著者
古沢 直人
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.73, no.2, pp.p198-237, 1990-03

鎌倉末期における幕府訴訟制度の実態については、職権主義・即決主義が台頭し、和与が盛行するという指摘が行われているが、末期訴訟制度を最も特色付けるものは、むしろ欠席裁判の激増という問題である。この事態は、訴訟当事者の裁判への召喚命令無視という行為の増大を背景とし、幕府がそれに対して、成立後約半世紀にわたって実際の発動を行わなかった御成敗式目三五条の規定を機械的に適用したためであるが、結果的に裁判の半数近くが「欠席裁判」となったのが末期幕府訴訟制度の実態であった。この欠席裁判の問題は、これが最も激しく見られた九州、屈折した形をとった畿内・西国、辺縁部を中心にして鎌倉周辺では少なかった東国等、それぞれ地域的な個性をもって展開し、各地域の社会矛盾や権力関係などがそこに反映されていた。しかし同時に、共通の本質に支配されており、この点の解明が全国一斉に鎌倉幕府打倒に結集した原因を探る鍵である。
著者
根津 由喜夫
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.70, no.1, pp.p44-72, 1987-01

十一世紀後半、ビザンツ帝国政府はマルマラ海に面した港町ライデストスに穀物専売制を導入した。この事件は、当時、帝国の置かれた政治・社会・経済の諸状況を理解するうえで、きわめて貴重な知見を我々に提供してくれる。本稿では、この事件に当事者として関係し、互いに対立する立場にあった二人の人物、すなわち政府高官ニケフォリツェスと史家ミカエル=アッタレイアテスに焦点を当て、彼らの意識の内面に迫ることで、この政策を実施した当局側の真のねらいと、それがやがて失敗に帰した要因を分析し、あわせて当時の時代状況を捉えようと試みた。その結果、ニケフォリツェスの一連の施策は、危機に瀕した帝国を立て直すため、経済活動への介入により、集権的国家体制の再建を意図したものであったこと、しかるにその失敗は、自己の所領で半ば自立的な生活を送る属州貴族たちの生活様式が中央政府内部に同調者を見い出すほどに浸透し、彼らに有利な自由な経済体制がもはや押しとどめられぬほどに進展していた結果であることが判明した。
著者
根津 由喜夫
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.p260-293, 1991-03

一〇二五年、バシレイオスニ世没時のビザンツ帝国は繁栄の絶頂にあるように思われた。だがその一方で、従来の膨張主義的な対外政策は限界に達しようとしており、国内でも、貴族勢力の台頭に伴なう社会の変質が進行していた。本稿の課題は、この時期にビザンツの帝位を占めたロマノス三世アルギュロスの行動の軌跡を追うことで、こうした過渡的時代のビザンツ皇帝権のあり方を考察することにある。とりわけここでは、皇帝が敢行した軍事遠征に焦点を当て、それが彼の政権強化策のなかで占めた重要性を解明したいと思っている。そこで、我々は、彼が皇帝に登位するに至る経緯と、彼の政権の主要構成員の特徴を明らかにすることで、ロマノスが大遠征に乗り出した動因を検証し、さらに、遠征の前後に発生した陰謀事件の分析を通じて、この軍事行動の失敗が彼の権威の失墜を必然たらしめたことを理解することになるのである。
著者
根津 由喜夫
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.80, no.5, pp.639-675, 1997-09

十一世紀の後半に相次いでビザンツ皇帝となったイサキオス一世とコンスタンティノス十世の治世は、対照的な外見を呈している。前者は典型的な軍人皇帝として軍備強化と厳しい緊縮財政を推進したのに対し、後者は民政を重視し、支持者に気前よく財貨を分配した。本稿の課題は、こうした両者の統治スタイルの違いが、彼らの追求した政治的課題の内容に起因していたことを立証することにある。考察の結果、小アジアの有力貴族出身のイサキオス一世が、自らの社会的背景を無視し、国家公権の強化、皇帝独裁権の確立を図ったことが彼の孤立と最終的な退陣を招いたこと、逆に貴族層の利害を尊重し、王朝樹立に精力を集中したコンスタンティノス十世は、貴族たちへの統制力を低下させ、軍事的危機が深刻化するなかで、充分な支配権を行使できなくなり、それが息子への権力継承の阻害要因になったこと、が明らかになった。
著者
井上 勝生
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.66, no.5, pp.p599-647, 1983-09

幕末の長州藩を素材として、藩体制の絶対主義化の前進を検証し、絶対主義化の要となった権力機構、推進者、そして権力闘争の展開を検討する。これによって、形成過程の日本絶対主義と幕藩体制の連続の問題、および絶対主義の日本的特質の一端が明らかになると思う。長州藩の藩体制の絶対主義化は、安政五年の藩政改革から始まる。要となった権力機構は、従来から存在した御前会議である。この改革によって、御前会議は、「規格(掟) 」とされ、拡大強化された。御前会議で藩主と政府員が決定した政策は、藩主の親政によるものであり、藩主の上意であるとして、藩士に強制されたのである。まず、このようにして、保守的家臣団の反対が強かった洋式軍制改革が強行される。やがて御前会議は、藩士大衆の意向を無視して、独自に政策を決定し、これを藩士に強制する機構となる。それを証明する事例のひとつが、文久二年、政府員内部の反対をすらも押し切って、尊王攘夷の藩是を決定した御前会議である。当然、藩士からの、この藩是にたいする反抗は強く、政府は、苦境に陥る。周布政之助、木戸孝允、高杉晋作は、この反抗を抑圧するために、文久三年、藩政改革を行い、江戸と萩に分かれていた藩政府を一元化するなどの、藩制の基本にかかわる改革を行った。権力機構の集中化であり、御前会議も、日常的に藩主が臨席する政事堂へと発展する。この権力集中を推進したのは、すでに藩政の実権を握り、天保期から「有司」と呼ばれていた、右筆(のち政務座役) を始めとする実務役入である。 「有司」の系譜のひとつは、天保改革の指導者、村田清風に始まり、周布、木戸へと続いている。彼らは、いずれも要職の右筆から昇進し、御前会議の主導権を握り、藩の絶対主義化を推進した。したがって、藩体制の絶対主義化は、実体としては、 「有司」の専制、形式としては、藩主の親政という独特の複合した構造を持っている。本稿は、これを「日本的な親政の体制」と呼ぶ。文久期までは、藩主の親政という形式が前面に出て、 「有司」の専制は、背景にあった。しかし、反政府派の反抗によって、藩主の弱体が明らかになり、慶応期には、 「有司」の専制の実体が前面に登場する。これは、親政という形式の希薄化であり、この形式から出発した藩体制の絶対主義化の崩壊は、避け難いのである。長州藩の「有司」は、日本の有司とならざるをえない。
著者
上島 享
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.75, no.4, pp.p514-553, 1992-07

成功は「売位・売官」といわれ、その消極的側面が強調される傾向が強いが、本稿は国家財政の中で成功制という経費調達制度が果たした役割を積極的に評価し、その展開を考察しようとするものである。本稿では、地下官人の成功をとりあげ、国家財政の中でも恒例・臨時の公事に要する経費調達を中心に分析を行った。 成功制という経費調達制度は、一○世紀後半に造営事業の請け負いにおいて出現し、一一世紀後半には用途進納形態をも含み込み、幅広い経費調達が可能となった。一〇世紀後半に再編された国家財政では経費は国宛(諸国に割りあてること) により賄われていたが、一一世紀末の受領統制の弛緩、一二世紀中期の庄園公領制の確立により、国宛は順次、その経費調達機能を低下させた。これに対応し、地下官人の成功が多用されていく。一二世紀中期より、成功での経費調達を目的に臨時除目が行われるようになり、ここに成功制は国家財政の一翼を担うに至るのである。また、衛門・兵衛といった官職が広く社会に浸透する起源は、一二世紀中期の成功制の変化に求められると考える。
著者
中町 美香子
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.88, no.4, pp.546-575, 2005-07

里内裏は、平安宮内裏焼亡を契機として平安中期に出現した京内(里) の天皇在所であるが、以降、次第に平安宮内裏に取って代わっていく。里内裏の空間構造に関して、その邸宅の周囲三町四方に、大内裏に擬せられる「陣中」という空間が存在することが、先行研究で指摘された。それは里内裏の性格や意義を考察する上で重要な指摘であった。しかし、その空間の成立や変化などについてはまだ検討の余地があると考え、本稿ではその再検討を行った。得られた結論は、里内裏には、平安宮内裏の「陣中」から連なる衛門陣を境界とする邸宅内陣中と、邸宅の外に広がる三町四方の邸宅外陣中の、二つの「陣中」が存在し、邸宅外陣中の確立は一一世紀末であるというものであった。そして、その確立は里内裏の一つの変質点であり、白河朝からの、里内裏本宮化という皇居制度変革の流れの中に位置付けられると考えた。The sato-dairi first appeared during the mid-Heian period when the Heiankyu- dairi (originally the residence of the emperor) burned down and it became a temporary imperial residence in Heiankyo (sato 里). Thereafter, the sato-dairi gradually came to replace the Heiankyu-dairi. Previous studies have pointed out that in regard to the spatial-structure of the sato-dairi there existed a residential area called the jinchu (陣中) that extended out for a distance of three cho (町) in each direction, patterned on the Heiankyu. These findings are an important factor in considering the character and significance of the sato-dairi. However, I believe there has been insufficient consideration given to the formation and changes in the jinchu, and thus I have carried out a re-examination of the jinchu in this study and arrived at the following conclusions. I believe there were two jinchu in the sato- dairi. One jinchu assumed the character of the jinchu in the Heiankyu-dairi, with gate of the residence serving as its border. The second jinchu extended outward 3-cho every direction from the residence. The latter was formed at an end in the eleventh century. I have concluded that its formation was a turning point in the development of the character of the sato-dairi, and it can be judged a part of a series of changes in the imperial palace system instituted from the time of the Emperor Shirakawa.
著者
高橋 秀直
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.76, no.5, pp.673-709, 1993-09-01

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出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.42, no.3, pp.460-463, 1959-05-01

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出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.40, no.3, pp.263-263, 215, 1957-05-01
著者
藤井 崇
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.86, no.6, pp.765-799, 2003-11-01

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著者
藤井 崇
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.86, no.6, pp.765-799, 2003-11

近年、ローマ共和政をめぐる議論が盛んである。クリエンテラを基盤としたノビレス貴族が排他的な貴族政を展開したという従来の通説にたいし、一般市民の制度的権利を重視すべきとの見解が提出され、統一的な理解はいまだ形成されていない状況である。本稿は、この問題を考えるために、共和政中期の同時代史料、ギリシア人歴史家ポリュビオスの『歴史』を分析した。議論は、まず、『歴史』第六巻の混合政体論の検討から進められる。これは、「共和政=民主政」論の重要な根拠となるものであるが、考察の結果、混合政体中の民主政的要素の実態は上層のローマ市民であり、混合政体論は一般市民の政治的重要性を示唆するものではないことが明らかとなった。さらに、『歴史』全四〇巻を体系的に考察したうえで、ポリュビオスは前一六〇年代以降のローマ国政を混合政体からの没落と把握していること、そして、その国政変化に一般市民の政治的意義の増大を看取していることを指摘した。そして、以上の分析で明らかになったポリュビオスの認識を軸としながら、『歴史』以外の史料もあわせてローマ国政を具体的に検討し、前一六〇年代以降、一般布民の政治的重要性が国政において顕著になっていること、その政治的重要性は静態的な制度的権利ではなく、徴兵忌避などにみられる直接的な政治的圧力に基づいていることなどを、最終的に結論として提示した。
著者
米田 治泰
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.47, no.2, pp.249-278, 1964-03-01

聖俗貴族の大土地所有とそれにもとずく小土地所有農民の隷属化は、十一批紀ビザンツにおいて、もはや国家の阻止しえざるものとなっていた。十一世紀末に成立したコムネノス朝は、それ自体、小アジアの軍事貴族であり、他の「同等者」の利益を無視することは許されなかった。ここに、レーン的結合を構成するというよりはむしろ皇帝による恩賞行為に近いのではあるが、皇帝と貴族の結合、前者の後者把握を可能ならしめるべき一種の「条件」が生起した。それは手短かにいえば、国家による「一定数量の農民、国税収入の贈与・移譲」であるが、単なる好意を越えて、国家の必要、特に軍事的な必要を充分させる意図も持っていた。我々はこの「条件的土地保有」をプロノイアに、さらにはアリスモス、カリスティキアに見るのであるが、それらの具体的内容、実体をどう理解するか。「ビザンツ封建制」は屡々、アウトプラギア (自発的徴税権) から構成されるといわれ、この点からいっても、条件的保有は少なからぬ意味をもつのであるが、そこに生ずる領主・農民関係はどうであったか。本稿は、こうした間題に若干の考察を加えんとしたものである。
著者
山尾 幸久
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.56, no.6, pp.900-922, 1973-11-01

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著者
図師 宣忠
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.90, no.2, pp.268-300, 2007-03

近年、修道院が編纂したカルチュレールに関する研究は隆盛を見せている。それに比して、都市カルチュレールを扱った研究は少ない。本稿は、南フランス都市のトゥールーズを対象として、都市によるカルチュレールの編纂の意味を探っていく。公証人の登場と文書量の増加という一二世紀以来の流れのなかで、都市はいかなる目的でカルチュレールを編纂したのか。また、その編纂作業を担った社会集団の活動は、都布社会においてどのように位置づけられるのか。こうした点の検討から、本稿では以下のような指摘を行なった。都市トゥールーズのカルチュレールは、一二世紀初頭の都市と周辺諸勢力との関係のなかに自らを位置づける手段として作成され、都市アイデンティティを象徴する書冊と看做されていた。これには、一二世紀後半以降の都市における公証人による文書作成の慣行が背景にあり、都市のコンシュルは、公証人が作成した文書の有効性を強調することで、トゥールーズの公証人の文書に特権的な地位を与えていた。こうしたコンシュルの権力と密接に結びついた公証入の存在が、都市カルチュレールの有効性を都市内外に示すことを可能にしていたのである。
著者
上垣 豊
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.p612-648, 1995-07

最近の研究によれば、一九世紀もなお、フランス貴族は財産を保持し、根強い社会的な影響力を維持し、革命後の社会にも適応能力を示したとされる。本稿ではこのような研究動向を踏まえつつ、一九世紀における貴族と国家の関係を論じた。そのなかでも七月革命による貴族制度の実質的解体に注目し、近世貴族制の特徴である「公式のエリート」としての貴族の属性がこれ以後失われることを強調した。また帝政と復古王政の「新旧エリート」の融合政策は旧貴族内部で進んでいた統合の動きと矛盾していたことを明らかにし、さらに七月革命後顕著となる「偽貴族」現象を貴族の国家からの自立との関連で論じた。ただし、名門、あるいは富裕な貴族は立身出世し、国家の要職につくことを望み、富裕でない貴族に関しては副収入源として官職に頼らざるをえなかった。貴族の近代国家への統合はむしろこうした形で進んだのであろう。
著者
佐藤 宗諄
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.47, no.5, pp.631-665, 1964-09

公民の分解もすすみ、律令的な土地制度も負担体系も根本的に動揺していたにも拘らず、とにかく九世紀を通じて、まがりなりにも律令政治が展開しえたことは事実である。それが基本的には律令的支配階級にとってかわるべき階級的勢力の未熟さによっていたこともまた周知のことである。だが直接政治の局面について考えると、それは当時、国家によって "良吏" として把握された官人-とくに国司-逹を分析することによって理解できるようである。彼ら "良吏" はまぎれもない律令官人でありながら、従来にはみられない現実性をもっている。本稿ではそれを論証するために、六国史の史料性を検討することからはじめ、その登場の要因等を考察し、その歴史的性格にまで論及したつもりである。本稿でその分析の中核として、わざわざ数的には例外とも考えられそうな "良吏" に注目したのは、従来のように彼らを例外としてのみ理解することによっては、この律令政治の多様な可能性を含む崩壊過程を正しく把握できないと考えたからに外ならない。 まだ九世紀には "良吏" のもとで公民の大多数が基本的には国家に対抗するよりも依存する動きを示さざるをえなかったことが、この政治の一応の成功の原因であったし、それが次に律令国家を変形させた古代国家としての摂関政治体制の出現を保障する一つの前提的役割を果したと考えられるのである。In spite of the dissolving public 公民 and the tumultuous landholding and tax-bearing systems, it is the fact that Ritsuryo 律令 government could develop at any rate; and it is also established that the fact was substantially due to the immaturity of the class power to take the place of the ruling class in Ritsuryo government. A study on the aspect of direct governing enables us to understand it by analysing the then officials……especially Kokushi 国司……taken for "Ryori" 良吏 by the state. They, "Ryori", had, in spite of the very officials of Ritsuryo government, the reality that had never been seen before. To demonstrate it, this article, starting from the judgement of the importance of Rikkokushi 六国史 as a source book, traces to its cause of entrance on the stage and is to reach for its historical character. The opinion that the dissolving process of Ritsuryo government with verious possibility cannot be properly understood by the traditional treatment of "Ryori" only as a exceptional case is the reason why "Ryori" was taken as a subject for consideration. The fact that most of the public 公民 under the "Ryori" in the nineth century still had substantial trend for the movement depending on the state rather than against the state caused a temporary success of this government, and in turn played an assuming part to secure the establishment of the Sekkan 摂関 political system as an ancient state which transformed the Ritsuryo state.