著者
大熊 信行
出版者
高岡高等商業學校研究會
雑誌
研究論集
巻号頁・発行日
vol.1, pp.231-282, 1929-03-05
著者
大熊 信行
出版者
高岡高等商業學校研究會
雑誌
研究論集
巻号頁・発行日
vol.1, pp.199-229, 1929-03-05
著者
王 峰
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.41-51, 2015-03

本文は現代中国語形容詞の「量の増減」を表すと言う功能をはじめとして、比較の基準や表量のレベルシステムの二つの方面の調査から、作者が「量の増減」を表すのは形容詞の重ね型の主要な功能ではないと結論した。コーパスの分析を通して、現代中国語単音節形容詞の重ね型AA式はカテゴリーの中の理想的なメンバーと密接に連係しているのを発見した。動作行為と関连する時、それは図式として存在する。このために、人々がその形式と関連する物事を理解する時、ゲシュタルト心理が発生する。この言語形式に対応するのはある認識上の繰り返しである。文末には、この形式の教授法について、少々の参考意見を述べてみた。
著者
相原里美
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.135-152, 2014-09

丁玲は1929年初めに短編小説『慶雲里の小部で』を発表した。この物語には、阿英という妓女の一日の生活や内面世界、妓楼での人間模様が詳細に描かれている。ここには、当時の妓女を主人公にした小説としては珍しく、女性の悲壮感や絶望感、あるいは娼妓制度への憤りなどが前面に描かれているわけではない。むしろ、阿英は妓楼での生活に満足しているかのようにさえ描かれている。その一方で、阿英は故郷の陳老三のことを思い出し、彼の元へ帰ることを何度も夢想するのだが、結局妓楼に残って妓女として働くことを選択する。本稿では、阿英を通して語られる女性の内面世界から、中国女性の近代的自我形成と性についての分析を試みたい。
著者
Fedorowicz Steven C.
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.55-70, 2013-09

This essay provides an" ethnography of ethnography" through investigating and advocating certain research methodologies referred to as "Gonzo Anthropology." Ethnography is viewed as a process entailing both actual research, especially participant observation, and discourse, i.e. some form of cultural representation. In this way the ethnographic process can be seen as a form of cultural performance; the ethnographer is an actor, director, recorder of events, writer, artist and audience all in one. These ideas will be explored through an analysis of the work ofHunter S. Thompson, the founder of gonzo methods. The application of performance theory will be illustrated through brief cultural descriptions of Hare Krishnas and deaf people in Japan. This essay is a product of years of study, application, consideration and reconsiderations ofethnographic research that aims to provide important, relevant and interestingdialogue for multiple and multivocal actors and audiences.
著者
山本 和子
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.57-75, 2008-03

蕭紅の後期の代表作とされる『胡蘭河伝』は1940年、香港で完成された。当時は日中戦争のさなかで、蕭紅の故郷東北は日本の占領下にあった。帰りたくとも帰れない状況のなか、蕭紅は遠く離れた故郷胡蘭での幼少期を振り返って、その「忘れがたい」光景を書き綴った。それが『胡蘭河伝』である。伝は物語の意。作品は全七章とエピローグから成り、各章はそれぞれ異なる物語で、短編としても十分に読み応えのあるものである。物語では、祖父と過ごした屈託ない日々のほのぼのとした情景が描かれる一方、因習や迷信に縛られた人々が元気な少女を死に追いやる残酷で哀しい情景も描かれている。作者は物語のなかで、愚昧な民衆が「無責任で無自覚な殺人集団」と化す深刻な問題を提起し、人間存在の不条理性を鮮明に描き出した。本稿では、『呼蘭河伝』の背景を探りながら、作者が意図したところ及び作品の魅力の所在に迫った。
著者
李 雅旬
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.111-124, 2016-12-15

川端康成『美しさと哀しみと』は雑誌連載当時、加山又造の挿絵が六十六葉も添えられていた。それらが非常に好評であったにもかかわらず、これまでの『美しさと哀しみと』論ではほとんど考慮に入れられてこなかった。また、初出の結び方について、同時代評にも先行研究にも批判の声が絶えなかったが、その原因はいったいどこにあるだろうか。さらに、『日本の文学』の第三十八巻『川端康成』(中央公論社、一九六四・三)に収録される際に結末の部分は書き加えられた。この加筆をめぐってどう解釈すればよいか。この小論の目的は、『美しさと哀しみと』の物語内容と挿絵とを合わせて分析し、とりわけ最後の一葉、およびそれに関連する小説の結末を再検討することにある。つまるところ、初出の結末は古賀春江の「煙火」に描かれた画面に向かって進んでいたのであり、川端所蔵の美術品は隠された形で物語の展開に関与していたのである。なお、結末の加筆に関しは、時間論的観点から、加筆によってテクストに余韻が無くなったという批判的な解釈を導き出す。
著者
丹下 和彦
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.73-87, 2010-03

本編は劇の中途に神が顕現するという特異な構造を持ち、そのために起きる主人公ヘラクレスの狂気の解釈と絡めて劇の統一性が問題となっている。また劇の末尾ではアテナイ王テセウスが登場し、ヘラクレスに昔受けた恩義のお返しとして篤い友情を示す。そこではまたヘラクレスを慰撫激励するためにテュケー(運、めぐり合わせ)の概念が呈示される。以上の劇内容を通観しながら、「英雄にして神」という従来のヘラクレス像から「英雄にして人間」ヘラクレス像へと視点を転換させることによって、作者の本編に込めた意図を読み解く。
著者
鈴木 仁
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.1-23, 2016-01-15

本論は、昭和期に内地で広まった郷土教育運動を背景に、「外地」樺太における郷土研究・郷土教育の活動をまとめた。内 地では、文部省により昭和五年度からの十二年度までに、師範学校への研究設備施設費の補助や、講習会の開催が実施され、 民間団体の郷土教育連盟による普及啓発が、各地の学校、教職員に影響を与えた。そこには、明治期からの地方(郷土)研 究の実績を教育への実践に取り入れ、郷土愛からの愛国心涵養の目的があった。「外地」である樺太は、教育行政を樺太庁が担っており、文部省の補助は適用されていないが、教職員は独自の郷土教育活動を模索している。他の「外地」が、郷土教育において重要視された「地域性」と、愛国心涵養を目指した「同化」との矛盾を抱えているのに対し、住民の九割以上が日本人(内地人)である樺太では、内地と同じく日本人子弟を対象とした教育政策がとられていた。だが、日本人移民の入植が広がることで新に社会が形成された樺太には、内地のような「郷土史」や、郷土研究の蓄積を有しておらず、郷土教育では樺太の「郷土像」を作り上げることが課題となる。本論は、第一節で樺太における郷土研究と郷土教育の活動についてまとめ、第二節では郷土教育の教授方法の一つである「郷土読本」について、編纂の記録や残された資料を事例に取り上げた。第三節では郷土史としての樺太史の研究と顕彰、教育への導入について、豊原中学校・樺太庁師範学校の校長となった上田光の発言、事績から、「郷土像」の形成過程を考察している。
著者
山崎 のぞみ
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.21-39, 2015-03

本稿は、英語の話し言葉コーパスを英語教育に応用する様々な方法や問題点を模索し、特に、自然発生的な会話に特徴的な相互行為的特徴(言い淀みや言い直しなどの非流ちょう性の言語現象や、話順交替を含む発話の即興的なやりとりに関わる言語現象)への意識を高める教材として話し言葉コーパスが持つ可能性を探る。 話順交替に関わる相互行為的言語現象を学習者に示す方法として、話し言葉コーパスからある一定の長さの連続した会話を編集なしでそのまま用いる方法を提案する。教材用に創作されることが通常のモデル会話が持つような産出(模倣)の模範としての役割を担わせるのではなく、現実の言語使用の実態に意識を向けさせるための観察材料としてコーパスを利用する。この方法は、学習者に会話の相互行為的な側面への気づきをもたらし、学習者の言語意識を高めることができると主張する。イギリス英語の話し言葉コーパスを用いて実際の利用例も例示している。
著者
中谷 博幸
出版者
河合文化教育研究所
雑誌
研究論集
巻号頁・発行日
vol.4, pp.209-223, 2007-06
著者
池田 亮
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.183-204, 2014-09

従来、第三世界における冷戦は、主に米ソ冷戦の観点から研究されてきた。その中でヨーロッパ宗主国は、米ソが植民地解放と新興国の国家建設に協力する中、勢力の後退を強いられる存在として描かれてきた。しかし本稿は、旧宗主国が現在でも旧植民地で一定の影響力を保っており、かつアメリカにとっても冷戦の遂行上、重要な同盟国であったことに注目する。事例としては、フランスによるモロッコの独立承認と、スエズ危機におけるイギリスの対エジプト攻撃を取り上げ、両国の動機を検討する。それによって、第三世界における脱植民地化への英仏の対応は、冷戦政策の側面をも持っていたことを指摘する。それぞれの決定は、モロッコと中東のアラブ諸国が、中立主義を選択するのを防ぐためになされた。それらの国を西側陣営に留め置き、重要な資源を安価に供給させ、自国の資本主義経済の繁栄を維持することが、宗主国、特にイギリスの目的であったと考えられる。
著者
牛 承彪
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.115-134, 2014-09

トン族村における空間意識は、「生業空間」と「生活空間」に分けられ、「生活空間」はさらに居住区域によって細かく分けられている。「生活空間」はその外に比べれば安全で清潔である。「攔路歌」行事はこの意識に基づいて成立し、歌の掛け合いを通して、村に入る来客の穢れを落とすのである。村には聖域として、「鼓楼」・「薩壇」・「土地神」の祠・大木・大きい石・橋・墓地などがあり、「生活空間」の中に点在している。「鼓楼大歌」が行われる際、村の守護神を降臨させ、参加者と空間を共有するので、この行事は男女の交流を目的にすると同時に神を楽しませる性格を持つ。聖域以外は俗の空間であるが、日常の中では人間の目には見えない「鬼怪」がさまよったりする。それで常に清潔を保つようにしなければならない。また死後いくとされる場所は、「ダイダン川」「十八羅漢山」「平白地」「九十九瑙」があり、「この世」と同じ地平線の山中に位置する。