著者
遠部 慎 宮田 佳樹 小林 謙一 松崎 浩之 田嶋 正憲
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.137, pp.339-364, 2007-03

岡山県岡山市(旧灘崎町)に所在する彦崎貝塚は,縄文時代早期から晩期まで各時期にわたる遺物が出土している。特に遺跡の西側に位置する9トレンチ,東側に位置する14トレンチは調査当初から重層的に遺物が出土し,重要な地点として注目を集めていた。彦崎貝塚では土器に付着した炭化物が極めて少ないが,多量の炭化材が発掘調査で回収されていた。そこで,炭化材を中心とする年代測定を実施し,炭化材と各層の遺物との対応関係を検討した。層の堆積過程については概ね整合的な結果を得たが,大きく年代値がはずれた試料が存在した。それらについての詳細な分析を行い,基礎情報の整理を行った。特に,異常値を示した試料については,再測定や樹種などの同定を行った。結果,異常値を示した試料の多くは,サンプリング時に問題がある場合が多いことが明らかになった。特に水洗サンプルに顕著で,混入の主な原因物質は現代のものと,上層の両者が考えられる。また,混入した微細なサンプルについても,樹種同定の結果,選別が可能と考えられた。これらの検討の結果,明らかな混入サンプルは,追試実験と,考古学的層位などから,除くことが出来た。また,9トレンチと14トレンチと2つのトレンチでは堆積速度に極端な差が存在するものの,相対的な層の推移は概ね彦崎Z1式層→彦崎Z2式層→中期層→彦崎K2式層→晩期ハイガイ層となることがわかった。今後,本遺跡でみられたコンタミネーションの出現率などに留意しつつ,年代測定試料を選別していく必要がある。そういった意味で本遺跡の事例は,サンプリングを考えるうえでの重要なモデルケースとなろう。Relics from all of the periods from Earliest Jomon through to Latest Jomon have been excavated from the Hikosaki shell midden situated in Okayama City (formerly Nadasaki-cho) in Okayama Prefecture. Multiple layers of relics were excavated at the start of the survey from trench 9 located on the western side of the site and trench 14 on the eastern side of the site, which drew attention to these locations as important spots. Although extremely few pieces of carbonized material adhering to pottery were found in the Hikosaki shell midden, large quantities of carbonized wood were recovered from excavation. We undertook dating mainly of the carbonized wood and investigated the corresponding relationships between the pieces of carbonized wood and relics from each of the layers. Although the results were largely consistent in terms of the sedimentation process of the layers, there were some samples whose dates deviated considerably. We made a detailed study of these samples and sorted basic information. We repeated measurements and identified the tree types of those samples that gave abnormal readings.The results revealed that for many of the samples that yielded abnormal values there were problems at the time of sampling. This was particularly pronounced for samples that were washed in water. It is conceivable that the substances that caused this contamination were both present-day substances and the top layer. Identification of the types of wood of very small contaminated samples also showed that screening is a possible cause of this contamination. As a result of such investigations, we were able to eliminate samples that were clearly contaminated from additional testing and the archaeological succession of strata. Although there was an extreme difference in the sedimentation rates for trench 9 and trench 14, we found that the pattern of relative layer development was mainly : Hikosaki Z 1-type layer -> Hikosaki Z 2-type layer -> Middle Jomon layer -> Hikosaki K 2-type layer -> Latest Jomon Haigai layer.In the future, it will be necessary to screen samples for dating while keeping in mind the contamination rates seen at this site. In this sense, the case of the Hikosaki site will become an important model with respect to sampling.
著者
原田 信男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.393-414, 2002-03

古代や近世のような統一権力の場合とは異なり,地域的な分権制を原則とする中世社会では,国郡を単位とするような大規模な土木工事が,行いにくい政治的環境下にあった。こうした中で,小稿では中世東国において,どのように耕地の開発が行われ,どのような災害が惹き起こされていたかを問題としたい。まず中世村落における開発については,これまで指摘されたような山間部の谷田を中心とするものではなく,平地部の沖積地においても早くから開発が行われていた。例えば鎌倉期には,幕府や荘園領主が局地的に労働力を動員して,利根川などの沖積低地悪水地帯にも人工的に提防が築かれている。洪水という災害から集落と耕地を守る人工提防の造築を行うとともに,用水路を確保しつつ水田開発の進展が,領主側の強い意志によって図られたのである。なお人工堤防や用水路などの土木工事に関する技術や知識は,寺院の僧侶たちによって主に伝えられたと考えられる。一方災害については,会津盆地の『塔寺八幡宮長帳』『異本塔寺長帳』や,富士山北麓の『妙法寺記』(『勝山記』)など,地域的に連続した史料が残る。これらから中世東国における災害の性格をみれば,近年流行している気象変動論に基づく小氷期による冷害が主体なのではなく,風水害が最も多く時には早害なども加わり,さらには疫病などが蔓延して被害者が増大したことが窺われる。さらに中世における飢饉は,異常気象や天変地異などによる自然の災害に加えて,それぞれの地域における人為的な収奪の問題も大きかったが,基本的には地域ごとの自然発生的な要素が極めて強かった。確かに中世社会においては,統一的な権力によって大規模な開発が進められたわけではなく,自然現象を克服する技術は相対的に低かった。しかし,代わりに全国規模の経済・流通システムに組み込まれ,藩単位で飢饉に追い込まれる近世に較べれば,被害の程度も比較的小規模に留まりえたものといえよう。
著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.763-790, 2001-03-30

これまでの民俗学において,〈在日朝鮮人〉についての調査研究が行なわれたことは皆無であった。この要因は,民俗学(日本民俗学)が,その研究対象を,少なくとも日本列島上をフィールドとする場合には〈日本国民〉〈日本人〉であるとして,その自明性を疑わなかったところにある。そして,その背景には,日本民俗学が,国民国家イデオロギーと密接な関係を持っていたという経緯が存在していると考えられる。しかし,近代国民国家形成と関わる日本民俗学のイデオロギー性が明らかにされ,また批判されている今日,民俗学がその対象を〈日本国民〉〈日本人〉に限定し,それ以外の,〈在日朝鮮人〉をはじめとするさまざまな人々を研究対象から除外する論理的な根拠は存在しない。本稿では,このことを前提とした上で,民俗学の立場から,〈在日朝鮮人〉の生活文化について,これまで他の学問分野においても扱われることの少なかった事象を中心に,民俗誌的記述を試みた。ここで検討した生活文化は,いずれも現代日本社会におけるピジン・クレオール文化として展開されてきたものであり,また〈在日朝鮮人〉が日本社会で生活してゆくための工夫が随所に凝らされたものとなっていた。この場合,その工夫とは,マイノリティにおける「生きていく方法」「生存の技法」といいうるものである。さらにまた,ここで記述した生活文化は,マジョリティとしての国民文化との関係性を有しながらも,それに完全に同化しているわけではなく,相対的な自律性をもって展開され,かつ日本列島上に確実に根をおろしたものとなっていた。本稿は,多文化主義による民俗学研究の必要性を,こうした具体的生活文化の記述を通して主張しようとしたものである。
著者
土田 宏成
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.126, pp.53-66, 2006-01

満州事変後における軍部の宣伝活動が、国民世論を軍国主義的な方向に導くうえで大きな力を発揮したことはよく知られているが、これまでの研究では陸軍の宣伝に関心が集中しており、海軍についてはあまり注目されてこなかった。海軍の宣伝は内容、規模、影響力ともに陸軍に及ばなかったとみなされているからである。海軍の宣伝が陸軍の宣伝に及ばなかった最大の原因は、海軍の国民的基盤の弱さに求められる。陸軍の宣伝が強力だったのは、国民の間に多数の会員を持ち、「軍隊と国民との媒介者」の役目を果たした在郷軍人会を利用できたからである。陸海軍の軍隊としての基本的性格の違いから、在郷軍人の数において陸軍が海軍を圧倒していた。そのため在郷軍人会は陸海軍共通の組織ではあったが、事実上陸軍の組織であったのである。しかし、一九三〇年代海軍も陸軍と同様に国防宣伝を行う必要に迫られ、その弱点である国民的基盤の弱さを克服しようと試みる。具体的には、陸軍の在郷軍人会に相当するような国民的組織を持つことが目指されるのである。海軍が採用したのは、既存組織である海軍協会の拡充という方法であった。そして海軍協会は、海軍当局の指導と支援の下に、海軍の長老で政治力もある斎藤実を新会長に迎え、全国府県単位に知事を長とする支部を設置し、大々的に会員を募集した。そして、一九三四年の第二次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉、三五年の本会議に向けて、宣伝活動に力を入れていく。その主張は海軍の立場を代弁するもので、現行の海軍軍縮条約体制を批判し、英米との軍備平等を求めるものであった。このように従来の軍縮会議の際には見られなかった、組織的な宣伝活動が展開された結果、国内世論は強硬論で統一され、日本は国際的な海軍軍縮条約体制から離脱していったのである。It is well known that the propaganda of the Japanese military following the Manchurian Incident exhibited considerable power in leading public opinion in the direction of militarism. However, until now research has centered on the propaganda of the Army, with little attention paid to the Navy. The reason for this is that the contents, scale and impact of Navy propaganda are regarded as having been inferior to that of the Army.The biggest reason why propaganda of the Navy did not match that of the Army can be found in the weakness of the Navy's popularity. Propaganda of the Army was strong because the Army was able to use the reservists' association that had many members among the people and played the role of intermediary between the military and the people. The fundamental differences in the nature of army and naval forces meant that an overwhelming majority of reservists was from the Army. Consequently, although the reservists' association was an organization for both the Army and Navy, it was in effect an army organization.However, during the 1930s, the Navy was pressured to propagandize the national defense, as was the case with the Army, whereupon it tried to reinforce its weak popularity. The method chosen by the Navy to do this was to expand the Navy League, an existing organization. With the guidance and support of naval authorities, the Navy League welcomed as its new chairman Makoto Saito, a naval senior who yielded considerable political clout. It set up sub-branches in each prefecture of Japan with the prefectural governors as chairmen, and went all out to recruit members. They put considerable effort into propaganda directed at preliminary negotiations for the Second London Naval Disarmament Conference held in 1934 and the conference proper that was scheduled for the following year. Their assertions represented the opinion of the Japanese Navy, criticizing the current treaty system for naval disarmament and seeking parity in arms with Britain and the United States. This organized propaganda, which had never been seen at earlier disarmament talks, united national opinion behind hard line policy and resulted in Japan's withdrawal from the international naval disarmament treaty system.
著者
阿南 透
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.263-299, 2003-03

本論文は、青森市で毎年八月二日から七日まで開催される「青森ねぶた祭」を取り上げ、それが現在のような大規模な都市祭礼になっていった過程を考察する。現在の青森ねぶた祭は、巨大な人形型の燈籠、囃子、ハネトと呼ばれる踊子、この三つのセットで構成された集団が合同で運行する行事である。国の重要無形民俗文化財に指定されているものの、特定社寺と結びついた宗教行事ではなく、起源や由来も定かではない。ねぶたに類する行事は青森県内をはじめ東日本各地に見られ、青森市のねぶたも戦前まではそうした各地の行事と大差ないものであった。現在のような様式が成立したのは戦後のことと考えられる。本論文は、その成立過程とその後の変容を、ねぶた本体(燈籠)、祭りの組織、運行形態の三点から明らかにする。まずねぶた本体は、道路幅や歩道橋の高さといった、青森市街地の形状により大きさの上限が決まり、ねぶた師と呼ばれる制作者の創意工夫で一九七二年頃に現在の様式が確立した。次に祭りの組織については、経費の高額化に伴い、ねぶたを運行する団体が地域から行政・企業へ移行し、主催者と対等の発言権を有するに至った。そして運行形態については、有料観覧席の設置など観光客対策、国道の使用時間制限、さらには急増するハネトとその逸脱行為が、運行コースや運行台数を規定した。このような戦後の変化は五つの時期に区分できる。すなわち、一九四七年の本格復活から六一年までの第一期は、戦争による中断からの復興の時期である。一九六二年から六七年までの第二期は、観光化の開始と大型化の時期である。そして一九六八年から七九年の第三期に、青森ねぶた祭が確立し、一つのピークを迎える。一九八〇年から九六年の第四期は、若者の逸脱行為が目立ち始める転換期である。そして一九九六年の暴力事件をきっかけとして、一九九七年からの第五期は、逸脱行為への対応に追われる変容期に入り、現在も試行錯誤が続いているのである。This paper addresses the "Aomori Nebuta Matsuri (Aomori Nebuta Festival)", held in Aomori every year from the 2nd through the 7th of August, and considers the process by which it developed into the large-scale urban festival it is today.Currently, the Aomori Nebuta Festival is an event consisting of the collective effort of a group of people that consists of the following set of three elements: huge doll-shaped lanterns, musical accompaniment, and dancers called "haneto". Although the festival is designated as an important intangible folk cultural property, it is not a religious event connected to any particular temple or shrine and the origins and history of the festival remain uncertain. Similar events are found in Aomori prefecture as well as throughout eastern Japan, and before WWⅡ the Nebuta Festival of Aomori City was not much different from such festivals of other regions. The present style of the Aomori City Nebuta Festival was most likely established after the war. This paper examines the process through which the festival was established and the transformations later undergone by the festival from the following three points: the nebuta itself (lanterns), the organization running the festival, and management conditions.First of all, with regard to the nebuta itself, the upper limits as to size were determined based on the form of the urban districts of Aomori, with such factors as the width of the streets and the height of the pedestrian overpass being a consideration. The present style of the nebuta was established between 1967 and 1972 through the ingenuity of the creators, called "nebuta-shi". Next, with regard to running the festival, rising expenses brought about a shift from the local organizations to administrative bodies and corporations, giving the organization an equal voice as the sponsors. Lastly, regarding management conditions, provisions for tourists such as setting up seats for viewing the festival to rent, and time restrictions on the use of national roads, as well as increasing incidences of inappropriate behavior by the "haneto" all were taken into account in determining the route of the festival and the number of nebuta.If we take an overall look at the developments from after WWⅡ, the history of the festival can be divided into five periods. The first period from 1947 when the festival was first truly revived to 1961 was the period of reestablishing the festival after a ten-year gap due to the war. The second period from 1962 to 1967, was the period for the beginning of the making of the festival as a tourist attraction and enlarging the scale of the festival. The third period between 1968 and 1979 was the period in which the "Aomori Nebuta Matsuri" was fully established and was at its peak. The fourth period from 1980 to 1996, was a transition period, with a rapid rise in the number of "haneto" and an increase in inappropriate behavior by the young people participating in the festival. Finally, the fifth period, which began in 1997 in response to the outbreak of violence in 1996, is a period of transformation where people are busy looking for countermeasures for inappropriate behavior and this state of trial-and-error still continues today.
著者
永嶋 正春
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
1994

全国的な視野の元で、遺跡から出土した数多くのベンガラ系赤色顔料資料の調査を実施し、またベンガラ質岩石の所在や自然露頭に関する情報収集にも努めた。以上の作業を継続して実施したことで、日本におけるベンガラ系赤色顔料の実態を概ね明らかにすることができた。パイプ状ベンガラ顔料のあり方が概括できたわけである。1 パイプ状ベンガラ顔料の存在が、北海道から九州に至るまで全国的に確認され、また時代も縄文時代早期から古墳時代に至るまでの非常に長い期間に渡って使われていたことを、出土資料に即してより具体的かつ綿密に捉えることができたのは、予め想定されていたことではあるものの大きな成果であった。2 これらの作業の中で、長野県下の資料に縄文時代前期初頭の漆資料を検出できたことは、日本の初期漆文化を考える上できわめて重要な知見となる。3 同じく作業中の成果として、熊本県玉名市柳町遺跡出土の木製短甲に、4世紀初頭の文字の存在を確認できた。パイプ状ベンガラ顔料の研究は、単に赤色顔料の研究にとどまるものではないことを実証した事例として重要である。4 自然露頭におけるパイプ状ベンガラの産地は未だ発見されておらず、その追求はこれからの大きな課題として残ったままである。しかしながら、パイプ状ベンガラの元形態がペレット状である事実が確認できたことは今後に向けた大きな情報と言うことができる。
著者
西谷 大
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.407-422, 2003-10

日本列島において,ブタは大陸からもたらされた可能性が高い。しかしブタを農耕に取り込むといった特異な循環システムをもつ中国的集約農耕は,弥生時代およびそれ以降の日本の歴史においても,琉球列島を除いた日本列島には存在しなかった。またブタ自体も奈良時代以降は飼養しなくなるという歴史をもつ。本稿ではこの問題を,海南島のブタ飼養の歴史と,黎族のブタを重要視しない生業システムと比較しながら論じた。海南島において,黎族がブタを日常的に飼養するのは明代に至ってからだと考えられる。その要因は海南島における大陸からの漢族移住による人口圧のためのブタ肉の需要拡大が背景にあり,黎族とっては鉄製品や塩の交換品としてのブタの付加価値が,ブタ飼養を受容した要因だったと推測できる。しかし黎族は,中国的集約農耕によるブタ飼養方法は受容しなかった。そのかわりに,水田,焼畑,狩猟採集,家畜といった生業を複合的に維持しつづけた。その特徴は,焼畑という自然界に作られた「大きな罠」を利用し,野生動物を日常的に狩猟するシステムを農耕内部に作り上げたことにあった。これが人為的な循環システムに頼る中国的集約農耕とは大きく異なる点であり,またブタをそれほど重視しない生業を維持することが可能な要因だったと考えられる。琉球列島を除く日本列島の農耕は,海南島の黎族と同様に中国的集約農耕へと向かわなかっただけでなく,大陸の中国的集約農耕が卓越する地域ではすでに消滅した焼畑を,戦後の1970年代までおこないつづけた。日本列島における焼畑がどこまで遡るかは今後の研究課題であるが,日本のブタ飼養の問題をとりあげる場合,焼畑が有する野生動物の多様な利用に注目する必要があろう。There is a strong possibility that pigs were brought to the Japanese archipelago from the continent. However, the Chinese style of intensive agriculture with a singular rotational system that incorporated pigs into agriculture did not, with the exception of the Ryukyu Islands, exist in Japan during the Yayoi period or any later period in Japanese history. History also tells us that the raising of pigs ceased after the Nara period. This paper studies this question by comparing the history of pig farming on Hainan Island with the livelihood systems of the Li tribe that did not pay particular attention to pigs.It is believed that it wasn't until the Ming period that the Li tribe on Hainan Island began to raise pigs as part of their everyday lives. The reason for this is connected to the increase in demand for pork generated by population pressure on Hainan Island and it may be surmised that the acceptance of pig farming by the Li tribe is attributable to the added value that pigs had as goods that could be exchanged for iron products and salt.However, the Li tribe did not introduce a method of pig farming that follows the Chinese style of intensive agriculture. Instead, they continued to maintain livelihoods that involved wet rice paddies, slash-and-burn fields, hunting and gathering and domesticated livestock. The distinguishing feature of this style of livelihood was the use of "large traps" that were built in slash-and-burn fields that are part of the natural world, and the way they created a system for the daily trapping of wild animals within their agricultural system. This is vastly different from the Chinese style of intensive agriculture that relied on a man-made rotational system, and is believed to be one factor that made it possible to maintain a way of life that did not pay much attention to pigs.Not only was the Japanese archipelago, with the exception of the Ryukyu Islands, the same as Hainan Island in that it did not turn to the Chinese style of intensive agriculture, but slash-and-burn fields that had already disappeared from regions where the continental Chinese style of intensive agriculture had been prominent continued to be used after the Second World War up until the 1970s. The question of just how far back slash-and-burn fields date in the Japanese archipelago is a topic for future research, and the diverse utilization of nature in slash-and-burn fields is an aspect that deserves attention.
著者
葉山 茂
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.123, pp.185-218, 2005-03

本稿では,漁業集落の出かせぎをとりあげて,出かせぎが可能になる生業の条件について検討した。一般に,出かせぎは人びとを地方から都市へと押し出す力であるプッシュと,都市が地方の人びとを引き付ける力であるプルの2つの力によって説明をするプッシュ・プルの構図によって理解されてきた。しかし,プッシュ・プルの構図は,出かせぎを説明するものであると同時に,過疎化の原因を説明するものとしてもつかわれてきた。つまり,プッシュ・プルの構図は地方から人びとが都市に出ていく原因を論じていたのである。しかし,出かせぎは「出ていく」と同時に「帰ってくる」ことによって成り立つ経済活動である。つまり「帰ってくる」ことを説明しなければ出かせぎを説明したことにはならないのである。そこで,本稿では「帰ってくる」原因を出かせぎ者たちの地元の生業における資源利用の形態に求めた。本稿では青森県内の小泊村と佐井村という2つの漁業集落を取り上げた。両村は漁業がさかんであるが,小泊村は出かせぎも過去からずっとさかんであったのに対して,佐井村は出かせぎがほとんどおこなわれてこなかったのが特徴である。両村を比較すると,小泊村が一貫して資源獲得型の漁業をしてきたのに対して佐井村は一貫して閉鎖型の漁業をしてきた。資源獲得型の漁業をしてきた小泊村の出かせぎ者たちは,数十年にわたって出かせぎをして地元を離れていても漁業協同組合のメンバーから外されることはないのに対して,佐井村の出かせぎ者たちは一年間漁業をしていないと漁業協同組合のメンバーから外されて漁業ができなくなってしまう。つまり,出かせぎ者たちが長期間にわたって地元を離れることはできる要因の一つは,地元の漁業に出かせぎから戻っても居場所があるということに求められるだろう。出かせぎという経済活動をとらえるには,生業における資源利用の形態や資源の分配方法にも目を向ける必要があるだろう。This paper is a case study of "Dekasegi ": work away from home of fishery villages. Generally, "Dekasegi" is understood according to the Push-Pull Theory. The theory explains "Dekasegi" according to two power. A power is the Push power which is push out people from country villages to cities. And the other power is the Pull power which draws people near to a cities from the country villages. However, the Push-Pull Theory has been used even if it shall explain the cause of decrease in population at the same time it explains "Dekasegi ". That is, the Push-Pull Theory was discussing the cause which people leave from country villages to cities. "Dekasegi" is an economic activity realized by what goes away from a country village to a city and come back from a city to a country village. But Push-Pull Theory can explain why people goes away from a village, but cannot explain why people comes back to village. Then, I took up the question why people came back to home town.In this paper, I took up two fishery villages called Kodomari-village and Sai-village in Aomori Prefecture. Two villages are prosperous in a fishing. But Kodomari-vellage is prosperous also in "Dekasegi". On the other hand, in Sai-village, there is almost no "Dekasegi". When the fishing of two villages is compared, Kodomari-village has carried out the fishing which is consistent and develops resources. On the other hand, Sai-village has carried out the fishing which continues taking what is consistent and is in the nearby sea. In Kodomari-village, people who works away from home are never removed form the member of a local Fisheries Cooperative Association (FCA). But in Sai-village, people who works away from home are from the member of local FCA, and are impossible to continue fishing. That is, it will be asked for one of the factors in which emigration persons can leave local over a long period of time that it has also returned from "Dekasegi" to the local fishing, and a place is in it.
著者
山折 哲雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.125-163, 1983-03-15

Originally, the Japanese god (Kami) was an invisible deity but after the 8th century to the 9th century (Nara-Heian period) it assumed the shape of an aged man (okina) in mythological legends and legendary literature. The invisible god donned the mask of an okina, appeared into this world, delivered oracles and made predictions. About the same time, images of gods were produced. A notable fact is that one of the oldest images found of a god possesses the features of an old man. In Japan, Buddism exerted a deep influence on the production of divine figures, but images of Buddha scarcely took the shape of an old man. At the beginning of the Heian period the facial expressions of a god assuming the features of an okina were developed from the okina masks in the Noh plays that were perfected by Zeami during medieval times and eventually formed a typical pattern. Moreover, the fact that the okina mask appearing in the Noh plays was handed down as the mask of god, corresponds well with the meaning of the okina as a godly symbol in the legends previously mentioned.A study of the legends of the okina in historical literature shows that the origin could be traced to the genelogy of yamanokami (mountain god) and uminokami (sea god). They sometimes helped in human crisis, gave knowledge, set ethical examples to people and imparted revelation. In other words, this was a mediator between the will of the gods, spirits and the human world. They appeared to the human world through spirits prossession and this tendency shows its profound shamanistic character.The okina that appears in ancient literature takes the figure of an ordinary man as well as priest; this shows that it was a divine reality belonging to a liminal area that covered beliefs in god as well as Buddha.God assuming the shape of an okina, respected as both god and man as according to the legends, reflects the Japanese belief towards ideal aging, quite different from the Western ideology. Old age is a period that symbolizes tragedy, disgrace and despair, but also it is a period that reflects humanity consisting of unselfish wisdom; innocent childishness and vigorousness. The divine image that ancient Japanese tried to attach to the icon of the okina seems to exert a strong influence on our basic ethnic consciousness.
著者
山口 英男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.127-145, 2015-03

正倉院文書は、官司の現用書類が不要となり廃棄されたものである。この点で、多くの古文書とは異なる特徴を有しており、文書の機能情報を抽出・解析する上でも、これに対応した手法・手順が求められる。正倉院文書の解析は、業務の解析に他ならない。そのためには、書類からの情報抽出において、書類の作成から利用・保管・廃棄に至る履歴を明らかにすること、その際、書類の用いられる場の変化に着目することが重要である。この点で、古文書学における文献史料(文字資料)の三分類(文書・典籍・記録)や、近年指摘されているその見直しの議論に注目できるが、その方向性には疑問もある。文字資料は「文字を用いて情報を何らかの媒体に定着させたもの」であり、情報の受け手に何らかの影響(働きかけ)を及ぼす。ただし、単なる情報の移動と、意識的な情報の伝達とは区別されなくてはならない。情報の伝達においては、正確性、確実性が求められることから、文書様式・書札礼等を含め、様々な「仕掛け」が施される。「仕掛け」の有無には機能上明確な差異が存在し、業務解析においては、そうした「仕掛け」に着目することで様々な知見を抽出することができる。以上の観点から、某者宣を書き留めた受命の書面、経巻奉請に関する書面を取り上げ、命令や依頼の内容を書き留めただけの書面の存在と、その業務進行上の役割を検討することで、口頭伝達と書面伝達とが併存する具体的な様相を明らかにし、伝達のための「仕掛け」を持たない書面が場を移動しながら利用されることの意味を論ずる。Shosoin documents are government documents no longer needed and disposed of. In this aspect, they have different characteristics from other historical documents; therefore, it is essential to employ methods and procedures appropriate to such characteristics during collection and analysis of their functional information. Analyzing Shosoin documents means analyzing government operations. When extracting information from Shosoin documents, it is crucial to clarify the life cycle of documents, from creation to use, storage, and disposal, and to pay attention to changes in place of use.In this regard, the three categories of historical documents (textual materials) in the study of paleography, such as monjo ( letter) , tenseki ( book) , and kiroku ( record) , as well as recent arguments against the classification are worthy of note; however, there is some doubt about the direction of these studies. Textual materials are "media to convey information in writing". They are aimed to influence (induce an action from) information recipients. The point is to distinguish between mere distribution of information and intentional transmission of information. Since accuracy and reliability are important for the latter, a variety of "devices" including document styles and documentation rules (shosatsurei) are made. There are distinctive differences in function depending on whether such a "device" exists or not; therefore, in the analysis of government operations, a close examination of such "devices" helps us extract a variety of information.From the above point of view, this article investigates the documents which dictate the decisions of higher officials and which apply for sutras and compares their function in carrying out the duties with that of the documents which merely describes the content of instructions or requests. Through these analyses, this study reveals the specific situation where both oral and written communication were used and argues the significance that documents without any "devices" to convey information were reused at various places.
著者
山口 英男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.127-145, 2015-03

正倉院文書は、官司の現用書類が不要となり廃棄されたものである。この点で、多くの古文書とは異なる特徴を有しており、文書の機能情報を抽出・解析する上でも、これに対応した手法・手順が求められる。正倉院文書の解析は、業務の解析に他ならない。そのためには、書類からの情報抽出において、書類の作成から利用・保管・廃棄に至る履歴を明らかにすること、その際、書類の用いられる場の変化に着目することが重要である。この点で、古文書学における文献史料(文字資料)の三分類(文書・典籍・記録)や、近年指摘されているその見直しの議論に注目できるが、その方向性には疑問もある。文字資料は「文字を用いて情報を何らかの媒体に定着させたもの」であり、情報の受け手に何らかの影響(働きかけ)を及ぼす。ただし、単なる情報の移動と、意識的な情報の伝達とは区別されなくてはならない。情報の伝達においては、正確性、確実性が求められることから、文書様式・書札礼等を含め、様々な「仕掛け」が施される。「仕掛け」の有無には機能上明確な差異が存在し、業務解析においては、そうした「仕掛け」に着目することで様々な知見を抽出することができる。以上の観点から、某者宣を書き留めた受命の書面、経巻奉請に関する書面を取り上げ、命令や依頼の内容を書き留めただけの書面の存在と、その業務進行上の役割を検討することで、口頭伝達と書面伝達とが併存する具体的な様相を明らかにし、伝達のための「仕掛け」を持たない書面が場を移動しながら利用されることの意味を論ずる。
著者
田中 史生
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.329-341, 2015-03

本稿は,8世紀の日本官印と隋唐官印と比較することによって,日本律令国家の官印導入期における中国の影響と,日本官印の特質について考察するものである。考察の結果,日本律令国家の官印は,隋唐官印のなかでも紙による文書行政とかかわる「官署印」の直接的影響を受けて成立したが,その法量を唐よりも大型化させるとともに,官司のレヴェルに従って印面文字の字体や形式と組み合わせながら法量を細分化し,その区分を遵守させるなどの特徴があることが明らかとなった。また隋唐においては,御璽が一般的な命令伝達文書の作成過程で紙に押印されることはなく,諸州などに下される文書には,裁可された案件の諸司における処理ないし行政手続きが正しく行われることを保証するために六部所属の二十四司の印が押されたが,日本において命令伝達の中核に置かれた印は内印,すなわち天皇御璽で,中央政府の文書発給の全てを天皇が直接統治することに重きを置いた押印制度となっていた。さらに諸国印は,国府とそれが統括する地方の間の文書に印が押されるのではなく,中央政府と国府との関係の中での押印を基本としていた。そこには,日本古代官印の文書行政における実務的機能とのかかわりだけでなく,印の大きさ,押印の仕方,印面文字の字体・形式によって,中華日本を表現するともに,天皇の直接統治と,天皇を中心とした中央集権的なビラミッド型の官司配置という,日本律令制の理念的構造を表象ようとする古代国家の意図が読み取れるであろう。This article compares official seals of Japan and China (the Sui and Tang Dynasties) in the eighth century to examine the impact of China on the introduction of official seals in the ritsuryo nation of Japan and the characteristics of Japanese official seals. The analysis reveals that although the official seal system of the ritsuryo nation of Japan was established under the influence of Sui/Tang official seals, in particular the direct influence of government office seals which were closely connected to the document administration, the Japanese system was characterized by the following points: the official seals of Japan were bigger than those of the Tang Dynasty and classified in detail by their size as well as the typeface and style of the characters on their face according to the level of government, and the classification was strictly adhered to. In addition, in the Sui and Tang Dynasties, the imperial seal was not used when issuing general directives, and the seals of the 24 bureaus of the six ministries were affixed on documents sent to provinces in order to ensure implementation of approved documents and proper administrative procedures in each government office. On the other hand, in Japan, Naiin, the imperial seal, was stamped on directives as a rule, and emphasis was placed on the direct control of the emperor over all documents issued by the central government. Moreover, in principle, provincial documents were affixed not by the provincial government and its subordinate governments but by the central and provincial governments. These findings indicate not only the practical functions of official seals in the document administration in ancient Japan but also the intention to use differences in the size of seals, the way of stamping them, and the typeface and style of characters on their face to express the Japanese ethnocentrism and symbolize the direct rule of the emperor and the ideal structure of the Japanese ritsuryo system based on a pyramid, centralized government organization led by the emperor.
著者
中林 隆之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.147-170, 2015-03

正倉院文書には、天平二十年(七四八)六月十日の日付を有した、全文一筆の更可請章疏等目録と名付けられた典籍目録(帳簿)が残存する。この目録には仏典(論・章疏類)と漢籍(外典)合わせて一七二部の典籍が収録されている。小稿では、本目録の作成過程および記載内容の基礎的な検討を行い、それを前提に八世紀半ばの古代国家による思想・学術編成策の一端を解明した。本目録には、八世紀前半に新羅で留学した審詳所蔵の典籍の一部が掲載されていた。審詳の死後は、彼の所蔵典籍は、弟子で生成期の花厳宗の一員でもあった平摂が管理した。本目録は、僧綱による全容の捕捉・検定を前提として、内裏が審詳の所蔵典籍の貸し出しを平摂の房に求めた原目録をもとに、それを平摂房で忠実に書写し、写経所に渡したものであった。審詳の所蔵典籍には、彼が新羅で入手したものが多かった。仏典は、元暁など新羅人撰述の章疏類が一定の比重をしめた。それらの仏典は、写経所での常疏の書写に先だって長期にわたり内裏に貸し出されていた。内裏に貸し出された中で、とくに華厳系の章疏類は、南都六宗の筆頭たる花厳宗が担当する講読章疏の選定と布施額の調整などに活用された。漢籍も、最新の唐の書籍や南北朝期以来の古本、さらに兵書までをも含むなど、激動の東アジア情勢を反映した多様な内容であったが、これらも内裏に貸し出され、国家による諸学術の拡充政策などに活用されたとみられる。八世紀半ばの日本古代王権は、『華厳経』を頂点とする仏教を主軸においた諸思想・学術の国家的な編成・整備政策を推進したが、その際、唐からの直接的な知的資源の確保の困難性という所与の国際的条件のもと、本目録にみられたものを含む、新羅との交流を通して入手した典籍群が一定の重要な役割を担ったのである。The Shosoin Archives have a book catalogue (register) dated the tenth day of the sixth month in the year Tenpyo 20 (748) and titled "Catalogue of Additionally Requested Chinese Classic Books and Commentaries on Han Buddhist Scriptures" (hereinafter the "Catalogue") . It contains a total of 172 books ranging from Buddhist literature (translated guides and commentaries on Han Buddhist scriptures) to Chinese books (secular books) . Through a brief examination of the production process and content of the Catalogue, this article discovers part of policies to organize thoughts and knowledge in ancient Japan in the mid-eighth century.The Catalogue includes some of the books belonging to Shinsho, who studied in Silla in the first half of the eighth century. After his death, the collection of books was managed by Hyosho , a disciple of Shinsho and a member of the initial Kegon sect. This Catalogue is a precise copy of the original catalogue of the books of Shinsho which the Dairi (Imperial Palace) borrowed from the monastery of Hyosho. It was made by the monastery and submitted to the Shakyojo (Sutra Copying Office) when asked by Sogo (Buddhist ecclesiastical authority) for the purpose of making a complete inventory and inspection.Many of Shinsho's books came from Silla. His Buddhist literature consisted of commentaries written by Silla scholars and monks such as Gangyo (Wonhyo) . Before the Shakyojo started copying Buddhist guides and commentaries, Shinsho's books were lent to the Dairi for years. Especially, commentaries on Kegon sutras were used for lectures given by the Kegon sect, the leading sect of the six sects of Nara, as well as for determination of the amount of donations. On the other hand, Shinsho's Chinese book collection included a wide range of topics, such as the then latest books of the Tang Dynasty, ancient books after the Nan-Bei Chao period, and military tactics books, which reflected the turbulent situation of East Asia at that time. These books were also borrowed by the Dairi and used for policies to advance arts and sciences.In the mid-eighth century in Japan, the ancient imperial authority promoted national policies to establish and develop thoughts and knowledge centered on the Buddhism based on the Kegon Sutra. At that time, since they had difficulties acquiring intellectual resources directly from the Tang Dynasty due to the given international conditions, a collection of books obtained through exchanges with Silla, including those in the Catalogue, played a certain important role.
著者
河西 学
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.172, pp.209-229, 2012-03

本研究では,栃木県内の4遺跡から出土した縄文早期井草式・夏島式土器を対象として薄片による岩石学的胎土分析を行い,関東地方河川砂との比較により土器の原料産地推定を試み,当時の土器作りと土器の移動について,従来の草創期土器の分析事例と比較検討した。その結果,宇都宮市内の宇都宮清陵高校地内遺跡・山崎北遺跡の井草式では,変質火山岩類を主体とし安山岩・デイサイト~流紋岩を伴う岩石鉱物組成の土器が含まれ,これらの組成が栃木県中央部の河川砂の組成と類似性が認められることから,地元原料を用いた土器作りが推定された。真岡市市ノ塚遺跡の全試料と山崎北遺跡の一部の井草式では,花崗岩類主体の岩石鉱物組成を示す土器から構成され,花崗岩類分布地域に原料産地が推定され,土器あるいは原料として運び込まれた可能性が考えられた。花崗岩類の原料産地候補地は,筑波岩体周辺が有力であるが,山崎北遺跡の場合足尾山地などの小岩体についても可能性が残る。小山市間々田六本木遺跡の夏島式は,変質火山岩類が多く花崗岩類・珪質岩などを伴う組成を示し,原料産地が栃木県中央部地域に推定された。地元原料を用いた土器作りは,宇都宮清陵高校地内遺跡・山崎北遺跡・間々田六本木遺跡などで認められる一方,市ノ塚遺跡では認められない。井草式・夏島式の花崗岩類主体の胎土は,千葉県内でも確認されることから広域に移動していた可能性が推定されるが,各遺跡内の胎土組成の多様性が乏しく遠方に原料産地が推定される胎土がほとんどないことから,他の胎土の土器の移動頻度は低調で,移動距離も小さいと推定された。In this study, for the pottery of the Igusa and Natsushima types unearthed from four remains in Tochigi Prefecture, petrographic analysis of the paste was conducted on its thin sections. In comparison with river sand in the Kanto region, the presumed fields of raw materials of the pottery were identified, and the manufacturing and transfer of pottery at that time were studied in comparison with the conventional analysis examples for the pottery of the beginning of the Jomon period.As a result, it was found that the pottery of the Igusa type from the Utsunomiya Seiryo High School site and the Yamazaki-kita site in Utsunomiya city includes the pottery having the mineralogical composition of mainly altered volcanic rocks, with andesite, decite and rhyolit. The composition is similar to that of the river sand in the central area of Tochigi Prefecture, and therefore, it was presumed that the pottery was made using the local materials. All the samples from the Ichinozuka site in Moka city and some of the Igusa type from the Yamazaki-kita site are composed of pottery having the rock mineralogical composition of mainly granite. Therefore, it was presumed that the material fields were located in the granite distribution regions, and there is a possibility that the pottery or materials were carried into the sites. The most possible granite fields are the Tsukuba pluton and its surroundings. For the Yamazaki-kita site, small plutons in the Ashio Mountains are also other possible fields. The pottery of the Natsushima type from the Mamada Roppongi site in Oyama city contains many altered volcanic rocks with granite and siliceous rocks, and it is presumed that the material field is the central area of Tochigi Prefecture. Pottery using the local materials was found at the Utsunomiya Seiryo High School site, the Yamazaki-kita site and the Mamada Roppongi site, but not at the Ichinozuka site. Since the paste of the Igusa and Natsushima types which contain mainly granite is found in Chiba Prefecture as well, there is a possibility that it was transferred over a wide area. The composition of the paste in each site has no variety, and there is less paste that is presumed to originate in remote fields. As a result, it is presumed that the frequency of transfer of pottery made of other paste is low and the transfer distance is small.
著者
岩本 通弥
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.52, pp.p3-48, 1993-11
被引用文献数
1

本稿は「民俗の地域差と地域性」に関する方法論的考察であり、文化の受容構造という視角から、新たな解釈モデルの構築を目指すものである。この課題を提示していく上で、これまで同じ「地域性」という言葉の下で行われてきた、幾つかの系統の研究を整理し(文化人類学的地域性論、地理学的地域性論、歴史学的地域性論)、この「地域性」概念の混乱が研究を阻害してきたことを明らかにし、解釈に混乱の余地のない「地域差」から研究をはじめるべきだとした。この地域差とは何か、何故地域差が生ずるのかという命題に関し、それまでの「地域差は時代差を示す」とした柳田民俗学に対する反動として、一九七〇年代以降、その全面否定の下で機能主義的な研究が展開してきたこと(個別分析法や地域民俗学)、しかしそれは全面否定には当たらないことを明らかにし、柳田民俗学の伝播論的成果も含めた、新たな解釈モデルとして、文化の受容構造論を提示した。その際、伝播論を地域性論に組み替えるために、かつての歴史地理学的な民俗学研究や文化領域論の諸理論を再検討するほか、言語地理学や文化地理学などの研究動向や研究方法(資料操作法)も参考にした結果、必然的に自然・社会・文化環境に対する適応という多系進化(特殊進化)論的な傾向をとるに至った。すなわち地域性論としての文化の受容構造論的モデルとは、文化移入を地域社会の受容・適応・変形・収斂・全体的再統合の過程と把握して、その過程と作用の構造を分析するもので、さらに社会文化的統合のレベルという操作概念を用いることによって、近代化・都市化の進行も視野に含めた、一種の文化変化の解釈モデルであるともいえよう。This paper is a methodological study on "regional variation and regionality of folk customs", in which the author aims to construct a new interpretative model from the viewpoint of the structure of the acceptance of culture. To present this subject, the author considered it necessary to put in order the several lines of research (anthropological regionality, geographical regionality, and historical regionality), state clearly that this confusion in the concept of "regionality" has hindered research, and to start with the study of "regional variation", which has no margin for confused interpretation. Concerning the proposition as to what regional variation is, and what causes regional variation, the author makes it clear that functional research has developed since the 1970s (individual analysis method and regional ethnology), as a reaction to and total denial of Yanagita Kunio's ethnology which insists that "regional variation shows a difference in era", but that this does not correspond to a total denial; and he presents the theory of a structure for the acceptance of culture as a new interpretative model, incorporating the results of the theory of dissemination of the Yanagita school of ethnology. In this process, in order to rearrange the dissemination theory as the regionality theory, the author re-examines various discussions on historical-geographical ethnology and the cultural area theory of the past, and refers to the trends and methods in research (Methods for handling materials) in linguistic geography, cultural geography, etc.. As a result, he has necessarily come to support the tendency towards the theory of multi-system evolution (special evolution), which means the adaption to the natural, social and cultural environments. In other words, the introduction of a culture should be recognized as a process of reception, adaption, transformation, conversion, and total reunification of the regional society, and the structural model for the acceptance of culture as the theory of regionality, should analyze the structure of the process and its function. Furthermore, through the use of the operating concept of the levels of socio-cultural integration, the model also becomes a kind of interpretative model of cultural changes, including within its field of vision the process of modernization and urbanization.
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.231-283, 2003-03

兵士の手紙については、書き手の兵士本人の声を聞くことが重視され、一方の受取り手の声についてはあまり注目されてこなかった傾向がある。本稿では民俗学の立場から、戦死、戦病死という異常なる兵士の大量の死をそれぞれの家族がどのように受けとめ受け入れていったのかについて考えていく一つの試みとして、岩手県北上市の二人の農民兵士の手紙を手がかりに、記録(手紙)、記憶と語り(聞き取り情報)、物(位牌や墓石などの死者の表象物)という三つの資料的側面から整理を行った。そして以下の四点を指摘することができた。第一に、二人の農民兵士の家族への手紙の特徴は、戦闘状況にはあまりふれずに家のことばかり心配して書いており、身体は戦地にいても心は常に故郷の家族の元にあったと考えられる。兵士にとっては手紙を出すことが、家族にとっては手紙がくることが、生存の知らせに他ならなかった。第二に、戦死、戦病死は伝統的な日本の農村社会においてはかつて経験したことのない死に方であった。公報による死の知らせ、村葬、家の葬儀などが慌だしく流れても家族は死をすぐには受け入れられず、妻は夫の死を自分で何とか確めようとする衝動に突き動かされていた。第三に、戦死、戦病死した夫の墓を作ることが夫の死の受容の方法の一つであり、老境においても墓とは生者と死者との関係性の「切断と接合の装置」に他ならぬと解読できた。第四に、戦死、戦病死者の位置づけの具体相において死者の表象物および「供養・慰霊・追悼」という宗教儀礼の重層性、重複性が注目された。死者に対する民俗儀礼としては、普通死の場合には伝統的に「供養」であり、異常死の場合には「慰霊」である。そして宗教色を排しながらその人物の死を悼む場合には「追悼」である。これら三種類は当然その意味も異なり、「供養」の場合には成仏を、「慰霊」の場合には神格化へ、と人格の喪失と異化が現象化するのに対して、「追悼」の場合には人格が維持され、悼まれつづける死として定位する、というそれぞれの死者の位置づけの方向力が作用する。戦死、戦病死の表象物および儀礼は、空間的重層性とともに宗教儀礼的重層性をも有している点にその特徴がある。With regard to letters written by soldiers, until recently the emphasis was on listening to the voice of the soldier, or author of the letter, and little attention was paid to the voices of those receiving the letter. This paper attempts to show, from the point of view of folklore research, how the families of soldiers understood and accepted the mass abnormal deaths of the soldiers dying in battle or from disease contacted at the front, as the war situation expanded from the Chinese-Japanese War to the Asia-Pacific War. To this end, the paper looks at the letters of two farmer-soldiers from Waga Town in Waga County, Iwate Prefecture (present-day Kitakami City), classifying and analyzing from the three separate aspects of documentation: records (letters) , memories and oral accounts (interviews) , objects (mortuaries and gravestones and other objects representing the dead). As a result, four issues are discussed. First, one notable feature of the letters sent by the two farmer-soldiers to their families was the fact that they did not discuss the actual situation at the battle front but rather kept referring to the soldiers' homes, revealing how, even though the soldiers' physical bodies were at the battle front, their minds were with their families at home. The act of sending letters was, for the soldiers, a way of signaling that they were still alive, just as the act of receiving the letters conveyed this information to the families. Second, such deaths from fighting and from disease contacted at the front were, for the traditional Japanese farming society, a first-time experience. Although death announcements were published in the bulletins and although village and family funerals hastily carried out, the families could not immediately accept the fact that their loved ones were dead and wives felt compelled to make investigations on their own to confirm their husbands' death. Third, special attention was given to the motivation behind the construction of graves for soldiers killed in battle or by disease at the front. Analysis indicates that building a grave was one way of accepting a husband's death, and that the grave served as the mechanism for severing and joining together the living and the dead. The fourth issue concerns the importance of objects representing the dead and of memorial services such as "kuyo," "irei," and "tsuito." The traditional ceremony to mourn the dead is "kuyo" in the case of a normal death and "irei" in the case of an abnormal death. When mourning for a dead person without bringing religious aspects into the picture, "tsuito" would be the appropriate the ceremony. Naturally, these three types of ceremonies have different meanings and functions and each follows its own vector in its placement of the deceased: the "kuyo" lead the deceased to attain of Buddhahood (enter Nirvana) , the "irei" leads to deification of the deceased, and the "tsuito" demonstrates that the deceased retains his dignity in death. It is characteristic of objects representing those killed in battle and dead from diseases contracted at the front as well as the appropriate ceremonies to be multi-layered both in terms of space and religion.