をうけ、陵墓歴名は『弘仁式』墓歴名で再編されることとなり、また『延喜式』陵墓歴名に受け継がれた。 以上のことから、『延喜式』陵墓歴名には、六世紀初頭以降の政治過程や皇位継承をめぐる状況がかなりの確率で残されていたことが明らかとなったと言える。
著者
梶原 洋一
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.4, pp.34-58, 2019 (Released:2021-08-26)

一三世紀以来ドミニコ会は大学と緊密な関係を保っていたが、一四世紀半ばはその転機となった。従来ごく限られた大学にしか設置されなかった神学部が各地で新設され、ドミニコ会士の学位取得が格段に容易になったためである。結果、適性に欠ける学位保持者や取得を巡る不祥事の増加に直面したドミニコ会は、修道士の学位取得を厳密かつ中央集権的に管理する体制を一五世紀を通じて構築した。本稿ではこうした新しい制度的環境における、ドミニコ会士による学位取得に関わる規範と実践の関係を解明することを試みた。このためアヴィニョン大学神学部に注目し、学位取得のための修道士の大学派遣を記した修道会総会の決議記録や総長の書簡記録簿といったドミニコ会史料と、アヴィニョン大学の会計簿を対照することで、学位取得を目指した修道士たちについてプロソポグラフィ的分析を行った。一五世紀末のアヴィニョン神学部は、北フランスに広がっていたフランス管区出身のドミニコ会士をとりわけ引きつけたが、アヴィニョンでの学位取得を修道会から命じられた修道士の多くが、より格式の高いパリ大学における取得を望み、この任命を辞退した。修道会が指定する派遣先に不満を抱いたとき、修道士たちは上層部と積極的に交渉し、より有利な任命を引き出そうとした。フランス管区の修道士たちにとってアヴィニョンでの学位取得は、必要な課業について大幅な免除が受けられるという意味において安易である反面、パリでの取得と比べれば魅力に欠けていた。しかし反対に、アヴィニョン修道院を包摂するプロヴァンス管区のドミニコ会士たちにとっては、重要な出世コースとして機能し、修業の期間も長期化した。地方大学が代表するこうした多面的な役割、修道会や地域の情勢に応じ揺れ動く一つの神学部に対する評価は、中世末期の社会ヒエラルキーの中に大学学位が深く埋め込まれていた証左である。
著者
古川 隆久
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.6, pp.1-35, 2019 (Released:2021-09-02)

立憲政友会の有力者であった前田米蔵は、5・15事件(1932年)後における政党政治批判の高まりに対し、いち早く1933年に「日本独特の立憲政治」論を主張した。日本の議会は天皇が設けたことを強調し、天皇の権威の下に議会政治、政党政治の正当化をはかったのである。 さらに前田は、貴族院議長近衛文麿を党首とする立憲政友会と立憲民政党の合同(保守合同)による近衛新党構想を進めた。近衛は議会外諸勢力の支持を得て首相候補と目されていた。前田は、二大政党による政権交代ではなく、近衛新党という、議会外の勢力とも連携する形による政党内閣の復活をはかったのである。 しかし、近衛新党が実現しないうちに1937年に第一次近衛内閣が成立し、日中戦争が勃発した。日中戦争の収拾に苦慮した近衛は、1940年6月、戦勝に向けた強力な挙国一致体制の実現のため新体制運動を開始し、7月に第二次近衛内閣を組織した。 近衛は挙国一致強化のため、新党ではなく、議会を含む各勢力の協調体制の確立をめざしていた。しかし、近衛の側近たちは全体主義的な政治変革をめざし、前田ら衆議院の主流派(旧政友会・旧民政党)は、議会勢力中心の近衛新党の実現をめざした。「日本独特の立憲政治」論によれば、挙国一致の中心はあくまで議会だったからである。 1940年10月に発足した大政翼賛会は全体主義的な色彩が強かった。前田は、近衛との信頼関係と難題処理の実績を評価されて大政翼賛会議会局長に起用された。しかし、前田をはじめ議会の大勢は翼賛会の全体主義的色彩に不満を抱いており、議会は大政翼賛会の改組や、議会弱体化政策の阻止に成功し、前田は衆議院勢力の指導的立場を保つことができた。近衛新党は実現しなかったが、政府の割拠性が続く限り、議会新党による政府の統合力回復という衆議院勢力の主張の正当性が失われることはないからであった。
著者
中立 悠紀
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.7, pp.1-26, 2019 (Released:2021-09-02)

本稿は、BC級戦犯が靖国神社に合祀されるまでの経緯を、戦犯釈放運動の旗振り役でもあった復員(ふくいん)官署(かんしょ)法務(ほうむ)調査(ちょうさ)部門(ぶもん)、及びその周辺政治勢力(戦争(せんそう)受刑者(じゅけいしゃ)世話会(せわかい)、白菊(しらぎく)遺族会(いぞくかい))の動向から明らかにする。 復員官署法務調査部門(以下「法調(ほうちょう)」と略記)とは、旧軍の後継機関である復員官署内で戦犯裁判業務を担当した部署である。多数の旧軍人事務官から構成され、法調は戦犯家族の世話も行い、戦犯を合祀する際に必要であった戦犯の名簿も所持していた。 講和条約発効直前の一九五二年二月に、法調は戦犯合祀を企図し始め、密接な協力関係下にあった戦争受刑者世話会とともに合祀を推進した。そして援護法と恩給法の対象に戦犯・戦犯遺家族が組み込まれると、一九五四年に靖国神社は世話会に対して、「適当の時機に個人詮議」という留保付きで戦犯を将来合祀する姿勢を示した。ただし、一九五七年秋の段階でも、靖国は世論に配慮して合祀の時期は慎重を期していた。 ところがそのような状況にもかかわらず、一部新聞がこれを報道してしまい、世論を警戒した靖国は戦犯合祀そのものに消極的になってしまった。厚生省引揚援護局・法調側は靖国に配慮し、新聞報道で特に問題となっていた東條英機らA級戦犯とBC級戦犯を分離させ、BC級戦犯の先行合祀を要望した。しかし一九五八年の段階で、世論の反発を気にするあまりにBC級の合祀すらも慎重になってしまった靖国を、援護局側は説得するのに約一年を要した。 しかし、最後に靖国側は合祀要請を受け入れ、法調が調製した祭神名標に基づき、一九五九年にBC級戦犯の大部分を合祀したのである。 本稿を通じて、ポツダム宣言受諾後に解体された旧帝国陸海軍の佐官級官僚が、靖国への戦犯合祀において担った役割を明らかにする。
著者
渡部 亮
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.8, pp.1-32, 2019 (Released:2021-09-02)

本稿は、「大正デモクラシー」がいかに明治憲法体制に組み込まれたのか(または、組み込まれなかったのか)という視角から、昭和初期の右派無産政党である社会民衆党の分析を試みるものである。同党は吉野作造の指導のもとに「大正デモクラシー」を具現化しようとした政党であり、陸軍桜会のクーデタ計画である三月事件にも参加し、かつ強力な「革新」派政党である社会大衆党へ連なる政党でもあるという点できわめて注目に値するが、一九三二年の無産政党再編問題を「離合集散」ないし「復古」化と捉える先行研究は、同党のこうした性格に十分な関心を向けてきたとは言い難い。 そこで本稿では、社会民衆党の基幹イデオロギーである議会主義に対する思想史的分析を補助線としつつ、社会民衆党の「革新」プランとその展開過程を具体的な政局と関連づけて追跡することで、「革新」勢力が権力核へ接近する筋道を描出した。その成果は以下の通りである。 「少数賢明」の「嚮導」を共通の理想としていた社会民衆党は、田中・浜口内閣期を通じて二つの政治的潮流に分裂していった。吉野・安部磯雄を中心とする議会改革派は、有権者による議員の統制や大選挙区制・比例代表制の導入を主張して、未完の議会主義を育てる方針を堅持した。一方で、政友―民政の拮抗がくずれキャスティング・ヴォートの掌握が難しくなると、議会主義を悲観する声も強まっていった。こうした党内の対立は三月事件によって決定的となり、一九三二年には無産政党再編に至る。 ここで注目されるのは、クーデタによる新体制の構築を図った赤松克麿、永田鉄山を通じて非選出勢力と提携した亀井貫一郎、「大衆」と議会の接続強化を謳った漸進派、そのいずれもが議会主義の止揚を目指していたことである。議会主義をめぐる社会民衆党の変容は、満洲事変という外在的な要因による無産政党の「転向」ではなく、「革新」の方法面における深化であった評価できよう。
著者
付 晨晨
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.2, pp.1-35, 2019 (Released:2021-08-26)

類書は、魏晋南朝時代に新たに出現した書籍であり、経史子集の各文献から網羅的に集めて抄撮配列し、テーマごとに纏めた、百科全書のような資料集である。本稿では、知識の資料庫という役割を担った類書の発展経緯を考察することで、初期類書がもつ意味、編纂される契機と背景を検討し、漢唐間の知識の整理と受容のあり方を考察する。 目録に収録された類書を見ると、唐代までの類書の範囲は限られており、『皇覧』を強く意識した一連の書籍を指している。この理解から類書の発展を見ると、曹魏の初期に編纂された『皇覧』は、後代類書の規範ともなった南北朝末期の梁・北斉編纂の『華林遍略』『修文殿御覧』との間に、二五〇年ほどの開きがある。この空白期間は『皇覧』と斉梁類書の内容と歴史背景の差異を示す。 唐代では、内容を選別せずに政治に無益な見聞を幅広く収録する初期類書の性格が批判された。初期類書と直接に書承関係を持つ『藝文類聚』の引用書の分析から、かかる類書には魏晋以後の雑伝·地理書を大量に収録する特徴があることがわかる。これは唐代が批判した「政治に無益な見聞」にあたる内容である。曹魏初期に編纂された『皇覧』がこれらの書籍を収録することは不可能なため、『皇覧』と梁代類書との間に大きな差が認められる。帝王に必要な知識を纏める類書の発展には、斉梁代を境に、経書を中心とする『皇覧』の通行する時期と、魏晋以降の史書を多く収録する新型類書の通行する時期という、二つの段階が認められる。 類書が、漢代以前の知識を主とする『皇覧』から、魏晋知識を「典故化」した斉梁類書へと変化した背景には、知識の整理と体系化における当時の王朝の需要と、文化を経由して政治的地位の上昇を求める下級士族の動きがあった。
著者
莊 卓燐
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.2, pp.36-59, 2019 (Released:2021-08-26)

漢初において、高祖皇帝劉邦は近臣との関係を保つために、「符を剖かち、世々絶ゆる勿し」の約束を交わしたが、伝世史料には符の正体について明記されていない上、諸家の注にも検証されることがない故、約束の内容は不明確である。従来では、この符を功臣の特権的な地位の永続(封爵之誓)と関連させて考えるが、本稿では西北簡の研究成果を踏まえ、通行証としての符を伝世史料の条文に当てはめて考える。 第一章では、戦国から漢初までの中華世界の地域観念の変遷を考察し、秦の「統一」、楚(項羽)の封建制の復活、漢の郡国制、一連の流れを整理し、戦国~漢初における地域観念の連続性を指摘し、符の通行証としての理解の適用範囲を確認する。 第二章では、漢初における諸侯王との剖符を考察する。楚漢戦争の中で、漢は同盟する諸王国を警戒すべく、符を用いて東西を繋ぐ関所の弛緩を掌握した。その体制は、漢帝国が都を檪陽から長安へ遷しても継承され、関中地域の地理的優勢を活かし続けたと考えられる。 第三章では、漢初における列侯との剖符を考察する。漢初の支配領域の拡大および支配体制の維持に対応すべく、漢は列侯を対象に剖符する措置を施す。その中には、「符を剖かち、世々絶ゆる勿し」の条文が示すように、自由に関中地域を出入りする特権を永続的に所持する特殊な剖符事例が見られる。 第四章では、『里耶秦簡』と『張家山漢簡』を手掛かりに、列侯と徹侯との改称事情を整理し、中国古代社会における流動性の変化を指摘する。 中国古代帝国は、地域と地域との移動が厳しく規制される環境であった。人間の移動を規制する国家意志は、専制権力の形成に影響する。その下で、移動規制を解除する符は、単純に通行証としての機能を果たしたのみではない。信頼関係に基づく通行許可は、人と人の絆を深め、漢皇帝による符の下賜は功臣たちとの人的結合関係を維持する役割を持つと論じる。
著者
内田 康太
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.3, pp.40-64, 2019 (Released:2021-08-26)

共和政末期ローマの政治史研究において、国民が政治的な意思決定に対して重要な役割を果たしたことは、今や広く受け入れられている。こうした研究潮流を背景に、近年、コンティオと呼ばれる政治集会で聴衆の示す反応が、法案の成否を左右する要因として度々指摘されてきた。そのなかで、前59年の執政官C・ユリウス・カエサルが提出した農地法案の立法過程は、一見すると、彼がコンティオの利用を主眼に据えた立法戦略に着手し、元老院の意向に反しながらも、法案の可決させた様子を伝えているために、上記の指摘を例証する一例となる。 しかし、カエサルの行動を立法過程全体に渡って詳細に再検討することで、実際のところ、彼は一貫して法案に対する元老院の反対表明を回避するべく尽力していたことが明らかになる。カエサルは、元老院から反対を導出しない法案の起草に努めるとともに、多数の元老院議員たちが反感を議場外に伝えようとするや、直ちに元老院を閉会させる措置に着手した。また、法案の公示後、カエサルとその支持者たちは、コンティオにおる演説によって、自身の法案が元老院の支持を受けていることを喧伝すると同時に、執政官職に付帯する権能、ならびに、暴行の脅迫のみならず実際の暴力行使をも利用して、敵対側から意思表明の機会を剥奪する。カエサルの農地法案は、以上のような立法戦略を成功裡に展開し続けた結果として可決されたのである。 従って、コンティオが立法過程の他の段階と同じ目的を果たすために利用されていることは、立法に際して、この場面に特別の重点が置かれたと解する立場に疑問を投げかける。そればかりか、本稿で見出されたカエサルの立法戦略の焦点に目をむけるならば、法案の帰趨を決定づけた要因は、コンティオで示される聴衆の反応ではなく、元老院による反対表明の有無であったことが指摘できる。
著者
岡本 託
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.4, pp.1-33, 2019 (Released:2021-08-26)

本稿では、アン県およびドローム県をケース・スタディーとして、近代フランスの行政制度が複雑化と拡大化を経験した、第二帝政期の地方幹部候補行政官である県参事会員の登用を分析し、専門職化の実態解明を試みた。 まず、数値的分析から、第二帝政期県参事会員の性質変化をみてみると、年齢では時代が進むごとに若年化が進み、出身県ではあらゆる地方出身の若者が両県に赴任したことが明らかとなった。また、経歴面では、第二帝政期の県参事会員は短期間に多くの県と公職で職歴を積み、地方幹部候補行政官として養成されていったのである。 次に、叙述史料の分析から、以下のことが明らかとなった。第一に、請願書における候補者の属性に関する記述は、第二帝政期になると、前任者や父親からの公職継承は衰退することとなり、七月王政期に比べて属性的要素は減少したといえる。第二に、請願書における候補者本人の能力に関する記述は、七月王政期と第二帝政期ともに、性格に関する主観的な評価、教育からもたらされた行政知識に関する評価、そして公職の現場での経験に対する評価という三つの評価基準が中心に記述されていたが、第二帝政期の県参事会員の性質変化により、候補者本人の能力がより詳細に記述されるようになった。また、第二帝政期から、多くの県参事会員登用者が知事官房に関わる職を経験することにより、行政的能力を磨いていった。 最後に、C・シャルルは、支配的原理としての属性主義の原理がまだ優位であった1830年代から1880年代にかけて、能力主義の原理が徐々に浸透していったとし、その転換点は第三共和政期初頭であると指摘した。この見解を地方幹部候補行政官に当てはめてみると、第三共和政期初頭の転換の準備は第二帝政期に既に整えられていたのである。

1 0 0 0 OA 関東御領考

著者
筧 雅博
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.93, no.4, pp.423-466,584, 1984-04-20 (Released:2017-11-29)

It is belived that the Kamakura Shogunate had a large number of manors on which it exercised its own proprietorship. These manors must have been an indispensable base of financial resources for the Kamakura goverment. In this essay, this writer attempts to study how the Kamakura Shogunate dominated its manors, most of which had been formerly controlled by members of the Taira faction. There were a considerble number of manors with two lords appointed by Kamakura. One was a resident lord and the other an estate manager who acted for the Kamakura Shogunate. Why did Kamakura establish two posts in one manor? After considering some manors formerly controlled by the Taira faction, this writer comes to the conclusion that the estate manager was appointed by Kamakura for the purpose of watching and surpressing the resident lord who had taken up arms with the Taira faction in the war between 1180 and 1185. This writer also gives attention to the fact that the greater part of manors under Kamakura's direct control were located in the provinces of western Japan and tries to account for this paradox. It is small wonder that the Kamakura Shogunate expected it own manors to take a prominent role in its domination over the western part of Japan.
著者
小林 紀子
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.113, no.3, pp.307-329, 2004-03-20 (Released:2017-12-01)

This article analyzes the relationship between the Meiji government and the common people during the time of the Boshin Civil War of 1868 from the aspect of gumpu 軍夫, corvee labor levied for the purpose of military transport in Shimotsuke Province, and depicts how the new government introduced local administration mechanisms during it formative years and how the people were placed under its control. The Meiji government was able to obtain public support through various relief and education measures, enabling it to employ the forces of former han 藩, like the Kurobane and Otawara fiefs, to quell reactionary uprisings (yonaoshi 世直し). As a result, the new government was able to maintain law and order and conduct speedy military corvee enlistment, while the cooperating han were able to enlist such labor from the villages they patrolled. In addition, rule by the new government was carried out through two different chains of command : one through the Office of War and the government's militia, the other through appointed provincial governors, enabling a speedy end to the Boshin War and condensed governance polides. Even after the end of the War, the people of Shimotsuke remained effected by it through transport-related corvee labor burdens, both military and otherwise, which became the cause of the yonaoshi uprisings. However, there was no resistance to such heavy burdens even before the uprising, mainly due to promise of a 50% reduction in the yearly rice tax in exchange for gumpu services. It was this aspect of government policy, rather than its military presence or other relief measures, that won the support of the people of Shimotsuke for the new government.