著者
張 馨方
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.83-94, 2017-11-29

『類聚名義抄』は日本平安時代に成立した部首分類の漢和字書であり,原撰本系と改編本系が存する。原撰本系には,図書寮本が唯一の伝本であり,引用の典拠を明記した漢和字書である。改編本系には,現在,高山寺本・観智院本・蓮成院本・西念寺本・宝菩提院本などが知られる。観智院本は唯一の完本であり,そのほか,高山寺本・蓮成院本・西念寺本・宝菩提院本はいずれも零本である。原撰本系に比べて,改編本系の諸本には漢字字体の増補という特徴が認められる。ただし,これまでの改編本系諸本についての研究では,漢字字体を主眼とした調査は成されていなかったといえる。『類聚名義抄』では漢字字体を「掲出されるもの」と「注文に含まれるもの」に分けることができる。本稿では,注文中の漢字字体の記載に注目し,原撰本系図書寮本と改編本系観智院本・蓮成院本とで対照可能な「法」帖の「水」「冫」「言」の三部を調査対象とし,改編本系の改編方針の解明を目指して,原撰本系図書寮本と改編本系観智院本・蓮成院本との記載を比較分析する。その検討の手順を具体的に述べると,まず,図書寮本・観智院本・蓮成院本の三本それぞれにおいて注文中の漢字字体の記載状況を調査し,次に,原撰本系図書寮本と改編本系観智院本・蓮成院本とを比較対照して注文中の漢字字体の記載について考察・分析する。
著者
大谷 伸治
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-16, 2011-12-26

本稿は、昭和戦前期に国民精神文化研究所で「日本政治学」の確立に従事した藤澤親雄の思想について論じるものである。 これまでの藤澤を取り上げた研究は、藤澤=独善的な日本主義者という固定観念が強いあまりに、藤澤の言説をいくつか 引用するだけで、自由を否定する単純な反近代・反動復古主義者と評価してきた。 しかし、藤澤は主観的には、個人の価値や民主主義等の西欧近代的なものを根本的に否定したことはなく、自由主義・個 人主義が果たした歴史的意義を認め、その良さを残しながら、危機を乗り越える新しい原理を日本の国体に見出し、それを体系化しようとしていた。また、それはすべてが日本主義的・民族主義的に論じられたわけではなく、西洋諸思想との関連を有しており、「道」「産霊」といった日本的・東洋的な用語を冠していながらも、その目的意識や内容は、彼が批判した矢部貞治の衆民政論と非常に類似していた。すなわち、藤澤と矢部のデモクラシーに対する見方は根本的に違ったが、自由主義・個人主義を克服し、あらゆる対立矛盾を統合する天皇を中心とした民族共同体の構築を目指すという構造的な面において、両者は一致していた。 したがって、藤澤の「日本政治学」は、単にファシズム体制を正当化するために唱えられたとするのは正確ではなく、当 時さかんに叫ばれた近代の危機に対する政治学的な処方箋の一つであり、彼の意図に反し、当時の日本における代表的な政治学者の一人である矢部貞治の西欧的なデモクラシー論と親和性をもつものであった。 また、藤澤が、天皇機関説のみならず、天皇主権説をも否定していたことや、天皇からの恩恵的な権利だとはいえ、「臣民に食を保証する権利」という生存権に類するような権利を認めるべきだと考えていたことも興味深い事実であった。 しかし一方で、天皇の権威に服することで日本人はすべて自由であり、天皇にまつろはぬ者には強制力を行使してもかま わないと、国体・天皇に対してあまりに盲目的であった点において、藤澤の「日本政治学」はやはり問題であった。
著者
田村 直樹
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.97, pp.285-303, 2013-03

本稿では、非営利組織が地域ブランドを確立するための戦略的提携として、地域メディアの捉え方について検討する。従来のマーケティング研究では、即物的な利己的発想をベースとしたパートナーシップとして捉えられる しかし、本稿では、そういった利己的発想のパートナーシップのフレームでは捉えきれない戦略的提携の可能性を探りたいと考えている。本稿の構成は次の通りである。II節では、代表的な先行研究を取り上げて従来のマーケティング論による戦略的提携のフレームを確認する。III節では、先行研究のフレームでは捉えきれないと思われる事例を検討する。IV節では事例についての考察を行い、地域ブランドの確立には「交換概念」だけではなく「関係性概念」を取り入れた議論の必要性を示唆する。結論として、本事例を成功に導いた決定的なポイントは、消費者間のコミュニケーションを活発にするような話題性(質)と消費者との接点数(量)のシナジー効果が発揮されたことを明らかにする。
著者
久保田 美佳
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.71-87, 2016-03

視覚動詞 look/see、「みる」/「みえる」には、物理的に視覚で知覚する意味と、心理的なイメージを伴う心的に知覚する意味の両方があるが、本稿では、主に物理的な視覚による知覚について認知言語学的に比較・分析する。一般的には look at が「みる」、see が「みえる」であると考えられているが、これら日英の視覚動詞のそれぞれが独自の意味範疇を有し、このような単純な対訳では不十分であると思われる。このことを考察するために、これまで意味特定の基準として広く用いられて来た「動作主の有無」の妥当性を問うとともに、生態学および認知科学的な視覚情報の処理プロセスに関する知見を基に look/see、「みる」/「みえる」によって喚起される概念や機能の顕在化または希薄化の傾向を示し、言葉自体の意味が文脈によって変化する可能性を検討する。
著者
高屋敷 真人
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.21-41, 2012-09

中上健次(1946-1992)は、自己形成において他者との同一化と自己同一化を廻る自己矛盾を感じ、それが自らの書くという行為の永続化の要因であると感じていた。書くという行為においては相反するものが同時に存在し複雑に絡み合いながら反復し続けることを「無間地獄」と名付け、敢えてそれを志向するために書くのだと宣言した。本稿では、中上健次が考えた、このような終わりのない「永続化する二項対立構造」と宮沢賢治(1896-1933)の「四次元芸術」の創作術、すなわち、唯一の決定稿を持ちえない今ここにしかない決定の連続の中で行う創作行為を比較し、賢治が「第四次元」の時間軸に沿って常に移動変遷していく世界から物事のすべてを眺め自覚的に確立したものと、中上健次が相対するものとは対立の果てに和合するのではなく、反復しながら永遠に終わりを引き伸ばすものであると考えたこととの相似について検討する。
著者
崔 鉉鎭
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.213-252, 2016-01-15

本稿では,韓国語一型アクセントにおけるアクセント単位の認定と特質を明らかにするための第一歩として,一型アクセントとして報告されているチョンヤン(青陽)方言を対象に考察を行う。当方言は言い切り形と接続形の相違があり,言い切り形はA パターンとBパターンに分かれる。A パターンは5音節以下で見られる音調型であり,Bパターンは一文節において6音節以上である上で,複数のアクセント単位に分かれた際に最終アクセント単位以外のアクセント単位に見られる音調である。A パターンと相補分布を成している。当方言のアクセント単位は高い音調が1音節目あるいは1音節目と2音節目にある場合を1つのアクセント単位とし,高い音調が3音節目以降に現れるものは複数のアクセント単位からなるものと認定する。そうすることにより,当方言の一型アクセントが体系的に捉えられる。アクセント単位の認定に関わる要素には文節の長さと形態素の切れ目がある。この2つの要素の適用範囲と順序には相違が見られ,文節の長さは一次的に関わる要素として品詞や文節内部の構成と関係なく,文節の長さが6音節以上になれば必ず関与する。形態素の切れ目は文節の長さにより,アクセント単位が複数に分かれてはじめて関わるため,二次的要素といえ,アクセント単位の切れ目の位置に関わる。アクセント単位が複数に分かれた際に,最終アクセント単位以外のものはBパターンで現れる。A パターンとは相補分布を成しているため,A パターンの異形態と解釈できる。
著者
池田 誠
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.17-36, 2011-12-26

本稿では、ジョン・ロールズの博士論文「倫理的知識の基盤の研究」(一九五〇)を考察し、若きロールズが『正義論』(1971/99 rev.ed.)の著者へと成長していく軌跡を辿る。そこで私は、ロールズの博士論文と、この博論の「ダイジェスト」とされる彼の翌一九五一年の処女論文「倫理学における決定手続きの概要」との間の共通点と相違点に焦点を当てる。 まず、第一の共通点として、両論文は法学や科学哲学における「議論の理論」を参考に、当時の倫理学における懐疑的風 潮への反論として理性的な倫理学的探求の可能性を擁護することを主題としている。また第二の共通点として、両論文のうちにはすでにのちに「反省的均衡」と呼ばれる反基礎づけ主義的な方法論が確立され展開されている。しかもそこでは、『正義論』にみられる功利主義と(多元的)直観主義に代わる新たな規範倫理学理論を立てることへの意欲も見られる。 一方、両論文の間の相違は三つある。第一の相違点は、ロールズが実際に自らの提示する理性的な倫理学的探求の実例を 素描してみせる際に解明と正当化の題材とする道徳判断の種類である。博士論文のロールズは「(i)よい性格に関する 道徳判断」の解明を図るが、「概要」論文の彼は「(ii)正しい・正義にかなう行為に関する道徳判断」の解明を試みている。これに伴い、第二の相違点として、それぞれの論文でロールズが提示する道徳判断の解明原理(道徳原理)も異なっている。第三の相違点として、博士論文では、「概要」論文には登場しない「形式的正当化」と「実質的正当化」という二種類の正当化方法が登場する。 この相違点にもとづき、私は、博士論文のロールズは早くも彼の倫理学方法論を確立する一方、その実例の提示である規 範倫理学理論においてはいまだ発展途上であり、以降、彼はより包括的な規範倫理学理論の確立をめざし、彼なりの「反照的均衡」のプロセスを幾度も重ねて「概要」『正義論』へと歩みを進めていったと主張する。
著者
藤田 弘之
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.99, pp.105-121, 2014-03

本論文は、生徒指導にあたって、不可欠な場合に、児童生徒を統御あるいは抑制するために、必要な限りで教師が体罰とは異なる適正な物理力を行使できること、またその行使のあり方について、イギリスにおける問題を考察しつつ明らかにしようとするものである。イギリスにおいては、1986年第2教育法によって体罰が禁止されたが、その過程で、やむを得ない場合における教師の合理的な有形力の行使を認めた。この有形力の行使については、その後行使の形態やあり方について明確化、詳細化され今日に至っている。我が国においても体罰関係の裁判の判例、また文部科学省の通達において、こうした有形力の行使について言及されてはいるが、その内容やあり方については不明確であり、具体的ではない。本稿ではこうしたことを踏まえて、児童生徒への他の懲戒のあり方の検討とともに、こうした有形力行使のあり方について明確化、具体化すべきことを指摘した。
著者
矢板 晋
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.433-455, 2012-12-26

外国人子弟が日本の教育に関する場面において不利益を被る,すなわち周 辺化(marginalize)するのはなぜか。この点について,栃木県真岡市に着目 し,ラベリング論,言語コード論,文化的再生産論,社会関係資本論による アプローチを試みた。 データは,筆者が2010年8~9月に栃木県真岡市で行った調査に基づく。 調査対象は真岡市内の市立小学校2校,市立中学校1校,教育委員会,真岡 市国際交流協会(MIA),NPO団体2つである。調査方法は学校の日本語教 室やNPO主催の地域日本語教室での参与観察,各担当教員やNPO団体の代 表者,教育委員会,国際交流協会に対する構造化面接調査と半構造化面接調 査である。 同調査によると,外国人子弟の周辺化には以下の4つの要因が考えられる。 第一に,積極的ラベリングと消極的ラベリング,つまり,外国人に対する偏 見と「日本人と同様」に扱うラベリングである。第二に,児童生徒の限定コー ドとしての日本語の不習得と教師の使用言語の無差別性である。外国人子弟 が日本において普段の生活に必要な限定コードを習得できていない点や,教 師が授業で用いる言語に限定コードや精密コードを区別していない点が確認 された。第三に,「接触」「適応」「継続」の各段階における必須要素の欠如で ある。外国人子弟が日本の教育現場に定着するには,まず学校と「接触」し, 次に学校生活に「適応」,最後に「継続」して学校に通い続けるという3段階 が存在する。その各段階でアイデンティティや言語資本,社会関係資本が不 足する現状がある。第四に,外国人子弟の教育をめぐる社会関係資本の「限 定」「陥没」「拒絶」である。すなわち,社会関係資本が日本人同士あるいは 外国人コミュニティ内に「限定」して存在する場合,またはうまく外国人が 日本人と接触できたとして,その日本人どうしの関係が「陥没」している場 合,さらに外国人側がホスト社会との関係を「拒絶」する場合が確認された。 2012年8月下旬に再度真岡市を訪問した際には,「接触」段階における社会 関係資本の「陥没」の改善が見られた。今後もこうした社会・文化的側面か らの解決が重要となるだろう。
著者
日木 くるみ 田村 知子
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.86, pp.57-76, 2007-09

本稿の目的は、「人に物を渡すとき」に使用できる4表現(Here you are / Here you go / There you are / There you go)の機能を明らかにすることである。 4表現の機能は、here / there で表される「促し(start)/ 達成(goal)」対立と、are / go で表される「状態(state)/ 行為(action)」対立の組み合わせによって、規則的に生み出される。 その結果、4表現はそれぞれ以下のような機能を持つ。Here you are 「you が"ready"な状態になるように、話者が you を促す」Here you go 「you が次の行為をするように、話者が you を促す」There you are 「you が話者の期待する状態に達したことを、話者が表明する」There you go 「you が話者の期待する行為を遂げたことを、話者が表明する」 この考え方に基づけば、映画から集めた実例を説明できるだけでなく、なぜ4表現がいずれも「人に物を渡すとき」に使用できるのか、などの疑問に対しても説明を与えることができる。 本稿では、4表現の機能に関する考察を通じて、イディオムと呼ばれるものの中にも、個々の語彙の意味を組み合わせて説明できる表現があり得ることを示唆した。
著者
大谷 貫太郎
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.121-135, 2023-01-31

本論文の目的は,メタ倫理分野における「進化論的暴露論証(Evolutionary Debunking Argument:EDA)」の性質を明確化したうえで,論証を成立させるために,EDAの支持者が今後応答しなければならない問題を提示することである。一般的にメタ倫理分野におけるEDAが突出した試みであると考えられている理由は2つある。1つ目は進化生物学や進化心理学などの近年の科学的知見に基づくアポステリオリな懐疑論証である点である。2つ目は,道徳的信念全体をターゲットとするグローバルな懐疑論を導出することを目的とする,野心的試みである点である。このような性質をもつEDAが成立した場合,道徳的真理が客観的に存在すると主張する道徳的実在論に対する新たな強力な批判となると考えられている。だが,EDAを構成する,それぞれの前提には様々な問題が指摘されている。それらのなかでも特に重要であるのが,論証を成立させるに十分な証拠を提示できているのか,という経験的な問題,そして道徳的信念全体の正当性を掘り崩すことを目的にしていながら,論証の成立のためには道徳的真理に関する想定を必要とする矛盾があるのではないか,という構造的問題である。最後に両問題について検討したうえで,EDAの支持者がこれらの問題の両方に応答できなければ,EDAはアプリオリな懐疑論証か,より広範な懐疑論証に崩壊してしまう可能性が高いことを論じ,現時点では道徳的実在論に対する独自の批判にEDAはなりえていないと結論付ける。
著者
泉 瞳
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.89-110, 2022-01-31

近年日本では英語教育の改革が進められており,その一環として英語が2020年度から小学校教育課程において5,6年生で教科化され,3,4年生では必修となった。しかし教授法に関しては,従来から行われているPPP型(presentation-practice-production)の演繹的指導が現在も主流であり,平易な項目から学習を開始し,徐々に難易度の高い項目を積み上げるものとなっている。PPP 型のような積み上げ型の指導法は,日本のような外国語環境では,学習した内容について,実生活での十分な言語使用経験が得られないため,基礎力が定着しないことが問題となっており,日本人の英語力が伸びない要因の1つと考えられている。 そこで本研究では,認知言語学が提唱する使用依拠モデル(Usage-based model)を基盤とした母語習得研究に着目し,PPP 型積み上げ式の指導法に代わるものとして,母語習得プロセスを援用した英語指導法について,観察に基づき考察を行った。複数の研究によると,言語習得は言葉の固まりから始まることが明らかになっている(Hakuta 1974, Tomasello 1992, 2003,Wong-Fillmore 1976,橋本2007,2008,2018)。観察した指導法でも,学習開始時から64の構文という「言葉の固まり」を言語材料として使用し,母語習得のプロセスに倣って豊富なインプットを与えることにより,外国語環境においても帰納的に英語を習得することが可能であり,固まりからの習得は第二言語習得でも有効であることが確認できた。従来からの積み上げ型とは逆の発想である「固まりから始める英語指導法は,児童の学習適性にかかわらず習得を容易にするものであり,そのための条件を提示する。
著者
中村 建
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.111-123, 2023-01-31

有島武郎の戯曲「死と其前後」は従来、作者自身及び病死した作者の妻に関する伝記的事実に大きく傾斜した研究が多くを占めている。また、この作品の解釈も前述の事実を踏まえた上で死に対する夫婦の愛の勝利といった見方が主流であり、テクストに即した研究が不足していると言わざるを得ない。そこで本稿では、特に同時代においてなされた夫婦の「愛の勝利」という解釈が、近代日本におけるメーテルリンク受容と関わりのあったものであることを示すとともに、テクストに即して「愛の勝利」の内実を明らかにする。後年、「メーテルリンクの季節」と呼ばれた当時、三角関係を題材とした『アグラヴェーヌとセリセット』がしばしば話題され、有島も小説に引用し、「死と其前後」への評価でも引き合いに出されるほどであった。しかし当時の受容は、難解な戯曲の内実を深く理解していたものというよりも、戯曲というジャンルが運命や人の内面を直感的に表現できるという一種の神秘主義的なものであり、そのような文脈の中で「死と其前後」も受容されたのであった。次に、夫婦の愛について戯曲のテクストに即して分析を試みる。この戯曲は「愛の勝利」として評価されてきた一方、その愛について否定的な評価も根強い。筆者はこれを愛を相対化する回路として評価しつつ、有島の「恋愛の多角性」の主張との関連から考察を試みる。有島は晩年、同時に複数の人物に恋愛するという「恋愛の多角性」を唱えていた。劇中、何人もの女性に誘惑を感じてきたことを告白する夫は、そのような有島の後年の主張を予期させるものである。また、夫からの愛を疑う瀕死の妻へのそのような夫の告白は、妻との愛を確認しつつもその愛の不可能性を露呈するものである。以上の内容から、「死と其前後」における愛の勝利と不可能性は、有島が自己と他者の同化を唱えた一方で認識を自己批判するような晩年への変遷を予見させるものであると言える。
著者
中井 朋美
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.229-245, 2017-11-29

『殺人の追憶』という映画では,規定されたはずのものが混ざり合ってしまうことで,境界線があいまいになる。そのために,事柄がその間に落ちていくこと(本論文ではそれを「中間性」とする)が全体を貫いている。中間性は,予告され,画面の中に配置されており,映画の進行とともに,物語上の中心や二項対立をも融解させ,すべてを引き込んでいく。この進展を表出させるのは,事件を追う二人の刑事と,不在となっている犯人である。事件の捜査を担当し中心となっている二人の刑事は,はじめ物語的にも,画面内的にも中心に位置づけられ,単純な二項対立をなす。しかし,二人は互いの要素が混ざり合ってしまい,画面的にもその中心性が裏切られるために,中間性へと落ちていく。事件の中で一貫して不在であることで,観客の関心を引き,中心となる犯人像は断片だけが描かれ,それが統合できないことにより,にわかに怪物性を帯びた特権化されたものとしておかれていく。しかし,映画のラストにおいて,犯人が予想とは真逆の「普通」であったことが判明するとき,中間性におち,交換可能な位置となる。すべてが中間性に落ち込んでいくことは,映画の映像自体が根源的に孕んでいる中間性に関わっている。映像はそれ自体が,真/偽の中間に位置している。そのために,映っているものが真実かどうかは曖昧であるし,真実ではない存在からも,「真実」らしさをはく奪できないのだ。『殺人の追憶』においては,主として観客が犯人にもつイメージが逆転することによって,この中間性が観客の誤認や独善に結びつくということを告発している。中間性は,韓国という〈場〉が持つイメージにも関わっていると考える。韓国は,地理的,文化的,政治的など,混ざり合ってしまうことがその根底に関わっている。そのことを考慮すれば,本作は,韓国という〈場〉そのものをミニマムな視点で描いた作品ともいえるだろう。
著者
一瀬 真平
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.111-122, 2022-01-31

アメリカの南北戦争は,当時,イギリスの人々の関心事となっていた。しかし,英国作家チャールズ・ディケンズは,彼が監修する雑誌『一年中』の中でその話題を扱うことを抑制し,自身もその戦争について語ることを控えていた。本論では,この戦争と関連するテーマが,南北戦争期に発表された彼の作品の中に密かに刻まれている可能性に着眼したい。南北戦争中にイギリスの雑誌や新聞などでしばしば議論された話題に,アメリカの奴隷制への批判や,イギリスでの綿花不足の問題(アメリカ南部から綿花の輸入が途絶えることに関する危機感)がある。1860-1861 年に書かれた『大いなる遺産』には,どうもこれらの話題が潜んでいるようなのだ。本稿は,南北戦争がディケンズの作品執筆に与えた影響について述べていきたい。
著者
呉 琳
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.99-113, 2016-12-15

本研究の目的は,現代日本語における基幹慣用句を選定することである。「基幹慣用句」とは,林(1971)が提唱した「基幹語彙」にのっとった概念で,調査された言語資料の中で,多方面にわたって高頻度で用いられている慣用句の集合を言う。本研究の調査対象は,佐藤(2007)と橋本・河原により選定された926句(延べ936句)の慣用句である。調査資料は,『現代日本語書き言葉均衡コーパス(BCCWJ)』の書籍サブコーパスである。この書籍データは,図書館で利用される日本十進分類法(NDC)に従い,0.総記,1.哲学,2.歴史, 3.社会科学,4.自然科学,5.技術・工学,6.産業,7.芸術・美術,8.言語,9.文学,n.分類なしの11に下位分類されている。つまりは,書籍データにおけるジャンルごとの各慣用句の使用度数が調査可能である。その結果を基にして,慣用句がいくつのジャンルにわたって出現するかを広さの指標,使用度数の多少を深さの指標として設定し,複数のジャンルにわたって高頻度で使用される慣用句を基幹慣用句として選定する。