著者
田島 公 山口 英男 尾上 陽介 遠藤 基郎 末柄 豊 石上 英一 藤井 譲治 金田 章裕 西山 良平 坂上 康俊 西本 昌弘 本郷 真紹 加藤 友康 武内 孝善 田良島 哲 渡辺 晃宏 石川 徹也 石川 徹也 山口 和夫 藤原 重雄 稲田 奈津子 遠藤 珠紀 三角 洋一 月本 雅幸 吉川 真司 小倉 慈司 綾村 宏 杉橋 隆夫 桃崎 有一郎 島谷 弘幸 猪熊 兼樹 馬場 基
出版者
東京大学
雑誌
学術創成研究費
巻号頁・発行日
2007

禁裏(天皇家)や主要公家文庫収蔵史料のデジタル画像約100万件、東山御文庫本・伏見宮家本の1画像毎の内容目録約20万件を作成し、編纂所閲覧室での公開準備を進めた。木簡人名データベースと漢籍の受容を網羅した古代対外交流史年表を公開した。『禁裏・公家文庫研究』3・4、研究報告書4冊等を刊行し、禁裏・主要公家文庫の家分け蔵書目録を公開した。「陽明文庫講座」「岩瀬文庫特別連続講座」等市民向け公開講座を約百回開催し講演内容の一部を一般向けの本として刊行した
著者
田島 公 尾上 陽介 遠藤 基郎 末柄 豊 吉川 真司 金田 章裕 馬場 基 本郷 真紹 山本 聡美 伴瀬 明美 藤原 重雄 稲田 奈津子 黒須 友里江 林 晃弘 月本 雅幸 三角 洋一 川尻 秋生 小倉 慈司 渡辺 晃宏 桃崎 有一郎 北 啓太 吉岡 眞之 山口 英男 金子 拓 遠藤 珠紀 原 秀三郎 神尾 愛子 名和 修 名和 知彦 内海 春代 飯田 武彦
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(S)
巻号頁・発行日
2012-05-31

東京大学史料編纂所閲覧室で東山御文庫本、陽明文庫本、書陵部蔵九条家本・伏見宮家本など禁裏・公家文庫収蔵史料のデジタル画像約100万件を公開した。高松宮家伝来禁裏本・書陵部所蔵御所本の伝来過程を解明し、分蔵された柳原家本の復原研究を行い、禁裏・公家文庫収蔵未紹介史料や善本を『禁裏・公家文庫研究』や科学研究費報告書等に約30点翻刻・紹介した。更に、日本目録学の総体を展望する「文庫論」を『岩波講座日本歴史』22に発表し、『近衞家名宝からたどる宮廷文化』を刊行した。
著者
金田 章裕
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.49, no.4, pp.249-266, 1976-04-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
44

摂津・河内・大和・山城・伊勢・尾張などでは条里地割の内部に島畑が存在している.このような島畑景観の起源は条里地割そのものの起源とは別に検討を必要とするものであり,文献史料と現地の地割形態との対比の結果,明確に確認されるのは14世紀末であり, 12世紀以前においてはまだ形成されていなかったと考えられる.律:令制下では本来畑は制度的に田と異なり,かつその評価も低かったが,11世紀以後の制度的な差異の消滅および土地利用の進展の結果,例えば15世紀初めには田畑が同一の評価を受けていた例も確認される.この頃には従つて田畑共に有効に利用する集約的な土地利用形態と結びつく島畑景観形成の経済的・社会的条件は一応満足することとなり,前述の起源とも合致する.このような島畑景観形成のプロセスは,微地形・表層地質の調査・検討の結果とも矛盾せず,むしろ検証されるものである.
著者
金田 章裕
出版者
一般社団法人 人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.34, no.3, pp.193-214, 1982
被引用文献数
1

1. The Jori Grid Pattern System is characterized by an interval network of paths and ditches, which divide a given area into units measuring approximately 109m square. By the middle of the 8th Century the system consisted of such a grid pattern, with the arable land in each section divided into regular allotments. About the middle of the 8th Century a new system was introduced, by which the entire Jori System was organized into &ldquo;Jo&rdquo;, &ldquo;Ri&rdquo; and &ldquo;Tsubo&rdquo;. The &ldquo;Tsubo&rdquo; was the smallest section of the square, consisting of approximately 1.2 hectares, the &ldquo;Ri&rdquo; comprised 36 &ldquo;Tsubo&rdquo;, or approximately 654m square, and the &ldquo;Jo&rdquo; was a liniar arrangement of &ldquo;Ri&rdquo;, whose exact organization varied according to region.<br>In some provinces, such as Settsu, Sanuki and Awa, historical evidence shows that the system of land unit indication followed three stages, as follows: 1) according to former small place names 2) according to the Jori Numbering System with place names attached to it 3) according to the Jori Numbering System only<br>A number of historical materials show the process from 2) to 3) in Yamato, Yamashiro, Iga, Ohmi and Echizen provinces in accordance with the fixation of the Jori Numbering System. However this Jori Indication System was not introduced at a time. In Yamashiro province, this system was introduced by 743, but in Sanuki, it came after 757 and before 763, and in Settsu, after 756 and before 767.<br>2. The former type of small place name was divided or changed to fit with the Jori Grid Pattern in stage 1) or 2). This process is shown for Kuso-oki region, Echizen Province in the 8th century (Fig.7). Some of former types of small place names, which were quite extensive (See Fig.7 Left), were divided and changed (See Fig.7 Right) in accordance with increase in arable land.<br>However all of the former types of small place names were not divided in the 8th century. In the Kinki District (near the Capital of Ancient Japan), the greater part of those place names already fit the Jori grid pattern, as shown in Fig.6, but others fit only partially, as shown in Fig.5.<br>In the case of Echizen province, not so far from the capital, those place names partly fitted or were in the process of such adaptation as above mentioned. In the case of Etchu province, far from the capital, such place names were not divided as shown in Fig.8. In the last case, the Jori Indication System was established at once, but the enforcement of the Jori Grid Pattern was probably incomplete, and the Jori Indication System does not seem to have been fixed perfectly.<br>3. After the enforcement of the Jori Grid Pattern and the fixation of the Jori Indication System, the latter began to deteriorate. An early sign of this process was found in the 10th century. In medieval times the small place name began to be used side by side with the Jori Indication System. Almost all these new small place names designated the smallest section of the Jori Grid Pattern. By the end of the Medieval Period, this small place name system became generalized even on the Jori Grid Pattern.<br>4. The plan of the Jori Grid Pattern was completed in the middle of the 8th century, with the introduction of the Jori Indication System. This plan undoubtedly was connected with Handenshuju, one of the important policies of the ancient &ldquo;Ritsuryo&rdquo; period, but &ldquo;Ritsuryo&rdquo; was established by 701 at the latest. Accordingly, the plan of the Jori Grid Pattern, especially the Jori Indication System, was not peculiar only to &ldquo;Ritsuryo&rdquo;. It was necessary for registry affairs rather than for Handenshuju itself. Since the 8th century, the bureaucratic procedures for distinction between private lands and government owned lands became very important, in accordance with the increase of private land.
著者
金田 章裕
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.1-20, 1986
被引用文献数
1

条里プランの完成・変容・崩壊のプロセスやその古代・中世における機能について,絵図類における表現に注目しつつ,包括的な検討を進めた。<br> 条里プランは, 8世紀の中頃に,すでに存在していた条里地割に加えて条里呼称法が導入されることによって完成した.これは,三世一身法と墾田永年私財法の下での私領の増大と,それに伴う土地の記録・確認作業の急増に対応するものであったと考えられる.従って,条里プランは律令と共に中国から直輸入されたものでも,班田収授の開始と共に完成した形で存在したものでもなかった・また,唐代中国の一般的な土地表示法とも異なっており,古代日本の実情に合わせて次第に完成度を高めていったものであり,この点では都城プランにおける土地表示法とも同一軌道上にあった.<br> このような条里プランは,一条一巻として作製された班田図に明示されて使用されたが,これには条ごとに里を連続して描いたものと,条ごとではあっても,里を一つ一つ個別に描いたものとがあったと考えられる.現存する絵図類には,この双方の様式を反映したものを確認することができる。<br> このような条里プランは,班田制崩壊後もさまざまな土地関係の許可あるいは権利・義務などの単位として,中世に至るまで重要な役割を果し続けた.とくに坪の区画が果した意義は大きく,これが今日まで広範囲にわたって条里地割を存続させ,村落景観の基盤となっている大きな理由である.<br> これに対して,里の区画の方は条里呼称の単位として以上の機能を本来は有していなかったが,荘園あるいは村の境界として使用された場合もあった. 条里プランは,定着度の高い地域では16世紀まで機能し続けたが,中世には必要:性や情報量の多寡によって,絵図類などの表現にさまざまな間違いを生じていることもあった.<br> 以上のような条里プランの完成・定着・崩壊のプロセスとともに,土地表示法は典型的には,古代的地名の条里地割に対応する分割ないし再編,条里呼称法と古代的小字地名の併用,条里呼称法のみによる表示,条里呼称法と小字地名の併用,といったプロセスをたどり,遅くとも16世紀末までに,現状のように小字地名のみによる表示法へと変化した.これらの各段階は歴史的な社会的・経済的段階と対応するものであり,同時に日本の村落景観の形成プロセスないし画期にかかわるものである.条里プランは,日本の歴史地理研究において,重要:かつ有効な手がかりとなるものである.
著者
小林 健太郎 金田 章裕
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.78-98, 1988-05-31 (Released:2008-12-25)
参考文献数
143
被引用文献数
1 1

比較的実りの多かったこの10年間の日本歴史地理学の成果のうち,以下の6つのテーマについて,その動向を紹介した。 作物栽培の起源は縄文早期に,水田稲作は縄文晩期に湖るようであり,水田分布は弥生中期に本州北端にまで達し,弥生・古墳期の水田のほとんどが極めて小区画であるという従来とは大きく異なった考古学的知見が得られた。 2) 古代都市の復原研究が進み,中国と日本の都城の比較研究も行なわれて,類似点と相違点についての知見が加わった。日本における都市計画の起源にかかわる議論も行なわれた。交通路の研究も活発であり,律令期における整然とした直線状の道路計画の展開の実状が知られるに至った。これらの都市や主要施設の立地・配置とその計画における同時代の人々の空間認識についての議論も始められた。 3) 条里地割と条里呼称法とからなる条里プランが,従来の通説とは異なって, 8世紀の中頃に完成したものであることが判明し,それが古代・中世において果した役割や,広範囲に分布する条里地割をめぐる議論・分析が進んだ。古代・中世の条里地割内部やそれ以外の部分の土地利用についての研究も主要な研究テーマの一つとなった。村落の領域や形態についても研究が進展し,広範な集村化現象や散村の展開の事実も知られるに至った。 4) 中世の市場集落の分布や景観についての研究が進展したが,商品流通からみると当時は市場の有機的な階層構造が成立していなかったとの主張も行なわれた。日本歴史地理学の主要なテーマである城下町研究も進展し,特に,先駆的な戦国城下町や城下町の構造をめぐる議論が展開した。 5) 近世の藩政村と村落共同体との関係や,村落の構造に関する研究が蓄積され,労働・結婚をめぐる人口移動についての研究も発表された。従来からの新田開発研究に加え,近世農書を資料とする分析も加わった。 6) 中・近世の日本では,様々な絵図が数多く作成されたが,これらの絵図の従来からの分析に加え,これらを用いて当時の空間認識にせまろうとする研究が始められた。又,中世の説話から生活空間の深層構造にせまろうという研究も展開した。
著者
金田 章裕
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.1-20, 1986-06-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
28
被引用文献数
2 1

条里プランの完成・変容・崩壊のプロセスやその古代・中世における機能について,絵図類における表現に注目しつつ,包括的な検討を進めた。 条里プランは, 8世紀の中頃に,すでに存在していた条里地割に加えて条里呼称法が導入されることによって完成した.これは,三世一身法と墾田永年私財法の下での私領の増大と,それに伴う土地の記録・確認作業の急増に対応するものであったと考えられる.従って,条里プランは律令と共に中国から直輸入されたものでも,班田収授の開始と共に完成した形で存在したものでもなかった・また,唐代中国の一般的な土地表示法とも異なっており,古代日本の実情に合わせて次第に完成度を高めていったものであり,この点では都城プランにおける土地表示法とも同一軌道上にあった. このような条里プランは,一条一巻として作製された班田図に明示されて使用されたが,これには条ごとに里を連続して描いたものと,条ごとではあっても,里を一つ一つ個別に描いたものとがあったと考えられる.現存する絵図類には,この双方の様式を反映したものを確認することができる。 このような条里プランは,班田制崩壊後もさまざまな土地関係の許可あるいは権利・義務などの単位として,中世に至るまで重要な役割を果し続けた.とくに坪の区画が果した意義は大きく,これが今日まで広範囲にわたって条里地割を存続させ,村落景観の基盤となっている大きな理由である. これに対して,里の区画の方は条里呼称の単位として以上の機能を本来は有していなかったが,荘園あるいは村の境界として使用された場合もあった. 条里プランは,定着度の高い地域では16世紀まで機能し続けたが,中世には必要:性や情報量の多寡によって,絵図類などの表現にさまざまな間違いを生じていることもあった. 以上のような条里プランの完成・定着・崩壊のプロセスとともに,土地表示法は典型的には,古代的地名の条里地割に対応する分割ないし再編,条里呼称法と古代的小字地名の併用,条里呼称法のみによる表示,条里呼称法と小字地名の併用,といったプロセスをたどり,遅くとも16世紀末までに,現状のように小字地名のみによる表示法へと変化した.これらの各段階は歴史的な社会的・経済的段階と対応するものであり,同時に日本の村落景観の形成プロセスないし画期にかかわるものである.条里プランは,日本の歴史地理研究において,重要:かつ有効な手がかりとなるものである.
著者
金田 章裕
出版者
The Human Geographical Society of Japan
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.34, no.3, pp.193-214, 1982-06-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
70
被引用文献数
1 1

1. The Jori Grid Pattern System is characterized by an interval network of paths and ditches, which divide a given area into units measuring approximately 109m square. By the middle of the 8th Century the system consisted of such a grid pattern, with the arable land in each section divided into regular allotments. About the middle of the 8th Century a new system was introduced, by which the entire Jori System was organized into “Jo”, “Ri” and “Tsubo”. The “Tsubo” was the smallest section of the square, consisting of approximately 1.2 hectares, the “Ri” comprised 36 “Tsubo”, or approximately 654m square, and the “Jo” was a liniar arrangement of “Ri”, whose exact organization varied according to region.In some provinces, such as Settsu, Sanuki and Awa, historical evidence shows that the system of land unit indication followed three stages, as follows: 1) according to former small place names 2) according to the Jori Numbering System with place names attached to it 3) according to the Jori Numbering System onlyA number of historical materials show the process from 2) to 3) in Yamato, Yamashiro, Iga, Ohmi and Echizen provinces in accordance with the fixation of the Jori Numbering System. However this Jori Indication System was not introduced at a time. In Yamashiro province, this system was introduced by 743, but in Sanuki, it came after 757 and before 763, and in Settsu, after 756 and before 767.2. The former type of small place name was divided or changed to fit with the Jori Grid Pattern in stage 1) or 2). This process is shown for Kuso-oki region, Echizen Province in the 8th century (Fig.7). Some of former types of small place names, which were quite extensive (See Fig.7 Left), were divided and changed (See Fig.7 Right) in accordance with increase in arable land.However all of the former types of small place names were not divided in the 8th century. In the Kinki District (near the Capital of Ancient Japan), the greater part of those place names already fit the Jori grid pattern, as shown in Fig.6, but others fit only partially, as shown in Fig.5.In the case of Echizen province, not so far from the capital, those place names partly fitted or were in the process of such adaptation as above mentioned. In the case of Etchu province, far from the capital, such place names were not divided as shown in Fig.8. In the last case, the Jori Indication System was established at once, but the enforcement of the Jori Grid Pattern was probably incomplete, and the Jori Indication System does not seem to have been fixed perfectly.3. After the enforcement of the Jori Grid Pattern and the fixation of the Jori Indication System, the latter began to deteriorate. An early sign of this process was found in the 10th century. In medieval times the small place name began to be used side by side with the Jori Indication System. Almost all these new small place names designated the smallest section of the Jori Grid Pattern. By the end of the Medieval Period, this small place name system became generalized even on the Jori Grid Pattern.4. The plan of the Jori Grid Pattern was completed in the middle of the 8th century, with the introduction of the Jori Indication System. This plan undoubtedly was connected with Handenshuju, one of the important policies of the ancient “Ritsuryo” period, but “Ritsuryo” was established by 701 at the latest. Accordingly, the plan of the Jori Grid Pattern, especially the Jori Indication System, was not peculiar only to “Ritsuryo”. It was necessary for registry affairs rather than for Handenshuju itself. Since the 8th century, the bureaucratic procedures for distinction between private lands and government owned lands became very important, in accordance with the increase of private land.
著者
成田 孝三 藤田 昌久 岡田 知弘 足利 健亮 石川 義孝 金田 章裕 金坂 清則 石原 潤 応地 利明
出版者
京都大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1996

8年度は、1.都市を中心とするシステムについて欧米、日本、アジア・アフリカに関する比較研究を行う、2.地理学の空間分析、マルクス経済学の構造分析、近代経済学の計量分析の統合を目指す、3.日本のシステムについて動態的研究を行なう、という研究の枠組みと分担を決定した。9年度はそれに従って各自がフィールド調査を実施し、報告書の研究発表欄に掲げた成果を得た。10年度は統合の実を挙げるために、近畿圏を共通の対象として研究し、次の知見を得た。1.古代国土システムの構成要素としての近畿圏は、従来説の大化の畿内と天武の畿内の間に、近江を中心とする天智の畿内が存在し、それは三関の範囲に合致する軍事的性格を帯びており、中国の唐制に類似する。2.古代畿内の首都は孤立した一点ではなく、複数の首都ないしは準首都によって構成されており、それは現代の首都移転論をめぐる拡都論にも通じる状況である。3.中世期末畿内の構造変化を本願寺教団の教勢の進展を通じてみると、それは近江・京都・大阪を中核とし、奈良・三重・北陸に広がり、最後に兵庫・和歌山に伸びて現代の近畿圏を覆った。近江が中心となった理由はその生産力と交通の拠点性である。4.五畿七道の区分を踏襲してきた幕藩体制から近代国家体制への転換に伴って、府県を単位とする地方区分が確立した。近畿の範囲は6府県を核とし、場合によっては三重や福井が加わるという形をとった。この構成は現代にもつながっている。5.現代の大阪圏は初め西日本に広がっていたが、次第に縮小して上記の近畿圏に収斂しつつある。また近畿圏の構成単位である各日常生活圏の完結性が弱まり、大阪と京都を中心とする圏域に統合されつつある。それに伴って各種行政領域と日常生活圏との整合性が崩れ、その〈地域〉としての有意性が損なわれるおそれがでてきた。なおバブル崩壊後、中心部の都市地域と周辺部の農村地域との格差が拡大しつつある。
著者
足利 健亮 金田 章裕 応地 利明 成田 孝三 山田 誠 青木 伸好
出版者
京都大学
雑誌
一般研究(B)
巻号頁・発行日
1992

都市の立地決定は、計画都市の場合、大別して二つのタイプに分かれる。一つは近代以前に多いタイプで、立地決定が1人の権力者によって為されるものである。もう一つは近現代に多いタイプで、権力者というよりは為政者の合議によって決定が下される。後者のタイプは、特に時代が新しいものは、立地決定に至る経過が記録に残されていると考えてよいから、それを把握することは容易である。しかし、北海道の諸都市や新大陸の諸都市でも、19世紀以前の計画都市では、立地決定に至る経過の完全な復原は、史料の散逸ではやくも困難になっていることが多い。一方、近代以前の計画都市の選地にあたっては、多くの場合選地主体者たる権力者の意図が記録されることはない(戦略機密なので)から、文献史料による方法で「意図」と「経過」を解くことは不可能と言ってよい。ところが、都市が作られたという事実は地表に、従って地図上に記録されて残り続けてきているから、これを資料として上記設問の解答を引き出すことが可能となる。徳川家康や織田信長の城と城下町の経営の意図、つまり安土や江戸をどうして選んだかという問題は、上記の歴史地理学的手法による研究で解答を得ることができた。例えば、江戸を徳川家康が選んで自らの権力の基盤都市として作ったのは、不確かな通説とは異なり、富士が見えるという意外な側面の事実を「不死身」と読みかえて、自身の納得できる理由[選地理由]としたと説明する方が明快であることを、研究代表者は明らかにした。その他、各研究分担者によって日本古代地方官衙、同近代の計画都市、前近代アジア都市、アメリカ・ワシントン、カナダ諸都市など具体的に取り上げて選地理由と経過を明快に説明する結果を得た。詳細は、報告書(冊子)に論述された通りである。