著者
黒田 篤史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.202, pp.225-242, 2017-03

柳田國男の記念碑的著作『遠野物語』の一一二話に考古学的な記述があることは、これまであまり注目されてこなかった。本稿はこの『遠野物語』一一二話の成立過程とその背景を明らかにすることで、柳田國男の考古学的関心について考察するものである。『遠野物語』の成立に最も深く関与しているのは、話者である佐々木喜善の語りである。本稿では、一一二話に何が記されているのかを紐解いた後、佐々木の語りの原形を探るため、彼が少年時代に採集した考古遺物のリストである『古考古物號記』を読み解いた。そこには、佐々木が主に地元で採集した遺物の地点やその形状などが記されていて、一一二話の内容と大まかに一致する。また佐々木が後年著した「地震の揺らないと謂う所」にも考古学的記述があり、佐々木が柳田に一一二話の元になる話を語った意図を見出すことができた。このように佐々木の語りの原形を明らかにしていくことで、佐々木の語りの意図は必ずしも『遠野物語』一一二話に反映されていなかったことが見えて来た。このズレを生んだのは、柳田の意図が介在したためである。柳田の意図はどこにあるのか、佐々木に聞き書きを行っていた頃に柳田によって著された「天狗の話」や「山民の生活」に、その答えを見出すことができた。柳田は鎌倉時代頃まで少なくとも東北地方には先住民にあたる「蝦夷」と「日本人」は隣接する地域に併存していたという先住民観を持っていた。そうした考え方が『遠野物語』一一二話に色濃く顕れていることが、これらの文献を比較することで明らかとなった。本稿の検討から、柳田の考古学的関心は、日本人と先住民の関係を探るために寄せられていたことがより明白となった。
著者
西本 豊弘 篠田 謙一 松村 博文
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1997

茨城県取手市の中妻貝塚から、縄文時代後期初頭の人骨100体以上がひとつの小さな土壙墓からまとまって出土した。これまでに縄文時代の遺跡からは多くの人骨が出土しているが、ひとつの土壙からこのような多数の人骨が出土した例はない。しかも発掘状況から、被葬者は堀ノ内2式期のごく短期間のうちに死亡した集落内の血縁の濃い人々であったと考えられた。縄文時代の社会組織については、住居址や埋葬形式などの考古学的事例や民族学的事例から論議されてきたが、いずれも想像の域を出ていない。とりわけ、人骨から議論されたことは一度もない。考古学を専門とする西本は取手市の依頼により中妻貝塚の発掘報告書を刊行すると同時に、1994、95年にわたり形質人類学を専門とする松村を分担者として、科学研究費助成金(一般C)の支援を受け、人骨の復元・整理・記載等の作業をおこなった。また試験的にこれら被葬者のうち29体の歯の計測値にもとづく血縁関係の分析を行ったところ、この29体に2つの家系とみられるクラスターが見出された。今回の基盤研究(C)による研究では、一つには、中妻貝塚人の歯の計測値にもとづいて推定された血縁関係がどの程度まで信頼できるかを別の方法で検討することとし、さらには中妻貝塚以外の遺跡について血縁関係を追及することとした。前者については、分子人類学的手法として、歯根部からDNAを抽出することにより血縁解析を実行した。最終的に歯の形態とDNAによる血縁関係の突合せることによって、確信のもてる血縁関係を明らかにした。歯冠計測による血縁推定とDNAによる血縁解析との対比が大きく注目されるところである。従来の単独の方法による血縁推定は精度の限界から、推定がどの程度事実を反映しているのか、検証が困難であったからである。両者の方法による結果の突合せは画期的であり、血縁推定の有効性や方法論についても大きな進歩が期待される。
著者
黒田 智
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.109, pp.127-152, 2004-03

勝軍地蔵とは、日本中世における神仏の戦争が生み出した軍神(イクサガミ)であった。その信仰は、観音霊場を舞台に諸権門間の対立・内紛といった戦争を契機として誕生した。そして征夷大将軍達の物語とともに、その軍神(イクサガミ)的性格を色濃くしていった。多武峯談山神社所蔵「日輪御影」は、いわば勝軍地蔵誕生の記念碑的絵画であった。「日輪御影」は、応長・正和年間(一三一一〜一二)に、興福寺との合戦に際して戦場となった多武峯冬野における日輪出現と、その周辺の観音勝地で起こった三神影向伝説を絵画化したものである。画面下方に描かれた束帯に甲冑を着した三眼の異人は、良助法親王と推測され、彼が喧伝した勝軍地蔵を想起させる。画面上方の円光中に描かれた藤原鎌足像は、三眼の異人と対をなして勝軍地蔵の化身として配置されている。また画面上部に描かれた三つの円光は太陽・月・星であり、山王三聖信仰を背景とする三光地蔵の表象である。「日輪御影」に表された勝軍地蔵信仰の世界観は、三光の多様な言説を背景として、鎌倉中期から南北朝期にかけて浮上する太陽・日輪の文化の急速な波及と密接に関わっている。太陽・日輪イメージは、勝軍地蔵信仰と結びつくことで、戦う神仏のイデオロギー・武威のシンボルへと収斂していたのである。こうした太陽・日輪イメージは、天空における太陽の月・星に対する優位性が日本という国家・国土の優越性に準えられた思想であった。それは、日本の神仏の優位性を主張し、日本という国土を神聖化し、日本を仏教的コスモロジーの中心に位置付けようとする運動であった。勝軍地蔵信仰は、同時代の中世的国家・国土観念と不可分な結びつきをもちながら、後代に少なからぬ影響を及ぼしていったのである。Shogun jizo is an ikusa-gami (military deity) that was created as a consequence of the war among gods during the Middle Ages. The belief in this deity came into being on the occasion of battles that were confrontations and internal disputes between various men of influence in sacred sites of the Kannon (Goddess of Mercy). Together with the tales of the Seii-taishogun (military general), the character of the shogun jizo took on stronger character of a military deity."Nichirin-no-Miei" is held at Tonomine-Tanzan Jinja Shrine, and is symbolizing the birth of the shogun jizo."Nichirin-no-Miei" is a depiction of the appearance of nichirin (sun) at Tonomine Fuyuno, which was the battleground of the war that took place against Kofuku-ji Temple during the Ocho and Showa periods (1311-1312). It also depicts the legend of Sanshin Yogo (appearance of three gods), that took place near sacred sites of the Kannon. The strange three-eyed figure depicted at the bottom of the drawing wearing armor over full court dress is assumed to be Ryojo Hosshinno (Imperial Prince Priest Ryojo, son of Emperor Kameyama), who is somewhat reminiscent of the shogun jizo. The figure of Fujiwara-no-Kamatari, who is an incarnation of the shogun jizo, drawn in the upper part of the drawing inside an aureole is forming a counterpart to the three-eyed creature. The three aureoles drawn in the upper part of the picture are the sun, moon and Venus, and symbolize the Sanko jizo, which are linked to the Sanno Sansho religious belief.The world view of the shogun jizo belief represented in "Nichirin-no-Miei" has a close relationship with the rapid spread of the sun culture, which constitutes the Sanko belief together with the moon and Venus, that emerged from the middle of the Kamakura Period (1185-1333) through to the Period of the Northern and Southern Courts (1336-1392). By linking with the belief in the shogun jizo, the sun image came to narrow down to a symbol of the ideology and military power of warring gods.This image of the sun representing the superiority of the sun over the moon and Venus in the heavens was a belief that was modeled on the superiority of the state and territory that constituted Japan. It was a movement that advocated the superiority of Japanese gods, sanctified the territory of Japan and sought to position Japan in the center of the Buddhist cosmology. At the same time as being inextricably linked to the concept of the medieval state and territory of that period, the belief in the shogun jizo came to have a considerable influence over later periods.
著者
段上 達雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.161, pp.353-401, 2011-03

福岡県と大分県にはジンガとジガンと呼ばれる祭祀者、そしてジガン座と呼ばれる宮座が存在する。本稿では、その分布と内容について具体的事例をあげながら、その意味について考察する。ジガンは大分県杵築市(国東半島東部)と中津市(山国川流域)、福岡県京築地域(福岡県旧豊前国東部)に広がり、ジンガは福岡県筑豊地域と旧筑後国東部地域に分布し、大分県別府市に飛び地のように存在する。また、宮座呼称は福岡県旧筑前国地域に分布する。ジガンは神元・地官・神願・地願・氏神・仕官・侍官・次官、ジンガは神家・神和・神課・神裸などと表記し、定まったものはない。本来、ジガンは専門職としての神職とは違う地付きの祭祀者を意味し、ジンガは神と関わりのある家としての意味性が強く出ているものと考えられる。また、宮柱と呼ばれる一社一家の特別な祭祀者とジガンとの関係をもつ所もあり、北部九州の神社祭祀組織は単純ではない。このジガンやジンガによる祭祀組織は本来は株座であり、当屋制度をとる所が多い。また、その家筋は土地の草分けとか本家筋と呼ばれることが多く、神社の勧請に関わった家だとか、中世までその家筋が遡れるという伝承をもつ所もある。しかし、特権的祭祀集団であった株座は、近代になると地域全体の家が参画する村座へと変貌をとげた所が多い。このジガンやジンガ等の祭祀組織が行ってきた祭りの中には、杵築市の白鬚田原神社の「どぶろく祭り」や、国東市や豊前市等の「山人」「山人走り」の神霊を運ぶ神事などのように特色ある祭祀が存在する。In Fukuoka Prefecture and Oita Prefecture, people known as jinga and jigan, and miya-za called jigan-za perform religious services. This article focuses on specific examples to study the distribution, the contents, and the meaning of such services. Jigan is seen in Kitsuki City ( eastern part of Kunisaki Peninsula) and Nakatsu City (area of Yamakuni River) in Oita Prefecture, and the Keichiku area in Fukuoka Prefecture ( eastern part of former Buzen-no-kuni in Fukuoka Prefecture) , and jinga spreads in the Chikuho area and the eastern area of former Chikugo-no-kuni in Fukuoka Prefecture, and also in Beppu City in Oita Prefecture like an enclave. The miya-za is seen in the area of former Chikuzen-no-kuni in Fukuoka Prefecture. Jigan and jinga have various and unfixed forms of notation with kanji characters. Originally, jigan means a native person assuming religious services different from a Shinto priest as a specialist, and jinga has a stronger relationship with a god as a house. There is also a place called miyabashira with a relationship between a special person from one house assuming religious services in one shrine and jigan. Thus, organizations for religious services in a shrine in northern Kyushu are not simple. The organizations for religious services assumed by jigan and jinga are originally Kabu-za, and many of them adopt the to-ya system. The family lines of them are often called a pioneer of the region or a head family line, and there are also some legends that some families were involved with kanjo ( transfer of a divided divine spirit to other shrine) , or some family lines date back to the Middle Ages. Kabu-za was a privileged group assuming religious services. However, most of them were transformed into mura-za ( where all houses of the region were members) in the modern period. Among the festivals conducted by such organizations for religious services of jigan, jinga, etc., there are unique festivals such as the" Doburoku Festival" of Shirahige Tawara Shrine in Kitsuki City, and rituals to carry the divine spirit of" Sanjin" and" Sanjin Hashiri" in Kunisaki City and Buzen City.
著者
小泉 和子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.63-78, 1995-03-31

「歴博本江戸図屏風」の右隻第五扇と六扇の下部に人形を並べた家が描かれているが、この家は人形店であること、しかも並べてあるのは当時、幼児の疱瘡除けとして使われた土人形か張り子の赤物であるということがよみとれる。この場所は浅草寺の門前通りであると判定されるが、この地域は江戸時代から近代に至るまで人形産地であった。このことは貞享四(一六八七)年の『江戸鹿子』をはじめとして幾多の地誌類によって確認される。しかも当初は素朴な土人形や張り子人形であって、後世のいわゆる雛人形とよぶ着付け雛にかわるのは一八世紀前期の享保年間からだという。するとこの情景は、素朴な人形として描かれていることからみてすくなくとも一八世紀にまで下がることはないだろう。浅草ではじまった赤物は、やがて武州の鴻巣で発展し、さらに練物で作られるようになって鴻巣名物となる。熊谷・川越・大宮・越谷・鴻巣など武州一帯では一七世紀中期すぎころから野間稼ぎとして雛人形の製造がはじめられていた。その中で鴻巣では一七世紀後期になると、この地域一帯で盛んになった桐簞笥製造の際、多量に出る大鋸屑を用いた練り物を開発し、好評を博すようになったのである。これは鴻巣は江戸との関係が密接であったため、おそらく早い段階から江戸の情報が入り、浅草を真似て赤物を製造していたからではないかと考えられる。ともあれ一七世紀中期すぎには鴻巣でも雛製造をはじめていたとすると、浅草はそれより早かった筈であるから、この場面は一七世紀中期以前ということになるのではないか。
著者
福田 アジオ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.195-227, 1992-03-31

本稿は、今回の研究計画の定点調査地の一つである静岡県沼津市大平において継続的な調査を行なってきた結果の報告である。個別地域の個性は、自らの地域の歴史認識によって大きく支えられ、あるいは形成されるものと予想しつつ、調査を行なった。人々の自分たちの社会に対する認識が歴史を作り出すと言ってもよいであろう。史実としての歴史だけでなく、意識される歴史、あるいは時には作り出される架空の歴史的世界も含めて、民俗的歴史世界を文字資料と現実の民俗事象の双方から追いかけることを意図した。幸いにして大平には前者の問題を究明するに適う年代記という興味深い人々の作り出した歴史書がある。大平を対象村落としたのも、この年代記が存在したからである。調査はこれを基点にして、その内容と現実の豊富な民俗との関わりを考察することに主眼を置いた。なお、大平の民俗については、本調査とほぼ同じ時期に並行して別の調査が実施され、民俗誌の形式での調査報告書が刊行されている(静岡県史民俗調査報告書『大平の民俗』)。本稿では、それとの重複をできるだけ避けて、大平の民俗的な特質を把握すべく内容を絞ったので、大平の具体的な民俗については網羅的には記述していない。大平の民俗的特質は以下のように理解することが可能であろう。大平の開発過程とその後の狩野川との戦いの連続が、大平の現在まで伝承されてきた民俗を作り出したと言えよう。道祖神祭祀自体は駿東から伊豆に大きく展開しているものであり、大平もその分布地域内の一村落に過ぎない。また道切り行事も全国的に行なわれているもので珍しいものではないし、大平のように札を笹竹に挟んで立てることもごく一般的な姿である。しかし、その道祖神祭祀や道切り行事を夏に重点を置いて行なっているのは必ずしも一般例とは言えない。大平が開発形成過程で背負った条件がこのような特色ある領域をめぐる民俗を作り出し、維持させてきたものと理解できる。そして、その歴史の重みが現在なお近隣の諸村落では見ることのないほどの熱心さでこの二つの民俗を保持しているのであろう。
著者
鈴木 映里子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.115, pp.7-38, 2004-02-27

本稿は原典史料の検討を中心とした史料論的考察である。千葉県東総地域を舞台に活動した農村指導者大原幽学、彼に関する研究はその多くが『幽学全書』『幽学全集』に依拠してなされてきた。しかしまたそのことが要因として事件発生時期の事実誤認や、読み違いがあることも指摘されてきている。刊行から半世紀を過ぎてなお、幽学研究に大きな影響を及ぼすこの「聖典」を、その収録著作類を点検することで、底本としての「全書」「全集」が刊行されてから抱える問題を僅かでも明らかにすることが本稿の目的である。これまで俎上に載せられることが稀であった「奉行所本」とよばれる稿本類が再発見された。関東取締出役の手先が、幽学の教導所である改心楼に押し入るという「牛渡村一件」が起こったのが嘉永五年四月、幽学と門人たちが銚子本城村で関東取締出役の吟味をうけた後、上部機関である勘定奉行所に差出になり、幽学が召喚されて出府したのが嘉永五年十月である。この召喚の際に証拠書類が提出された。判決が下った安政四年には返却され村に持ち帰られたと思われる。そしてそのうちの数点が特別にまとめて残され現在まで伝わってきたのである。幽学の門人たちをして、もっとも重要な書類と認識された自筆稿本、それが奉行所本である。つまり幽学の核をなす基礎資料ともいえるものである。『幽学全書』『幽学全集』にも収録されているこれら史料を、奉行所本九冊と現存する遺稿を含め、再度検討し現在の視点でその成り立ちを捉えなおしてみたいと思う。This paper is an examination of historical documents based predominantly on primary sources. Most research on the subject of OHARA Yugaku, an agrarian leader who was active in the Toso region of Chiba Prefecture, has been based on "Yugaku Zensho" and "Yugaku Zenshu," collections of his works. However, as has been pointed out, this has been a factor in misconceptions and misinterpretations concerning the true facts surrounding the time of Yugaku's capture by Edo authorities.The purpose of this paper is to shed even a little light on the problems faced since the publication of Yugaku's "Zensho" and "Zenshu" as source books by checking the works recorded in these "sacred books" that today, some 50 years after their publication, have a huge effect on research on Yugaku.The manuscripts referred to as the "Bugyosho-hon," that have over the years been taken up for discussion only rarely, have been rediscovered. The Ushiwata Village Incident, when agents of the Kanto authorities forced their way into Kaishinro, Yugaku's education center, occurred in April 1852, and after undergoing investigations by the Kanto authorities in Choshi Honjo village Yugaku and his disciples were sent to the magistrate's office, a higher authority. Then in October that same year Yugaku was summoned to the Edo capital. Evidential documents were submitted at the time of this summons. It is believed that Yugaku took these documents with him back to the village he returned to when the magistrate's decision was handed down in 1857. And it is a number of these documents that have been specially put together and handed down to the present day. The personal writings of Yugaku, which would have been recognized by Yugaku's disciples as most important documents, are collected in what is known as the Bugyosho-hon. In other words, they are fundamental materials that form the core of Yugaku's beliefs.Thus, the objective of this paper is to form a new understanding of the course of events surrounding Yugaku's capture by authorities from a present-day perspective through a re-examination of the nine volumes of the Bugyosho-hon, which are also recorded in Yugaku Zensho and Yugaku Zenshu, and extant papers and documents.
著者
加部 二生
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.82, pp.1-45, 1999-03

群馬県内の終末期古墳では普遍的に存在する,横穴式石室の前面に広がる前庭構造について,従来は,古墳時代後期に群馬県地域で独自に土着した構造であると解釈されていた。しかし,近年の研究では,全国各地に所在することが明らかとなり,その起源については,古墳時代前期に高句麗地域で成立していることが明確に解ってきた。高句麗では,前庭構造が王陵に採用され,渤海に取って変わった8世紀終末まで連綿と構築されている。一方で,北部九州地方に導入された初期の横穴式石室にも前庭が付されたものがあり,前庭を持つ古墳は,百済,新羅,伽耶地域では認められないことから,これら初期横穴式石室の構築は高句麗の影響化に成立していることが明らかになった。横穴式石室の浸透に伴って前庭が日本各地に拡散していくにもかかわらず,これらを頑なに拒み続けているのが畿内中枢部の大和地域である。おそらく,当時の畿内大和勢力は,外交をはじめとして百済との結び付きを重視しており,こうした状況は,敵対する高句麗との間に一線を画していた結果を反映していると推定される。これに対して,九州で受容された前庭は,その「ハ」の字形に開いた形状が横穴式石室の羨道部の形態に影響を及ぼし,変質を遂げた形で日本各地へと拡散していく。また6世紀代になって美濃,上野周辺地域には九州とは別系譜で導入されると見られ,定着して墓制の主流となっている。埴輪祭祀が終焉した7世紀代の上野地域では,3000基以上の古墳に前庭が構築され,墓前祭祀が営まれていたと考えられる。これらに関与した造墓集団は後に,東国経営に関連して,東北地方へと赴き,任地で古墳が消滅するまで同様の墓造りに勤しんだものと思われる。A frontal platform structure of the tunnel burial chamber was widely constructed during the final Kofun period in Gunma prefecture. The traditional view accounts that this platform structure was autochthonously developed at the end of the Kofun period in the Gunma region. However, recent archaeological surveys reveal that it is distributed over a wide geographic area throughout Japan. Moreover, its origin may go back to the beginning of the Kofun period in the Kōkuri state of the Korean peninsula.The royal graves equipped with the frontal platforms have been built in the Kōkuri state, and their construction continued up to the end of the eighth century in the state of Bokkai. When the tunnel burial chambers were first introduced to northern Kyushu in Japan, some burials were made in this Kōkuri style. This specific burial structure has not been found in the other Korean states, such as the Kudara, the Shiragi nor the Kaya. Therefore, it is safe to say that these early tunnel burial chambers in Japan developed under the influence of the Kōkuri state.Although the tunnel burial chambers with frontal platforms gradually spread into other regions of Japan, they had never come into the Yamato region. This is because the powerful clans in the Yamato region had an alliance with the Kudara state, which was against the Kōkuri state. This political climate inhibited the adoption of the Kōkuri style burials in the Yamato region. In the Kyushu region, on the other hand, the fan-shaped frontal platforms were introduced without resistance. And the tunnel burial chambers with variably modified entrance corridors began to diffuse over the other areas of Japan from Kyushu.The adoption of burial structures from the Korean state has occurred at multiple times through a different route, In the Mino and the Kouzuke regions, the platform structure was first introduced in the sixth century from a route other than the Kyushu, and flourished thereafter. In the Kouzuke region, more than 3,000 burial mounds with frontal platforms were constructed in the seventh century, when the haniwa rituals had already been abandoned. These frontal platforms were possibly made for the internment ritual. As the Yamato state extended its political boundary, the mound builders in the Kouzuke region moved into northern Japan, where they constructed the burials with a similar structure.
著者
宮本 一夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.151, pp.99-127, 2009-03-31

夫余は吉長地区を中心に生まれた古代国家であった。まず吉長地区に前5世紀に生まれた触角式銅剣は,嫰江から大興安嶺を超えオロンバイル平原からモンゴル高原といった文化接触によって生まれたものであり,遼西を介さないで成立した北方青銅器文化系統の銅剣であることを示した。さらに剣身である遼寧式銅剣や細形銅剣の編年を基に触角式銅剣の変遷と展開を明らかにした。それは吉長地区から朝鮮半島へ広がる分布を示している。その中でも,前2世紀の触角式鉄剣Ⅱc式と前1世紀の触角式鉄剣Ⅴ式は吉長地区にのみ分布するものであり,夫余の政治的まとまりが成立する時期に,夫余を象徴する鉄剣として成立している。前1世紀末から後1世紀前半の墓地である老河深の葬送分析を行い,副葬品構成による階層差が墓壙面積や副葬品数と相関することから,A型式,B型式,C・D型式ならびにその細分型式といった階層差を抽出する。この副葬品型式ごとに墓葬分布を確かめると,3群の墓地分布が認められた。すなわち南群,北群,中群の順に集団の相対的階層差が存在することが明らかとなった。また,冑や漢鏡や鍑などの威信財をもつ最上位階層のA1式墓地は男性墓で3基からなり,南群内でも一定の位置を占地している。異穴男女合葬墓の存在を男性優位の夫婦合葬墓であると判断し,家父長制社会の存在が想定できる。A1式墓地は族長の墓であり,父系による世襲の家父長制氏族社会が構成され,南群,北群,中群として氏族単位での階層差が明確に存在する。これら氏族単位の階層構造の頂点が吉林に所在する王族であろう。紀元後1世紀には認められる始祖伝説の東明伝説の存在から,少なくともこの段階には既に王権が成立していた可能性が想定される。夫余における王権の成立は,老河深墓地の階層関係や触角式銅剣Ⅴ式などの存在から,紀元前1世紀に遡るものであろう。沃沮は考古学的文化でいうクロウノフカ文化に相当する。クロウノフカ文化の土器編年の細分を行うことにより,壁カマドから直線的煙道をもつトンネル形炉址,さらに規矩形トンネル形炉址への変化を明らかにし,いわゆる炕などの暖房施設の起源がクロウノフカ文化の壁カマドにある可能性を示した。さらにこうした暖房施設が周辺地域へと広がり,朝鮮半島の嶺東や嶺西さらに嶺南地域へ広がるに際し,土器様式の一部も影響を受けた可能性を述べた。こうした一連の文化的影響の導因を,紀元前後に見られるポリッツェ文化の南進と関係することを想定した。
著者
蒲池 勢至
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.49, pp.p209-236, 1993-03

これまで民俗学における墓制研究は、「両墓制」を中心にして進展してきた。「両墓制」は「単墓制」に対しての用語であるが、近年、これに加えて「無墓制」ということがいわれている。「無墓制」については、研究者の捉え方や概念規定が一様でなく混乱も生じているので、本稿ではこの墓制が投げかけた問題を指摘してみたい。さらに、「無墓制」が真宗門徒地帯に多くみられることから、真宗における「墓」のあり方を通して「石塔」や「納骨」といった問題を考えようとするものである。まず、全国各地の事例を整理してみると、これまでの報告には火葬と土葬の場合が区別されずにいたり、あるいは「墓がない」というとき「墓とは何か」が曖昧であった。それはまた、両墓制における「詣り墓」(石塔)とは何かが曖昧であったことを示している。「無墓制」の実態は、火葬したあとに遺骨を放置してしまい、石塔を建立しないものであるが、この墓制は両墓制研究の中で、いま一度、遺体埋葬地や石塔の問題、土葬だけでなく火葬の問題を検討しなければならないことを教えている。真宗門徒になぜ「無墓制」が多いのかについては、真宗信仰が墓をどのように考えていたのか歴史的に考察する。現在の真宗墓地にみられる石塔の形態や本山納骨の成立過程をみて、真宗の墓制観や教団による規制との関係を論じる。そこには、遺体や遺骨を祭祀することは教義的に問題があった。中世においても、真宗は卒塔婆や石塔に否定的であって、このような墓や石塔に対する軽視観は近世を通じて今日まで至り、火葬のあとに遣骨を放置したまま石塔も建立しない習俗が残存したのである。また、真宗は墓としての石塔は否定したが、納骨儀礼は認めて、近世教団体制の確立する段階で中世的納骨儀礼を近世的な形で継承したのであった。Conventional folklore study on the grave system has progressed centered on the "double grave system". The "double grave system" is a term used in opposition to the "single grave system". Recently, in addition to the above, the "no-grave system" has come under discussion. The author wishes to point out the questions posed by the latter grave system, since there is no common understanding nor a conceptual standard among researchers, and this leads to confusion. Furthermore, since the "no-grave system" is frequently seen among believers of the Shin-Buddhism, the author wishes to consider the questions of "tombstones" and the "laying of ashes to rest" through the accepted idea of "graves" in the Shin-Buddhism.Putting in order examples from all over the country, the author finds that previous reports did not distinguish between cremation and inhumation, and that reports that "there were no graves", gave no clear definition of what was meant by a "grave". He also shows that the definition of a "visiting grave" (tombstone) in the double grave system was ambiguous. What really happens in the "no-grave system" is that the ashes are left as they are after cremation, without erecting a tombstone. This grave system tells us that we must reexamine not only the problem of where the body was buried, the question of the tombstone, and the problem of inhumation, but also the question of cremation.As to the reason why the "no-grave system" was prevalent among Shin-Buddhism believers, the author examines, from the historical viewpoint, how the Shin-Buddhism faith regarded the grave. Looking,at the farm of tombstones seen in present Shin-Buddhism cemeteries, and the process of the establishment of the custom of the placement of ashes in the head temple, the author discusses the concept of the grave system in the Shin-Buddhism, and its relationship with the restrictions by the religious order. It was a problem from the doctrinal point of view, to hold religious services for bodies or ashes. In the Middle Ages, the Shin-Buddhism took a negative attitude towards stupas and tombstones. This contemptuous view of graves and tombstones continued throughout the modern period until the present day, so that the custom remained of leaving ashes after cremation, without erecting a tombstone. Also, the Shin-Buddhism gainsaid the tombstone as a grave, but accepted the ceremony of laying ashes to rest, and inherited the medieval ceremony of laying ashes to rest in modern form, at the establishment of the modern religious order.
著者
白石 太一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.112, pp.3-24, 2004-02

小論は、歴博の基幹研究「地域社会における基層信仰の歴史的研究」に関連して実施した奈良県の中世以来現在まで利用が続く墓地の調査成果に基づいて、中・近世の大和における墓地の利用形態の変遷、すなわち墓地景観の変遷過程とその意味を考察したものである。奈良盆地では、現在も複数の大字、すなわち近世村が墓郷を形成し、大規模な共同墓地である「郷墓」を営む場合が多い。その多くは、墓地としては中世の中頃までには成立しており、中世後半には五輪塔などの石塔が盛んに造立された。これらの郷墓では近世初頭以降、墓郷を構成する複数の村ごとに墓域を分割するとともに、遺骸埋葬地と石塔造立地を異にする両墓制的な墓地利用が行われたと想定される。これに対し奈良盆地の東南方の宇陀地域では、墓地は現在も大字単位に営まれるのが基本であり、ごく最近まで両墓制的慣行が行われていた。またこの地域は中世墓地の発掘調査例が多いが、それら発掘例では火葬ないし土葬の埋葬を行った上に石塔が立てられており、単墓制の墓地であった。それらの多くは在地武士層の一統墓であり、豊臣政権の支配の確立とともに廃絶したものと想定される。一方現在まで継続して利用されている墓地は、ほとんどすべて近世に成立したものであり、中世から近世へ続く墓地はほとんど見いだせない。宇陀地域では、中世の在地武士層の血縁的な一統墓から近世の地縁的な村落墓地へと大きく転換しているのである。盆地部の郷墓は宇陀の中世墓地とは異なり、すでに中世の段階から地域の共同墓地であった。おそらく平安時代には成立していたと想定される地域の葬地をもとに、一三世紀頃に律宗の僧侶などによって葬送祭祀のための講の組織化が進められて「惣墓」となり、さらに新しく成立した近世村を基本的構成単位とする「郷墓」に変化したものと想定される。また盆地部でも宇陀でも、近世初頭前後に単墓制から両墓制へという大きな変化が共通してみられるが、これは遺骸の処理を村で行い、祖先祭祀のための石塔の造立を家で行うという矛盾が生み出したものにほかならない。このように大和では、中世から近世にかけて墓地の景観自体が大きく変化している。こうした墓地景観の大きな変化は、宗教的・信仰的要因、血縁から地縁へという社会の大きな変化や家の成立といった社会的要因、さらに近世的支配の成立とそれにともなう村の確立といった政治的要因などが複雑に作用した結果にほかならない。This paper considers changes in the types of use of graveyards, that is, the process of change in their appearance that occurred in Yamato during the Medieval period and Early Modern period. The study is based on the results of studies of graveyards in Nara Prefecture that have been in use from the Medieval period through to the present day carried out in relation to one of the National Museum of Japanese History's basic research themes "Historical Analysis on Basic Beliefs in Local Societies".Even today, there exist in the Nara basin many instances in which several large villages from the Early Modern period encompass a local graveyard and run it as a large communal graveyard. Most of these were established as graveyards by the middle of the Medieval period, and during the second half of the same period the erection of gravestones that were five-tiered stone monuments that symbolized the five main elements (earth, water, fire, wind and air) of esoteric Buddhism became common. It is assumed that some time after the beginning of the Early Modern period, these communal graveyards were divided into separate graveyards for each of the villages and that in the early stage of that period the adoption of a dual grave system became common whereby a distinction was made between the burial area where the remains of the dead were buried and the gravestone area. Still, it is no easy task to locate materials for examining the way in which these graveyards were used during the Medieval period.In contrast, in the Uda district in the southeast of the Nara basin it is normal even today for graveyards to be operated in the earlier form of a communal graveyard, and until very recently the dual grave system was customary. There are many examples of archeological surveys of medieval graveyards in this region, which have shown that a single grave system had been adopted whereby remains were either cremated or buried and a gravestone erected over the site. It is believed that these were family burial plots of the samurai class and that they disappeared with the rise to power of the Toyotomi regime. However, nearly all the graveyards that are in operation in the region today were established during the Early Modern period, so that virtually no graveyards that continued operating from the Medieval period into the Early Modern period can be found. In other words, a huge change took place in the Uda region as the family graves of the samurai class from the Medieval period came to be replaced by graveyards that served local villages.Communal graveyards in the Nara basin area differ from the medieval graveyards of Uda in that by the Medieval period they were already local communal graveyards. This probably is due to the creation of communal graveyards that came about with the systemization of funeral services as a result of efforts by priests of the Buddhist Ritsu Sect around the 13th century centered on local burial grounds thought to have been established during the Heian period. It is believed that these later became local graveyards that were a fundamental structural unit of Early Modern villages that became established under a new system of control Even though both the Nara basin area and Uda underwent a huge change over to the dual grave system from the single grave system around the beginning of the Early Modern period, this can only be the product of a contradiction that was created by the disposal of remains being taken care of in the village while gravestones for worshipping ancestors were built at family homes.As seen by the above, the appearance of graveyards itself was subject to huge change in Yamato from the Medieval period to the Early Modern period. In conclusion, this paper argues that these huge changes were caused by the complex interaction of factors related to religion and folk beliefs, social factors that saw a huge social change occur when groups based on blood ties were replaced by groups based on residence and the establishment of the Ie system, as well as political factors in which the formation of the regime in the Early Modern period was accompanied by the establishment of villages.
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.213-247, 2010-03

本稿は、前近代の触穢と精進法のあり方を通じて、前近代の呪術・信仰が生業・技術や権力の動き・さらには民衆生活をどのように規制していたのかについて検討し、これまでの通説であるケガレ観念の国家的管理論や、天皇・禁裏や伊勢神宮は神聖な空間が維持され、穢多・清目・河原者には「服忌によっても禊祓によっても払拭できない穢」が集中したとする見解を実証面から批判したものである。本稿では、室町期の内裏では禁中触穢が繰り返され、天皇は四方拝や毎日拝を神事でないことを理由に穢のときでも公事として実施していた史実を指摘した。系譜上の父母である上皇・国母が死去した際には、倚廬とよぶ粗末な庵をつくり十四日間忌みこもりを行なっており、禊ぎと祓えによって死穢をキヨメる呪術的儀礼であったことをあきらかにした。ここから中世天皇や禁中が穢れと浄の混在する世界であったことを指摘した。第二に、伊勢神宮の最初の服忌令とされる「文保記」の史料検討を行い、東海地方の神官や民衆が触穢に対処する精進法の個別事例集としての性格をもっていたことを指摘し、在地の民衆知では生業を優先的に営むために、物忌みや禁忌の期間を短縮し、「斃牛馬を掃除の人、穢の限以後、別憚り無き也」との規定を作り出し、被差別民に対しても穢れは消滅するもの・払拭できるものという社会思潮を有していたことをあきらかにした。第三に、鎌倉末から南北朝期の東海地方の下層民衆は、死人の葬儀を忌避し「触穢を遁れるため」に「野棄」や「速懸」と呼ばれた死体遺棄という独自な埋葬方法を実施した。それは中世社会において「死去の不審」があったため、生きかえることを期待した民衆の行動であり、野棄・速懸は下層民衆独自の合理的な知の体系性をもった民衆知であったことを指摘した。中世天皇や禁裏は、触穢思想の枠内において機能していたが、地方の民衆知は、触穢思想を相対化し、生き抜くための生業活動を優先させていたことを指摘した。This article looks at how magic and religion in the pre-modern age regulated occupations and technology, moves of authority, and moreover, common people's lives through the ways in which shokue, touching impurity, and shojin-ho existed during that period. Then, from a demonstrative point of view, it criticizes the generally accepted theory of government control over the impurity conception and the view whereby sacred space was maintained for emperors, the imperial palace and the Ise Shrine and eta, kiyome and kawaramono built up "impurities that could not be eradicated even through bukki, mourning or misogiharae, a form of Shinto purification." In this article, I have pointed out historical evidence that shokue repeatedly occurred at the imperial palace in the Muromachi Period and that emperors carried out shiho-hai, Prayer to the Four Quarters (a Japanese imperial New Year's ceremony) and mainichi-hai, everyday prayer, as political operations even when they were impure under the excuse that these were not Shinto rituals. Whenever a joko ( a retired emperor) or kokubo ( an empress dowager) , the genealogical father or mother, passed away, a humble hermitage called Iro was made to retreat in mourning for fourteen days. I reveal that this was a magic ritual designed to lustrate the impurity of death through misogi and harae, forms of Shinto purification. As such, I have pointed out that the medieval emperors and their palace were in a world where impurity and purity co-existed.Secondly, I have examined the historical papers of "Bunpo-ki," which is regarded as the first bukki ordinance by the Ise Shrine, and point out that this was a collection of individual shojin-ho cases on how Shinto priests and common people in the Tokai area dealt with shokue. I have unfolded that through folk wisdom in the area in order to carry on occupations on a preferential basis, periods of monoimi, fasting, and kinki, taboo, were reduced, and an order that "a person who cleans dead cows and horses must not hesitate after the period of impurity" created, Additionally, social thought existed that the impurities of discriminated people could also be dissolved and eradicated.Thirdly, lower class people in the Tokai area between the end of the Kamakura Period and the Northern and Southern Courts Period recused themselves from funerals of dead people, and carried out a unique way of burying by abandoning a corpse called "nosute" and "hayagake" "in a bid to avoid shokue." This was because of "suspicion of death" in medieval society and people took this action in the hope of resurrection. I have pointed out that nosute and hayagake were folk wisdom of the lower classes based on a rational intellectual system.I have indicated that while medieval emperors and their palaces functioned within the frame of the shokue principle, regional folk wisdom made the shokue principle relative and prioritized occupations activities for survival.
著者
山本 光正
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.165-181, 2003-10-31 (Released:2016-03-29)

近世の旅に関する研究は大きく分けて、旅における行動・見聞及び交通の実態を明らかにしようとするものと、社寺参詣そのものに重点を置き民衆の信仰を明らかにしようとするものがある。これらの研究はいずれも史料の関係から男性を中心としたものであったが、女性史研究の活発化に伴い、女性の旅についても研究成果が発表されるようになった。旅の研究は旅日記を主な素材として行われるが、女性の場合旅日記を書くことができるのは相当の教養を身につけた階層であるため、庶民女性の旅の実態をみることは困難である。女性の旅全般について把握するには、旅日記以外の史料の発掘が課題といってよいだろう。既に宿坊の台帳類や、供養塔等の石造物を利用した研究も行われているが、本稿では納経帳と絵馬によって女性の旅の一端を述べてみた。納経帳は千葉県市原市の万光院に同市勝間の茂手木氏が奉納したもので、同家の先祖「とら」が寛政七〜八年にかけて、西国・坂東・秩父の観音霊場及び四国八十八ヶ所を巡ったものである。納経帳は「とら」の足跡を追うことしかできないが、女性が一人でこれだけの旅をしたことは注目される。絵馬は信州の善光寺に参詣した女性達が千葉県岬町の清水寺に奉納したもので、明治から大正まで年代不明も含めて二六点が確認されている。図柄や墨書から旅のコースや参拝の様子・同行者の地域・名前を読みとることができる。絵馬は近代のものだが、近世においても同様の旅が行われていたと考えられる。納経帳・絵馬共に旅日記に比較すると情報量は少いが、これらのデータを蓄積することにより、近世における女性の旅の実態を明かにしていくことができるであろう。 Research on early modern travel can be divided into two main kinds. One seeks to clarify the actual forms of behavior, experience, and transportation related to travel, while the other attempts to clarify popular religious beliefs by focusing on temple and shrine pilgrimage as such.For reasons of research materials, both approaches have tended to focus on men. With heightened interest in research on women's history, however, the body of research on travel by women has now started to grow. While travel research typically relies on travel diaries as its principal source of materials, travel diaries by women are written only by women of considerable education, hence class, making it difficult to observe the actual forms of travel by commoner women.Clearly the effort to grasp travel by women as a whole makes the discovery of materials other than travel diaries a pressing concern. Some research has made use of registries from temple inns (shukubo) and statuary such as devotional pagodas (kuyoto). This study relies on a votive scripture ledger (nokyocho) and votive tablets (ema) to reveal a facet of travel by women. The ledger was offered to Mankoin Temple in Ichihara City, Chiba Prefecture, by the Motegi family (Katsuma, Ichihara City) and records the journey made by the family's ancestor "Tora" who visited the Kannon spiritual sites in Shikoku, Bando, and Chichibu and made the eighty-eight site Shikoku pilgrimage. The ledger only enables us to trace the footsteps of Tora, but the fact that a single woman could make such a journey deserves attention. The twenty-six votive tablets dating from the Meiji and Taisho periods, on the other hand, were offered to Kiyomizudera Temple in Misaki, Chiba Prefecture by women who had made a pilgrimage to Zenkoji in Shinshu. From the images and inscriptions on the tablets, we know the course they traveled, details of their pilgrimage, and their names and regions of origin. Although the tablets date from the modern period, it is believed that women in the early modern period conducted similar journeys.Votive ledgers and tablets do not provide the quantity of information available from travel diaries. Nonetheless, with the accumulation of information contained in such materials it should be possible to clarify further the nature of travel by women in early modern Japan.
著者
蔵橋 純海夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.45, pp.p213-256, 1992-12

備後国太田荘は、永万二年(一一六六)平清盛の子重衡によって後白河法皇に寄進され院領荘園となった。その後平氏滅亡により、同荘は文治二年(一一八六)後白河法皇から高野山根本大塔領へ寄進され、以後室町時代に至るまで高野山領荘園の一として続いた。高野山施入当時の荘田面積は、約六一三町歩年貢米一八三八石余を出す大きな荘園であった。さて、紀州高野山には、備後太田荘に係わる当時の文献資料が多数伝えられており、一九〇〇年代の初め頃から今日にかけて、荘園経営や文化財等に係わる論考が諸賢によって多数発表されてきている。しかしながら、太田荘の政所寺院としての性格をもつ今高野山についての研究は、一部の文化財や天然記念物等に係わってあるのみで皆無に等しい。そこで本稿は、広島県史跡「今高野山」の興亡の歴史と住侶及び文化財等についての概観をまとめたものであるが、今高野山に関する在地の中世資料は度重なる災禍によって消滅し、勢いその解明は高野山文書や寺外に伝わる文書及び寺内に伝わる文化財等に僅かに記された刻銘や墨書、後代に書き記された寺の縁起などによってしか手がかりがつかめないため深く追求しえていない。本報告は初めに今高野山の誕生と興亡の歴史を辿り、ついで住侶についての考察、文化財の概観について述べ、終わりに今高野山の歴史年表、歴代住職一覧表、その他今高野山に伝わる古記録等を資料として収録したものである。In the 2nd year of Eiman (1166), Ota-no-Shô in Bingo Province (present Hiroshima Prefecture) was donated to Ex-Emperor Goshirakawa-In by Taira-no-shigehira, the son of Kiyomori. Later, in the 2nd year of Bunji (1186), the manor was donated by Goshirakawa-in to the Konpon-Daitôryô of Kôyasan, and remained a manor of Kôyasan until the Muromachi Period. The area of the manor's rice fields, at the time it was donated to Kôyasan, was about 613 chôbu(=approx. 1,500 acres), and the manor produced more than 1,838 koku (1 koku = about 180 liters) of rice as land rent.A large number of contemporary historical documents concerning Ota-no-shô in Bingo Province have been handed down at the Kôyasan Temple in Kishû (present Wakayama Prefecture). Since the beginning of the 1900s, many theses have been published on the management of the manor and on its cultural properties. However, few studies, except a few on its cultural properties and precious natural monuments, have been made into the Ima-Kôyasan, which was in character the administrative temple of Ota-no-shô. The author, in this paper, looks at the history of the rise and fall of the Ima-Kôyasan, which is designated as a place of historic interest by Hiroshima Prefecture, and gives a brief description of the priests who lived there, and of its cultural properties.Local document of the Middle Ages relating to the Ima-Kôyasan were destroyed in successive disasters. This being the case, elucidation had to depend on only the Kôyasan documents, other documents handed down outside of the temple, a small number of carved inscriptions or records in Chinese ink on cultural properties, and Engi (history) of the temple written later on. This scarceness of materials made a thorough investigation difficult.In this report, the author first retraced the history of the foundation, prosperity and decline of the Ima-Kôyasan, then discussed the priests living in the temple, and gave a brief description of its cultural properties. At the end of the paper are included as data a chronological table of the history of the Ima-Kôyasan, a list of successive chief priests, and other ancient records handed down at the Ima-Kôyasan.
著者
朴澤 直秀
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.112, pp.487-499, 2004-02-27

寺元とは、特定寺院に子弟を入寺させる権利、ひいては特定寺院の住職の任免権及び寺院の支配権、そしてその権利をもった家(ないしはその当主)のことを指す。本稿では、山城国和束郷石寺村の霊照寺、大和国広瀬郡山坊村の金勝寺など、在地寺院の寺元の事例を数例検討した。在地寺院の寺元には、特別な身分的条件はなかったと考えられる。また、寺元慣行を有する在地寺院には、寺元家の菩提寺のみならず、宮寺や、広く宗判檀家を持つ寺院も含まれた。そして寺元慣行と特定宗派との関係は見出せない。近世の寺元慣行は、大和を中心に畿内においてみられるものである。その背景には、一つには、興福寺を中心とした中世以来の寺元慣行の(在地寺院への)影響があるのではないか。また、寺院の本末組織への編成の徹底度や、本寺・触頭等による寺院支配の貫徹度の相違が、他地域との、寺元慣行の有無と相関しているのではないかと考えられる。