著者
安里 進
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.179, pp.391-423, 2013-11

20世紀後半の考古学は,7・8世紀頃の琉球列島社会を,東アジアの国家形成からとり残された,採取経済段階の停滞的な原始社会としてとらえてきた。文献研究からは,1980年代後半から,南島社会を発達した階層社会とみる議論が提起されてきたが,考古学では,階層社会の形成を模索しながらも考古学的確証が得られない状況がつづいてきた。このような状況が,1990年代末~2000年代初期における,「ヤコウガイ大量出土遺跡」の「発見」,初期琉球王陵・浦添ようどれの発掘調査,喜界島城久遺跡群の発掘調査などを契機に大きく変化してきた。7・8世紀の琉球社会像の見直しや,グスク時代の開始と琉球王国の形成をめぐる議論が沸騰している。本稿では,7~12世紀の琉球列島社会像の見直しをめぐる議論のなかから,①「ヤコウガイ大量出土遺跡」概念,②奄美諸島階層社会論,③城久遺跡群とグスク文化・グスク時代人形成の問題をとりあげて検討する。そして,流動的な状況にあるこの時期をめぐる研究の可能性を広げるために,ひとつの仮説を提示する。城久遺跡群を中心とした喜界島で9~12世紀にかけて,グスク時代的な農耕技術やグスク時代人の祖型も含めた「グスク文化の原型」が形成され,そして,グスク時代的農耕の展開による人口増大で島の人口圧が高まり,11~12世紀に琉球列島への移住がはじまることでグスク時代が幕開けしたのではないかという仮説である。Archaeology in the late 20th century had considered the society of the Ryukyu Islands in the 7th and 8th centuries to be stagnant and primitive with a hunter-gatherer economy; a society left behind by the new state formations in East Asia. Since the mid-1980s, the study of bibliographical sources has given rise to an alternative view of the Southern Islands as having an advanced hierarchical society; however, until the late 1990s to the early 2000s archaeological evidence to confirm this hypothesis had not been found. The situation changed significantly with the "discovery" of several sites with massive quantities of turban shells, and the finds of archaeological digs at the early Ryukyu Royal Mausoleum Urasoe Yodore, and at the Gusuku sites on Kikai Island. The examination of Ryuku society in the 7th and 8th centuries, and the start of the Gusuku Era, and the formation of the Ryuku Kingdom is giving rise to heated debate. From among the contending arguments concerning the social image of the Ryuku Islands in the 7th to 12th centuries, this paper considers the following three issues: 1) explanations of sites with massive quantities of turban shells; 2) a theory of hierarchical society in the Amami Islands; and 3) Gusuku sites and the formation of the Gusuku culture and people. To broaden the possibility of the research on this unclear period, the paper also presents a hypothesis: centering on the Gusuku sites of the Kikai Island, where between the 9th and 12th centuries a "prototype of Gusuku society and culture" including farming techniques typical of the Gusuku Era was established; increasing population pressure due to the development of typical Gusuku farming led to a migration to the Ryukyu Islands throughout the 11th and 12th centuries, and the consequent ushering in of the Gusuku Era.
著者
藤井 隆至
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.45-71, 1991-03-30

This research is concerned with Kunio Yanagita in his infancy and childhood as a key to understand his critical mind that queried ‘Why are the peasants so poor?’ which is said to have motivated him to found Japanese folklore later.Yanagita spent his infancy and childhood in Tsujikawa-mura, Kanzaki-gun in Hyogo Prefecture. What bearing did the days in Tsujikawa have on him in forming his later ideas?Bunzo Hashikawa, as one of the attempts to identify the type of bearing, focus in his research on Yanagita's particular “experience” he had in his infancy and childhood. Hashikawa asserts that Yanagita's unusual “experience” had a significant meaning on the formation of Yanagia's folkloristic inclination.Different from the standpoint taken by Hashikawa, this research takes the standpoint of Yanagita's “routine life” in his infancy and childhood as more significant for molding his patterns of thought, and thus focus on the economic aspect of his household.Analysis was first made on his father's professional life, revealing that it was his father's main concern that he should maintain the “survival of his family” on his meager income from his occasional jobs as a temporarily-employed school teacher. Investigation then was made on the life of Yanagita's elder brother, whose main concern was the “rebuilding of his family.” He had first served as a local school principal but, because of the income problem, later became a doctor and finally spent his later years on education of his brothers.Final analysis was made on Yanagita's position as a “marginal man”; he was the second son but also acted like the first son in the poor household for which his brother had to work early, and he was a descendant of a farming family but was not a farmer himself in the farming village. His unique position enabled him to observe the problems of the household and the village from an objective point of view.As a conclusion, the results of research point out that Yanagita was in a position to seriously observe the poverty problems of the household as well as the village, causing him in his later years to take on the cause of poverty as his lifelong subject of research.
著者
住吉 朋彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.186, pp.31-81, 2014-03-26

国立歴史民俗博物館は、開館当初から日本の印刷文化を重視し、中世以前将来の中国刊本、日本中世の刊本や、朝鮮版など、多くの古版本を蒐集して来た。その中でも、中世の印刷文化を体現する諸版本の収蔵は特に篤く、二十餘種もの五山版を擁することは、新設の機関として極めて異例である。これらの五山版を通覧すると、禅籍を中心として、一般の仏典、漢籍の外典、国書を数点ずつ収め、五山版全体の構成が再現されているのみでなく、南禅寺、臨川寺、天龍寺といった、当時の主要な禅院の出版書を含む他、臨川寺版『禅林類聚』や兪良甫版『唐柳先生文集』等、禅院の出版事業に関与して南北朝後半の展開を担った、来朝刻工の代表的な版本を収めている。さらに外典では、室町期出版の地方的展開にも及ぶ所である。こうした収蔵の副産物として、中世の印刷技術を垣間見ることができる点も意義深く、伝存の殆どない南北朝の五山版の版木について、一面に二、三張を配し、一版の両面に四、六張を列した版木の様式が類推される資料を、いくつか含んでいた。特に来朝刻工関与の版本では、六張一版の様式を確認できる場合があった。これらの五山版が禅院の学問を潤した様子も、その書入や蔵印から明らかな伝本が多い。また地方の禅院や、禅宗以外の寺院への流布を示す等、五山版の流通を基礎とする、中近世の学問の広がりを証言する点は貴重であり、その他、近世、近代の学者、蔵書家に用いられた点も注意される。そして、当時一流の蔵書家の見識により選択された諸伝本には、整った早印の完帙が多く、書物としての五山版の意義をよく発揚している。本稿は、上記の諸点を書誌学的に整理し、目録解題として記述、当館収蔵の五山版コレクションの特色を示したものである。
著者
満薗 勇
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.197, pp.193-219, 2016-02-29

本稿は,長野県須坂に位置する田中本家の消費生活について,通信販売の利用という面に着目しながら分析したものである。田中本家は,明治期から昭和初期にかけて,三越をはじめとする東京の百貨店から,通信販売を利用して多くの買い物を行っていたことで知られるが,今回の共同研究において,本格的な資料調査が行われ,これまで未整理かつ未利用であった書簡資料にアクセスできたことから,通信販売の利用実態について,詳細な分析を行う準備が整えられた。検討の結果は以下の通りである。大正期における田中本家は,通信販売を積極的に利用し,実にさまざまな商品を購入していた。最も頻繁に利用していたのが三越で,次いで長野市のいくつかの業者と,三越以外の東京所在業者を多く利用していたことが確認された。東京との関係だけではなく,近傍の地方都市との関係が密接であったことは,地方資産家による通販利用の実態を考える上で,一つの重要な発見といえる。呉服類の単価を比較すると,最高級品は三越で,それに次ぐランクの商品は長野市の業者から買い求め,地元須坂では最も廉価な商品を購入していた。こうした棲み分けは,三越による流行の影響が及んでいたことを示唆するが,取引の実態に立ち入ってみれば,通信販売を通じた流行の伝播には大きな限界があった。田中本家に残る書簡から判断する限り,品切れによるキャンセルや代品送付が多く,注文した商品を入手できるかどうかは不透明であった。ここに長野市所在の商店が入り込む余地が生まれ,地理的な近接性を活かした機敏な対応と顔の見える関係によって,同家のさまざまな需要に応じていた。逆にいえば,それでも同家が三越との取引を止めることなく,繰り返し注文を行っていたことが注目される。その背景には,流行の影響力があったと考えざるを得ないが,それは多分に三越のストア・イメージというレベルの問題であったと想定される。
著者
村石 眞澄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.118, pp.93-117, 2004-02-27

伊興遺跡をはじめとする足立区北部の発掘調査に携わる中で,微地形分類をおこなった。微地形分類は空中写真を判読し,比高差・地表の含水状態・土地利用を基準として分類を行い,発掘調査での土層堆積の観察所見や旧版の地形図を参照した。こうした微地形分類により,埋没していた古地形を明らかにすることができた。そこでこの埋没古地形の変遷を明らかにするため,花粉化石や珪藻化石などの自然科学分析から植生や堆積環境の検討を行った。そして自然環境を踏まえた上で,発掘調査によって発見された遺構や遺物,中世や近世の文献資料などを総合的に概観し,次のように伊興遺跡を中心とする毛長川周辺の自然環境と人間活動の変遷過程を次の五つの段階に捉え,それぞれの景観印象図を作成した。1 縄文海進のピーク時にはこの地域では大半の土地が海中に没したが,その後徐々に干潟ができ陸化が進んだ時期[縄文時代後期~晩期前半]。一時的な利用で土器を残した。2 毛長川が古利根川・古荒川の本流となり,大きな河道や微高地が形成された時期[縄文時代晩期後半~弥生時代]。人間活動の痕跡は希薄である。3 古利根川・古荒川が東遷し,毛長川は大河でなくなった時期[弥生時代終末期~古墳時代]。本格的に居住が行われるようになる。伊興遺跡は特異な祭祀遺跡として大いに発展する。4 毛長川の旧河道の埋積が進んだ時期[奈良時代~平安時代初期]。伊興遺跡では祭祀場もしくは官衙関連施設は存在するが,遺構・遺物の規模が減少傾向を示す。5 毛長川の旧河道の埋積が進んだ時期[中世]。伊興遺跡ではさらに遺構・遺物は減少し,遺跡の中心が毛長川沿いから離れ水上交通の拠点としての役割を終える。
著者
高橋 敏
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.109, pp.1-19, 2004-03-01

人々は生命の危機に曝らされ、生活共同体の存亡の局面に立たされたときどのような行動に走るのであろうか。もとより、本来生命を保護し、共同体を行政の一環として支配する体制が人々の不安を解消し得ない非日常の時空においてである。本稿は安政五年(一八五八)突如人々を襲ったコレラの脅威に人々がどのように立ち向かったのか、いやいかにしてこの災厄から逃れようとしたのかを、克明に実証しようとしたものである。安政五年は黒船という「異」の襲来と嘉永末年から安政初年にかけて連続して天地を揺がし、地を震わせた大地震・大津波の恐怖の未だ覚めやらぬ時であった。そこにコレラが襲いかかった。即死病といわれ次々と感染しては大量死に至る惨状は医療行為によって対応することは困難となり、ありとあらゆる神・仏、流行神、呪術を動員して、これに当たることとなった。本稿は、人々の動向を駿河国駿東郡下香貫村(現沼津市下香貫)と深良村(現裾野市深良)で検証する。この二つの事例を取り上げたのはもちろん動向を記録した史料に恵まれたこともあるが、共通して京都吉田大元宮の勧請によってコレラの災厄を除こうしたことに注目したからである。何故に吉田神社の勧請に走ったのか。村共同体の意志決定の過程、吉田神社の神道支配の流れに着目しつつ、コレラの非日常の時空に置かれた人々の不安とそれに立ち向かう人々のエネルギーを掘り起こしたい。吉田神社の勧請は京都往復の路銀はもちろん祈祷料、鎮札などの宗教儀礼に金がかかる。下香貫村、深良村両村とも莫大な金銭の喜捨を村人に求め、最高級の七両二分の祈祷(小箱)をお願いし、帰村後は吉田宮まで造営し、コレラはじめ災厄除けの宮を勧請している。
著者
大東 敬明
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.142, pp.193-208, 2008-03-31

本稿は、東大寺二月堂修二会(以下、東大寺修二会)「中臣祓(なかとみのはらえ)」の典拠や構造を、その詞章から、分析しようとするものである。東大寺修二会に参籠する僧は練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれ、法会を支障なく執行する為に、穢れを取り去って心身を清浄に保つ事が求められる。そのため、現在では三月一日から十五日未明にかけて行われる「本行(ほんぎょう)」に先立って「別火(べっか)」行が行われ、その最終日にあたる二月末日に「咒師(しゅし)」によって「大中臣祓(おおなかとみのはらえ)」が行われる。また、「別火」行・「本行」期間中、様々な場面で「中臣祓」が行なわれる。祓は、罪や穢を除去することを目的とする儀礼である。この「中臣祓」は、「別火」行に入る際、「別火」行中の朝夕の勤行の際、洗面・入浴・便所の後、「本行」において、日々、二月堂に上堂する前等に行われる。「中臣祓」で用いられる御幣には、本稿で分析対象とする詞章が書かれた紙が巻きつけられている。練行衆は、それぞれ持っている守本尊に向かい、拍掌の後に、詞章を黙誦し、この御幣で身を祓うなどの所作を行なう。本稿において「中臣祓」の詞章は、① 東大寺八幡宮(手向山八幡宮)への法楽。② 真言神道や修験道で用いられた「拍手祓大事(かしわではらえのだいじ)」「伊勢拍手秡(いせかしわではらえ)」と共通する作法。③ 陰陽道流の祓で用いられた自力祓形式の略祓。④ 吉田神道の影響を受けた略祓で、息災延命祈願に用いられた祓。の四つの部分より構成される、と考察した。それぞれの具体的な典拠について、②以外は見出すことは出来なかったが、「中臣祓」の詞章が複数の系統の祓に関わる作法を集めて、独自の形式を作り上げている事は言える。すなわち、「中臣祓」は東大寺八幡宮へ法楽を捧げた後に、真言神道、陰陽道、吉田神道など、典拠を変えながら三重に祓を行う構造(②③④)を持つ。東大寺修二会が、諸儀礼の要素を取り込んで独自の形式としてゆくことは、法会の様々な部分から見出すことが出来る。「中臣祓」は東大寺修二会全体から見れば小さな作法であるが、同様の性格を見出すことが出来た。
著者
福間 裕爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.114, pp.155-226, 2004-02-27

山笠とは豪華な人形飾りを乗せた「作り物」のこと。北部九州を中心に分布する。なかでも「博多祇園山笠」は、七百六十二年といわれる伝統に裏打ちされた求心力から、各地の祭礼に多大な影響を与えてきた。その関係性を表すものとしてハカタウツシという民俗語彙がある。北海道の「芦別健夏山笠」は、そのうち最も遠隔地の事例である。今から十八年前に始まった現代の祭りである。この両者の縁を取り持ったのが、一本のテレビ番組だった。筆者は電子メディアによって民俗が伝えられることを「電承」とよんでいるが、芦別はこれに該当する事例である。当初、芦別山笠は博多山笠の刺激を受け、模倣することで自らの祭りを変容させたにすぎなかったものが、時を重ねるにつれて芦別の博多山笠受容は本格化し、最終的には「作り物」の枠を越えて、博多の民俗文化そのものを求めるようになっていく。その過程には、テレビ、実体験、物資、人物交流による受容段階があり、複合的に博多の民俗文化が芦別に伝播・受容されてきた経過を概観することができる。これに伴い博多山笠との系譜関係が意識化され、そこに様々な権威化の言説が生まれる。結果的に芦別にハカタが構築されることになるが、これは「博多」のイメージを再生産したものとなる。本稿は、以上のようなこの両者の関係のなかに、民俗伝播・受容の基本的ありかたとは何かを発見する意図のもとにまとめている。これまでの民俗学ではあまり問題とならなかった、電子メディア、「かっこよさ」、共同意識、集団の特性による受容差を要点とし、調査者のかかわりの視点を含めて実際の民俗文化受容の現場で、それがどのような影響をもってきたかを、当該地域の人々の語りと新聞の言説でもって記述・分析を試みた。筆者はこの事例を叙述するなかで、これまで民俗学でいわれてきた、いわゆる「古風」の残存という問題が、実は新しく構築された結果によるものではないかという指摘を行なった。
著者
平山 昇
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.155, pp.151-172, 2010-03-15

本稿は、明治期から昭和初期までの西宮神社十日戎の変容過程を、鉄道の開業による参詣行事の変化、および神社と鉄道会社との関係に着目しながら検討した。もともと西宮神社十日戎はエビス神を信仰する農漁村民や都市商人たちを中心とする参詣行事であったが、「汽車」の開通によって徐々に都市部から行楽がてらに参詣する「普通の参詣人」が訪れるようになった。神社側もこの層を呼び込むべく自ら新聞を通じて都市部に向けて広報をするようになった。だが、もっとも重大な影響をもたらしたのは阪神電車の登場であった。この電鉄は、長らく寂れていた新暦十日戎を新たに「開拓」するなど種々の戦略によって参詣客の劇的な増加をもたらすという、沿線ディヴェロッパーとしての性格が強い鉄道会社であった。一方、阪神電車の大々的な乗客誘引によって都市部からの参詣客が大幅に増加していく状況を目の当たりにして、神社側も電鉄会社の強力な集客力を利用して都市部からの参詣客の増加を図るようになる。西宮神社の参詣行事は、もはや電鉄会社との協調関係抜きには考えられないものとなっていったのである。しかし、両者の関係は常に協調ばかりというわけにはいかなかった。電鉄にとっては運賃収入が増えればそれでよいが、神社にとっては伝統を厳守することも決してゆるがせにできなかった。そのため、時として両者の間で齟齬が生じることもあった。このように神社と電鉄会社の間に協調と駆け引きがせめぎあう中で、十日戎は今日の姿へと落ち着いていった。以上の検討から、日本近代の大都市における社寺参詣の変容過程を理解するためには、①鉄道の登場による変化、特に明治末期以降のディヴェロッパー志向の鉄道会社による変化、②もっぱら都市部からの参詣客の増加を志向する鉄道会社と伝統の維持も重視する神社との間に生じた協調と駆け引きがせめぎあう関係、という二点に注目することが有用であると結論づけた。
著者
野島 永
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.183-212, 2014-02-28

1930年代には言論統制が強まるなかでも,民族論を超克し,金石併用時代に鉄製農具(鉄刃農耕具)が階級発生の原動力となる余剰を作り出す農業生産に決定的な役割を演じたとされ始めた。戦後,弥生時代は共同体を代表する首長が余剰労働を利用して分業と交易を推進し,共同体への支配力を強めていく過程として認識されるようになった。後期には石庖丁など磨製石器類が消滅することが確実視され,これを鉄製農具が普及した実態を示すものとして解釈されていった。しかし,高度経済成長期の発掘調査を通して,鉄製農具が普及したのは弥生時代後期後葉の九州北半域に限定されていたことがわかってきた。稲作農耕の開始とともに鍛造鉄器が使用されたとする定説にも疑義が唱えられ,階級社会の発生を説明するために,農業生産を増大させる鉄製農具の生産と使用を想定する演繹論的立論は次第に衰退した。2000年前後には日本海沿岸域における大規模な発掘調査が相次ぎ,玉作りや高級木器生産に利用された鉄製工具の様相が明らかとなった。余剰労働を精巧な特殊工芸品の加工生産に投入し,それを元手にして長距離交易を主導する首長の姿がみえてきたといえる。また,考古学の国際化の進展とともに新たな歴史認識の枠組みとして新進化主義人類学など西欧人類学を援用した(初期)国家形成論が新たな展開をみせることとなった。鉄製農具使用による農業生産の増大よりも必需物資としての鉄・鉄器の流通管理の重要性が説かれた。しかし,帰納論的立場からの批判もあり,威信財の贈与連鎖によって首長間の不均衡な依存関係が作り出され,物資流通が活発化する経済基盤の成立に鉄・鉄器の流通が密接に関わっていたと考えられるようにもなってきた。上記の研究史は演繹論的立論,つまり階級社会や初期国家の形成論における鉄器文化の役割を,帰納論的立論に基づく鉄器文化論が検証する過程とみることもできるのである。
著者
坂 靖
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.211, pp.239-270, 2018-03-30

本稿の目的は,奈良盆地を中心とした近畿地方中央部の古墳や集落・生産・祭祀遺跡の動態や各遺跡の遺跡間関係から,その地域構造を解明する(=遺跡構造の解明)ことによって,ヤマト王権の生産基盤・支配拠点と,その勢力の伸張過程を明らかにすることにある。弥生時代の奈良盆地において最も高い生産力をもっていたのは「おおやまと」地域である。その上流域で,庄内式期の纒向遺跡が成立する。その後,布留式期に纒向遺跡の規模が拡大し,箸墓古墳と「おおやまと」古墳群の大型前方後円墳の造営がつづく。ヤマト王権の成立である。「おおやまと」地域において布留式期に台頭したのが,「おおやまと」地域を生産基盤とした有力地域集団(=「おおやまと」古墳集団)であり,地域一帯に分布する山辺・磯城古墳群をその墓域とした。ヤマト王権は,「おおやまと」古墳集団を出発点とし,その勢力が伸張していくことにより,徐々にその地歩を固め影響力を増大していく。布留式期には,近畿地方各地に跋扈した在地集団に加え,奈良盆地北部を中心とした佐紀古墳集団,「おおやまと」古墳集団と佐紀古墳集団を仲介する役割を担った在地集団などが存在したことが遺跡構造から明らかであり,そのなかで「おおやまと」古墳集団と佐紀古墳集団が主導的立場にあったと考えられる。5世紀には,「おおやまと」古墳集団は河内の在地集団を取り込み,さらにその勢力を伸張し,倭国の外交を展開する。そして,大和川の上・下流域一帯の広い範囲が生産基盤となり,倭国の支配拠点がおかれた。一方,近畿地方各地には,有力地域集団が跋扈しており,ヤマト王権の支配構造は,危ない均衡のうえに成り立っていたと考えられる。そうした状況が一変するのが,太田茶臼山古墳の後裔たる継体政権である。淀川北岸部の有力地域集団は,近畿地方や北陸・東海地方の在地集団や有力地域集団と協調することにより,ヤマト王権の生産基盤は,畿内地方一帯の広範な地域に及んだ。そして,6世紀後半には「おおやまと」古墳集団と一体化することにより,専制的な王権が確立し,奈良盆地の氏族層に強い影響力を及ぼしながら,倭国を統治することになるのである。
著者
原田 和彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.195-217, 2002-03-29

寛保2年(1742)の8月,信濃の北部を流れる千曲川・犀川が大水害をおこした。この水害によって多くの被害がもたらされた。この水害のことを北信濃では「戌の満水」と呼び習わしている。長野市立博物館には,この「戌の満水」の被害状況をあらわしたといわれる絵図面が伝わる。この絵図面は,水害前の様子と水害後の各村の被害状況を克明に示している。また,山崩れや土砂災害の場所まで描かれている。災害をあらわした絵図面としては,信濃に残るものとしては非常に古い部類に属する災害絵図である。ただ,この絵図面が「戌の満水」の被害状況を示した絵図面であるとの根拠は,絵図面が入っていた袋の表書によるだけである。本稿では,まず「戌の満水」の被害状況を,当時の松代藩の被害届から抽出する。これによって,被害届からわかる「戌の満水」の被害状況を描き出す。また,いちじるしい被害をうけた松代城下についても,当時書かれた見聞記にてらして,川の水がどのように城下町に押し寄せたかなどを検証する。このように当時の記録類などから「戌の満水」の被害状況を描き出すという作業を行っている。こうした基礎作業をもとに,そこから前出の「戌の満水」の被害絵図について,その被害状況を抽出し,その上で記録類から導き出した「戌の満水」の被害の様相と照合し,絵図面の性格付けを行った。「戌の満水」の後に松代藩ではさまさまな復興策を試みる。このなかで,松代城下を水害から守る方法として千曲川の流路を改める作業がなされた。災害後の松代藩の復興策をこうした千曲川の流路変更という面から考えてみた。
著者
門田 岳久
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.255-289, 2017-03

本論文は消費の民俗学的研究の観点から、沖縄県南部に位置する斎場御嶽の観光地化、「聖性」の商品化の動態を民族誌的に論じたものである。二〇〇〇(平成一二)年に世界遺産登録されたこの御嶽は、近年急激な訪問者の増加と域内の荒廃が指摘されており、入場制限や管理強化が進んでいるが、関係主体の増加によって御嶽への意味づけや関わり方もまた錯綜している。例えば現場管理者側は琉球王国に繋がる沖縄の信仰上の中心性をこの御嶽に象徴させようとする一方、訪問者は従来の門中や地域住民、民間宗教者に加え、国内外の観光客、修学旅行客、現場管理者の言うところの「スピリチュアルな人」など、極めて多様化しており、それぞれがそれぞれの仕方で「聖」を消費する多元的な状況になっている。メディアにおける聖地表象の影響を多分に受け、非伝統的な文脈で「聖」を体験しようとする「スピリチュアルな人」という、いわゆるポスト世俗化社会を象徴するような新たなカテゴリーの出現は、従来のように「観光か信仰か」という単純な二分法では解釈できない様々な状況を引き起こす。例えばある時期以来斎場御嶽に入るには二〇〇円を支払うことが必要となり、「拝みの人」は申請に基づいて半額にする策が採られたが、新たなカテゴリーの人々をどう識別するかは現場管理者の難題であるとともに、この二〇〇円という金額が何に対する対価なのかという問いを突きつける。古典的な枠組みにおいて消費の民俗学的研究は、伝統社会における生活必需品の交易と日常での使い方に関してもっぱら議論されてきたため、情報と産業によって欲求を喚起されるような高度消費社会的な消費実践にはほとんど未対応の分野であったと言える。しかし斎場御嶽に明らかなように、信仰・儀礼を含む既存の民俗学的対象のあらゆる領域が「商品」という形式を介して人々に経験される時代において、伝統社会から「離床」した経済現象としてこれを扱うことは、現代民俗学の重要な課題となっている。This paper presents a folklore study of consumption, focusing on Sēfā Utaki located in southern Okinawa Prefecture. This is an ethnographic analysis of the development of the sacred site as a sightseeing spot and the commercialization of holiness. Inscribed on the World Heritage List in 2000, this Utaki has attracted an increasing number of tourists. As this has caused damage to the site, protective measures are being taken, such as imposing a limit on the number of visitors and strengthening maintenance management. This increase in the number of people concerned, however, has led to the diversification of interpretations and involvements. For example, while the field administration wants to make the Utaki the central symbol of the local religion originated from the Ryūkyū Kingdom, the Utaki itself attracts diverse people, ranging from conventional visitors, such as Munchū, local community residents, and folk devotees, to overseas and domestic tourists, study tour participants, and those the field administration call "spiritual people," and each of them consume the holiness in their own ways, creating a multi-faceted situation. In particular, the emergence of a new category of people that symbolizes the so-called post-secular society ("spiritual people" who try to get a holy experience in an untraditional context affected by mass media's depiction of sacred places) has created a complicated situation where visitors cannot be simply classified as either sightseers or religious explorers. For example, when Sēfā Utaki started to charge visitors an admission fee of 200 yen, which will be reduced by half for visitors for prayer if they request it, the field administration encountered two difficult problems: (i) how to identify those classified into the new category; and (ii) what the fee of 200 yen is actually charged for.An ethnographic study of consumption in a classical framework has mainly focused on the trade of daily necessities and their use in daily lives in a traditional society, yet it has hardly covered the perspective of what consumption means in a high-level consumer society where consumers' desire is stirred up by information and other industries. As illustrated by the example of Sēfā Utaki, now that all the existing ethnographic subjects, including religions and rituals, are commercialized so that general people can experience them for themselves, contemporary folklorists are faced with a new important question of how to deal with these economic phenomena deviated from the traditional society.
著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.175, pp.77-128, 2013-01-31

縄文後期末~弥生前期の三河地方には,4I系と2C系に区別して施した抜歯,一部の男性がつける腰飾り,一部の男女に施した叉状研歯,複数個体の人骨を集積した再葬墓など特色のある習俗が広がっていた。渥美半島~豊川流域の東三河を代表する吉胡貝塚と伊川津貝塚の墓地で埋葬してある人のうち,L型式の腰飾りをつけた人の抜歯は4I系,Y型式の腰飾りとV型式の腰飾りをつけた人の抜歯は2C系に多い。両貝塚で叉状研歯を施した人の抜歯はすべて4I系である。保美貝塚に多いJ型式の腰飾りと抜歯系列との関係は明らかでない。合葬は4I系同士,2C系同士はあるが,4I系と2C系との間には存在しない。吉胡,伊川津,保美貝塚では再葬は2C系の人に顕著であり,合葬した2C系の人同士で血縁関係が考えられる例もある。これらの現象を総合して,4I系はL氏族(仮称)を含むグループ,2C系はY氏族とV氏族(仮称)を含むグループ,L,Y,V,J型式の腰飾りはそれぞれの氏族の長が身につける標章であって,4I系グループと2C系グループとの間には上下の格差があり,腰飾りをつけた人が多いL氏族は,吉胡集団さらには東三河の諸氏族のなかで最上位を占めていたと推定する。すなわち,東三河は二つのグループ,四つ以上の氏族によって構成される社会であり,吉胡集団,なかでもL氏族は東三河で部族的結合の中心的な役割をはたしていたと考える。4I系グループと2C系グループの数はほぼ1対1である。しかし,それぞれのグループ内の男女の割合は,吉胡貝塚と伊川津貝塚ではほぼ1対1であるのに対して,保美貝塚では4I系では女が多く,2C系では男が多い。これを二つのグループへの帰属になんらかの規制が加わった結果とみるならば,それぞれを半族とみて東三河に双分組織の存在を想定することが可能である。
著者
崔 吉城
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.70, pp.161-183, 1997-01-31

戦後韓国社会の高度成長は朴正煕大統領の経済開発計画とセマウル運動によるものといわれている。特に農村の精神革命とも言われているセマウル運動は朴大統領自ら信念をもって一貫的に推進して成功させたという。それは彼自身農村出身であり農村近代化を推進したことであり,農民層に政治的基盤を置き,国民総和をもって長期執権のために維新憲法を発布してしまったのでセマウル運動の評価は必ずしも肯定的なものだけではない。しかし,とにかく朴大統領の政策や戦後韓国経済の高度成長を理解するためにセマウル運動の研究は必要と思う。その運動の契機や起源はまだ不明である。北朝鮮の千里馬運動とかトルコのケマルパシャ革命などと言われているが寡聞かも知れないが分析的な研究はまだない。私は朴大統領時代を経験したものの一人としてセマウル運動は戦前の日本における農村開発運動と似ていると思った。最近セマウル運動が日本植民地時代の農村振興運動と似ているという言及があったので,私はその実証的な研究をしようと考え,資料を収集した。その過程において,朴大統領が三年間小学校の教師をした学校が農村振興運動の指定学校であったことがわかった。その学校を現地調査をしたところ,老人たちによって朴氏が農村振興運動指定学校で指導していたことを確認した。一方では朝鮮総督府の宇垣一成総督の時嘱託として農村振興運動を指導した山崎延吉を知るために安城市の『山崎文庫』を尋ねて調査をした。私は本稿で植民地に因んでいる反日的な枠を無視して脱価値論的に文献研究と現地調査を合わせて日本植民地時代の農村振興運動は朴大統領のセマウル運動のモデルになっているということを明らかにしたい。