著者
木庭 康樹 上田 丈晴 沖原 謙 田井 健太郎 高根 信吾
出版者
日本体育・スポーツ哲学会
雑誌
体育・スポーツ哲学研究 (ISSN:09155104)
巻号頁・発行日
vol.35, no.2, pp.101-120, 2013 (Released:2014-07-05)
参考文献数
32

This study aims to identify the structure of sports games in order to analyze soccer games. In the paper before last, we focused on the structure of "competition" as "play" to clarify the concept of "competition" which is the basis for the meaning of "bodily movement competitions (sports)". In doing this, we were able to formulate the function for this structure through the following comparative function.On a condition of r, A = cf (a, b) = a > b, a = b, a < b(where, r : rule, A : agōn, cf : comparative function, a : contestant, b : opponent, > : win, = : draw, < : loss)In the last paper, we clarified that "bodily movement related to competition" is provided for by four characteristics: usability, expression, acquisition, and reciprocity.Our next topic is to consider the development and the optimization of human movement in sport. The human movement in sport has a certain relation with other elements such as rule, tactics, sense of values and others, while keeping the independence as the movement form. It has an original role and function under the relationship with other elements. When an element in the structure of sports builds the new relations with other elements, the sports accomplish a change and development in a true meaning. The creation of a new movement form to enable such the translation of the structure of sports is the development of human movement in sport.In the using process and the learning process of the movement form, sports players come to cannot but acquire and use the form of the technique developed and made an object by an individual. However, they are promoted development of a new form of the technique by the decline of the value of the form of the technique occurring as a result of competition in the game and the decline of the value of players using it. But a form of the technique developed newly also cannot avoid the "alienation" in the using process and the learning process of such the movement form.The concept of "Pareto optimum" clarifies that any movement form has the limit of the geometrical ambiguity (relation between both merits and demerits), as long as they have a definite form, a certain decided figure. However, this means a new movement form and other movement forms connect a new relation between both merits and demerits, and they have the possibility of further optimizing for more purposes.Our future topic is the last aim of this study, to clarify the entirety of "bodily movement competitions (sports)" based on the results considered in our earlier papers.
著者
ASKEW David
出版者
立命館アジア太平洋大学
雑誌
萌芽研究
巻号頁・発行日
2007

リバタリアニズムとは、現代正義論を語る際に無視することのできない思想的立場であると同時に、民営化・規制緩和政策などを推進する「小さな政府」論の理論的基礎を提供する政治哲学でもある。これまで筆者は、個人の自由を非妥協的に擁護し、私有財産制度や自由競争市場を最大限尊重するリバタリアニズムの自由主義哲学を概観し、殊にリバタリアニズム陣営内の論争に着眼して、最小国家論と無政府資本主義との間の対立について論じてきた。今回の研究プロジェクトでは、近代国民国家の衰退と共に、戦争も含めて、かつて国家の正常な守備範囲内と目されてきた機能を果たすため、市場メカニズムをはじめ公共部門以外の部門が積極的に活用されるようになったことに着眼し、環境問題に取り組む市場メカニズムを分析することとした。市場原理の導入で公共財などの財やサーヴィス供給の改善や効率化、合理化がはかられている中で、環境問題や絶滅の危機に瀕している動植物の保護など、市場があたかも公共部門によって解決することのできない多種多様な問題を解決する万能薬と看做すことができるかどうかを検討してきた。そのためにも、従来注目されてきたエコ・ツーリズムなどといった事例ではなく、国立公園の民営化および絶滅の危機に瀕する植物の繁殖・販売を請け負う民間企業のような事例を取り上げることとした。研究の結果は、リバタリアニズム理論という理論枠組を更に展開する形で研究論文としてまとめられてきた。近刊のものを含めて、今年、来年に数本の学術論文が公になる予定である。
著者
水本 正晴
出版者
北陸先端科学技術大学院大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2018-04-01

2020年度の国際会議Cross-Linguistic Disagreement の計画を、研究協力者と共に議論し、会議の要旨を作成した。それをもとに、会議の基調講演をColiva Annalisa (University of California, Irvine)、Jennifer Lackey (Northwestern University)、John MacFarlane (University of California, Berkeley)に依頼し、幸い3人とも引き受けてもらえた。また、その会議の理論的基礎となる論文集Epistemology for the Rest of the World をオックスフォード大学出版から出版した他、その続編となる論文集Ethno-Epistemologyを編集、世界的な出版社と出版について交渉し、現在査読中である。すでに非常に好意的なレビューが一つ返ってきている。また、ニュージーランドで開催された実験哲学の会議では、「知っている」と「分かっている」についてのさらなる詳しい研究を発表し、両者の使用の判断についての大きな違いを報告すると共に、それらが異なる知識概念を表しているという水本の従来の主張を補強した。さらに、他者の感情についての判断について日本人、中国人、アメリカ人の間で極めて興味深い違いがあることを発見し、それをオーストラリアで開催された心理学の哲学の会議で報告した。これらはcross-linguistic disagreement を具体的に考察するためのさらなる具体例を与えることになる。
著者
武内義範著
出版者
法藏館
巻号頁・発行日
1999
著者
田村 義也
出版者
東洋大学国際哲学研究センター(「エコ・フィロソフィ」学際研究イニシアティブ)事務局
雑誌
「エコ・フィロソフィ」研究 = Eco-Philosophy (ISSN:18846904)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.57-69, 2019-03

南方熊楠は、民俗学と文献研究による比較説話研究の領域では著作が多かった一方、生物研究においては、学術的な業績がきわめて少なく、研究者というより情報提供者(インフォーマント)というべきだと自然研究者たちから指摘されることがある。事実、生物学における南方熊楠のもっとも顕著な功績は、日本産変形菌標本をイギリスのリスター父娘に提供したことで、彼らを通じてそれらが学界への貢献となった。ところで、これと類似の間接的な学界への貢献を南方は、ディキンズの日本文学翻訳・研究業績に対しても行っている。このことの背後には、生物学と文学研究とに共通する、研究誠意とその成果を業績とするについての南方の独自の姿勢が存在すると思われる。
著者
村上 勝三 宮崎 隆 小泉 義之 香川 知晶 西村 哲一 安藤 正人 佐々木 周 持田 辰郎
出版者
東洋大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1995

本研究の目的は、デカルト研究の世界的な仕事の一部を担い、その新しい質を提示するとともに、すべての哲学研究に新たな基礎を提供すべく、『省察』の「反論と答弁」について共同研究を行うことであった。このことを遂行するために、平成7年度から9年度までの三年間の研究の総纏めとして、今年度は、すべての個別研究を完成させるとともに、研究成果報告書を作成した。その概要は以下の通りである。1.「第一反論・答弁」および「第二反論・答弁」の校訂版を作成した。1641年の初版、AT版との異同を明らかにしながら1642年第二版を再現したものであり、世界的に見ても始めての試みである。これらは、TOKORO Takefumi, Les textes des 《Meditationes》, Chuo University Press, 1994に準拠している。2.『省察』「反論・答弁」をめぐる諸問題のテクスト的典拠を挙げ、諸家の伝統になっている、あるいはなりつつある解釈について論じる問題論的研究を完成させた。その目次的概要は次の通りである。(1)「順序・論証方式・叙述様式」(2)「デカルトの懐疑について」(3)「『省察』「反論・答弁」と「永遠真理創造」説」(4)「『省察』「反論と答弁」における「意志」を巡る議論」(5)「神に至るもう一つの道」(6)「デカルトにおける神学と哲学」(7)「反論と答弁」における「観念」について3.「第七反論・答弁」の翻訳を完成させた。これは本邦初訳である。夏の合宿への他領域の研究者、若手研究者の参加は、本研究の成果のいっそうの充実に寄与するところ大であった。

2 0 0 0 OA 感覚と精神

著者
名須川 学 Nasukawa Manabu
出版者
筑波大学哲学・思想学会
雑誌
哲学・思想論叢 (ISSN:02873702)
巻号頁・発行日
no.14, pp.17-28, 1996-01-31
著者
冨原 眞弓
出版者
上智大学
雑誌
Les Lettres francaises (ISSN:02851547)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.34-58, 1981-05

本論は,序論,結論を含めて全五章より成る。序論では,三世紀半ばに没し,聖書の極端な寓意的解釈が,プラトン哲学を始めとするギリシア思想の影響によるものとされて,再度,公会議に於て断罪されたアレクサンドリアの神学者の命題が,十三世紀半ばに編纂された,ロンバルディア地方のカタリ派の書物『二原理の書』に,直接,間接の影響を及し得たか否かについて,両者の文献の比較研究に基づいた批判,検討を試みる.序論で得られた肯定的な結論に則って,本論を構成する三章では,オリゲネスの『魂の前存在説』とカタリ派の『原初的諸原素の前存在説』との比較を,以下に述べる三段階に分けて行う.オリゲネスが,創造に先立って存在していた,純粋な霊的実体=魂なるものを想定していたことは,彼の著作『諸原理について』,『ヨハネ福音書注解』からも明らかである.彼は,これらの霊的実体が,神の創造のわざを通じて,前世に於ける功徳の度合に応じて,天使,人間,悪魔の三種の範鴫に振り分けられたとする.一方,『二元理の書』の編纂者は,《無からの創造》というカトリックの概念に真向から対立し,神の創造のわざとは,既に原初から存在していた《基本諸原素》に,新らたな要素を附加して,三種の質的に異なる現実を生み出すことであると考えた.カタリ派はこれらを,純粋に善の原理からのみ成る第一の創造,完全に悪の原理からのみ成る第三の創造,そして,両者の中間に位置する,善悪二原理の混淆より成る第二の創造と呼んだ.カタリ派の《原初的諸原素の前存在説》は,アラビア哲学を仲介とした古代ギリシア哲学の遥かな反映であることは疑い得ない.従って,本論の目的は,オリゲネス,カタリ派の両者が,如何なる意図と視座に基づいて,魂,或いは,原初的諸原素の前存在説という,すぐれてギリシア哲学的概念を,自らの神学休系の中に吸収していったかを解明することにある.独特の用語法,聖書の寓意的解釈,霊肉二元論の強調,仮現説と御子従属説を想起させなくもないキリスト論など,オリゲネスとカタリ派の思想的類縁性を示唆する要素は多い.一方,両者の前存在説が,同一のコスモロジーに基くものでもなければ,同一の論理的必然性に支えられているものでもないことは確かである.悪の存在と,自由意志の問題が,それぞれの前存在説に,全く異なった論証への道を開く.絶対的唯神論者であるオリゲネスは,悪の導入が善そのものである神の直接的介入によるものとは考えず,創造以前に既に存在していた《霊魂》の過ちによるものと考える.天使,人間,悪魔という範疇も,神の任意の選びに基くものではなく,それぞれの魂の前世の行いに照応した賞罰の論理的帰結に他ならない.オリゲネスの前存在説は,かくして,悪の存在に関しての神の無罪証明と,神の公平さと理性的被造物の自主性の確信の上に成り立っている.然るに,善悪二元論を標榜するカタリ派にとっては,善の神は全能でもなければ,生成生起するものすべての直接原因でもない.善の神の権能は,純粋に霊的な分野に限られており,霊肉混淆の現世は悪の原理の支配下にあると見倣される.悪が存在するのは,原初から存在する悪の原理の働きによるもので,理性的存在の自由意志は完全に否定され,すべては一種の救霊予定説によって予め決定されている.結論として,幾つか認められる教義上,用語上の類似にも拘らず,オリゲネスとカタリ派の前存在説は,自由意志と悪の原因に関する限り,それぞれの神学体系内に於て全く異質の射程を持つものであると言えよう.