著者
清水 颯
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.237-251, 2022-01-31

本稿では,義務づけ(obligatio / Verbindlichkeit)の根拠をめぐる18世紀ドイツ倫理思想を,完全性(perfectio / Vollkommenheit)との関連から考察する。完全性を実現するよう自らを義務づけるという発想を倫理学の原則として採用するのは,18世紀のドイツ倫理思想においては常識的見解だったからである。例えば,当時の講壇哲学を席巻していたヴォルフ学派の倫理学においては,完全性を求めることが倫理学の基本原理となっている。ここでは,三人のヴォルフ学派の思想家を取り上げる。 ヴォルフはライプニッツから多大な影響を受けながら,「多様なものの一致(Zusammenstimmung)」と定義される完全性を倫理学の中心概念へと据えた。完全性へと向かっていくよう努力することが人間には義務づけられており,それは自らの自然本性によって要求されるために,義務づけの根拠は「自然の法則(Gesetz der Natur)」となる。それゆえ,完全性へ努力する義務は「自己自身に対する義務」であると明確に打ち出しているヴォルフは,カントの義務づけ論の始祖とみなすことができるだろう。 その次に取り上げるモーゼス・メンデルスゾーンは,理性によって洞察される完全性を求めることを原理としたヴォルフ的な理性主義的完成主義の枠組みをほとんどそのまま採用している。しかし,理性だけではなかなか行為へと動かされない人間のあり方を鋭く見抜き,感情的側面と蓋然性を積極的に評価する点で,メンデルスゾーンの倫理学はヴォルフの倫理学とは異なっていた。 三人目として,カントが直接的に影響を受けていたバウムガルテンを取り上げ,完全性へと義務づけられるとはどういうことかを『第一実践哲学の原理』に則して紹介する。その際,カントによってバウムガルテンの著作に書き込まれた記述や講義録から,カントのバウムガルテンへの批判点にも注目する。最後に,カント以前の義務づけ論がカントへ流れていった形跡に簡単に触れることで,18世紀ドイツ倫理思想史の一側面が明らかにされる。
著者
平井 知香子
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.165-184, 2012-03

イタリアを舞台としたサンドの『スピリディオン』には、ヴェネツィア出身の版画家ピラネージの《幻想の牢カルチェリ獄》を思わせる一場面がある。修道士アレクシは教会の創始者スピリディオンの秘密を知るため、深夜教会の地下埋葬所に階段を降りていく。ゴチック式教会の内陣に彼が見たものは、司祭たちによる殺人であった。この階段のイメージは、ミュッセが翻訳した、ド・クインシーの『阿片吸飲者の告白』中にあるピラネージの《幻想の牢カルチェリ獄》に関する記述と共通している。またミュッセは螺旋階段を下降するピラネージ的幻想を自身の『世紀児の告白』の中に何度も使用している。子供のころ、祖母の書斎でピラネージの版画集を見て以来イタリアに憧れるようになったサンドは、『世紀児の告白』を読んで影響され、『スピリディオン』の階段を下降する場面を描いたのではないか。以上のことを明らかにしてみたい。
著者
白水 大吾
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.1-16, 2019-12-20

現代美学にとってカントの『判断力批判』が今もって最も重要な参照点の一つである理由は,そこで展開されている美的判断の分析が先鋭的であることによる。本稿では,私たちが美的判断を行うために欠かすことのできない能力である反省的判断力の分析を,『判断力批判』のテキストに基づいて行う。本稿は6節からなる。第1節と第2節ではカントの美的判断の分析について,よく知られている4つの特徴を紹介する。第3節では,『判断力批判』における最も重要な箇所の一つである「有機体論」について,それが本稿で主題的に扱われない理由を述べる。第4節では,反省的判断力を論じるに先立ち,判断力一般について規定する。第5節では,カントが「反省的判断力のアンチノミー」と呼ぶ問題を提示する。このアンチノミーを適切に解釈できるかどうかが,反省的判断力の解釈が妥当であるかどうかの一つの基準となりうる。最後に第6節では,まず反省的判断力がどのような能力であるかということを提示したあとで,反省的判断力のアンチノミーの再解釈を通じてこの理解が適当であることを示す。そして,反省的判断力の理解を得ることによって,美的判断についても一つの妥当な見解を得ることができるということを主張する。
著者
大野 裕司
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.35-53, 2006-12-20

日本の陰陽道研究の成果として、近世以来、混亂のあった禹歩と反閇の關係について、禹歩は、反閇を構成する呪術の一つに過ぎず、反閇はその他の呪術をも含む一連の儀式であることが明らかになった。また、近年の若杉家文書『小反閇作法并護身法』(1154年) の發見と公開(村山修一編『陰陽道基礎史料集成』東京美術、1987年)によって、これまで江戸期の資料に據るほかなかった反閇の儀式次第について、平安期に実際に行われていたと考えられる陰陽道の反閇を知ることができるようになった(ただし、小反閇は、數多くある反閇儀式の一つに過ぎない)。 近年の陰陽道研究の成果として特に重要なことは、陰陽道における反閇は、中國における「玉女反閉局法」に由来するということを明らかにしたことであろう。しかしながら、これまでの陰陽道研究において、玉女反閉局法は、小坂眞二氏らによる『武備志』、酒井忠夫氏による『太上六壬明鑑符陰經』の紹介があるに過ぎず(玉女閉局法はこの二書意外にも、數多くの遁甲式占の書などに記載される)、またその紹介も、部分的なものである。 筆者は先に、秦代の出土資料である睡虎地秦簡『日書』に見える、出行の凶日にどうしても出行しなくてはならない時に行う儀式(この儀式には禹歩を伴う)について檢討し、また、この儀式の明清時代に至るまでの變遷についても言及した(「『日書』における禹歩と五畫地の再検討」『東方宗教』第108號、2006年)。その際、玉女反閉局法の儀式次第が見える最も古い文獻『太白陰經』を紹介し、かつ該書に載せる玉女反閉局法には禹歩が見えないことを指摘した。 筆者前稿では、紙數の都合により玉女反閉局法については十分な紹介と検討を行うことができなかった。そこで、本稿では、玉女反閉局法を考察するに當たって、最も古いものである『太白陰經』に見える玉女反閉局法について、これと内容的にほぼ同一の『武經總要』の玉女局法を用いて初歩的な校勘を試み、また後世の玉女反閉局法の基礎となったと考えられる『太上六壬明鑑符陰經』と『景祐遁甲符應經』の玉女反閉局法についても初歩的な校勘を試みる。
著者
河野 友哉
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.39-51, 2021-03-31

三善清行が延喜七年に著した『藤原保則伝』は、地方官として備中・備前・出羽・大宰府などで活躍した〝良吏〟藤原保則の事績を記す、漢文体の伝記である。従前の研究史においては、作品の叙述は主として〝良吏〟保則の側から分析されることがほとんどであったが、作中にはその対極にある〝悪吏〟も描かれていることに注目し、その〝悪吏〟を俎上に載せようとするのが本稿である。かかる〝悪吏〟の描写を、先行研究にも拠りつつ具体的に検討してゆくと、わずかな罪や不法行為にまで目を光らせて恐怖政治を行う者や、私利私欲を満たすために苛酷な徴税に走る者など、まさに〝悪吏〟と呼んで然るべき悪政の様子が看取される。前者はその恐怖政治を以てしても何らの功も上げ得ず、儒教的な徳治では当然無いが、律令的な法治とも到底言い難いものであり、後者はその強欲さ・貪欲さという一点において、一〇世紀初頭に新たに立ち現れてきた「受領」に近い存在と言うべきであった。そして、いずれの場合においても、〈国司の個人的な素養や道徳性の如何といった属人性が問われなくなっていった〉という社会変動がその背景に潜んでいるように思われる。かように考えてみると、本稿で取り上げた〝悪吏〟たちは、古代的地方支配の要であった国司の属人性が無効化されていった時代を象徴する存在として描かれており、その点にこそ彼ら〝悪吏〟たちの意義が求め得るのではなかろうか。その上で、作者清行は、漢籍の表現に範を取りつつも単なる断章取義に留まらず、当時の我が国が直面していた〝古代的地方支配の不可能性〟という問題の一端を『保則伝』のテキスト上に具現せしめたのだ、と言うことも決して不可能ではないのである。
著者
劉 暁苹
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.179-194, 2016-01-15

日本語では,未完結の形を通して表現することによって,様々な伝達の効果を目指すストラテジーの一つである未完結の発話が選好されている。本稿は,形式上は未完結でありながら,意味機能が完結しているような従属節のみで終わる発話を言いさし文と定義し,新たな構文としての言いさし文の形成過程と構文特徴を明確にする。 まず,先行研究に基づき,従属節のみで終わる発話の用語を整理した上で,言いさし文という表現の使用を規定し,その定義づけを行う。そして,構文形成の要因によって,言いさし文を「意味論的な省略による言いさし文」「語用論的な省略による言いさし文」「付加による言いさし文」の三種類に分けた上で,本稿の考察対象を「意味論的な省略による言いさし文」に限定する。 最後に,意味論的な省略による言いさし文は,表現の慣習化や文法化によって生まれたものが多いので,典型的な定型表現の例として,「なければならない/なくてはならない」の省略による「なきゃ/なくちゃ」言いさし文,「ないとならない/いけない/だめだ/困る」の省略による「ないと」言いさし文,「たら/ばどう」・「たらどうしよう」・「たら/ばよかった/いいのに」の省略による「たら/ば」言いさし文,「って言った/聞いた」の省略による「って」言いさし文を詳しく考察する。
著者
野村 浩子 川﨑 昌 Hiroko Nomura Sho Kawasaki
出版者
淑徳大学人文学部紀要委員会
雑誌
研究論集 (ISSN:21895791)
巻号頁・発行日
no.4, pp.13-24, 2019

我が国では、女性管理職登用において先進国のなかで大きな後れをとっている。先進諸国の多くが3割を超えるのに対し、日本の女性管理職比率は2017年度時点で11.5%にとどまる。女性管理職育成を進める企業がぶつかる壁として、ジェンダー・バイアスが指摘されている。そこで、本研究では、組織リーダーに望まれるものと、成人男性・女性に望まれるものの関係を探ることで、ジェンダー・バイアスが女性管理職登用に与える影響を探る。大手企業25社に勤める2527名から得たアンケート回答を分析した結果、組織リーダーは望ましさの程度が似ている男性向きで、女性にはふさわしくないというジェンダー・バイアスが存在することが示唆された。さらに、ジェンダー・バイアスは、男性に比べ女性回答者により強い傾向がみられた。こうしたジェンダー・バイアスにより、女性が管理職になることをためらう、また組織内でも女性は登用にふさわしくないとみなされる可能性がある。
著者
榎本 亮子
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.15-36, 2014-12-20

本研究は,世界自然遺産小笠原諸島における生態系保全活動に関わる人々と動植物の関係性の変遷を追うことにより,保全の現場における「自然―文化」の協働のプロセスを描き出すことを目指すものである。小笠原諸島をはじめ生態系保全の現場では,しばしば「外来種」や「固有種」,「在来種」といった「種」の分類法に基づいて保全が行われる。本論は生物学的,生態学的にしばしば自明のものとされるこの「種」の概念に着目し,その曖昧さと生物分類上の恣意性を踏まえたうえで,「生態系」および「生態系保全の現場」をどう捉えるかについて論じた。その捉え方として提示したのが,「自然―文化」の協働のプロセスとして現場を捉える視点である。生態系保全の現場では,人間は自らを含む生態系のなかで対話的に認識を得ながら実践を進めていく。そこで生まれる関係性は,保護や駆除の対象とした「種」で境界づけられた動植物との関係性だけではない。人間は,生態系という個々の生物たちのあいだで絡み合う複雑な関係性の網の目に,予期せず埋め込まれていく。個々の人間と動植物が,生態系保全の実践を通して「自然―文化」の直接的な関わり合いの中で出会い,多様な関係性を築くことによって,現場では,ときには「種」の枠組みを越えた認識と関係性が生まれ,ときには自然遺産登録された小笠原諸島の地理的な境界を越えた「生態系」の広がりを見せる。このような生態系保全の現場は,「自然―文化」のハイブリッドであり,多様な「自然―文化」が織りなす協働のプロセスである。また,小笠原諸島は遺産現場でもある。「自然―文化」が協働で現場をつくり変化することを前提とした,「自然―文化」の協働のプロセスという考え方は,自然遺産か文化遺産かの区別なく遺産現場を捉え得る「リビングヘリテージ」の観点に通じるものである。この観点から自然遺産現場である小笠原諸島を捉えると,小笠原諸島もまた,「リビングヘリテージ」の側面を持っているといえよう。
著者
大山 隆子 大山 隆子
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.135-155, 2017-11-29

接続助詞「し」の規範的用法は「並列」を表し「この町は自然が多いし,きれいだし,便利だ。」のような使用である。しかし,最近,若者を中心に「きれいだし。」のように「従属節し。」のみで終わる使用が観察される。このような従属節のみで終わる現象は白川(2009)では,「言いさし」の現象と呼ん でいる。これらの「し」は,先行研究で述べられている「し」の用法の中の「婉曲的用法」とは異なり,話し手の強い伝達態度を表す機能を持つものと考えられる。本稿では,先ず「し」の統語的特徴について述べ,次に「し」の語用論的機能について考察する。また「し」と出現位置が似ている終助詞の「よ」と接続助詞の「から」が談話の中でどのような語用論的機能を持つのか比較分析する。 考察の結果としては,「し」は「理由」となるものが複数存在する時は「~し~し~。」と「並列」を表し,また「~し,(~,~)」のように「非並列」の場合は,複数の理由の存在を暗示できる。また「理由」を(実は)一つしか持たない場合は,「~し。」の形で打ち止め,あたかも理由が複数あるかの ように示す談話効果を持つと考えられる。 また「し」,「よ」,「から」は談話標識として「発話する情報についての話者自身の伝達上の態度を示す」機能を持つと考えられる。「し」は「発話内容については判断済みの態度であり,「聞き手への受容要求」については,考慮しないが,効果を示せる。聞き手あるいは,周りと同一認識状況では使用しにくい。反論に使用できる。」などの特徴があると考えられる。 また比較対象とした終助詞「よ」の機能を分析すると,その違いは大きいと言える。「よ」はもともと終助詞であり,「聞き手との関係において」用いられるが,「し」は「変更の可能性がない結論を聞き手に表明する態度である」と言える。「よ」はまた,談話管理は話し手が行い,相手と話す態度を残している。「聞き手への受容要求」があり,聞き手あるいは,周りとの同一認識状況でも使用できる。 次に接続助詞「から」との比較であるが,二つは同じ接続助詞の種類であるが,「から」は「論理関係標示接続」であり,「し」は「事実関係認識標示接続」である。この違いから,「から」は前件で確実な根拠・理由となり得るものを挙げ,後件での行動を促す機能を持つ。一方「し」は論理関係ではなく,話し手が認識した事実をつなぐものである。「言いさし」になっても,これらは二つの違いとなって表れているものと考える。
著者
郭 莉莉
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.213-230, 2011-12-26

近年,少子化への関心が高まっている。各種メディアでも度々特集が組まれ,各政党のマニフェストには少子化対策が多く盛り込まれてきた。このような少子化動向への対応の高まりは,日本国内のみで起きていることではない。西欧などの多くの先進国も同じような問題を抱えており,さまざまな政策が取られている。このように,少子化動向は世界の先進国と中進国を問わず,問題になってきた。 とりわけ,日本では,少子化がますます進み,人口減少に歯止めがかからない。これまで政府主導による「新旧エンゼルプラン」「少子化対策プラスワン」など,各種の少子化対策が積み上げられてきたが,社会全体の少子化傾向は止まらない。本稿では,日本の少子化の現状,原因,影響を考察して,日本における少子化対策の問題点究明を試みる。少子化の進行は将来の日本の社会経済にさまざまな深刻な影響を与えると懸念されるが,反面で日本社会のあり方に深く関わっており,社会への警鐘を鳴らしていると受け止められるからである。 少子化を克服した先進国フランスは,近年少子化に悩んでいる日本でもその実情が広く知られるようになった。フランスにおける対応のうち優良事例を検討することは,日本で少子化対策を進めるうえでも,一定の意義がある。
著者
池田 誠
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.21-33, 2010-12-24

本稿では、ジョン・ロールズの『正義論』における功利主義批判のキーワード「人格の区分の重視(taking the distinction between persons seriously)」について考察する。ロールズによれば、功利主義やそれが提案する道徳原理である功利原理は現実の人々の「人格の区分」を重視しない。この批判は、功利主義は全体の功利の最大化のためなら平等や公正な分配を無視した政策でさえ支持するという政策・制度レベルの批判ではない。むしろこれは、功利主義は功利原理の各人への「正当化」および正当化理由のあり方に対し無頓着であるという、道徳理論・方法論レベルの批判である。ロールズによれば、功利主義は人格を、「不偏の観察者」という想像上の管理者によって快い経験や満足を配分されるのを待つ単なる平等な「容器」のようなものとみなす。だがロールズによれば、われわれの常識道徳は、人格を、自らに影響を与える行為・制度に対し、自らの観点から納得の行く正当化理由の提示を請求する権利を持つものとみなしている。この各人の独自の観点や正当化理由への請求権を認めること、これこそが「人格の区分」を重視することにほかならない。 以上の事柄を『正義論』での記述に即してまとめたのち、私は、アンソニー・ラディンによるこの批判の分析・論点整理(Laden 2004)に依拠し、ロールズ自身に向けられてきた「人格の区分の軽視」批判が、ロールズ正義論の全体を把握し損ね、近視眼的に眺めてしまうがゆえの誤りであることを示すとともに、ロールズの「人格の区分」批判の論点が功利主義の根底に潜む「非民主的」性格にあったことを明らかにする。その後、結論として、ラディンの分析に対する私なりの考えと異論を述べるとともに、ロールズ正義論が現代倫理学において持つ意義について触れたい。
著者
髙橋 小百合
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.85-100, 2016-12-15

本論文は、明治期における木戸孝允と幾松に関する言説を、二人の関係性の描写から分析し、同時代の男女交際論等、男女関係についての思潮をふまえながら、文化史中に占める二人の描写の位置および意義について考察したものである。論者には『日本近代文学会北海道支部会報』一九号掲載予定の別稿「<木戸孝允>像の生成」があり、そこでは木戸孝允が死去から明治末年までのあいだ、どのように語られていったのか、その変容と文脈パターンについて論じた。本論文では、そこで見出した六つの文脈パターンのうち、以後、大正、昭和期とより重要性を濃くするであろう<木戸と幾松> <幾松あっての木戸>について一歩踏み込んだ論を展開したつもりである。本論文の第一章「木戸表象の傾向と類別」は、木戸を語る文脈パターンについてまとめ、右の別稿の内容を引き継いだかたちである。よって、本論文の核は第二章以降にあるといえる。幾松はなぜ、木戸を語る言説のなかで存在感を増し、大衆的歓迎をうけたのか。第二章では、木戸と幾松の関係が、近代的恋愛の文脈に読み替え可能であることを論じ、同時に、幾松の芸妓という出自に着目して、近代と前近代の微妙なあわいに、ふたりの「恋愛」があることを明らかにした。第三章は、一方で二人の関係表象がもつ「復古」性について論じている。「王政復古」「一君万民」のイデオロギーとからめながら、<尊いから尊い>カミの論理で語られる木戸と、太古、国運を占う巫でありえた(元)芸妓幾松との関係が、国生み神話に準ずる「復古」の国づくりを表徴しうると指摘した。幾松あることによって、木戸のイメージは①愛妓とついには恋愛結婚を遂げた②<勤王の志士・桂小五郎>として定型化していく。それは同時に<近代>化と<復古>の二律背反、あるいは混淆を示す営為でもある。これこそ、日本の<近代化>の姿そのままであり、本論文のもっとも強調しておきたいところである。
著者
喬旦 加布
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.103-136, 2012-12-26

チベット人地域のうち,本稿ではチベット高原東北のアムド
著者
毛利 雅子
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.97, pp.225-236, 2013-03

アメリカやオーストラリアなどの通訳研究先進国では、法廷通訳人の役割、法廷内でのクライアントとの物理的位置、またクライアントの権威や権力がコミュニケーションに与える影響などに関する研究が既に進んでいる。しかし、裁判所をはじめとする法廷参与者は、依然として通訳人を単なる「言語の置き換えマシーン」と認識しているのが現状である。日本の法廷通訳人は1人で最大6人のクライアント(通訳を必要とする立場)に対応しなければならず、「言語の置き換えマシーン」としての状況はさらに厳しいものとなっている。 本研究ノートでは、Goffman の参与フレームワーク、Fairclough のゲートキーパー的役割論、Gallois らのコミュニケーション調整理論をベースに、日本とアメリカでの法廷レイアウトを用いて、日本における法廷通訳人の現状を分析すると共に、今後の課題を提示する。
著者
安川 慶治
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.99, pp.169-182, 2014-03

R.シューマンの音楽には、音楽そのものの異常さの喩であるような、なにか異常なものがある。ロマン主義の他の作曲家たちと異なって、シューマンの作品の中心にあるのは、主観的な語りではなく、主観的なものの成立そのものを、たえず音楽によって捉え返そうとする強迫である。シューマンの最良の作品の多くに感じ取られる独特の感興-主観的なものの無根拠=深淵を垣間見せる凄みとでも言うべきもの-は、蓋しそこに淵源する。 本稿は、こうしたシューマンという特異点において「音楽とは何か」という問いを問うための予備的な試みとして、彼のピアノ曲の傑作のひとつ《幻想曲》(op.17)の第1楽章を取り上げ、簡単な作品分析によってその異形性を明らかにし、そこに露呈されるものを考察する。
著者
岡田 啓
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.86, pp.113-131, 2007-09

「学校に行く」の英訳はgo to school, leave for school, set off to school, get to school など何通りもある。脈絡によって,これらの中の最も適当なものが選択される。換言すれば,特定の脈絡を英語という言語でいかに切り取るのかをわきまえておかねば,正しい英語表現とはならない。上記のフレーズのうちどれを選ぶかはしばしば副詞との共起の中で決定される。その考慮をしない日本人の書く英語が不自然になる一大原因は正にここにある。例えば I go to school on week days. とは言えても,I go to school at 9 o'clock. はかなり曖昧な表現で,きちんとした正確な英語とは言い切れない。日常のカジュアルな表現としては,使用される状況より判断して「学校に向けて家を出るのが9時だ」と解釈できないことはない。しかし,英米のジャーナリスト・作家などは,大抵 I [left for / got to] school at 9 o'clock. のように,出発時を言うのか到着時を言うのかを指定している。この小論では,「学校に行く」という表現がいかなる副詞とどのような結び付きで用いられるのか,またそのとき,どのようなニュアンスで用いられているのかコーパスを用いて探り当て,具体例を挙げて用法を検証する。
著者
田村 直樹
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.39-54, 2013-09

本稿の目的は、社会学のエスノメソドロジーに依拠した質的方法によって、定量調査やインタビューといった方法では十分に見いだせない消費の問題を探求し、商品開発に活かせるアプローチを提示することである。このアプローチをテクスト連接分析と呼ぶ。これは、消費者本人の語りおよび周囲の語りをもヒアリングし、それぞれがどのような語りの連接をしているのかを分析するものである。アンケートの数字には表れない水面下の消費者の購買心理パターンを解明するためには、消費者個人の消費傾向を見ていく必要がある。特に、消費者本人が商品に対してどのような語りをしているのか、周囲の人々がどのようにその人物を語るのか、という「語り(テクスト)」を分析していくことを重視する。こうした質的調査を商品開発に活かすことで、マーケティング競争のための筋書きを描く新たな可能性が提示できると考えられる。
著者
周 菲菲
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.85-102, 2012-12-26

グローバリゼーションが進む中,人,モノや情報がいわゆる「時間と空間の圧縮」(Harvey,1989)を経験している。そこで,グローバルで脱領土的な社会生活が生まれるとされるが,その最も顕著な例は観光である。現在,インターネットのグローバルな普及によって,双方向性の情報コミュニケーション革命が発生し,観光者は受動的な客体ではなく,観光を「制作」する主体ともなっている。観光イメージやヒト,モノがグローバルな科学技術と連動して越境する,こういう観光の複雑なメカニズムや出来事を解き明かす為には,インターネットについての質的なアプローチが要請されている。そ こで,筆者は本稿でまず中国人観光についての研究におけるインターネットの重要性を論じ,従来の観光研究におけるインターネット研究をレビューし,更にオンライン・インタビュー,バーチャル・エスノグラフィー,焦点インタビューといった質的オンライン研究のいくつかの手法を取り入れ,北海道への中国人観光者を考察した。本研究により,インターネット時代の観光研究に新たな方向性を示したい。