著者
笠井 倭人
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.116-132, 1957-03-01

幾度かの結集期を経て成立した記紀系譜は、そのうちに実に多様な歴史的条件を輻輳さしており、後代的な改変・添加のあとをそこに認め得る。記紀研究はまずこの改変・添加のあとを丹念にときほぐし、そのあとを刻明に追求して行くことからはじめねばならない。本論はそうした問題意識のもとに、主として婚姻史料をとりあげ、記紀成立の一側面を考察してみた。そしてその結果、開化天皇以前の皇統系譜・日子坐王系譜・天日矛系譜等の諸系譜には、天武朝の婚姻形態を土台として成立したと思われる要素の存在が明らかとなった。そしてこのことは、その成立をめぐって幾多の議論が重ねられて来た開化天皇以前八代の記載についても、一つの解決の見通しが与えられるであろう。
著者
村岡 健次
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.50, no.6, pp.829-858, 1967-11-01

ロバート・ピールについての評価は、当時においてもそれ以後においても、毀誉褒貶あいなかばするようである。すでに彼の在世中から、誠実な人、稀に見る有能な政治家といったユーロジーから、独裁者的で洞察力に欠ける、いや裏切者だという酷評まで、彼の評価はさまざまであった。さすがに後世の史家で、彼を裏切者ときめつける者はないが、それでも、保守主義の実際家として高く評価するガッシュから、その洞察力の欠如を難ずるセシルまで、彼の評価はあいかわらず二つに分れている。そして、こうなる原因が、周知のように彼の二回にわたる「背信的行為」、つまり、一八二九年のカトリック解放と一八四六年の穀物法廃止にあったのはいうまでもない。この二つの重要な国策決定に際しての彼の行動は、少くとも外見的には、背信の非難を招くのに十分なものであった。彼は、一国の内相ないし首相として、それまでの反対の態度から突如賛成の立場にまわり、両法案の下院通過を指導したからである。だが、ピールのこれらの行為は、はたして背信であったのか。本論は、問題を主としてカトリック解放にしぼり、一九世紀初期の政治環境との関連でピールの思想を分析しようとしたものである。
著者
杉本 直治郎
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.37, no.2, pp.127-147, 1954-04-15

インドシナにおけるインドの一植民地であったチャムパに、初期に移住したインド人が、インドのどの地方から来たものであったか。チャムパの名そのものから、それを探ってみたいというのが、この小篇の目的である。そのため考えられることは、移住民は、たださえ故郷を忘じがたい上に、その移住先に、これを偲ばしめるものがあるばあい、故郷名を附けがちであると思われる限り、この点から、解決の鍵が見出されないであろうか。
著者
堤 一昭
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.75, no.3, pp.p322-357, 1992-05

個人情報保護のため削除部分あり一三世紀後半におけるモンゴル帝国〜元朝の南宋征服戦は、その歴史的重要性から、戦争経過については研究がなされているが、戦争を実行した軍団については研究が手薄である。本稿は、華北戦線に参加したモンゴル軍国を対象とし、軍団長の家系を探り、その歴代の人物の歴史をたどった。探し得た家系はウリャンカン部族スベエテイ家、ジャイラル部族ブジェク家、ナイマン部族マチャ家、タングト部族チャガン家、マングト部族ボロゴン家、フウシン部族タガチャル家、ジャライル部族チョルカン家の七家である。彼らが長となった軍団の軍府名は「蒙古軍都元帥府」「山東河北蒙古軍大都督府」「河南淮北蒙古軍都萬戸府」である。彼らの家系はトルコ・モンゴル系であるが、有力部族長の家ではない。多くはチンギス・ハンとの個人的な繋がりを持つ者を祖先に持つ。オゴデイ・カアン時代の金朝征服戦、対南宋戦を華北への駐屯の始まりとする。軍団長の職を世襲するとともに、行省・行台の高官を務め江南支配に関与した。彼らは、本拠地の所在・所領・官職・行動等からみて、王族や有力部族長の家系に次ぐ層を構成していたと考える。Because of its historical importance, large numbers of studies have been made on the process of the war between the Mongol Empire-Yuan dynasty and the Southern Song. But only a few studies have been made on the army which carried out the war. The author, concerned with the analysis of the Mongolian army which fought at the front in North China, traced the family-lines of the generals of the army from historical sources, and inquired into the personal histories of these families. The seven families which can be found are the Sube'etei family of the Uriangqan tribe, the Bujeg family of the Jalair tribe, the Maca family of the Naiman tribe, the Caɣan family of the Tangɣud tribe, the Boroɣon family of the Mangɣud tribe, the Taɣacar family of the Hu'usin tribe and the Coruqan family of the Jalair tribe. Generals from these families had become the chiefs of the "Supreme Marshal Office of the Mongol Army", the "Chief Military Command of the Mongol Armies in Shandong and Hebei", and the "Supreme Myriarchy Office of the Mongol Armies in Henan and Huaibei". These families were of Turkish or Mongolian descent, but they did not belong to the families of the chief of the main tribe. Many of them had an ancestor who had a personal relationship to Cinggis qan. During the Ogodei era, they were first stationed in North China, in order to fight against the Jin and the Southern Song. They held the rank of general of the army in their family for generations, assumed high official posts of Branch Secretariat and Branch Censorate, and took part in the rule of South China. Judging from the location of their bases, their domain, government posts and actions the author concludes that they comprised the stratum under the royal family and the families of the chief of the main tribe.
著者
森 悦子
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.76, no.4, pp.p553-570, 1993-07

個人情報保護のため削除部分あり
著者
中村 敦子
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.82, no.6, pp.883-911, 1999-11-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
赤阪 賢
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.27-66, 1975-01-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
赤阪 賢
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.p27-66, 1975-01

個人情報保護のため削除部分あり西スーダンの地域的特性は、サハラ砂漠を越えて恒常的に維持された地中海世界ことにイスラム世界との歴史的交渉により、イスラム文化が社会に深く刻印されていることにある。そこでは社会の根底に深い流動性が潜んでおり、従来のアフリカ部族社会論において取られた小宇宙としての部族のモザイク的配列という視点では、西スーダンの地域の正確な把握に程遠い。九世紀以後、相ついで広域的展開を遂げた古「王国」の存在も、こうした西スーダンの地域的特性を如実に示すものである。植民地分割の直前の時代である十九世紀においても、Uthman dan Fodio, Al-haji'Umar そして Samory Ture の'カリスマ的権威を帯びた指導者の征服活動により、広大な政治的領域(しばしば「帝国」と称される) が形成された。これらは互いに色合いを異にしながらもイスラム改革運動をその基盤に持つ点で共通の性格を有している。しかしその領域的展開や領域支配の構造については、各々の社会構成や直面した政治的・軍事的局面により独自の展開がみられるのである。Le trait caractéristique de la région du Soudan ouest, c'est que la culture islamique est profondément imprimée dans la société. Il se fait de la communication, depuis longtemps, avec le monde islamique à la côte sud de la Méditerrané, via le Sahara. Ainsi il y a grande mobilité à la base de la société. C'est pourquoi la modèle des arrangements mosaïques des tribus en qualité des microcosmes, dont on usait dans les études des tribus africaines, n'a pas d'efficacité suffisante pour saisir la réalité de cette région. Ces caractères, se sont-ils montrés déjà dans les développements territoriaux des "anciens royaumes" depuis IXe siècle. Au XIXe siècle même, à la veille du partage colonial, des vastes territoires politiques (on les appelle, de temps en temps, "empires ") ont été formés par les conquêtes des dirigeants, Uthman dan Fodio, Al-hajj'Umar et Samory Ture, tous pourvus de l'autorité charismatique. Ces territoires, avec toutes différences, ont des caractères communs en tant qu'ils tiennent aux mouvements réformistes islamiques. Mais nous retrouvons aussi des particularité de chaque "empire" partant de sa construction sociale, de sa situation politique ou militaire, en ce qui concerne son développement territorial ou sa structure du gouvernement.
著者
溝上 宏美
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.421-454, 2005-05

一九四五年二月のヤルタ会談の結果、ポーランドの東部領土はソ連に併合され、ワルシャワには共産勢力の強い影響を受けた臨時政府が誕生した。当時、ポーランド亡命政府の後見国としてその軍を指揮下においていたイギリス政府は、以降、帰国拒否が予測されたポーランド兵の処遇問題に直面する。四六年初頭、国際的圧力を受けてポーランド軍の解体を迫られたイギリス政府は、帰国拒否兵士の再定住先を模索したが、諸外国だけでなく、英連邦諸国、植民地など帝国内部からも好意的な反応は得られなかった。他に受け入れ先がないなか、最終的に四六年五月、イギリス政府はポーランド兵を国内に受け入れ、その定住を支援する組織としてポーランド人再定住軍団を編成することを決定した。 従来、ポーランド人の受け入れの背景としては、国内の労働力需要が指摘されてきた。しかし、その受け入れ、再定住政策は、対ポーランド政策に留まらない、イギリスのより広範な対外政策によって規定されていたのである。
著者
金井 静香
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.78, no.3, pp.p339-371, 1995-05

個人情報保護のため削除部分あり本稿では、中世における公家領安堵の実態を明らかにし、安堵が公家を編成する上で果たしてきた役割について分析を行った。鎌倉後期、本家や治天の君は、本主へ所領を返付するべく努めていたが、その実現には相当の困難を伴っていた。治天の君の安堵権能と本家のそれとが互いに拮抗する当時においては、安堵者間の相互交渉が、被安堵者を確定する上で重要な役割を果たしていた。また安堵にあたり、申請した公家と安堵者の間の主従制的関係は依然重視されたが、公家領相論が増加する中、安堵獲得のために申請者が満たすべき条件は一層厳しくなった。その結果、安堵が権門・諸家の間の相互関係を混乱させる事態も生じた。このような状況を大きく変化させたのが、建武新政期における後醍醐天皇の安堵政策である。この時期に、家門管領者の地位が安堵対象となり、家領の一括安堵が家門安堵と連動させて行われた。この家門・家領一括安堵の権能は、南北朝期には治天の君の行使するところとなり、それによって家門と家領の相関性が高められた。そして治天の君は、安堵によって公家を編成することが可能になった。
著者
高橋 秀直
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.35-70, 2003-01

個人情報保護のため削除部分あり王政復古政府とは、慶応三年一二月九日の王政復古クーデターより翌年一月三日から始まる鳥羽伏見戦までの政府である。本稿はこれの政治過程と政権構造を明らかにしたものである。政治過程についての主要論点は以下の通り。一、薩摩と徳川慶喜の対立はこの時期、一貫して高まっていたわけではなく、クーデター後しばらくは薩摩は慶喜に対し融和路線をとっており、それが武力対決路線に転じたのは、二四日以降である。二、関東での薩摩の攪乱行動は西郷隆盛の大謀略ではなく、薩摩指導部の見合わせ命令を無視した現地の暴走であった。三、二四日以降、薩摩は開戦を望みながら、公議原理にのっとった名分を見つけることが出来ず苦悩し、薩摩藩邸焼き討ちの報にも事情がわからず困惑していた。政権構造について見れば、その理念は列藩会議を核とする天皇・公議体制であった。しかし、この理念は現実のものとならず、成立したのは、公家倒幕派が決定権をもつ一種の公家政権であった。新政権は武家勢力を十分に包摂できず、この時期、諸藩の割拠傾向は極点にまで達した。公家倒幕派は政権への求心力をたかめるべく、公議原理にしたがった政権運営にむけて動くが、これは政治的には、「公議政体派」への接近を意味し、薩摩倒幕派は窮地に陥ったのである。Keiou 4.1.3. The purpose of this article is to illuminate the actual political processes of the period and analyze the political structure of the regime. As regards these political processes, this article makes the following points: 1, the Satsuma domain, han, maintained a rather conciliatory attitude toward its political rival Tokugawa Yoshinobu after the coup. It was only after December 24th that Satsuma decided to destroy Yoshinobu politically and militarily; 2, the disturbance organized by some Satsuma men in Edo that December was not executed on the order of Saigo Takamori, one of the top leaders of the Satsuma han, but was an arbitrary act of the Satsuma men in Edo, and it took the Satsuma leadership in Kyoto by surprise; 3, after the 24th, Satsuma leaders hoped to attack Yoshinobu, but they felt the necessity of a pretext that many people would feel legitimate. As they could not find such a pretext, they were remained troubled and at a loss until directly prior to the battle of Toba-Fushimi. This article also clarifies some of the characteristics of the structure of this government. The political ideal of the government was that of Tennou-kougi 天皇公議, a government in which the dainyou 大名, lords of the domains, played the core role in a national assembly. However, the actual character of the government was oligarchic, a small clique of kugyou 公卿, elite aristocrats, ran the government. As a result, many domains refused to follow the orders of the government. The authority of the central government had been declining since the arrival of Perry in 1853, but this trend reached its peak with the ousei-fukko regime. In order to enhance the support of the domains for the central government, the kugyou gradually changed their political stance, moving away from support for Satsuma toward Yoshinobu. This move drove Satsuma into a deeper crisis.
著者
浜井 和史
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.1-35, 2004-01

個人情報保護のため削除部分あり対日講和を機に米国務省内では、ハワードやダレスによって「太平洋協定」構想が考案された。それはアジア太平洋地域における包括的な安全保障枠組みの構築を追求するものであったが、「太平洋版NATO」の役割を期待するアジア太平洋諸国の関心とは異なり、講和を急ぐ国務省は、講和後の米軍駐留や日本再軍備など軍部が求める安全保障上の要請を満たし、同時に「寛大な講和」を早期に実現する「装置」として「太平洋協定」を立案した。その意味で米国の関心は当初より限定的であり、集団防衛体制の構築という観点は実際には二義的なものに過ぎなかった。したがって、一九五一年初頭の東京会談において、米国にとって実質的に満足すべき合意が日米二国間でもたらされると、米国はその後の講和交渉において、包括的な「太平洋協定」を実現するという所期の構想に固執する必要を失い、その結果、日米、ANZUS、米比というそれぞれ性格の異なる個別的な安金保障取極めが締結されることになった。
著者
箱田 恵子
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.233-258, 2005-03

一八八六年の「ビルマ・チベット協定」では、ビルマ人の北京への貢使派遣の継続と、英国のビルマ統治とが英国・清朝それぞれによって承認された。一九世紀中国を取り巻く国際環境の変容を、近代条約体制による伝統朝貢体制への挑戦・優越と捉える研究史の文脈からすれば特異な性格を持つこの協定に対し、従来の研究は朝貢という儀礼に限定される中華的宗属関係の特質から説明を行ってきた。つまり、名義上の宗属関係を追求する清朝に対し、英国はハートの建議を入れて「虚名を譲って実利をと」ったと。しかし、このハートの提案が実はマカートニーと李鴻章への対抗策として作成されたという事実は見過ごされている。また、駐英公使曾紀澤と中国本国との外交方針を「積極」と「消極」・「実利」と「虚名」として対比する分析粋組みが一般的だが、実はこうした清末中国外交をめぐるイメージは、ハートやオコナーあるいは李鴻章という双方の交渉担当者が、各々交渉を有利に進めるために強調したものであり、その背景には、中国西南辺境地域の現状を維持したいが十分な統治能力に欠ける清朝の現実があった。つまり、「虚名(朝貢) 」と「実利(ビルマ併合) 」との取引が前面にでる背後で、雲南―ビルマ間の国境・通商という重大問題においては、現状維持を認める妥協が、李鴻章とオコナーを中心に図られたのである。
著者
宮崎 市定
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.40, no.6, pp.441-454, 1957-11-01

産業革命以前の世界史において、中国の鉄産は世界的に重要な意義を有した。戦国時代の頃から中国では鉄器の使用が盛んとなり、漢代に入って一つの頂点を形造る。支那の鉄はローマの市場にまで販売された。漢が匈奴に打撃を与えて之を西方に遁走せしめたのは、鉄製武器のおかげであった。然るに三国以後に入って中国国内は鉄の不足を感じた。クビカセ、アシカセのような刑具をも、従来鉄製であったものを木製品で代用した。この時代に成立したと思われる北方民族の言語の中に、中国語の鉄という言葉が直接受容された形迹がない。ところが唐末から宋初にかけて中国に燃料革命とも称すべきものが起り、石炭を燃して高熱を得、製鉄にも石炭を利用して大量生産が可能となった。ここに世界史上、極東の優位が出現し、支那鉄を利用した蒙古の大征服、これに圧されてトルコ族の西遷という事件も起った。南海方面では中国の鉄が重要な貿易品となり、アラビア半島にまで輸出された。In the world history before the industrial revolution, the iron manufacturing in China was of world-wide importance. The ironwares were extensively used since the age of Chan-kuo (戦国時代 or Warring Kingdoms) and culminated in the Han dynasty. Chinese iron was sold as far as Rome. It was accomplished by iron weapons that the Han dynasty could attack and expel the enemy Huns to the west. After the age of the Three Kingdoms (三国時代), there was lack of iron in China; even the implements of pubishment, however, such as cangues and fettets, formerly ironmade, were replaced with wooden ones. In that language of the northern tribes which appeared to be established in this period, there was no evidence that the Chinese word t'ieh (鉄 iron) was directly introduced. The revolution which deserved the name of the feul revolution, however, broke out from the end of T'ang (唐) to the beginning of Sung dynasty; by mass production in the iron manufacturing realized by using coal, the Far East civilization had the advantage over the world, such as the Mongolian conquest by using Chinese iron and the consequent westward movement of Turks. In the South Seas, Chinese iron became one of the most important merchandise and was exported as far as the Arabian Peninsula.
著者
石田 善人
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.38, no.6, pp.503-526, 1955-11-01

私的土地所有が充分進展していた日本では、それを補うべき共同体的所有(又は占有)は用水・山林等の限られた範囲内に止まつている。鎌倉時代の土豪・名主によつて指導される共同体は、地頭・悪党又は庄官の圧迫を独力で排除する為には、まだ微力であつたから、当然庄園領主のもつ古代的権威に依存せざるを得なかった。かくして抵抗体としての共同体は、上からその芽をつみとられて惣庄として把握される。惣庄は庄園の枠内における農業共同体であったが、庄園の枠は、南北朝内乱の結論として超克せられ、成員を拡大し、共有財を蓄積して次第に農民独自の共同体としての実質を具有し、室町時代には、村落共同体としての惣村に転形される。惣村結合は、その共同体規制も鞏固で経済的基礎も安定しているかに見えたが、階層分化に伴う内部矛盾の激化と戦国大名の干渉とによつて、大永・享禄の交を境として次第に衰退期に入る。往々惣郡にまでその結合範囲が拡大されるのは、惣村の衰退期の現象であり、自衛の為の軍事的組織としての性格が強く、その意味では共同体規制も鞏固ではあつたが、共同体的所有は逆に後退していた。近世初期の村落共同体 - 所謂役屋体制 - は、或る意味では惣村結合の復活と考えられる。本稿は、抵抗組織としての一面と、村落支配の末端機構としての一面とを併有する村落共同体の遅々たる展開を跡づけ、以てその封建社会における構造論的機能を明らかにしようと企図するものである。In medieval Japan where the private ownership was the rule, not exceptional as in medieval Europe the communal ownership was confined to only such small ownerships as of woods and rivers. The communities led by the landed gentry during the Kamakura era was still too powerless to resist the opressions of the sheriffs (Jito 地頭), manorial lords and other misdoings of the routiers. Under such conditions the village communities were compelled to take refuge in the traditional lordships of the madnates. This type of community is what I mean by sosho (惣庄), but it was transformed by the civil wars of the Nanboku-cho (南北朝) and on the wastes after the turmoil there emerged another type of community. The population grew, the communal assets multiplied----in short, it has come into its own. This is the so-son (惣村) under the Muromachi Shogunate. But the so-son was still insecure because of the stratification of the population within itself and the interference of the warring magnates. This will explain to some degree the military character of the community. In this article I aimed to trace the slow and continuous development of the village community and to illustrate it in its proper position under the feudal structure of medieval Japan.
著者
大山 喬平
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.43, no.1, pp.46-69, 1960-01-01

鎌倉時代の一時期に、若狭国で明らかにされるごとく、中世の国衙領は荘園とならんで広大な領域を占めていた。この広大な国衙領は平安末期以来、旧来の徴税領域たる「郷」が解体し、あらたに「別名」が広範なる成立をみせて、それ自体大きな変貌をとげていた。「別名」の形成により、その領主達の領内農民に対する「勧農権」の行使が体制的に確認されるにいたり、時代の進展とともに鎌倉時代の初頭をすぎれば、この勧農権が下地進止権へと継承転化されていくのである。かくして別名の形成とは領主制の生誕を具体的に示すものにほかならぬのであるが、さらにこれは、国衙の各構成員達が、平安末期にそれぞれの職掌に従って国衙の体制を変換させつつ旧来の郷を分割し、数多くの在庁別名を成立させたことによつて、国衙領そのものが体制的に封建的構成へと一定度の傾斜をとげるきつかけともなったものである。As in a period of the Kamakura 鎌倉 era in the Wakasa 若狭 country, the Kokuga's 国衙 territory in the middle ages occupied as large a territory as the manors did. This large Kokuga's 国衙 land changed largely itself by the dissolution of 'Gô' 郷, the former tax-collection area, and by the newly establisheing 'Betsumyô'別名 at large since the end of the Heian 平安 era. The formation of Betsumyô resulted in the systematically authorized execution of Kannô-ken 勧農権, or right for promoting agriculture, by its lords to the peasants within the domains. As time went on, after the beginning of the Kamakura 鎌倉 era, this right was transformed into the Shitaji-shinshiken 下地進止権. Then the formation of Betsumyô means the concrete birth of the landlord system itself, and it motivated the inclination for systematically feudalistic constitution by the Kokuga's land, as a result of each member of Kokuga dividing the former Gô and forming many Zaicho-betsumyô 在庁別名 by changing the Kokuga's system according to each charge at the end of the Heian era.
著者
上垣 豊
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.70, no.5, pp.p766-795, 1987-09

個人情報保護のため削除部分あり過去復古的で、前時代的と思われがちな正統王朝派であるが、七月王政期には近代社会への適合を試みる努力がかなり精力的に行なわれていたのである。とくに、自由を擁護し、選挙権の拡大を求め、ナシオンへの奉仕を公言する潮流が存在したことは注目すべきである。しかし従来フランスの研究者は、こうした主張をデマゴギーとして片付け、その政治思想の分析を怠ってきた。最近になってシャンギーとリアルの二人の研究者が正統主義のより近代的な像をうちだし、通説の修正を迫っているが、逆に彼らの論では正統王朝派の反革命性が不鮮明になっている。本稿の諜題は、正統王朝派内の革新的潮流を代表する、自由正統王朝派のナシオン観と、選挙改革案の分析を通じ、彼らの近代性は、反革命プランの近代化―ナショナリズムと全体主義的要素―の中に求めるべきことを明らかにすることである。
著者
谷岡 武雄
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.319-350, 1973-05-01

個人情報保護のため削除部分あり駿河・遠江の両国々境に展開する大井川扇状地においては、散居景観が典型的に発達している。かかる集落型の起源について、従来は近世初期の成立にかかるものと考えられた。しかし筆者らは、居住地の時間的連続性・居住者の系統性・集落型の継承性という三方向から実態調査に基づくアプローチを行ない、いままでとは異なった結論を得るに至った。すなわち、台地の開析谷・扇側や扇裾の一部においては、大治四年の質侶荘立券文案に示されたごとき条里制に基づく土地割が残存している。また、向榛原の一部には堤防で囲われた輪中地形がある。したがって、洪水から比較的に安全な扇状地上位面(微高地) に居住し、しばしば氾濫する同下位面にて水田を営むという生活が、古代から行なわれてきたことは明らかである。しかも文安二年の請状や嘉吉三年の検地目録に記載された名主百姓の系統を引くものが、現在の散居農家の中に見いだされ、居住者の家系を若干は十五世紀前半まで、ごく一部は十二~十三世紀までさかのぼることができる。かかる事実のうえに立ち、上記立券文および検地目録、土地所有関係、本家~分家関係を検討した結果、この扇状地の大部分では、散居的開発→氾濫による耕地の荒廃→それの再開発という過程が繰り返されたけれども、居住条件が良好なところでは、全体として階層分化が進行し、居住密度が高まりながらも、同じような散居的集落形態が、歴史の諸時期を通じて継承されてきたことが判明した。十五世紀前半以降に見られる集落型の継承は、それ以前の時期においても行なわれたのではなかろうか。世界的に見て、dispersion intercalaire のタイプに属すると思われる日本の散居集落は、古代には集居集落との未分化なかたちであらわれ、遠隔地荘園が経営されるような pioneer fringe において、開拓に伴う集落型として顕現するに至ったように考えられる。There can be found a typical landscape in the boundary area between Suruga 駿河 and Tōtōmi 遠江. And it has been assumed that such a settlement-type has its origin in the early modern age. In this article I investigated this problem from three view points; that is, the continuity of the settlement area, pedigrees of the settlers and succession of the settlement-type. As the result of that investigation I found it out that in this fan man continued to live in just the same dispersed settlement from the early times. I think that type of the settlement existed not only after the first half of the fifteenth century but also before that time. The dispersed settlement of Japan which belongs to the type of the dispersion intercalaire appeared as the form not distinct from the amalgamated settlement in the ancient time and showed itself as reclamation work went on in the pioneer fringe in which remote manors was set up.
著者
上田 早苗
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.p329-349, 1979-05

個人情報保護のため削除部分あり「夫耕婦績」は、太古以来の社会通念であって、とくに儒家独自の思想と言う訳ではなかった。しかし、漢代に至り、儒家の進出とともに、この「夫耕婦績」の理念が押し進められ、社会の末端にまで浸透するようになる。「夫耕婦績」の通念を儀式化したのが、文帝の治世より始まる「藉田親桑」の儀礼である。皇帝が籍田の儀礼を、皇后が親桑の儀礼を執行し、天下の夫婦男女に対して労働の在り方を示そうとしたのである。つまり、家族内部では、性別による分業がおこなわれ、男が耕作を、女が採桑、養蚕、紡績、機織及び裁縫など一連の仕事を分担する。漢代にあっては、女性労働にもとづく布帛の類が正規の課税として徴収されたり、あるいは布帛を以って租税に代えたとする事例は見当らない。魏晋以降の税制は、この「男耕女績」をふまえて成立しており、理念としては夫 (男) から租を、婦 (女) からは調を徴収することを意味し、夫婦の労働によって完結する。The idea of 'fukêng-fuchi' 夫耕婦績 was a very old one and did not belong exclusively to the Confucian school. But in the Han period, with the rise of Confucian school, that ideology penetrated every section of society. And the ceremony of 'chieh t'ien-ch'ing sang' 藉田親桑, which made it an established manner, was initiated in the reign of Emperor Wên 文帝. That is, both emperor and empress set an example of the way of labor by themselves. Since then, as sexual division of labor was established, man began to take the part of cultivation and woman of picking mulbery leaves, silkworm-raising, silk-reeling, weaving and sewing. Though we cannot find the case in which the silk produced by woman was collected as regular tax, the tax systems after the Wei-Chin 魏晋 periods were based on the 'fukêng-fuchi' idea, which means that tsu 租 was assigned to man and tiao 調 to woman.
著者
君塚 進
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.44, no.6, pp.909-925, 1961-11

いわゆる両港両都開港土市延期交渉の為、竹内保徳を正使とする一行が、文久元年~二年 (1862~63) にわたり、欧州六箇国に派遺された。この一行は、それが鎖国のあと最初の欧行であり、かつ当時日本との間に最も外交上問題の多かつた英・仏・露 (樺太定境の目的もある。) へ使することからして、各国事情の偵探が、また大きな目的であつた。組頭柴田剛中の日記によれば、全行程は、(一)、往路、(二)、五箇国巡行、(三)、普仏再渡、(四)、復路に分けられるが、ここでは (一) を紹介する。江戸出発 (十二月二十二日) 後最初の外地香港には、事情探索に一週間の滞在をしているが、これには当時の米国の南北戦争の影響があつた。以後シンガポール (太平天国の乱を探る。) はじめ、英アジア政策上の要点を辿り、エジプト (トルコ領) を経て、マルセーユに到着 (三月五日) しているが、エジプトおよびマルタでは「仏器先後渡」の紛糾が起つた。これ等実際の体験により、一行の国際感覚は大いに高められた。In order to postpone the foreigner's residing period in Edo 江戸 and Osaka and to open the ports of Niigata 新潟 and Hyôgo 兵庫, the party, leaded by Yasunori Takeuchi 竹内保徳, was sent to the six countries in Europe, such as France, England, Holland, Prussia, Russia and Portugal, from 1862 to 1863; this meant the first travel to Europe after a long national isolation and the Important mission of investigating the condition of these countries with which our country had many diplomatic problems. According to the diary of Takenaka Shibata, chief attendant, we can divide their whole travel into four parts, (1) the outward travel, (2) the round travel of the five countries beside Portugal, (3) reentrance into Prussia and France, and (4) the return travel. This article treats the section (1) the outward travel. After the sailing from Edo 江戸 on January 21st, through Nagasaki 長崎, they stayed for a week in Hong Kong to investigate conditions there, this long stay which was under the influence of the Civil war in America. And then, passing Singapore at first and other points for the English advance to Asia, through Egypt of the then Turkish territory (under the construction of Suez Canal), they reached Marseilles on April 3rd. On the way they investigated in Singapore they investigated the Boxer Rebellion and in Egypt and Malta some trouble happened between France and England about the problem whether first landing place should be France or England. Through these experiences they had their international sense more improved.