著者
松山 周一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

アニメやマンガなどに登場した実在の場所を巡る,いわゆる「聖地巡礼」と呼ばれる現象が登場して久しく,地域とのかかわりという観点からこれまでの間に多くの研究がなされてきた.これらの研究を整理すると,「聖地巡礼」の登場と発展の中において,次第に「聖地巡礼」を誘発させる表象が作中で意識的に施されるようになっていったということがうかがえる.<br> 本研究では,「聖地巡礼」が活発に行われている作品の表象とその特性から,「聖地巡礼」など地域に何らかの事象を発生させる場所の表象について明らかにすることを目的とする.研究方法としては,「聖地巡礼」が活発に行われている作品を検討し,作品内における場所の表象と位置づけなどから,「聖地巡礼」など場所を主体とした展開がなされると考えられる要因について明らかにしていく.研究対象としては2015年に発表され,現在も作品の展開が続いており,「聖地巡礼」が活発に行われている作品である『ラブライブ!サンシャイン!!』とした.<br> 『ラブライブ!サンシャイン!!』では,企画開始当初から内浦や沼津といった地名を用いて場所を言及するなど,「聖地」となる場所を全面的に押し出して作品の展開を実施している.そして,これらに基づくようにして,作中において1)写実的な背景,2)強調された背景,3)パスを意識した演出という3点を特徴とした場所の表象がなされていることがわかった.また「聖地巡礼」の場所や観光名所などがまとめられたガイドブックである『ラブライブ!サンシャイン!!Walker』などのように「聖地巡礼」のための観光ガイドブックも制作者が直接出版するなど,「聖地巡礼」をより実施しやすくするための商品展開がなされていることもわかった.<br> さらに,作中においてほんの少しでも登場した場所を所有している,あるいは作中で登場した商品を実際に販売している個人ないし団体は,スタッフロールの中において「協力」という形でクレジットがなされた.「協力」としてクレジットされた個人ないし団体はテレビアニメ第1期,第2期だけで50件近くにもおよび,それらはアニメに関連するグッズなどを扱う企業から,作中で登場した地域の旅館,ホテル,あるいは特産物を扱う企業,小規模な個人商店,さらには静岡県や沼津市といった地方自治体に至るまで幅広いジャンルのものが並んでいる.<br> 以上の点から,作中において地域をできる限り現実に近づける形で描き,さらに地域の様々な団体や企業を作中において「協力」として名前などを明らかにさせるなどによって「聖地巡礼」を誘発させているということがうかがえる.また,専用のガイドブックも並行して出版させるなど,制作者が「聖地巡礼」を意図的に,また戦略的に行っているということもうかがえる.
著者
岩月 健吾
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2021年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.87, 2021 (Released:2021-03-29)

1.研究の目的 野外で採集したクモ同士を闘わせて勝敗を決める遊び,すなわちクモ相撲は,東南アジア〜東アジア地域を中心に存在が記録されており,かつて日本でも季節の自然遊びとして全国的に見ることができた(斎藤 2002).しかし,日本のクモ相撲は,戦後の経済成長の中で人々の生活様式が変化したことや,都市開発および農地整備によってクモの野生個体数が減少したことなどを背景に,多くの地域で消滅してしまった(川名・斎藤 1985).しかし,関東・近畿・四国・九州の一部地域では,現在もクモ相撲の存在が確認されている.これらの地域では,クモ相撲が年中行事や祭りの企画の一部として組織的に運営・開催されている. 本研究の目的は,かつて日本各地で見られたクモ相撲が衰退・消滅してしまった現代において,クモ相撲行事がいかにして存続しているのか,その要因を自然と人間活動との関係の視点から明らかにすることである.自然と人間活動との関係に着目した場合,行事の存続はクモ採集活動の持続性と不可分だと考えられるが,この点について従来の研究では十分な検討がなされてこなかった. 2.調査の対象および方法 本研究では,鹿児島県姶良市加治木町の年中行事「姶良市加治木町くも合戦大会」を事例として取り上げる.地元で「加治木のくも合戦」の呼称で親しまれる本大会は,クモ相撲行事の中で参加者数において最も規模が大きい.ファイターとして使用されるのは,コガネグモArgiope amoenaのメスである.本種は現在15の都府県でレッドリストに掲載され,野生個体数の減少が全国的に危惧されている.本研究では,大会参加に向けてコガネグモを採集飼育する人々(以下,採集者)を対象に聞き取り調査を実施し,採集・飼育・返還の各段階における採集者の行動や考え方を分析した.聞き取り調査対象者数は25名である.調査は主に,2015年,2018年,2019年の大会開催日(6月第3日曜日)に実施した. 3.結果 採集者はコガネグモの生息環境を,造網空間,餌供給源,気温・湿度・日当たり・風,天敵の有無の観点から包括的に理解していた.採集者の環境認識は,採集者自身の孤独で排他的な採集活動の積み重ねによるものであり,それゆえに多様性に富むものであったが,いずれもコガネグモの生息環境を的確に言い表していた.コガネグモの野生個体数が減少傾向にある中で,採集活動を継続できた一因はこの環境認識にあると考えられる.採集活動に関して,採集場所を複数持つことで,コガネグモが採集できないリスクを軽減したり,採集する個体数を選別により少なくすることで,採集場所に掛かる採集圧を軽減したりする工夫も確認された. 採集者にとって飼育とは,大会に向けてコガネグモを保持し,日々の観察の中でファイターを厳選する場である.加えて,採集者には,危険が多い野外からコガネグモを保護しているという意識もある.彼らは,飼育の中でコガネグモが十分に餌を与えられ,産卵から孵化までの過程を終えることで,返還後の野外における幼体生存率が上がると考えていた. 採集者は,自分の採集場所を維持する目的で,大会後にコガネグモを元の場所に返還し,野生個体数の維持増加を図っている.採集者の中には,生息環境として適した別の場所にコガネグモを返還し,新たな採集場所を創出することを試みたり,限られた採集場所における採集活動の質を高めるため,返還の際にコガネグモの血統を意識したりする人もいた.コガネグモの返還は個人スケールで行われ,採集者個人に対する恩恵を多分に期待する行為である.このような採集活動の継続に向けた個人的な取り組みが,「加治木のくも合戦」の存続要因の一つと考えられる. 文献川名 興・斎藤慎一郎 1985.『クモの合戦 虫の民俗誌』未来社.斎藤慎一郎 2002.『蜘蛛(くも)』法政大学出版局.
著者
佐藤 崇徳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

学校教育でのGIS活用の普及を考えた場合,経費や操作技能の問題からフリーウェアなどの利用が現実的であり,インターネット上で提供される無料サービスの活用も一つの方策と考えられる。インターネット上での地図サービスは,量・質(機能)ともに充実してきている。いくつかの地図サービスでは,API(Application Program Interface)と呼ばれる,外部のウェブサイトから当該サービスを利用するためのプログラム上の規約を公開するようになった。これにより第三者が,自身のウェブサイトに地図サービスを組み込み,必要に応じて表示内容や機能をカスタマイズすることが可能になり,目的に合わせて独自の内容を盛り込んだ様々な地図がインターネット上に登場するようになっている。筆者はこれに注目し,インターネット地図APIを使って地理教育用の地図教材ウェブサイトの開発を行っている。その一部は既に報告済みであるが(佐藤 2011),その後の成果を本発表では報告したい。 民間企業が提供する一般的なインターネット地図は,道路地図のようなデザインが採用されており,地理教育において利用とするには不十分である場合も多い。一方,国土地理院の電子国土Webシステムでは,地形図に近い内容の地図画像が表示されるので,従来の地理教育において地形図の読図の学習として扱ってきた内容に対応し,その特徴を活かした活用法も考えられる。そうした観点から,先には電子国土Webシステムを用いて,地図画面上に任意の地点の情報(現地の景観写真など)を表示させる地図教材サイトを構築した。 それに対して,今回はGoogleマップのAPIをベースに,電子国土WebシステムVer.4で配信される地図画像を組み合わせての構築を試みた。電子国土Webシステム(Ver.3以前)は国土地理院が独自の仕様で開発を進めてきたもので,ユーザーが独自のコンテンツの用意する際の容易さなどの面で問題があった。これに対し,2011年に公開されたVer.4ではシステムが改められた結果,電子国土Webシステムから配信された地図を,他のソフトウェアで使用することが可能になった。そこで,代表的なインターネット地図として広く使われているGoogleマップのAPIを利用して,電子国土Webシステムの地図を表示させることにしたものである。これにより,Googleマップの使いやすい操作性や,APIの豊富な機能を活かして,教材としての利用に適したウェブサイトの構築が可能になった。 さらに,プログラムの部分と地図上に載せるデータの部分を分離し,データはテキストファイルとすることで,Excel等のソフトを使って簡単にデータが入力・編集できるようにした。プログラムに関するファイルとデータ入力用のテンプレートを近日中に公開する予定であり,コンピュータに関する高度な知識がなくとも,全国各地の地理教員などオリジナルの情報を持っている人が独自の教材サイトを作成し,公開できる仕組みを意図している。 本研究では地図投影法に関連する地図教材も作成した。ズームやスクロールが自由に行えるインターネット地図は,投影法としてメルカトル図法を採用していることが多い。これは技術的な事情によるものであるが,正積図法ではないメルカトル図法の世界地図を分布図などに用いるのは適当ではない。しかし,だからこそ,世界地図はひずみを持っていて,球面上をそのまま表したものではないということを生徒に学習させることは,情報リテラシーの面からも重要であるといえる。 Googleマップはメルカトル図法であるが,APIでは球面上での位置関係に適合するように図形(線など)を地図上に描くことができる。これを利用して,球面上での位置や世界地図に関する学習において役立つ地図教材の作成を試みた。教科書に掲載される地図は,メルカトル図法で東京とアメリカ西海岸を結ぶ大圏航路と等角航路が描かれたものや東京中心の正距方位図法など,定番のものに限られているが,今回作成した教材は,ごく簡単な操作で任意の2地点間の大圏航路と等角航路を描いたり,任意の地点を中心とした方位線と等距圏を描くことができ,さまざまな視点から球面上の世界をとらえることを支援するものである。
著者
菅 浩伸 長尾 正之 片桐 千亜紀 吉崎 伸 中西 裕見子 小野 林太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

1.はじめに <br> 陸上の地形や遺跡では,従来の航空写真や大縮尺地形図を用いたマッピングに加えて,小型無人航空機(UAV)とSfM多視点ステレオ写真測量(SfM)ソフトウェアの発達によって,高精密な地図の作成や三次元モデル化が可能になってきた。また,衛星を用いた高精度測量(RTK測量など)も可能である。しかし,水中では衛星を用いた測位を直接用いることができない。水中遺跡では,あらかじめダイバーによって海底に格子状に基線を張った上で写真を撮影し,SfMソフトウェアを用いて三次元モデルを作成する例が報告されている。しかし,これらは一般には正確な地理座標をもたず,より大深度の地形や遺物ではダイバーによる基線の設置作業が難しくなることが難点である。<br> 我々は高解像度のマルチビーム測深によってきわめて高精度で地形を可視化し地形研究を行っている。しかし, SfMはより精緻な地形を構築することができ,テクスチャーも表現することが可能である。本研究では高解像度マルチビーム測深とSfMによる三次元モデル構築をあわせて,水中の微地形および文化遺産を高精度で可視化することを試みた。<br><br>&nbsp;2.調査方法と調査地域<br> 本研究では,水中で撮影した写真を基にSfMソフトウェアで構築した三次元モデルに,マルチビーム測深によって得られた座標を参照点として与え,地理座標を持った三次元モデルを作成した。<br> 第一の調査対象は,沖縄・古宇利島の北東海域の水深40mに沈む全長100mの米国軍艦エモンズ(USS Emmons)である。エモンズは第二次大戦末期の沖縄戦において、日本軍特攻機の攻撃によって航行不能となり沈められた。船体の近くには日本軍機の残骸も認められる。特攻によって攻撃され沈められた軍艦が,そのままの姿で海底に沈んでいる遺跡は,現在のところエモンズしか報告されていない。まず,マルチビーム測深を用いて船体周辺部及び周辺海域の地形を高精度で測量した。これとともに,SCUBA潜水にて全長約100mの船体を撮影した1716枚の高解像度写真(7360&times;4912ピクセル)を用いてSfMソフトPhotoScanを用いた三次元モデルを作成した。三次元モデルにはマルチビームデータを基に位置と深度の基準点(Ground Control Point)を与え,120 m &times; 30 m の範囲について約0.1mの高精密DEMデータを作成することに成功した。<br> 第二の調査対象は,沖縄・八重山諸島の嘉弥真島北方のサンゴ礁礁縁部の縁脚と周辺の縁溝地形(水深14~18m,約20m&times;30mのエリア)である。SCUBA潜水にて撮影した約1600枚の写真を用いて,同様の作業を行った。 <br><br>3.本研究の成果とその波及効果<br> 本研究では,世界ではじめてSfMにマルチビーム測深を組み合わせて三次元モデルを作成することに成功した。今後の海底地形研究や水中遺跡研究に応用可能である。<br> なお,本研究では激戦地の沈没戦艦の可視化に成功したが,これによって当事者の証言や戦争記録で構築されてきた戦艦の破損状況や特攻に関する歴史的事実について,物的証拠から検証することが可能となった。今後は戦艦の保存状況についての詳細なモニタリングや国際的な情報共有を行うことが可能となる。本研究の成果は水中文化遺産保護条約によって2045年前後に正式に文化遺産となる第二次世界大戦の水中戦争遺跡の保存・活用方法を検討する上でも,重要な事例を提供するであろう。
著者
髙田 協平 羽田 麻美 渡邊 康志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

<p>沖縄島南部には第三紀の島尻泥岩と第四紀の琉球石灰岩が分布する。この地域では,島尻泥岩分布域において比高が小さく幅の広い谷を持つ低平な丘陵が,琉球石灰岩分布域では平坦な台地や段丘が形成されている(兼子・氏家, 2006)。さらに,石灰岩地域では円錐カルストや石灰岩堤(ライムストーンウォール)が分布する。本研究の目的は,与座岳周辺の残丘地形(円錐カルストを構成する円錐丘や泥岩丘陵)を対象とし,異なる地形・地質条件下における残丘の形態的特徴を明らかにすることである。</p><p>残丘の地形計測は,1948年米軍作製の1/4,800地形図を用いた。抽出する残丘は,2本以上の閉曲線で囲まれている(比高1.5m以上)かつ基底長が10m以上のものと定義した。本条件で抽出した計275個の残丘(石灰岩174個,泥岩101個)を対象に,QGISを用いて比高や底面積を計測するとともに,1/50,000地形分類図(国交省,国土調査)と1/50,000地質図(産総研)を重ね合わせて考察をおこなった。</p><p>地質別に残丘の形状を比較すると,石灰岩の残丘(以下,石灰岩残丘)は比高1.53〜54.6m(平均3.98m),底面積62〜98,291m2(平均4,112m2)であり,泥岩の残丘(以下,泥岩残丘)は比高1.53〜38.12m(平均4.77m),底面積108〜229,979m2(平均7,204m2)であった。残丘の底面積が大きいと,比高も大きい傾向がみられる。当該地域の石灰岩は,兼子・氏家(2006)によれば砕屑性石灰岩,サンゴ石灰岩,石灰藻球石灰岩の三種類に分類される。これら石灰岩の岩種別に残丘の形状を比較すると,砕屑性石灰岩において,残丘の比高が他よりも2倍程度,底面積が4倍程度大きい。また,残丘の基底面の形状の歪みを計算したところ,石灰岩残丘は泥岩残丘に比べて真円に近い傾向があった。一方で,石灰岩残丘のうち,石灰岩堤上に形成された残丘は,歪みが最も大きく基底面が楕円形をなしており,石灰岩堤がもつ直線的な形態の影響を受け,発達したものと考える。</p>
著者
渡辺 満久 鈴木 康弘 熊原 康博 後藤 秀昭 中田 高
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

2016.04.14に熊本地震の前震(M6.5)が、04.16には本震(M7.3)が発生した。これらの地震を引き起こした活断層への評価(地震本部、2013)には、指摘すべき大きな問題がある。また、地震断層近傍では、「震災の帯」と呼ぶべき被害の集中域が認められる。このような現象は1995年兵庫県南部地震後にも指摘されていたが、その教訓が生かされたとは思えない。 本震発生時、既知の布田川・日奈久断層に沿って総延長31kmの地表地震断層が現れた。ところが、前震は日奈久断層帯が、本震は(主に)布田川断層帯が起こしたものである(前震と本震は別々の活断層によって引き起こされた)との見解がある。それは、地震本部が布田川・日奈久断層という1つの活断層を、布田川断層帯と日奈久断層帯という別々の活断層として評価しているためである。 明瞭な地震断層が全域で現れたのは本震の時であり、前震の震源域は本震のそれに包括されている。また、都市圏活断層図に示されているように、布田川・日奈久断層は完全に連続した活断層である。これらのことから、別々の断層が連動したという理解は誤っている。かつて地震本部は、連続した布田川・日奈久断層として正しく評価されており、今回の震源域ではM7.2の地震が発生すると予測されていた。ところがその後、変動地形学的な証拠が軽視され、1つの活断層が2つの活断層(帯)に分割されてしまった。それによって想定地震が過小評価され、M7クラスの本震発生への警鐘に結びつかなかった可能性がある。 益城町の市街地では震度7を2度記録したが、本震時の建物被害が著しかった。被害激甚な地域は、南北幅が数100km以内、東西に数km連続する「震災の帯」をなしている。ここでは、新耐震基準に適合している建物までもが壊滅的な被害を被っている。「震災の帯」の中には、益城町堂園付近から連続する(布田川断層から分岐する)地震断層が見出されるため、その活動が地震被害集中に寄与している可能性が高い。ただし、地震断層直上でなくても、近傍における建物物の被害も著しい。 南阿蘇村においては、複数の地震断層が併走して現われた。地震断層直上およびその近傍では、ほとんどの建物が倒壊した。この地域においては、少なくとも5台の自動車が北~北西方向へ横倒しとなっていることも確認した。強いS波が自動車を転倒させ、南阿蘇村における大規模な斜面災害の引き金にもなったと考えられる。 このように、地震断層近傍では、土地のずれに加えて、強震動による被害が集中したと考えられる。堂園付近では、布田川断層の存在は知っていたという声が少なくなかった。しかし、そこに被害が集中する可能性があるとは理解されていなかった可能性が高い。活断層情報の活用の仕方について、再検討すべきであろう。 熊本地震によって、活断層の位置情報が地震防災上極めて重要な情報であることが再確認された。変動地形学的な物的証拠を重視していない地震本部による活断層評価には、非常に大きな問題がある。また、兵庫県南部地震時の教訓を十分に生かすことができなかったのは、活断層情報の活かし方に問題があったと考えられる。防災・減災に向けて、地形学からさらに積極的な提言を続けることが必要であろう。なお、熊本地震の地震断層は既知の活断層の範囲以外にも出現している。「見逃された」理由を検証し、今後の活断層調査に関して解決すべき問題を見極めなければならない。全国の都市圏活断層図の改訂など、熊本地震を貴重な事例として、明確となった問題を解決してゆく必要がある。
著者
春日 千鶴葉 柏木 良明
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100058, 2016 (Released:2016-11-09)

郷土料理は以下のように定義されている(木村,1974)。(1)ある地域に古くから行われている食形態で他地方にはみられない特色をもち、その発生が明治以前であるものである。ただし、北海道に限り明治末期までに備わった食形態を取り上げる。(2) 現在は比較的広範囲の各地の人々に食されているが、江戸時代までは限られた範囲の地域の民衆生活のみ定着していた食形態であるものである。 また、郷土料理は地方の特産品をその地方に適した方法で調理したものである(岡本,1987)。その中で、食の暮らしの知恵が育まれ、おいしく健康に良い食べ方などが工夫されている(成瀬,2009)。種類や調理方法における地域性は、地形、気候、地域ごとの生産物といった自然的要因だけでなく、地域の人々の気質、宗教、産業技術の発達状況、時代・地域社会の思潮などの人為的要因によっても形成される(石川,2000)。そして、郷土料理のタイプは(1)その土地で大量に生産される食べ物をおいしく食べようと工夫したことにより生まれたもの(2)地方の特産物を利用してできたもの(3)その地方で生産されない材料を他地域からもってきて、独自の料理技術を開発して名物料理に仕上げたものに分類される(安藤,1986)。さらに、郷土料理は伝統行事に欠かせないものにもなっている。しかし、生活様式の変容などにより、その地域性が失われつつある(成瀬,2009)。 長野県の郷土料理の一つであるおやきはもともと長野県北部の農村の発祥である。かつて、囲炉裏の灰で焼いたことから「お焼き」と名付けられた。作り方は味噌で味付けしたナスなどの野菜を餡として小麦粉の皮で包み、蒸すあるいは焼く。その後、1982年におやきが手打ちソバ、御幣餅、スンキ漬、野沢菜漬とともに「食の文化財」に指定された。現在では、長野市、小川村をはじめおやきの専門工房や販売店が県内全域の広範囲に多数存在している。その上、おやきは地域差が県全域を通じて見られ、地域性がよく見られるのも特徴である。 おやきに関する研究では、ある特定の地域における特性は明確になっているが県内全域でのおやきの実態、特性を示す研究は少ない(水谷ら,2005)。故に、長野県内の中でどのような差異や共通点があるのかも不十分であり、おやきに関する明確なデータも少ない。 そこで、本研究では長野県全域を調査地域として、各地域におけるおやきの特性について比較調査するとともに、なぜ地域差が見られるのかを明らかにする。また、考察の際に五平餅との比較も取り上げる。 結果として長野県内は北信、中信、東信、南信の4つの行政区分である。調査方法は主に文献調査、聞き取り調査(25店舗)、おやきの購入・試食、写真撮影による。 北信地方で119店舗、東信地方で27店舗、中信地方で49店舗、南信地方で20店舗、計215店舗あることがわかった。特に、北信地方だけでも全体の約5割をも占めている。東信・南信では店舗自体は非常に少ない。 おやきの製法には、蒸かし、焼き蒸かし、焼き、揚げ焼きなどの種類がある。北信では小麦粉の味を生かしたおやきで蒸かしたものが多い。しかし、長野市から離れた山村地域に行くと、ほうろくの上にのせて焼く製法が見られる。東信地方では、蒸かす製法が多い傾向にあり、主に上田市に多く店舗が集中している。中信は南北に差異があり、北側は昔ながらの焼き製法、南側は蒸かし製法で作られている。南信では生地に砂糖を入れ甘く仕上げて、ふくらし粉を使用し蒸かす。 全域を通してノザワナ、ナス、小豆あんである。また、山菜やクリなど地域でとれた素材を生かして作っている場合が多い。 考察に関して、穀物において、米は盆地の河川流域に集中している一方で長野盆地には水田地帯が少なく畑作を行う傾向にある。小麦は、松本、安曇野で最も多く、全体的に収穫量は北側に集中していることから北側を中心に小麦の文化が定着しているといえる。また、県内では穀物を粉状にして食べる工夫が自然にできる環境にあった。 北部ではおやきをお盆に食べ、南部では11月20日のえびす講で、あんこを多く入れたおやきを作って供える。このようにおやきを食べる習慣が各地域により異なる。 五平餅とは南信地域で食べられる郷土料理のことである。名前の由来は、五平が始めた、神前に供える御幣の形に似ていることなどがあげられる。作り方はうるち米のみを使用して焼く。 五平餅は、「塩の道」である伊那街道沿いの地域に分布しており、終点は塩尻で南北の分岐点となっている。それを境に、南信地方では五平餅文化が存在している。そのため、南信地域にはおやき店舗よりも五平餅店舗の方が多い。その一方で北信地方では五平餅店舗は見られない。
著者
江 衛 山下 清海
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.106, 2003

最近における華人社会をグローバルスケールでみた場合、その大きな特色の一つは、華人の「新移民」および「再移民」の増加である。華人社会研究においては、中国の改革・開放政策の進行以後の中国大陸出身の新しい移民や1997年の香港の中国返還を前にした移民ブームで海外に移住した香港人、さらには最近の台湾人移民などを「新移民」と呼んでいる。また、いったん東南アジアや南アメリカなどへ移住した華人(ベトナム系華人など)が、さらに他の地域へ移住して行く現象を「再移民」と呼んでいる。 従来の伝統的な華人社会は、新移民や再移民の増加によって、大きな変容を迫られている。アメリカやカナダでは、従来のチャイナタウン(オールドチャイナタウン)の中に新移民や再移民が流入する一方で、彼らによる新しいチャイナタウン(ニューチャイナタウン)も形成されている(山下,2000)。 今日および今後の華人社会を考察する上で、これら新移民と再移民の動向に注目する必要がある。在日華人社会に関する従来の研究においては、横浜・神戸・長崎の日本三大中華街や伝統的華人社会を対象にした研究が多く、最近における華人新移民に焦点を当てた研究は乏しい。 外国人登録者数に基づく『在留外国人統計』の中国人(中国籍保有者)の人口をみると、1982年末の中国人は59,122人であったが、20年後の2002年末現在の中国人は424,282人に膨らんでいる。本研究では、日本において増加する華人新移民の動態を明らかにするために、埼玉県川口市芝園団地における中国人ニューカマーズの集住化のプロセスとそこにおける彼らの生活実態を明らかにすることを目的とする。 なお、本研究が対象とする華人新移民のほとんどが中国大陸出身のニューカマーズであることから、本研究では、中国大陸出身(香港・台湾出身者を除く)の華人新移民という意味で中国人ニューカマーズという語を用いることにする。 一般に華人社会の研究においては、関連の統計の不足に加えて、華人の警戒心の強さなどから聞き取り調査やアンケート調査の実施は容易ではない。本研究では、共同研究者の一人が中国出身者すなわち「同胞」である点を生かして、研究対象者との信頼関係を徐々に築きながら、出身地・学歴・職業・来日時期などについて聞き取りおよびアンケート調査を実施し、芝園団地への集住化のプロセスについて考察し、芝園団地在住の中国人ニューカマーズの生活の実態について明らかにした。
著者
髙木 亨
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

平成28年(2016年)熊本地震では、前震・本震で震度7を記録、震度1以上の余震も4,000回を超えるなど、これまでの地震災害とは異なる状況を示している。被害の範囲も、震源地の益城町を中心に、熊本市、西原村、南阿蘇村、阿蘇市に加え、大分県側にまで及ぶ広範囲なものとなった。そのうち益城町は9割の建物が何らかの損壊を受ける甚大な被害となった。<br>報告者が勤務する熊本学園大学は熊本市中央区に位置している。4月14日・16日の地震により大学の建物も被災した。大学のグラウンドは熊本市の広域避難場所に指定されており、本震直後から学生や地域の住民が避難してきた。そのため、比較的健全であった建物(14号館)の一部を避難所として開放し、大学独自で避難所運営を開始した。また、社会福祉学部を持つ強みを活かし「福祉避難所」としての役割を担った<sup>1)</sup>。その際、避難していた学生を中心に大学避難所でのボランティア活動が動き出した。<br>5月の連休明けには授業が再開となり、大学避難所の運営も収束に向かった。その一方で、被災地での学生ボランティア支援活動が立ち上がっていった。報告者がかかわる益城町での「おひさまカフェ」もその一つである<sup>2)</sup>。益城町保健福祉センター「はぴねす」避難所で5月末から活動を開始(毎週土日開設)。避難所が閉鎖された8月末からは、益城町テクノ仮設住宅団地A地区集会所(みんなの家)に場所を移し、引き続いて活動を継続している。<br>2017年1月には学内組織として学生ボランティアセンターも設立され、全学的に災害学生ボランティア活動を支援する体制が整ってきた。<br>本報告は「おひさまカフェ」の活動を通じて見えてきた、被災地の地元大学が果たす被災地支援のあり方、被災地域復興の役割について検討する。&nbsp;
著者
加藤 政洋
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.122, 2009

1. 研究目的<br>本研究の目的は、米軍の占領下で進められた都市建設に固有の理念ないし空間的な論理の一端を、「場所の(文化)政治」を糸口に地理学的な観点から明らかにすることにある。対象とする場所は、都市建設(形成)期の沖縄各地に成立した歓楽街である。それらは、いずれも「自然に形成された」ように見える場所なのだが、なかにはさまざまな意図が絡み合い、政治的な力関係に左右されながら創出されたところも存在した。那覇近郊の「栄町」は、その代表例である。<br>本発表では、歓楽街のなかでも戦前那覇の大遊廓として知られた〈辻町〉に焦点を絞り、その再興過程の考察から上記の課題に取り組んでみたい。いくぶん結論を先取りして述べるならば、〈辻町〉はまさに、施政者が(後に出来する)都市空間の全体を俯瞰(構想)しつつ、施設・機能・用途地域を的確に配置しようとする都市計画的な志向性のなかで創り出された場所であった。<br>2. 首都計画から那覇市都市計画へ<br>一般に那覇市の都市計画の端緒は、1950年8月の都市計画条例によって開かれたとされている。とはいえ、この年まで都市計画に向けた動きが必ずしも皆無だったわけではない。実際、1950年以前に「那覇市都市計画案を前後三回に亙って提出したけれども、結局軍の意図に沿わぬとの理由で三回とも却下され」ていたという。<br>注意すべきは、却下された案が実際には「那覇市都市計画」ではなく、周辺の二市二村を含む「首都計画」であり、計画主体は民政府だったという点である。軍政府は「那覇市の都市計画は那覇市が主体となって計画し、実施すべきで、民政府は那覇市の都市計画に対して参考的な意見はいえるが那覇市を拘束することは出来ない」という立場から、三度にわたり計画案を却下していたのだ。<br>つまり、1950年3月を境に、那覇をめぐる都市計画は、広域にわたる首都計画から那覇市域を対象とする計画へと移行したのである。その後、周辺の市・村を区域とする都市(首都)計画の策定は、1956年まで待たねばならない。<br>3. 歓楽街成立の三つの背景<br>しかしながら、この廃案になった首都計画の空間的文脈のなかで誕生した歓楽街がある。すなわち、それが「栄町」であった。那覇市内で辻町の復興が望めないなか、行政域としては那覇の市外でありながら、隣接して市街地としては一体化している栄町の地の利を活かし、〈辻町〉に取って代わる歓楽街が形成されたのである。<br>そればかりか、後に那覇市に合併される小禄村でも、軍用地と接する土地に、その名も「新辻」と称する歓楽街が建設された。これは、島内北部や本土でも見られた基地近接型の歓楽街ということになる。いずれにしても、隣接する二つの村に歓楽街が成立するなかで、那覇市は独自の都市計画を立案したのだった。<br>この計画で旧〈辻町〉は「住居地域」として区画整理されることになっていたものの、前述のように、首都計画の文脈で成立した「栄町」は市外に立地しており、また旧に倍する成長を見せた料亭・飲食店に対処すべく、当初の方針は1年もたたないうちに転換される。<br>4. 〈辻町〉の再興と「場所の政治」<br>1951年春、那覇市は統制なきままに展開する料亭・飲食店(風俗営業)を規制すべく、旧遊廓の辻町一帯に「この種の料理店」を囲い込むことを企図し、「特殊商業地区」を設定する。市域に限定した都市計画を立てた以上、問題視された放縦な風俗営業にも自前で対処しなければならず、定めたばかりの地域制を変更せざるを得なかったのだ。これによって、「昔なつかし辻情緒……各通りをはさんで料理屋、飲食店、各種娯楽場、ダンスホール等々…〔の〕…様々の建物が建ち並ぶ」ことが期待され、実際、那覇を代表する歓楽街へとまたたくまに発展するのだった。<br>この政策は後々まで大きな影響を及ぼすことになる。というのも、本土復帰と同時に「トルコ風呂」ならびにモーテルの「規制外地域」、すなわち営業許可地域として指定されたことで、現在にまでいたる風俗営業地区となったからである。<br>5. 風俗営業取り締まりと「場所の文化政治」<br>興味が持たれるのは、「辻への返り咲き」ないし移転を待望する業者もいたことである。施政者側も〈辻町〉という場所の歴史性に配慮した面があるとはいえ、風俗営業取り締まり上の「囲い込み」に業者自らが応じることで、〈辻町〉は再興したのだった。栄町の業者の多くが、実際に移転したのである。<br>思惑は違いこそすれ、こうして〈辻町〉再興の端緒は開かれた。二つの歓楽街の成立過程に「政治」を透かし見るとき、首都計画から那覇市単独の都市計画への変更は、看過できないものとなる。
著者
畠山 輝雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<b>1</b><b>.はじめに</b><br> 近年,脆弱財政下の地方自治体における新たな収入源の確保策として,公共施設へのネーミングライツ(命名権)(以下,NR)が注目されている。NRとは,施設等の名称を企業等に売却して資金を得る方策であり,日本の公共施設では2003年に東京スタジアムで導入されて以降,全国の多くの自治体・公共施設に導入されている。そのような中で,大阪府泉佐野市の市名や,東京五輪後の新国立競技場への導入など,国民的な議論となる案件もある。また,横浜開港資料館,徳島阿波踊り会館,渋谷区宮下公園,京都市美術館,愛媛県県民文化会館では,導入検討時や導入時,導入後に住民や施設利用者,競合企業などから反発が生じたように,各地域で物議を醸すような事例も報道されている。<br> 報告者は,日本の公共施設にNRが導入された時期から追跡をし,研究をしてきた。しかし,統計的にまとまったものがなく,実態把握が困難なことから,2012年に全国の都道府県,市区に対してアンケート調査を実施した(畠山2014)。同調査では,大都市を中心にNRの導入が広がっていること,NRによる施設名称から地名が消失していること,NR導入に際して議会をはじめとする合意形成が図られていないことなどが明らかとなった。<br> 同調査後,わが国ではさらにNR導入が進んでおり,小都市や町村部にまで広がっている。そこで,報告者は公共施設へのNR導入の最新動向を明らかにするために,2018年11月に対象を全国の都道府県,市区町村にまで広げ,アンケート調査を実施した。本報告では,2018年に実施したアンケート調査の結果により,2012年時のアンケート調査との比較も含め,公共施設へのNR導入状況の考察を行う。<br> また,公共施設へのNRに関しては,既存研究では法学・行政学における法的解釈や導入手続きに関して,スポーツ経営学などにおける導入推進を前提とした事例分析が中心である。地理学では,Rose et al(2009)が,アメリカ合衆国の事例から公共の場に企業名を付与することの危険性を指摘し,地名研究の新たな方向性を示唆している。また日本における地名標準化を目的とした「地名委員会(仮称)」の設置に関する日本地理学会の公開シンポジウムでの提言でも,NRに関する懸念が指摘されている。しかし,これらは具体的な検証ではなく,地名研究からのさらなる検証が必要である。また,畠山(2017)や畠山(2018)では京都市を事例にNR導入に伴う合意形成や住民のアイデンティティの変化について分析をしている。このように,公共施設へのNRに対する地理学的研究の蓄積は少ないため,アンケート調査の結果を踏まえて今後の地理学的研究の可能性についても探りたい。<br><b>2</b><b>.研究方法</b><br> 本報告で使用するアンケート調査は,2018年11月に全国の都道府県および市区町村(1,788自治体)を対象に,郵送配布により実施した。回答は,報告者のウェブサイトに回答フォームをダウンロードできるようにし,郵送もしくは回答フォームのメールによる送付という2種類から選べるようにした。回収率は67.9%である。<br><b>3</b><b>.考察</b><br> NRを導入している自治体は1割強であり,その多くは都道府県や大都市の市区に集中している。これは,導入可能な大型施設を保有していること,スポンサーとなれる企業等が立地していることなどが要因である。また,畠山(2014)よりも,導入自治体は増加しており,小規模自治体でも導入するケースが増えた。導入施設では,スポーツ施設が多いほか,近年増加している歩道橋への導入が目立った。<br> 施設の名称(愛称)には,企業名や商品名,キャラクター名などさまざまな形態が存在する。このような中で,施設名称から地名が喪失したケースが多くみられる。これらの施設では,施設所在地が不明確になることや利用者のアイデンティティ喪失が懸念される。<br> 自治体がNRを導入する際の合意形成については,特に何もしていないケースが大半である。議会承認についても,ほとんどの自治体・施設で行われておらず,住民の税金等で建設される公共施設の名称変更に対する合意形成が図られていないことは大きな課題である。<br> 以上のように,地域政策としての合意形成のあり方や政策形成の地域差,さらに地名問題など,地理学的研究の必要性があると考える。
著者
大島 規江
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.81, 2008

<BR>I. はじめに<BR> モンゴルは1990年に民主化を達成した。改革開始当初は、移行経済に伴う困難さから経済は低迷を続けたものの、経済的構造改革、日本をはじめとする外国からの支援を基軸として、政府は経済の立て直しを図り、1994年以降、著しい経済発展を続けている。それに伴い、地方農村から首都ウランバートルへの人口が流入、それに伴って都市域が無秩序な発展をしている。本発表ではウランバートルの9行政区のうち6行政区における都市域の拡大を地域の住宅形態に焦点を当てて分析する。<BR>II. 調査地域概要<BR> モンゴルの首都ウランバートルは、同国中部を貫流するオルホン川の支流トーラ川沿岸の標高約1,350mの場所に立地する。2005年現在、人口は約100万人で、その数は同国人口の約4割に相当する。<BR> ウランバートルは、行政上「首都特別区」に指定され、県と同等の権限を有する。特別区は、スフバートル(Sukhbaatar)、チンゲルティ(Chingeltei)、バヤンゴル(Bayangol)、バヤンズルフ(Bayanzurkh)、ハーンオール(Khan-Uul)、ソンギノハイルハン(SonginoKhairhan)、ナライハ区(Nalaikh)、バガノール区(Baganuur)、バガハンガイ区(Bagakhangai)の9の行政地区で構成されている。ナライハ、バガノール、バガハンガイの3行政地区は他の6行政地区から20kmも東に位置する。したがって、この3行政地区は行政区域上ウランバートル市域とはいっても、他の6行政区とは機能的に全く異なる。このため、本研究では、この3行政地区を除く6行政区を研究対象地域とした。<BR> ウランバートル市の中心は、政府宮殿とスフバートル広場であり、その周辺にオペラ劇場、文化宮殿、博物館、市役所、証券取引所、中央郵便局、大学、各国大使館が立地し、政治の中心地を形成している。行政地区上では、スフバートル南西およびチンゲルティ南部に相当する。前2地域にバヤンゴル南東部を加えた地域には、映画館、百貨店、ホテル、ザハと呼ばれる市場があり、経済の中心地となっている。<BR>III. 集合住宅地域とゲル・ハウス居住地域<BR> 民主化以降、ウランバートルの都市域は拡大を続けている。2005年における各地区の人口と世帯数をゲル・ハウス地域と集合住宅地域別に示したものが表1であり、各地区の特徴が分かる。各地区の総人口に占めるゲル・ハウス地域の人口の割合は、チンゲルティで最も高く78.2、バヤンゴルで25.1%と、地区による差が著しい。また、居住形態も、アパート、暖房・水道完備一戸建て、暖房・水道なし一戸建て、ゲル・ハウス等の住宅形態も各地区で異なることが明らかとなった。<BR>IV. おわりに<BR> 今後は、都市化に伴う正のインパクトのみならず、負のインパクトも含めた都市環境の変容についても検討したい。
著者
柴辻 優樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2021年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.70, 2021 (Released:2021-03-29)

研究の背景自然災害後における社会経済的に不利な人々の居住地移動パターンについては、世界各地の事例をもとに多くの研究が行われている。Elliot and Pais (2010)はHurricane Andrew後の人口の空間的再分配を分析し、社会的に脆弱な人々は災害発生前に発展していなかった地域に集中する傾向を指摘した。Kawawaki (2018)は東日本大震災後の人口移動要因について分析し、Elliot and Pais (2010)と同様の傾向が見られることを指摘した。本研究では、日本において特に経済的困難に陥りやすい母子世帯の移動に着目し、東日本大震災後の移動傾向を分析した。分析方法とデータ分析には2項ロジットモデルを用いた。被説明変数は、震災前後で同じ住所に居住していれば1、そうでない場合は0とし、被災地からの移動の傾向を分析した。対象は子供のいる核家族世帯の世帯主もしくは代表者(以下、世帯主)とした。分析では母子世帯(離別・死別・未婚の母と20歳未満の子のみの世帯)の母についてダミー変数を用いた。被災地はKawawaki(2018)が用いた岩手県・宮城県・福島県の沿岸の38市区町村と定義し、震災前に被災市区町村に居住していたかを表すダミー変数を用いた。データは国勢調査の調査票情報(2015年)を用いた。各世帯の移動の有無は5年前常住地をもとに、2010年の常住地が2015年と同一住所である場合は1、そうでない場合は0とする。説明変数は母子世帯ダミー、2010年被災地居住ダミーに加え、両変数の交差項を用いる。その他のコントロール変数は年齢、年齢の2乗項、女性ダミー、2010年時点の子供の数、2010年時点の6歳未満の子供の有無ダミー、外国人ダミー、2010年常住地の人口区分ダミー(5万人 or 20万人以上)、その他2010年常住地の地域特性(失業率、人口密度(対数)、離婚率、転出超過率、平均収入、自治体の歳出決算総額に占める民生費率、民生費に占める児童福祉費率)を用いる。分析結果の概要限界効果の推定値より、被災地に居住していなかった世帯主と比較すると2010年の被災地居住世帯主は、2015年も同じ住所に留まる確率が約14.4%低いこと、母子世帯の母はほかの世帯主と比較すると同じ住所に留まる確率が約0.6%低いことがわかる。交差項の限界効果推定では、被災地に居住していた母子世帯の母は、被災地居住のほかの世帯主と比較すると、同じ住所に留まる確率が約6.7%高い結果となった。以上の結果から、東日本大震災の影響を受けた地域に居住していた母子世帯は子供のいる核家族世帯と比較して、同じ地域に居住し続ける傾向が強いことが示唆される。参考文献Elliot, J. R. and Pais, J. 2010. When Nature Pushes Back: Environmental Impact and the Spatial Redistribution of Socially Vulnerable Populations. Social Science Quarterly 91: 1187-1202.Kawawaki,Y. 2018. Economic Analysis of Population Migration Factors Caused by the Great East Japan Earthquake and Tsunami. Review of Urban & Regional Development Studies 30: 44-65.謝辞データは統計法に基づき、独立行政法人統計センターから「国政調査」(総務省)の調査票情報の提供を受け、独自に作成・加工したものであり、総務省が作成・公表している統計等とは異なる。本研究は日本学術振興会特別研究員奨励費(課題番号:20J22386)の助成を受けた。ここに謝意を表する。
著者
石井 久生
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

バスク人は19世紀後半から1970年代にかけてアメリカ合衆国に移住し,主にアメリカ西部において羊飼いに従事した。その多くは,数年間就業して蓄財を果たした後に故地バスク地方へ戻るという還流的移民であった。しかしその一部はアメリカ西部の主要都市に残り,牧羊業やホテル業に参入した。ホテル業はバスク系羊飼いを主たる顧客としたが,アメリカ西部においてはその需要が高かった。そのためバスク系移民が集中するアメリカ西部諸都市には,19世紀末以降バスク系移民を対象とする「バスク・ホテル」が開業するようになった。バスク・ホテルが集中する諸都市では,定住者によりバスク人の組織化が進行した。バスク人の同人会組織である「バスク人会」は,移民の定住が進んだアメリカ西部各都市に1930年代頃から組織されるようになった。当初同人会は,会合の場所としてバスク・ホテルやそれに併設されたレストランを活用していたが,1940年頃から同人会固有の建造物を所有するようになった。それが「バスク・センター」である。その当時バスク・センターはバスク人が集住するアメリカ西部諸都市に建設された。そこに集うバスク人は,同族組織の連帯を強化するための諸活動を展開したが,そのひとつが祝祭である。<br> バスク人が主催する祝祭行事は,「ピクニック」と「バスク・フェスティバル」の2つに大別できる(図1)。ピクニックは屋外でバスク風の食事会,ダンス,スポーツ競技などに興じるものであるが,バスク人が移住するようになった初期のころから,バスク系羊飼いの間で最もポピュラーな行事であったようである。ピクニックで実践される祝祭のスタイルを継承し拡張されたのが,都市部のバスク・センターで開催されるようになったバスク・フェスティバルである。ピクニックがバスク系住民内で閉じた行事であるのに対し,バスク・フェスティバルは地域に開放された祝祭であるため,開催にはある程度以上のバスク系住民の存在が前提となる。そのためアメリカ西部でもバスク系住民の多いアイダホ州,カリフォルニア州,ネヴァダ州の諸都市にほぼ限定される。その歴史は比較的新しく,最も古いカリフォルニア州ベーカーズフィールドのものでも1970年頃からである。ちょうどバスク地方からの移民の流入が収束する時期と一致している点が興味深い。&nbsp;<br> アイダホ州の州都ボイジーでは,1987年にJaialdiハイアルディと呼ばれる最初のバスク・フェスティバルが実施された。1990年以降は5年ごとに開催されており,現在では世界最大規模のバスク・フェスティバルとなっている。このメイン会場となる旧市街の一区画は,1980年代以降バスク関連施設が整備されるようになり,現在「バスク・ブロック」と呼ばれる。この祭典には故地バスク地方が深く関わっている点が興味深い。ちょうど1980年頃に自治を確立したバスク州は,海外在住のバスク人の支援を推進するようになったが,ボイジーのハイアルディに対しては舞踊家などの人材や文化的コンテンツを提供している。かつて羊飼いが移動することで形成されたトランスナショナルなネットワークは,ヒトの移動が途絶えた現在でもバスクに関わる情報が移動するネットワークとして残り,そのネットワークを介して双方の場所でバスクのナショナリティを強化する運動が進行している。ハイアルディが開催される場所は,バスクのトランスナショナリティが表象する貴重な社会空間であるともいえる。
著者
野上 道男
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

&nbsp;対馬海峡の流速は0.5m/sec程度であり(九州大応用力学研WEB公開データ)、速さがその4倍以下の人力船は大きく流される.海図も羅針盤もなく航路距離は測定不可能な値である.そこで倭人伝に記述されている里数は測量による直線距離であると判断される.つまり天文測量である1寸千里法(周髀算経)で得られた短里による数値である.<br><br> 帯方郡(沙里院)から狗邪韓国(巨済島)まで七千余里、女王国(邪馬台国)まで万二千余里、倭地(狗邪韓国と邪馬台国の間)は(周旋)五千里と記述されている.これらの3点はほぼN143E線上にある.この方位線は子午線と、辺長比3:4:5のピタゴラス三角形を作る(周髀算経と九章算術で頻繁に使われている) .帯方郡での内角は36.78度であり(N143.22E)、東南(N135E)あるいは夏至の日出方向を東とする方位系での南(N150E)の近似である可能性が高い.<br><br> 1.2万里は斜め距離であり、南北成分距離は、1.2万里x4/5=9600里である.1寸千里によると日影長の差は9.6寸となる.帯方郡は中国の行政内であるので、日影長による定位が行われていたはずである.現在の知識では郡(沙里院)の緯度は38.5Nであり、日影長は21.53寸と計算できる.それより9.6寸短い11.93寸という値が得られる緯度は31.92Nである.方位N143E線と合わせると郡から1.2万里の点は宮崎平野南部となる.<br><br> 測定誤差に配慮すれば、倭人伝では邪馬台国は九州南部にあったと認識されていたといえる.それより詳しい比定は考古学の問題である.漢文法に時制はなく、「邪馬台国女王之所都」は文意を補って、邪馬台国はかって(倭)女王(卑弥呼)が都して(治めて)いたところである、と読むべきであろう.邪馬台国が倭国の首都であるとするのは明らかに誤読である.<br>
著者
山下 翔
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b>Ⅰ.はじめに</b> 本研究は,近代日本最大の民衆運動とよばれる,1918年の米騒動に,人々の行動に着目して,再検討を試みるものである.米騒動とは,1918年に富山県から始まった,米の安売りを求める民衆運動である.当初は,警察の説得で解散するほどの小さなものだったが,これが都市部へと波及すると,全国を巻き込んだ大規模な暴動へ発展した.これまで,主にその原因や結果の解明に焦点が置かれていた米騒動に対し,その展開過程,特に群集行動に着目して,1日ごとの時間スケールで,詳細な復元を行った.<br><b><br>Ⅱ.名古屋の米騒動</b> 名古屋の米騒動は,1918年8月9日に,人々が鶴舞公園に集まったことに始まる.9日の騒動は,大きな暴動には発展しなかったが,10日以降,鶴舞公園では,連日にわたって,飛び入りの弁士たちによる演説が行われ,演説が終わると,人々は公園を出発し,市役所や米屋へ向かった.米屋だけでなく,交番や商店,民家も多くの被害を受けた.<br><b><br>Ⅲ.集合場所</b> 鶴舞公園は,米騒動だけでなく,1914年の電車焼打事件の際にも,人々の集合場所となっていた.しかし,3日間続いた電車焼打事件では,演説が1日目に行われたのみで,2日目以降の暴動の際には,人々は,襲撃目標である家の付近に直接集合していた.米騒動で群集の主な目的地となったのは,米穀仲買人の密集地である米屋町だった.鶴舞公園は米屋町から4km以上離れた場所で,暴動のために集まるには,集まりにくい場所といえる. では,なぜ人々は連日にわたって,鶴舞公園に集まったのだろうか.電車焼打事件,米騒動の双方において,人々は,演説がなければ,公園を出発して暴動に出ることなく解散している.このことから,米騒動において,人々が鶴舞公園に集まったのは,暴動のためというよりも,演説の聴衆として集まった意味合いが強いと考えられる.すなわち,鶴舞公園は,米騒動において,演説の場所として利用されていた.<br><b><br>Ⅳ.移動経路と襲撃地</b> 公園を出発した後の行動について,新聞記事,裁判記録より移動経路と襲撃地を抜き出して図化し,群集の目的性を検討した.さらに,演説文の主張を併せて考察すると,演説に表れた米屋批判,警察批判が,そのまま群集行動となってあらわれていた.すなわち,群集の大きな目的地は演説の影響を強く受けて決定されていたといえる.しかし,演説では,米屋や警察の批判が行われる一方で,「むやみな暴動は起こすべきではない」という主張も多かった.それにも関わらず,街路での暴動が数多く行われていることには疑問が残る. これに関して,本研究では,これまでほとんど検討されてこなかった『予審終結決定』の後半部分を分析した.この史料には,被起訴者178名がどこから集団に加わり,どのように行動したかが記載されている.この史料を整理すると,名古屋の米騒動の被起訴者は,鶴舞公園から米騒動に参加した者よりも,群集が米屋町に向かう中で,途中の街路から加わってきた者が多い. その行動をみると,鶴舞公園から集団に加わった者は,演説の通りに,暴動を起こすことなく米屋町まで移動している者が多い.街路での暴動を起こしたのは,途中から集団に加わってきた者が中心だった.すなわち,演説を聞いていなかった者が暴動の主体だったと考えることができる.<br><b><br>Ⅴ.おわりに</b> 本研究では,米騒動における群集行動を詳細に復元することによって,「名古屋の米騒動は,鶴舞公園に集まった集団が街路で暴動を起こしながら米屋町に向かった」という通説に対し,実際には米屋町に向かう途中で騒動に加わってきた者が主体となって騒動を起こしていたことを指摘できた.
著者
林 奈津子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.83, no.4, pp.418-427, 2010-07-01 (Released:2012-01-31)
参考文献数
21
被引用文献数
1 1

静岡県西部の太田川下流低地において,1944年の東南海地震の際に生じた,噴砂地点と微地形・浅層堆積物との関係を考察した.液状化現象は一般的に,砂質の堆積物で構成される地表の微地形に対応して発生するとされるが,対象地域では局所的に後背湿地に集中して発生する場合がみられた.調査地における表層堆積物について検討したところ,後背湿地を構成する粘土-シルトの細粒堆積物の下位に,砂質シルト-砂の粗粒堆積物が検出され,噴砂地点の分布と対応することが明らかになった.さらに,この粗粒堆積物は遺跡で検出された埋没旧河道の両岸に認められ,地表の自然堤防構成層と同様の層相であるという特徴をもつことから,埋没した自然堤防構成砂層である可能性が高い.また,この自然堤防構成砂層が母材となった噴砂痕が弥生後期の考古遺跡から検出されており,1944年の地震時には,地表の微地形を構成する堆積物に加えて,このような埋没自然堤防構成砂層が液状化したと考えられる.
著者
細井 將右
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

日本政府は、明治初期、陸軍近代化のため、フランスから陸軍教師団を招聘し、1872年から1880年滞在した。その中に工兵士官が含まれ、工兵教育の一環として地図測量教育が行われ、明治8年最初の『工兵操典』測地之部が1855年のフランスの工兵連隊学校教科書を翻訳して発行された。明治10年代半ば、フランス式の迅速測図が関東地方で作成される中で、全国的な地形図作成には、三角測量が不可欠ということで、ドイツ、プロイセン陸地測量部の方式を採用した。しかし、工兵の測量は引き続きフランス式で、明治22年の『工兵操典第二版』測地之部は1883年のフランス工兵連隊学校教科書の翻訳であるが、明治26年の『工兵操典』測量之部はそれまでに導入したフランス地図測量技術を咀嚼して作成したものとなっている。
著者
相馬 拓也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.119-134, 2016 (Released:2016-08-03)
参考文献数
30

モンゴル国西部アルタイ地域の遊牧民には,イヌワシ(Aquila chrysaetos daphanea)を鷹狩用に捕獲・馴致する伝統が受け継がれている.鷲使いたちは,巣からヒナワシ“コルバラ”を捕獲するか,成鳥“ジュズ”を罠や網で捕獲する方法でイヌワシ(雌個体のみ)を入手する.そして4~5年間狩猟を共にしたのち,性成熟を機として再び自然へと返す「産地返還」の習慣を「鷹匠の掟」としてきた.しかし近年,こうした環境共生観の伝統知は熱心に実践されているとは言い難い.一部のイヌワシの交換,取引,転売は,地域の遊牧民や鷹匠にとって「現金収入」「生活資金源」となることもある.現存のイヌワシ飼育者(n=42)へのインタビューから,1963年~2014年までの52年間で入手履歴222例/離別履歴167例が特定された.しかし新規参入者の停滞に反してイヌワシ入手件数は増加する傾向にある.またイヌワシとの離別では,「産地返還」された個体は47.7%とそれほど高くはなく,「死別」「逃避」が全飼養個体の38.0%を占める.こうした結果からは,カザフ騎馬鷹狩文化がイヌワシ馴化・飼養の伝統知とともに連綿とつちかわれた自然崇拝観の継承・実践も鷲使いたちに徹底させる必要が,いま浮かび上がっている.