著者
夏目 宗幸 安岡 達仁
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.15, no.2, pp.189-199, 2020 (Released:2020-07-01)
参考文献数
35
被引用文献数
1 1

千町野開発は,武蔵野台地における初期新田開発の一例であることから,地理学上の新田開発研究のモデルケースとして,これまで種々の学説が提唱されてきた.それらの研究は,対象地の計画地割や土地利用,土地生産力,あるいは土豪名主の役割規定などの視点から千町野開発の実態を把握しようと試みているが,幕府の具体的関与の実態について言及していない.本研究はこの点に着目し,千町野開発におけるその実態を明らかにするために,千町野に移住した武家集団の詳細な来歴を調査した.その結果,千町野に移住した武家集団は,三つの職能集団すなわち,1)代官・代官手代の集団,2)鷹狩・鷹場管理を専門とする集団,3)測量・普請を専門とする集団に分類できることが明らかとなった.これにより千町野開発は,幕府技術官僚としての職能武家集団の関与によって遂行されてきたと結論付けた.
著者
門村 浩
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.205-228, 1988-02-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
179
被引用文献数
1 1

This paper reviews geographical studies of desertification, one of major global environmental issues in this century, in a historical perspective. Mention is made of the present status and future tasks of Japanese studies on this topic. Studies of desertification can date back to the early 20th century when a debate on the question of “progressive desiccation” and “desert encroachment” on the southern margin of the Sahara was of major concern among French and English geographers. Among others, following two scientists must be noted as the founders of desertification.studies: E. P. Stebbing (1935), English forestry professor who first stressed the spreading of desert conditions and the role of man in environmental deterioration, and A. Aubreville (1949), French ecologist and plant geographer who first used the term “desertification” in his book and persisted in his opinion of the creation of desert-like conditions due to human activities. Since the early 1970s, when the “Drought in Africa” reached its first culmination, studies on desertification issue, including those by geographers, have been accelerated. The U. N. Conference on Desertification (UNCOD) held in Nairobi in 1977, with the “Drought in Africa” in the backdrop, had drawn the widespread attention of the public and scientists. The activities of world geographers, in particular those organized in the IGU Working Group on Desertification in and around Arid Lands (1972-80), had served great deal in the preparation of the UNCOD and the Plan of the Action to Combat Desertification (PACD), the major product of the UNCOD, by presenting background documents and case studies. Since 1980, international cooperative research on arid lands within the IGU has been succeeded by the Working Group on Resources Management in Drylands. Recent activities of geographers in and outside of the Working Group have contributed to the implementation of and the assessment of the progress of the PACD. One of the recent trends in the desertification studies is the prevalent attention to the geopolitical approach to the problems of poverty and famine, and the transfer of strategies to combat desertification applied in one region to other regions. In Japan, overseas research in and and semi-arid lands began as early as the mid-1960s, but the attention to the desertification issue by geographers did not grow until the early 1980s. However, a number of studies in the and to humid regions of the world by Japanese geographers have been more or less related to the desertification phenomenon in a broad sense, i, e. soil erosion, vegetation degradation, water logging and salinization of irrigated lands, etc. With the “Crisis of Africa” resulting from the second culmination of persistent drought and desertification in the early 1980s in the background, the above studies were brought together into the Symposium on the Geography of Desertification held in September 1986. The papers presented at the symposium and published in this special issue have revealed rapid progress in the desertification studies in Japan in the last years. However, Japanese studies are still young, and following should be reinforced for further development of desertification studies. 1) Clima.tological and meteorological studies on the causes and effects of drought at various scales. 2) Comparative studies between regions under different climatic conditions as well as under different political and socioeconomic conditions. 3) Studies of human aspects in relation to the problems of poverty, population growth, famine, energy supply, etc.
著者
井村 博宣
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.62, no.9, pp.615-635, 1989-09-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
18
被引用文献数
2 1

近年,わが国におけるアユ養殖業の発展は,一方において養殖地域の再編成を伴いながら進行している.そこで本稿では,全国最大の産地,那賀川平野のアユ養殖地域を事例に,地域分化の形でみられる再編成の実態とその要因を総合的視野から検討した.結果を要約すると以下のとおりである. 那賀川平野におけるアユ養殖地域は, 1964年以降産地化を進め,共撰共販体制下で生産性を飛躍的に高めて,全国最大の産地に発展してきた.しかし,この発展は産地全体に一律にはみられず,自然的・社会的条件の違いに基づいて,地区ごとに地域差が生じた.すなわち,那賀川平野のアユ養殖業は,産地形成の当初段階から,地下水が豊富な旧河道の有無に基づく左右両岸での経営形態の地域差を生じていた.その後,主産地形成事業に伴う支部制共撰共販体制の導入は,経営形態の地域差をより拡大化・固定化すると同時に,左右両岸での流通組織の地域差も顕在化させていった.第一次石油危機以降,生産費の高騰とアユ卸売価格の低下で,経営規模の内面的拡充による生産費の軽減がより重要視されるに至った.その結果,基本的に養殖業を支えている水条件の優劣が,経営の収益性を通して黒字・赤字地域という2つの地域分化を促すことになった. 以上に述べた,経営形態・流通組織・収益性を指標にして那賀川平野におけるアユ養殖地域を区分すると,左岸上・中・下流部,右岸上・中・下流部の6地区に類型化できる.なお,地域分化を規定する主たる要因としては,水条件(主要因)と流通組織(副次的要因)の2点を指摘することができる.
著者
中澤 高志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.88, no.1, pp.49-70, 2015-01-01 (Released:2019-10-05)
参考文献数
32

本稿では,高度成長期の勝山産地において,「集団就職」が導入され終焉に至るまでの経緯を分析する.進学率の上昇や大都市との競合により,労働力不足に直面した勝山産地の機屋は,新規中卒女性の調達範囲を広域化させ,1960年代に入ると産炭地や縁辺地域から「集団就職者」を受け入れ始める.勝山産地の機屋は,自治体や職業安定所とも協力しながらさまざまな手段を講じ,「集団就職者」の確保に努めた.「集団就職者」の出身家族の家計は概して厳しく,それが移動のプッシュ要因であった.勝山産地の機屋が就職先として選択された背景としては,採用を通じて信頼関係が構築されていたことが重要である.数年すると出身地に帰還する人も多かったとはいえ,結婚を契機として勝山産地に定着した「集団就職者」もいたのである.高度成長期における勝山産地の新規学卒労働市場は,国,県,産地といった重層的な空間スケールにおける制度の下で,社会的に調整されていた.
著者
前田 一馬
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2018年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.000322, 2018 (Released:2018-06-27)

Ⅰ.研究の背景と目的 本研究は長野県北佐久郡軽井沢を事例として、明治期における陸軍の脚気転地療養地として当該地が利用されたその実態と経緯を明らかにする試みである。 一般的に転地療養地と見なされてきた場所は、古来温泉地であったが、近代化とともに新たな環境が転地療養に適した場所として見いだされてきた。典型的には、明治期に海水浴場が、大正期に結核サナトリウム治療の適地としての高原が、西洋医学的な環境観の導入とともに、新たな療養地になったものと理解されてきた。 しかし、陸軍脚気療養地の実態を検討すると、早くも明治10年代には「高原」(高地)が陸軍の脚気転地療養地として見出されていた。日本の医学が漢方医学から西洋医学へと転換していくなかでも、脚気の治療法は、日本で知られていた漢方の療法である転地療養が行われていた。また、その後の陸軍(細菌説)と海軍(栄養欠乏説)の対立(脚気論争)は有名である(山下1988)が、細菌説の導入に先んじて、脚気転地療養が陸軍に導入されている。このように陸軍脚気療養地として、「高原」が加えられた経緯は、どのようなものであっただろうか。 本研究では陸軍の脚気治療を取り巻く軍医本部の動向・見解および軽井沢の環境を、陸軍関連文書や新聞記事等から検討することで、医学的見解や環境認識が、「高原」を療養地にふさわしいとする契機となったことを考察する。Ⅱ.陸軍の脚気転地療養地 脚気とはビタミンB1の欠乏による栄養障害性の神経疾患である。近世後期には白米の普及と米食偏重により「江戸煩い」等の名をもって都市的な地域で流行した。脚気の流行は明治期には国民病と言われるほど流行し、徴兵制のもとで組織化が進められていた軍隊、とりわけ兵数の規模が大きい陸軍で患者数は増大した。1875(明治8)年から刊行された『陸軍省年報』によると、脚気は、「天行病及土質病」として捉えられており、陸軍各鎮台の治療実施とその経過の報告は他疾病に比べて詳細である。原因は降雨後の溢水による湿気などによって生じる不衛生な空気や土壌が病根を醸成する一種の風土病と推察されており、空気の流れや汚水の滞留を防止する対策が取られている。治療法は「転地療法奇験ヲ奏スル」と転地療養が効果をあげていることがうかがわれる。1870年代の各鎮台の主な転地療養地は多くの場合、温泉地が選択されている。つまり、患者が発生した場所(兵営)を避けることが重視されており、古来療養の場とみなされた温泉地が転地先として選ばれたと考えられる。Ⅲ.転地療養地の拡大:軽井沢にみる療養に相応しい場所 1880年代以降、陸軍の脚気転地療養地には多気山、榛名山、軽井沢といった温泉地ではない「高原」(高地)が加えられていくことになる。1881年8月、「幽僻且清涼ニシテ最モ適当」な転地先として高崎兵営の脚気患者130名が軽井沢に送られた(『陸軍省日誌』『高崎陸軍病院歴史』)。当時の軽井沢には、まだ外国人避暑地は形成されておらず、温泉を持たない衰退した旧宿場町であったが、残存する旅館が患者を受け入れることができた。後年、日清・日露戦争と多くの脚気患者の転地療養地として利用されていく軽井沢で行われていた治療法は『東京陸軍予備病院衛生業務報告(後)』によると、気候療養と記録されている。このように、高原の気候が陸軍において注目されていたことがわかる。 現代医学からみると脚気の転地療養は対処療法に過ぎず、治療法として正しくなかったかもしれない。しかし、当時の医学的知識が活用され、健康を取り戻すための療養に相応しいとされる「環境」は確かに存在した。この陸軍脚気療養地としての軽井沢は、後年の結核の療養と結びつけられた高原保養地としての軽井沢とは、異なる分脈から見出された療養(癒し)の景観であったと思われる。こうした場所が発見されていく過程に見え隠れする、当時の健康と場所の関係を、転地療養地の実態や近代期の社会的文脈性のなかで考察し、今後検討すべき課題とする。〔参考文献〕山下政三1988. 明治期における脚気の歴史. 東京大学出版会.
著者
淺野 敏久 馬 欣然
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.90, no.4, pp.376-389, 2017-07-01 (Released:2022-03-02)
参考文献数
9

自然遺産を保全し,地域づくりに活かすためにジオパーク認定を受けようとする地域が増えている.ジオパークでは,地域住民の理解と協力を得らえることが重視され,住民参加は認定の要件の一つになっている.本稿では,山陰海岸ジオパークを事例として,ジオパークに対する住民の意識と行動を,ウェブアンケート調査とジオガイド等への聞取り調査等を基に明らかにした.当地では,ジオパークは住民によく知られている.ただし,住民の関心は,ジオパークが強調する大地の成り立ちと人々の暮らしの関わりより,観光客と同様に温泉と食に向いている.また,ジオパークによる地域活性化への期待はあまり高くなく,むしろ自然保護につながるものと期待されている.ガイドはジオパーク全域よりジオサイトへの強い愛着に基づく行動をしており,ジオパーク的な情報は説明の選択肢の一つと割り切っている例もあった.
著者
福井 一喜
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.88, no.6, pp.607-622, 2015-11-01 (Released:2019-10-05)
参考文献数
34
被引用文献数
1

本研究は宿泊施設の経営戦略に着目して,群馬県草津温泉の宿泊業におけるインターネット利用の動態を,各施設の誘客,予約受付,関係構築・維持の3段階におけるネット導入の状況分析から明らかにした.結果として,大規模施設や社会組織加盟率の高い施設で導入率が高く,予約受付段階では広く導入済みだが誘客と関係構築・維持段階での導入は限定的であり,導入状況に差異が見られることが分かった.それは,情報通信技術の普及と個人旅行化が進む中,多様な個人客需要に対応する新たな経営戦略を策定した施設がネット利用をその具現化手段として積極導入して差別化を図る一方,従来の経営戦略で存続できる施設や人材や資金に余裕がなく現状維持を志向する施設はネット利用の導入に消極的なままだからである.草津温泉では,宿泊施設がおのおのの経営戦略においてネット利用を選択的に導入する中で,宿泊施設の利用形態が分化しつつある.
著者
栗林 賢
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.90, no.2, pp.137-149, 2017-03-01 (Released:2022-03-02)
参考文献数
17

本研究では,JAの合併に伴う取扱量の増大を背景とした卸売市場の集約化がどのようにして展開しているのかを,JAつがる弘前によるリンゴ出荷を対象に明らかにした.その結果,卸売市場への出荷は,産地での袋詰めや希望価格の実現性の低さなど産地側の負担が大きいものの,JA内で在庫が発生した際などに大量出荷可能な大都市の市場への量的集中がみられた.その一方で,大量に出荷することのできない市場でも価格や等階級指定の緩さといった取引上の優位性がある市場や出荷量の増加要求のあった市場への出荷は増加傾向にある.しかし,同じ少量出荷している市場でも,取引に優位性のない市場への出荷は減少傾向にある.そのような市場と多量出荷可能な市場間での出荷するリンゴの等階級の重なりが,より一層少量出荷型市場からの撤退を促し,多量出荷可能な市場への集約化を進行させていることもわかった.
著者
両角 政彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.86, no.4, pp.354-376, 2013-07-01 (Released:2017-12-05)
参考文献数
40
被引用文献数
1

本稿では,ユリ切花産地によるブランド化の実態をとらえ,その効果と課題を明らかにし,花きのブランド化の取組みが産地・生産者にもたらす意味を考察した.ユリ切花ブランド「魚沼三山」の展開において,グローバルスケールでは輸入ユリ球根調達に関わる国際的連関が,ナショナルスケールでは高品質ユリ球根の生産委託による国内産地連関と出荷等級品ごとに市場を選択する国内市場連関が,ローカルスケールではユリ切花の生産と出荷における産地内連関がそれぞれ形成されてきた.本事例では,産地が独自に開発した品種ではなくても,地域連関にみられる流通業者を通じた既存品種の調達方法の革新,球根冷蔵管理技術の開発,切花の生産過程の改良,出荷・販売過程の組織化などによって,製品差別化が実現されている.これらの取組みは,他の産地・生産者が模倣困難であるとは必ずしもいえないが,一連に結びつくことで一定の参入障壁となり,高付加価値化を可能にしている.
著者
高波 紳太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.92, no.3, pp.175-190, 2019-05-01 (Released:2022-09-28)
参考文献数
54

薩摩半島の川辺盆地周辺において,基盤地形に応じて階段状に堆積した阿多溶結凝灰岩に発達する遷急点群の平均後退速度を明らかにした.特に永里川における後退期間の大きく異なる2遷急点での結果から,最終氷期中の降水量減少が岩盤侵食速度を低下させたかどうかを考察した.現地露頭調査や掘削資料に基づく阿多火砕流堆積時の原地形の復元により,遷急点形成当初の位置を推定し,その現在までの後退距離および長期的な平均後退速度を求めた.短期的な後退速度の算出には人工の曲流短絡で生じた遷急点を用いた.結果,遷急点の平均後退速度は11万年間で2.0~2.6 cm/年,最近315年間では0.8~2.0cm/年と推定され,氷期を含む長期的な速度が温暖期に限られた短期的な速度をやや上回った.過去11万年間の薩摩半島では,気候変動に伴う河川流量,すなわち降水量の減少による岩盤侵食速度の極端な低下はなかったことが,地形学的に強く示唆された.