著者
岡田 知弘 京都大学経済学部岡田ゼミナール
出版者
京都大学経済学部岡田ゼミナール
巻号頁・発行日
pp.1-176, 2015-02

序 本書は、京都大学経済学部岡田ゼミナールの2013年度調査報告書である。今回、2・3回生ゼミナールの学生諸君が共同テーマにしたのは、「平成の大合併」の検証である。「平成の大合併」とは、周知のように1999年の合併特例法と、それを引き継いだ「合併新法」によって2010年度まで続けられた、政府主導の市町村合併政策である。ほぼ10年の聞に、日本の市町村数は3232から1730まで減少した。政府は、当初、「地方分権の受け皿としての基礎自治体の行財政基盤の確立」を掲げ、1000市町村に集約することを目標としていたが、全国各地で合併反対の動きがあり、その目標は達成できなかった。1999年の合併特例法では、合併特例債の発行や地方交付税の算定替え特例(合併前の自治体ごとに交付税を計算し、合算額を10年間にわたり交付。その後5年かけて、新市のみの一本算定とし本来の交付税水準に削減する)という「アメ」とともに、小規模自治体ほど地方交付税の削減率を高める「ムチ」の政策手段が準備され、合併を推進した。しかも、その際に、「合併すれば地域は活性化する」という言説が意図的に流布された。例えば、小泉内閣の「骨太の方針2001」では、「『個性ある地方』の自立した発展と活性化を促進することが重要な課題である。このためすみやかな市町村の再編を促進する」と明記された。市町村合併によって地域が活性化するという理由について、当時の総務省のホームページでは、「より大きな市町村の誕生が、地域の存在感や『格』の向上と地域のイメージアップにつながり、企業の進出や若者の定着、重要プロジェクトの誘致が期待できます」と掲げられたのである。「感」「格」「イメージ」「期待できます」という、客観的な根拠に基づかない、主観的な言葉と期待感で活性化が語られていたといえる。ところが、時間経過とともに、合併による効果が、地方行財政面だけでなく、地域経済・地域社会への影響として、芳しくないことが全国各地から指摘されるようになった。その結果、2009年6月の第29次地方制度調査会の答申では、政府主導による市町村合併については「一区切り」をつけるとされたのである。同調査会発足当時は、自公政権の下で、さらなる市町村合併に加えて、現行の都道府県を廃止し、国の地方出先機関と再編統合をはかる道州制の導入も本格的に検討されようとしていた。だが、同調査会においては、合併検証なくしてさらなる市町村合併をすすめるべきではないという意見が多く出されたのである。「平成の大合併」においては、2004年から05年にかけて合併した自治体が多い。それらの自治体は、合併から10年を迎え、種々の特例措置が終了しつつある。現時点において、市町村合併が地域に対してしいかなる影響をもたらしているのか、この点を調べてみたいというのが多くの学生の共通の問題関心となった。事前学習や松本市での合宿調査を経て、今回のゼミナールでは3つのグループをつくることにした。そのグループ分けの基準のひとつは、合併方式の違いによる。合併方式には、大きな都市自治体に周辺の小さな自治体が編入される「編入合併」と、自治体同士が対等合併し新しい自治体を形成する「新設合併」の2つがあり、両者を対象にするということである。本報告書では、II章の京都市と京北町との合併が「編入合併」にあたる。第二に、「新設合併」についても農村部の町村が合併するタイプと、比較的都市化した市町が合併するタイプがある。本報告書では、I章の南丹市の合併が前者にあたり、III章の滋賀県近江八幡市の合併が後者にあたる。近江八幡市と安土町との合併を採り上げたのは、京都府以外の府県における市町村合併をみてみたいということと、激しい合併反対運動が展開された旧安土町の合併後の状況を調査してみたいという問題意識からであった。調査は、グループごとに、合併の経緯や行財政分析等の共通事項を設定することに加え、それぞれの地域固有の特性(地域産業、高齢化と福祉、合併反対運動、地域自治組織等)に着目し、深く掘り下げる方法をとった。どのグループも、行政機関にとどまらず、経済団体、住民自治組織、住民団体、議員等へのヒアリングを中心に調査を実施したが、II章の京北町地域では、自治振興会のご協力をえて住民アンケートも試みた。これらの調査結果をグループごとにまとめる作業を行ったが、できるだけ客観的なデータに基づく検証を行うこととしたために、膨大なページ数の報告書となった。いま、行政を中心とした合併検証報告書が各自治体で公表されつつあるが、それらと比較するならば、本報告書の特徴は、学生の視点から、行財政分野に限定せず、住民の地域生活や経済活動、さらに自治行為にいたる多面的な分野にわたる地域への影響を丁寧かつ率直に明らかにしていったところにある。もとより、そこには認識不足による不十分な記述や、誤解による記述も残されている可能性もある。それらを含めて、ひとつの合併検証の記録として、参照いただければありがたいと思う。併せて、忌憚のないご批判をいただければ幸いである。
著者
黄 宰源
出版者
早稲田大学国際教養学部
雑誌
Waseda Global Forum (ISSN:13497766)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.435-463, 2014-03
著者
杉野 幹夫
出版者
京都大學經濟學會
雑誌
經濟論叢 (ISSN:00130273)
巻号頁・発行日
vol.118, no.5-6, pp.366-382, 1976-11
著者
Davin Didier
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部インド哲学仏教学研究室
雑誌
インド哲学仏教学研究 (ISSN:09197907)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.115-129, 2008-03-31

In his anthology the Kyôun-shû, Ikkyû wrote four stanzas dedicated to the so-called four distinctions of Linji, a famous passage from the Record of Linji, which consists in suppressing the man (人) without suppressing the environment (境), suppressing the environment without suppressing the man, suppressing both the man and the environment, suppressing neither the man nor the environment. To examine these stanzas a thorough philological analysis is indispensable, and the precious commentaries on the Kyôun-shû, mainly by Yanagida Seizan and Hirano Sôjô, were the basis of our reading, even if we did not necessarily agree with all of their interpretations. We tried to reinterpret the poems as a whole by means of original research on their literal meaning. For these reasons, and because Ikkyû's thinking is only expressed in verses referring to Zen texts and Chinese poetry, mostly from the Tang, our article is mainly a philological reexamination of Ikkyû's stanzas in order to suggest a new reading of them. We aimed, by a concrete analysis of Ikkyû's use of citations, to bring out the primary but obviously not most important meaning of the verses and, by a contextualization with the theme of the four distinctions of Linji, to determine their doctrinal purpose. We thus reached the conclusion that Ikkyû unfolds in these stanzas a temporal process involving a double definition of terms. There is a "man" before the suppression different from the "man" after the suppression, and likewise for the "environment". Another originality of Ikkyû lies in the fact he illustrates the profane level, the level before suppression, by examples usually considered as belonging to the already enlightened world, famous Zen monks for "man" or a temple for the "environment". The level of enlightenment is then depicted as a new ideal whose very model of "man" is Ikkyû himself while the "environment" is the whole world, even in its crudest parts. Of course this conclusion needs to be refined by a wider examination of the Kyôun-shû, but we hope that we were able to demonstrate the pertinence of the method and the necessity of continuing in this way.
著者
服部 匡
出版者
京都大学言語学研究会
雑誌
言語学研究 (ISSN:09156178)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.79-90, 1994-12-24
著者
加藤 康子
出版者
北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院 = Graduate School of International Media, Communication, and Tourism Studies, Hokkaido University
雑誌
国際広報メディア・観光学ジャーナル
巻号頁・発行日
vol.20, pp.35-54, 2015-03

The “OYOYO” is an art community organization operated by members of a civic volunteer group in Sapporo. Through their activities the members of OYOYO attain the skills to overcome the difficulties of daily living in Japanese modern society and empower others wll being. Although OYOYO is a specialized community in arts, why does this community exercise such an empowering function? This paper provides several lines of evidence that an art community organization can function as “the intermediate area where anybody can negotiate a framework of values throughout their actual practices and conversations. This study will explore generating mechanisms of empowerment by participant observation research.