著者
井上 裕子
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.219-233, 2010-12-24

1945年から1949年の台湾を舞台にした映画『悲情城市』では,史実を伝える文字画面や筆談の文字,また複数の言語によるセリフ,手紙や日記体のナレーション,ラジオ放送の音声など,豊かな手法で物語が語られている。そしてこのすべて言語にかかわる手法は視覚による文字と聴覚による音声に分けることができ,映画のなかの文字と音声の言語はそれぞれ対称的に配置され,その機能と効果を果たし,物語内容を語っている。さらにこれらの言語は,物語とともに,台湾という空間における一時の歴史的時間をも語っていることが分かる。そして,この映画のその視覚的な文字と聴覚的な音声に着目し,それらを分析・考察して浮かび上がってくるのは,情報伝達における音声言語の未全であり,一方での文字言語の十全である。映画をみるに当たって,私たちは音声で映像を補うよりは字幕を頼りにする。音声情報に十分な注意を払わずに,視覚情報に重きを置く。これはやはり,映画における音声の映像への従属を示すのだろうか。しかし,『悲情城市』では聞こえる音声が情報伝達の未全を示す一方,聞こえない音声である「沈黙」がそれを補うように伝達の十全を表わしている。音声には多くの情報が隠されており,文字は映像に組み込まれることで,映像の力に勝るとも劣らない機能を発揮する。つまりそれは,音声と映像の豊かな統合であり,そこに映画の構造における映像と音声というものを考察する一つの機会ととらえることができる。この作品では,視覚の文字,聴覚の音声が映画の構造のなかでそれぞれ対等の機能と効果を果たし,映画のなかの物語と映画の背景と,そして媒体としての映画そのものを作り上げているのである。
著者
張 捷
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.267-287, 2012-12-26

山鹿素行(一六二二~一六八五)は,江戸時代初期の儒学者,兵学者であ り,山鹿流兵法の開祖,古学派の先駆けである。『孫子諺義』を含む『七書諺 義』は,素行の兵学思想が最も円熟した時期の著作である。本稿では,『孫子 諺義』を中心資料として,素行後期の兵学思想に考察を加えた。 『孫子』の日本伝来については,『日本書記』や『三国史記』に基づいて, 四〇八年以前に大陸から朝鮮半島へ伝わり,五二七年以前に朝鮮半島から日 本へ伝わったという新たな仮説を提出した。『孫子』の版本には,『魏武帝注 孫子』と『十一家注孫子』との二系統に分けられるが,『孫子諺義』では,『魏 武帝注孫子』すなわち『武経七書』系統を利用した可能性が高い。素行は, 訓をもって字句ごとに極めて詳細に注釈し,他学者の見解も列挙し,一定 の融通性を示している。『孫子諺義』の執筆期間は一ヶ月未満であるにもかか わらず,大量の資料を引用し詳しく解説していることから,素行の博覧強記 ぶりが伺える。素行の兵学思想は,「詭道」と「五事」の「道」についての解 釈から見える。同じ「道」の字であるが,意味・内容が異なっており,混同 しやすく,長い間兵学は儒学的観点から異端視された。素行は「詭」を奇, 権,変と解釈し,「詭道」を合戦する際に敵が予想できない勝利を制する手段 としている。素行の「士道論」,即ち武士の職分には『孫子』の「五事」の「道」 の影響が見える。武士は君主と農工商の三民との架け橋であり,忠を尽くす ことや,三民を教化することなどによって上下の心を一つにする。素行は, 伝統的な奉公の忠誠心に,儒教の人倫を実践する主張と,兵学の管理の方策 に加えて,新たな職分論を提出した。『孫子諺義』を完成した時期は,素行が 中国の文化から離脱しようと主張した時期であるが,漢文化の影響が色濃く 残っているので,晩年の著作を見ると,素行は漢文化から完全に離脱するこ とはできなかったと言える。
著者
魏力 米克拉依
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.29-50, 2011-12-26

本稿は,主に現代ウイグル語の漢語借用に見られる音韻現象を分析ものである。具体的な分析の対象は音の対応,母音脱落・融合,渡り音による再音節化などの現象であり,系統的な関連性がない両言語の間に起こる一定の音の対応及び音節構造を決定する要因について検討する。まず,背景となる漢 語借用の先行記述及び現状などから漢語借用語の典型的な音の対応を,次の5つにまとめる:1)複合母音の短縮;2)唇歯摩擦音の両唇閉鎖音化;3)漢語zi[ʦɿ] の母音同化;4)そり舌音の硬口音蓋化;5)破擦音の摩擦音化;次いで,現代ウイグル語の音韻特徴と音節構造を先行記述に基づき,借用語の音韻特徴を考えるとき,そもそも地域で話される借用元となる漢語方言を基盤として考えるべきことを示す。そして,日常的に定着している漢語からの借用データを基に,借用語の音韻構造について再検討を行う。音韻構造の中でも音の変化と音節構造に焦点を置く。そこで,結論として具体的には次のようなことを挙げる:1)母音連続を避けるため,母音脱落,半母音化などが起きる;2)唇歯音f[f]>両唇音p[p]>両唇音[
著者
吉村 耕治
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.84, pp.75-92, 2006-09

1953年以降、日本では台風を発生順に通し番号を付けて呼んでいるが、アメリカ合衆国ではhurricaneを個人名で呼ぶ慣行が定着している。米国では1953年にハリケーンの名称に女性の個人名の採用が正式に決まったが、1979年には女性名だけでなく、男性名の採用も決まり、1979年以降はアルファベット順に男性と女性の個人名が交互に使用されている。この現象は米国の人権意識の高さを表すだけではない。兄弟姉妹、両親、上司にも個人名を用いる習慣が反映しており、行為者を重視する表現を好むという英語表現の伝統的な傾向とも深く結びついている。台風の呼び名には、「お兄[姉]さん」「お父[母]さん」「部[課]長」という立場や役職上の名前を敬称として用いる日本語の習慣が関連している。英語と日本語によって熱帯性低気圧の命名法が異なるという現象の根源に、「人を中心に考える」英語文化と「人と人の関係」、つまり、「状況を中心に考える」日本語文化という相違が内在している。
著者
堅田 諒
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.141-155, 2018-12-26

本稿ではジョン・カサヴェテス『フェイシズ』(Faces,1968)の作品分析をおこなった。従来の研究では,作家の伝記的事実ばかりが強調され,個々の画面に基づいた「ショット」や「カメラの運動性」の分析はなおざりにされてきた。したがって本稿では画面から出発し,作品のもつ豊饒さに接近したい。第1章では,本作の最も支配的なショット形態である「顔のクロースアップ」の機能と効果を分析した。カサヴェテスの顔=クロースアップは,物質性や触覚性,カメラの機械的な運動性が発露する場であり,とりわけ観客の能動的な見る意志を刺激する。第2章では,身体に目をむけた。『フェイシズ』における顔は,雄弁に何かを語ろうとするものの(たとえば人物の感情),結局何も語らないものであり,一方,身体はその寡黙さゆえに,図らずも主題があらわれる地点となる。「中年と若者」「中年の欲望」などの主題と身体はかかわる。第3章では,空間とコミュニケーションの観点から,顔/身体それぞれを考察した。一階と二階はそれぞれ異なる性質をもち,とくに一階では身体が後景においやられ,反対に顔が前景化することを明確にした。第4章では,映画ラストシーンの階段という中間的な狭間の空間と身体の関係を分析した。この特異な空間に座るリチャードとマリアを分析することにより,映画のいくつかの諸相,空間や時間性の混淆が生じることを明らかにした。階段というカサヴェテス的トポスでは,両極性が混在し,とりわけ身体において過去と未来の時制が呼びよせられ,同時的共存を果たしている,というのが本稿の論旨である。
著者
ダリン トーマス
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.229-252, 2016-01-15

本稿では,北海道諸方言の韻律的を明らかにするための一歩として北海道 の4つの方言(札幌・網走・小平・七飯)を対象に,それぞれの方言におけ る和語名詞のアクセントを記述し,指摘できるパターンを分析した。 その結果,話者が若いほど全国共通語と一致するアクセントを使う傾向が あきらかになった。つまり,北海道方言においてアクセントの共通語化が進 行中である。この傾向は2モーラ名詞のアクセントにおいて最も顕著である。 第II類語(冬,川,石など)では,本来のアクセント(平板型)が共通語と 一致する尾高型に置き換えられつつある。また,北海道方言のIV・V類語(味 噌,海,肩,秋など)では,2モーラ目の母音の性質によってアクセントが 変わる現象があるが,この特徴は40代以下の話者に観察されなかった。さら に,調査によって共通語化の程度が異なることも分かった。要するに,札幌 や網走に比べて,道北地方の小平町と道南地方の七飯町ではアクセントの共 通語化の進歩が遅れているようである。 3モーラ名詞のアクセントにおいて個人差が大きく,一貫した傾向は指摘 できなかったが,札幌・網走の方言の名詞の一部において話者の年齢と関わ るアクセント変化が観察された。ただし,ある特定の語彙において,若年層 の話者でも共通語と異なるアクセントを使う傾向があった。
著者
宮本 花恵 宮本 花恵 宮本 花恵
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.23-43, 2016-12-15

本稿では、北海道大学附属図書館蔵伝貞傳手記『大臼山御由来《慈覺大師御難行記》』(以下、『御由来』)を紹介する。 「大臼山」とは、伊達市にある大臼山道場院善光寺(以下、ウス善光寺)をさす。本資料は一般に知られている函館市中央 図書館蔵『蝦夷地大臼山善光寺縁起』とは別本である。一丁裏には、「明治四拾年六月二十日膽振國有珠町住/吉田家採訪史 料/(享保年代津軽本覚寺住佛師貞傳記之)」とあって、明治四〇年(一九〇七)六月二〇日、吉田家蔵本を書写されたもの とわかる。また、「享保年代津軽本覚寺住佛師貞傳記之」とあることから、これが享保期に津軽本覚寺の仏師貞傳が記したと する伝承があると了解される。本資料は、北海道庁寄託本であって、そもそも『北海道史』編纂のために収集された写本群 である。そのため表紙にも「北海道史編纂掛」の印が押されている。 本資料を手記したとされる良舩貞傳(一六九〇〜一七三一)は、訪蓮社と号し、享保期に津軽で活躍し、昆布養殖の産業 指導をしたとの伝説が残る僧侶である。さらに蝦夷地へ渡道し、ウス善光寺を中興したとされる伝承をもつ。蝦夷地への仏 教伝播を考察するうえで、貞傳の信仰は勘案されるべき問題である。また本資料によって、恐山と有珠山、津軽海峡を挟ん だ広域な霊場の形成が示唆される。これは下北半島と蝦夷地の人的往来に因んだものと考える。貞傳と慈覚大師円仁を軸と した恐山・有珠山の親和性が注目され、また同時代的なウス善光寺の略縁起作成など、両地域における人的移動の増加が宗 教的需要を生み出していったとも考えられる。 本稿では、北海道における貞傳信仰の実態を考察するうえで、『御由来』の翻刻が必要であると考え、報告するにいたった。 よって『御由来』の翻刻及び詳細な解説を付して、貞傳信仰研究の基礎資料と位置付けたい。
著者
モルナール レヴェンテ
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.109-123, 2018-12-26

約120年前に誕生したシネマと同時に,映画の理解を促すための,後ほど映画理論と呼ばれた研究分野が生まれた。その研究分野を総合的に考察した巨大な著作『Film Theory』では,トマス・エルセサーとマルテ・ハーゲネルは映画理論の最優先すべき問題を1つの問い掛けで次のようにまとめた。「映画とその観客の間には,どういった関係があるのか」。 映画と観客の関係性を把握し説明するために,作家や作品,ジャンル,あるいは映像などを中心とする分析は,むろんのこと非常に重要である。しかし,その関係をより科学的に記述することのできる理論は,90年代までに現れていない。と2人の著者が主張する。要するに映画理論で初期時代から絶えず言語学,美術史学,哲学および精神科学などが参考として確実に利用されているとはいえ,その点に関する理解はまだ不十分であるというのが現実であるという。 本稿では,1つの路線,すなわち現象学に基づく映画理論(Phenomenological film theory)からの提案に絞って観客と映画の関係性が孕む諸問題に触れたい。該当路線の先駆者であるヴィヴィアン・ソブチャックは,『The Address of the Eye』という先行研究で認知心理学の見方から出発して観客の立場を徹底的に再定義し,映画を観る行為を多感覚的体験として論じあげた。本稿でこの理論を包括的にまとめることは難しいとしても,ソブチャックの他に現象学的路線の2人の代表者,ローラ・U・マークスとジェニファー・バーカーによるテキストを精読した上で,今後の研究課題の出発点を俎に載せたい。
著者
肖 潔
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.153-166, 2021-03-31

本研究では,交感機能という語用論的観点から雑談の分析を試みた。雑談の本質を見極めるために,話し合いの本題の特徴(形式内容と機能)と対比することで雑談の特徴をとらえた。分析対象として,制度的場面に現れる雑談を選択し,雑談の表現形式と役割を考察した。分析データは東京都議会速記録2020年(新型コロナウイルス感染症対策補正予算等審査特別委員会)を使用した。 本研究では,先行研究を踏まえながら,雑談の定義と判別方法を提案し,雑談の種類及び交感発話との関係も論じた。雑談は,話し合いの本題から逸脱した,交感機能をもつ自由な談話である。雑談の判別には会話の協調原理と交感機能という二つの指標がある。そのなかで,交感機能は雑談の重要な役割であり,会話進行中の雰囲気調整に不可欠な話題であることが明らかになった。雑談の役割は有効な情報伝達をするよりも,安定的な会話状況を作ることに重点があると言えよう。会話中に雑談をすることは,会話の課題を遂行するのには役立たないが,相手と積極的に共感を形成し,近しい関係を構築することができる。とりわけ,議会のような制度的場面においては,自己開示,話の脱線などのような雑談的な発話を本題に挟むことによって,議会の雰囲気が和み,話し合いを活発に進めることができるとみられる。ただし,雑談には幅広い表現例が含まれているため,実際の用例によっては交感機能が強いものから弱いものまで漸次的に存在するのである。また,形式内容面では,雑談は本題との関連性と聞き手にとっての情報価値の有無と関係することが分かった。雑談の内容が聞き手にとって知らない可能性が高ければ高いほど,有効な雑談となるのである。本研究では,東京都議会のような制度的場面では,肩書や年齢を超えた参加者の間に,雑談はどのような形式,どのような役割をもって出現したのかを示した。
著者
趙 陽
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.205-223, 2014-12-20

『恐怖分子』(1986年)は「台湾ヌーヴェルヴァーグ」の旗手エドワード・ヤンの初期作品である。この映画は彼の集大成作品『ヤンヤン夏の想い出』(2000年)へいたる軌跡において,きわめて重要な転換点をなしている。本稿は先行研究ではほとんど分析されていない映画におけるフレームの問題に注目する。まずは自由に運動する映画のカメラという側面から出発し,本作で使われた三つのカメラの水平運動に注目する。これらのカメラの水平運動は映画の物語に寄り添いつつ,そこから独立していく。映画のカメラは人為的なコントロールから逸脱する無機的な運動を行い,その果てにある対象を切り取る。本稿はこのような水平運動するカメラのショットを分析するために,写真と関連付ける。なぜならその動きは明らかに写真的な運動だと言っていいからである。しかし『恐怖分子』のカメラは,写真機にただ附随しているに過ぎないというわけではない。本稿は『恐怖分子』の静止した映像としての写真に対する批判を明らかにするために,『欲望』という作品を参照する。『欲望』では写真機の停止=切り取りが重視されており,『恐怖分子』は写真機の運動自体を重視し,さらにその無機的な運動という性質を写真以上に貫いていく。『恐怖分子』において,切り取られた対象はやがて解体されていく。最後に,カメラの水平運動をめぐる分析を踏まえた上で,本稿は一枚の顔写真の頭部を映したショットを取り上げる。それは複数の印画紙によって構成されている登場人物の一人の不良少女の顔である。画面外から入る風によって,写真用紙は吹き飛ばされそうになる。本稿の観点から見れば,画面外から入る風がカメラの水平運動そのものである。このショットにおいて,カメラの画面外に向ける無機的な運動は映像の内部に発生する運動に変わっていく。この映像の内的な運動こそが,映画のフレームのもう一つの側面に当たる。具体的なショットの分析によって,映画特有のカメラの運動と映像の運動の性質が見えてくる。そしてエドワード・ヤンは映画を作りながら,映画というメディアに強い自意識を持っている映像作家であることが明らかになるだろう。
著者
平野 葵
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.105-116, 2014-12-20

本稿は、村上春樹『ねむり』の主人公「私」と、作中で「私」が読むレフ・トルストイの『アンナ・カレーニナ』に登場する女性たちとを、母/娘/妻としての側面を中心に比較・検討することによって、これまで女性表象に関して批判されることの多かった村上作品における、『ねむり』の位置づけ及び評価を行うものである。『ねむり』の語り手であり、息子を持つ専業主婦の「私」が直面する母性愛の揺らぎと沈黙、そして彼女が迎える暗い結末は、社会が敷いた暗黙の規範から逸脱してしまった女性の、その出口のない苦悩と恐怖とを表している。村上春樹の初期作品では、視点人物の男性には見抜けない不透明な沈黙として女性の問題が描かれており、問題そのものよりもその不可視性の深刻さを提示する傾向にあった。しかし近年の作品では、女性視点を導入し、女性に対する家庭内暴力や性暴力や、妊娠・出産などの母性に関わる問題を、可視的に描く方向へと変化している。この小説では、語り手である女性が、自身の母性愛の揺らぎを吐露しており、『ねむり』(当時は「眠り」)が発表された時期やその前後の作品の傾向から、前述の変化の転換点に位置する作品として捉えることができる。しかし手法の変化を経つつも、村上作品は処女作『風の歌を聴け』から近年の長編小説である『1Q84』『色彩を持たない多崎つくるや、彼の巡礼の年』に至るまで、初期から現在まで継続して母娘関係や母性にまつわる物語を描いてきたのであり、そしてこの『ねむり』という小説は、不眠や悪夢という極めて非現実的な設定を用いることによって、母/娘たちが抱える非常に現実的な問題を抉り出した、現代社会のアレゴリーとして機能しているのである。
著者
坪田 織江
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.63-82, 2013-12-20

本稿は,1960年代から80年代までのアメリカのパブリック・アートの具体 的事例の検討をもとに,芸術の公共性についての一見解を得ることを目的と する。この時期のパブリック・アート事例としてとりわけ象徴的なのは,1981 年にニューヨークに設置されたリチャード・セラによる彫刻作品『傾いた弧』 である。本作品をめぐり撤去論争が巻き起こり,その後の連邦政府によるパ ブリック・アート政策に影響を与えた。本稿ではこの論争に注目し,一般市 民と作品との関わりの観点から,芸術の公共性について分析・考察を行う。
著者
秋月 準也
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.93-108, 2011-12-26

本論の目的はミハイル・ブルガーコフ作品にあらわれる1920年代から30年代の「住宅管理人」像の比較分析を通して,ブルガーコフの文学世界の一端を解き明かすことである。 ブルガーコフにとって「住宅管理人」は彼の文学を日常的主題である住居と強く結びつけると同時に,幻想世界への入口としての機能も果たすようなものであった。中編小説『犬の心臓』では,居住面積の調整をめぐってプレオブラジェンスキイ教授と激しく対立していた管理人シボンデルが,教授が 生み出してしまった人造人間シャリコフを積極的に援助し,彼に正式な身分証明書と教授宅に居住する権利を与える。つまり住宅管理人シボンデルの存在が,科学によって創造される人間という『フランケンシュタイン』から受けつがれる空想科学文学の代表的な主題を20年代のモスクワに組み込むこ とを可能にしている。 また喜劇『イヴァン・ヴァシーリエヴィチ』でブルガーコフは住宅管理人をH・G・ウェルズ的な時間旅行の世界の中に描いた。タイムマシンの実験による住宅管理人ブンシャとイヴァン雷帝の入れ替わりは,20世紀のモスクワのアパートと16世紀のクレムリンの対比であり,「管理」と「統治」の対比であった。この戯曲でブルガーコフはツァーリとなったにもかかわらずロシアをまったく統治することができない管理人ブンシャを通して,アパートの管理人という革命後に生まれた無数の権力者たちが,実際には総会(общее собрание)の方針や民警(милиция)の権威に従属した存在であることを明らかにしている。また他方では,アパートを支配したイヴァン雷帝を通して住宅管理人が絶対君主としてアパートを「統治」する危険性があることも同時に示したのである。
著者
呂 晶
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.161-178, 2016-01-15

私たちが暮らす社会には,あらゆる場所に,あらゆる姿をした広告が存在 している。広告を目にせずに,一日が過ぎるということは,まずないと言っ ても過言ではないであろう。そして,私たちは生まれたときから,大量の広 告に囲まれてきており,誰もが広告を水や空気のような「存在して当たり前 のもの」と受け止めていると見ることができるように思われる。また,広告 は多種多様な媒体によって伝達されているが,本稿は,印刷媒体を使った広 告を中心に扱い,それらの広告におけるキャッチコピーを考察の対象にする。 なお,キャッチコピーの形式に注目すると,中には平叙文,疑問文,命令 文などのような文の体裁をなすものもあれば,「羊の数だけ感動があるニュー ジーランド」のような文の体裁をなさない広告表現もある。本稿では,後者 のような広告表現を非述定文と呼び,統語論と語用論の観点からこの種の広 告表現について考察する。考察の結果,広告における非述定文には,名詞か らなるものと感動詞からなるものの二種類があることがわかった。そして, 用例のほとんどは,前者の名詞からなる非述定文であることもわかった。広 告における名詞からなる非述定文は,普通の非述定文と比べて,その構造が 複雑となっており,連体修飾構造を持ったものが多い。また,広告における非述定文の発話機能に間していうと,名詞からなる非述定文は《感情表出》と《情報提示》を表すことができ,感動詞からなる非述定文の発話機能は《感情表出》であると考えられる。
著者
梅木 佳代
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.35-67, 2016-01-15

本稿は,エゾオオカミ(Canis lupus hattai)に関する従来の研究動向を概観し,個々の論点における現状の到達点と問題点を整理することを目的とする。日本国内にかつて生息していたエゾオオカミおよびニホンオオカミ(Canis lupus hodophilaxあるいはCanis hodophilax)は,どちらも明治時代に絶滅した。これら在来のオオカミに対する関心は高く,明治時代以来さまざまな形で情報の発信と蓄積が行われてきた。しかし,その内容や成果の全体が整理されまとめられたことはない。本稿では明治時代から現在までに刊行された日本のオオカミについて記述がある文献を収集し,そのうちエゾオオカミに言及する213件の文献を分析対象としてその研究史を検討した。これらの文献の内容から,従来の知見の多くが限られた事例に基づいて提唱されたものであること,その妥当性の評価が行われていないことが示された。エゾオオカミに関する研究・議論においては,北海道内にオオカミが生息していた期間の記録や情報,そして確実な標本資料の双方が非常に少ないことが常に議論の前提とされてきた。しかし,専門的・学術的な議論の中ではそうした前提をふまえた「仮説」として提示された記述が,繰り返し参照されるうちに定説と化している。また,限られた情報に基づいて提唱された知見が一般化される一方で,エゾオオカミに関する情報や資料を体系的に収集し,情報を質・量ともに拡充しようとする試みはごく一部にとどまっている。今後のエゾオオカミに関する研究では,既存の知見の妥当性の評価が求められると同時に,検討対象とするべき情報や事例の数を増やすことが優先的に目指されるべきである。
著者
王 玉輝
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.173-186, 2016-12-15

本稿は、中国映画における分身の表象およびその歴史的展開について、欧米の映画理論とその他の諸言説に関わらせながら史的に考察することを課題とする。まず中国映画史を軸に、一九四九年までの民国期、一九四九年から文化大革命が幕を閉じる一九七六年までの共和国期、文革後から今日に至る改革開放期という、中国近現代史の流れに沿った三つの部分に分けつつ、中国映画における分身表象のそれぞれの相貌を捉え、その歴史的展開を描き出す。次に、中国の第四世代の監督黄蜀芹による『舞台女優』(人鬼情、1987)を取り上げる。本稿では、「重層的な鏡像と分身」、「反復と分身」、「フェミニズムと分身」といった諸点に絞りつつ、同作品を具体的に考察するが、このことを通して、中国映画史の研究分野において分身論の視点による映画史の再構築を目指したい。
著者
翁 康健
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.197-216, 2022-01-31

本稿は,民俗宗教研究と華僑華人研究の分野に位置付けられ,タイの社会的・宗教的文脈から,タイの華人宗教の動態を把握したうえで,脱共同体社会における民俗宗教のダイナミズムを見出すことをめざす。具体的には,民俗宗教はいかに社会の産業化・都市化に対応できるのかを考察する。そこで,本稿はタイにおける華人宗教の動態を取り上げる。タイにおいては,産業化・都市化への対応として,宗教実践に新しい現象が現れている。その中で,華人系以外のタイ人でも華人宗教施設を訪ねることが多くある。こういった華人宗教は,血縁,地縁に基づく華人社会を越え,タイの都市化・産業化社会に対応していると考えてよいだろう。では,そういった華人宗教は,タイの都市化・産業化に対してどのように対応しているのか。またどのような社会的意味を持っているのか。その問いに対して,本稿は華人系以外のタイ人も普遍的に実践している「ゲイ・ビーチョン」(厄払いの儀),「ギンゼイ(齋)」(ベジタリアン・フェスティバル)という2つの華人宗教の儀礼に焦点を当てた。その結果,都市化・産業化への対応として,ゲイ・ビーチョンは100バーツ(約350円)の冊子を購入することで,簡単に厄払いの儀を行うことが可能となっている。また,齋料理を食べて過ごすギンゼイは健康のためだけのものではなく,個人の修養として取り上げられる。このように,「ゲイ・ビーチョン」と「ギンゼイ」という華人宗教儀礼は,華人のエスニシティ,および血縁,地縁を越えて,消費パッケージ化および,禁欲的な修養によって,産業化・都市化社会における宗教儀礼実践の個人主義化に対応しているとみられる。そして,タイの華人宗教のような脱共同体的な民俗宗教は,共同体に依存していなく,かつ都市生活様式への個人実践に対応できることにより,ホスト社会に広く受け入れられることが可能となると考えられる。
著者
宮﨑 勝正
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.51-71, 2021-03-31

遊びとは,誰もが知っている身近な経験である。遊びは楽しみや歓びをもたらしてくれるだけでなく,私たちの生の一部として重要な役割を担っていると考えられている。しかし,遊びを扱う諸研究においては未だに,遊びがそもそもどのような現象であり,それ以外の活動からいかに区別されるのか,といった本質的な問題に対して十分な説明が与えられていない。遊びの本質を捉えるような説明は,いかなる視点と方法によって可能だろうか。本稿はホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を批判的に検討することからはじめる。ホイジンガによる遊び自体の定義と,それに基づく文化因子としての機能についての説明を概括する。続いて,ホイジンガが遊びと見なしている具体的な文化活動の例をいくつか取り上げ,遊びであるという説明がいかなる論拠に基づいて行なわれているのかを見ていく。そのなかで,ホイジンガの遊戯論における二つの問題点を明らかにする。一つは,遊びを内から見るか外から見るかの二つの視点が混在していることである。もう一つは遊びを遊び自体の特徴から説明するか文化因子としての機能から説明するかの二つの説明方法が錯綜していることである。ホイジンガ批判を踏まえて,遊びの機能を扱う研究と,遊び自体を扱う研究をそれぞれ概観する。まず,遊びに想定された機能を5つに大別して簡単に見渡し,機能を中心問題とする議論では,遊び全般に当てはまる一貫した説明を行なうことが難しいことを示す。次に,遊び自体を扱う議論としてアンリオと西村の遊戯論を挙げ,要点を整理する。遊び自体を扱う議論は,あらゆる形式の遊びに対し包括的な説明を与えうる。しかし,アンリオと西村の遊戯論は遊び自体の本質を十分に説明しきるものではなく,より詳細な分析の余地を残していることを示す。最後に,遊びの本質に迫るための視点と説明方法について考察する。人が遊びを本来的な姿で見出すのは,遊び手として現に遊んでいるときではないか。直の経験としての遊び自体こそ遊戯論の目指すべき対象であるという考えを提示し,遊び研究における遊び手の視点に基づいた遊び自体の分析の必要性を主張する。