著者
赤塚 史
出版者
早稲田大学国文学会
雑誌
国文学研究 (ISSN:03898636)
巻号頁・発行日
vol.156, pp.1-11, 2008-10-15
著者
小林 友彦
出版者
東京大学社会科学研究所
雑誌
社会科学研究 (ISSN:03873307)
巻号頁・発行日
vol.54, no.5, pp.81-106, 2003-03-31

「国際法と国内法の関係」に関する学説の長期的な展開過程を追跡し,その蓄積と今日的意義を明らかにする.なお,国別・法系別に論じる必要がありうることに配慮し,特に国際法と日本法の関係に焦点を当てる.I.では,実行を概観する.一貫性を維持しつつ現代的法現象にも対応するために,基礎概念の再検討が必要となることが確認される.II.では,いくつかの基礎概念に関する日本の学説展開の軌跡と蓄積とを跡付ける.その結果, (1)体系間関係, (2)国内的効力, (3)国内的序列, (4)直接適用可能性に関する理論の発展には連続性があり,それらの総合的に把握し再構成させうることが示される.III.では,包摂的理論枠組みの試論として「部分連結する多重サイクル」モデルを提示する.合わせて,(1)「多元的構成」の再考,(2)国内的効力概念の再定位,(3)国家責任論との関係の再検討,という今後の研究課題を提示する.This article traces the doctrinal developments on the relationship between international law and Japanese law back to the 19th century, and then clarifies its contemporary significance. Part I of the article identifies current practical difficulties surrounding the topic, arising from the accelerating globalization and transnationalization, and stresses the urgent need to review some of the traditional key concepts for solving these difficulties. Part II gives a long-term process analysis of the developments in Japan of doctrines on the relationship between international law and domestic law. The analysis confirms substantial issue linkage in continual flow of debates as well as plenitude of theoretical achievements during inter-war period. Part III attempts to show a comprehensive framework for the organic integration of related concepts. Finally, three specific solutions are proposed in response to practical demands.
著者
高橋 美知子 TAKAHASHI Michiko
巻号頁・発行日
2008-03-25

本論文の目的は,Kohut 理論に基づいた自己愛の2側面に視点をおき,高校生の自己愛傾向の下位側面と親子関係との関連が,学校生活への適応状態にどのような影響を及ぼすのかを解明することである.このKohut 理論における自己愛障害の特徴とは,自己顕示的で共感性を欠き,他者から批判的・無視的に扱われた場合に憤怒が生じるという誇大的な側面と,心気的で,自己のまとまりの脆弱化・断片化,他者への過敏反応,傷つきやすさと抑うつが認められる側面である.この本質は,心理的安定性の欠如や自己評価を維持する心理的機能の脆弱さから生じるところの傷つきやすさであるとされている.ゆえに,自己愛者は,他者からの肯定的な評価を強く求め,他者を理想化するのである.この自己愛障害に至る要因として,早期幼児期における母親からの応答の不十分さがあると考えられている.まず,本論文の第1章では,自己愛の理論的概念としてFreud の自己愛を系統的に論じ,Freud からFreud 以後へ,そして,Kernberg の対象関係論における自己愛とKohut の自己心理学からの自己愛を論じている.これらの自己愛の諸理論を概観して明らかとなったことは,現行の自己愛人格障害は,過度に強調された誇大性,傲慢さ,搾取性,共感性の欠如などとして定義づけされていることである.だが,近年,問題視にされている2種類の自己愛人格障害を探るには,この定義では困難さがあると思われる.最近は,DSM-Ⅳ(APA)の診断基準マニュアルによってその診断は可能となったといわれるが,自己愛の障害が対象関係における障害ならば,その自己愛の障害も異なると考えられる.つまり,過敏な対人関係を持つならば,自己の能力や力を抑制することが,対人関係における挑戦や傷つきからの防衛方策となっているはずである.その反面,抑圧された自己顕示や承認・賞賛への欲求は,他者評価に大きく依存することになり,自己への幻想的な全能感という自己イメ-ジをもたらしている.さらに,彼らは理想自己像と現実自己像のずれも感じ取っているので,自己への不信感も強く持っている(鑪,2003).この過敏なタイプの自己愛が生じる要因として過保護で密着型の養育態度が指摘されている(町沢,1998).また,最近は希薄な対人関係も問題視されている.そして,彼らは,傷つきやすい自己愛的な万能感を維持するために,外界との現実的な接触をなるべく避けるという行動をとることになる.このようなことから本論文では,Kohut 理論を基にして,自己愛が高揚する時期であるとされる高校生を調査対象として高校生の自己愛傾向と関連要因を実証的に研究する.第2章では,本論文の全体的な目的としては,Kohut 理論に基づく自己愛障害の中核的指標は,自然な自己顕示性を表出できないことや傷つきやすさを伴うことである.そこで2種類の自己愛からなる自己愛尺度を高校生用に再構成し,高校生用自己愛尺度の信頼性と妥当性を検討する.さらに,高校生における自己愛傾向の下位側面の特徴を明らかにし,自己愛傾向と自己および他者との関係を検討する.すなわち,自己愛傾向の諸特徴が学校生活へ及ぼす影響について検討することで,学校不適応に至る一つの要因を探る.最後に,先行研究では,自己愛の障害に至る関連要因として親の養育態度が論じられており,親の養育態度が学校生活の適応に及ぼす影響について検討する.第3章の[研究1]では,Kohut 理論を基に作成された鈴木(1999)の自己愛尺度を再検討した結果,誇大的な側面と過敏な側面を意味するものであった.さらに[研究2]では,一部の項目内容を平易なものにするとともに傷つきやすさの項目を加えて再構成し,高校生336 名(男142 名,女194 名)の自己愛傾向を調査した.そして探索的因子分析の結果,「対人過敏性」「回避性傾向」「自己愛的な怒り」の3因子構造が確認された.これらの因子は,内的整合性も十分に示されていた.また,MPI の下位尺度との有意な正の相関も見られ,傷つきやすさを伴う2種類の自己愛傾向を測定するうえで一定の妥当性があることが確認された.この自己愛傾向の下位側面が意味するものとして,「対人過敏性」は他者からの批判や嫌われることを恐れる内容を表し,「回避性傾向」は感受性の鋭さから人とのかかわりを避けようとする内容で,これらはともに対人関係における過敏さを示す自己愛傾向であった.また,「自己愛的な怒り」は,自己愛が満たされないときの怒りを表し,誇大的で傲慢な自己愛傾向を示していた.第4章の[研究3]では,高校1年生593 名(男子229 名,女子364 名)の自己愛傾向と承認欲求,学校生活満足感との関連を検討している.[研究2]で作成した自己愛傾向尺度に確認的因子分析を行った結果,3因子構造になることが認められた.相関関係の結果として,男子では,「対人過敏性」得点が高いほど,学校生活での不安や緊張などの不適応感が高くなることが示された.女子では,「自己愛的な怒り」得点が高くなるほど,学校生活で不安や緊張感が高くなることが示された.また,男女とも,「回避性傾向」得点が高くなるほど,学校生活での承認感は低く,不安や緊張感が高くなることが明らかにされた.パス解析の結果からは,自己愛者の他人に認められたい,評価されたいという強い欲求は,誇大的な自己愛から過敏な自己愛を介在することによって,恥や傷つきやすさの意識を伴うのか,男女ともに,「学校生活における満足感」を抑制する要因になることが示された.さらに,過敏な自己愛傾向の男子は,小塩(1998b)の結果と同様に,賞賛・承認欲求が強く,自分への肯定感覚とその感覚を維持したい欲求を持っていることが示唆された.第5章の[研究4]では,高校生300 名(男子104 名,女子196 名)を調査対象として,学校への強い忌避感情に焦点をあて,自己愛傾向と基本的信頼感との関係について検討した.学校嫌い感情の3群別(高群,中群,低群)で多母集団の同時分析を行った結果,「学校嫌い感情」の高群や中群では,誇大性を伴う過敏で傷つきやすい自己愛傾向と基本的信頼感に強い負の関連があることが明らかとなった.したがって,学校忌避感情が強くて自己愛傾向の高い生徒が持つ自己への信頼感と他者に対する信頼感は,安定性を欠いたものであることが示唆された.このように自分自身の主体性が動揺しやすいことは,いつも不安を感じる状態であり,これが学校生活への適応に負の影響を与えることになると考えられる.第6章の[研究5]では,高校生700 名(A高校259 名:男子103 名,女子156 名;B高校441 名:男190 名,女251 名)の自己愛傾向と親の養育態度,学校生活満足感がどのように関連しているのかを検討した.相関関係の分析から,両親の受容的な養育態度は,直接的には学校生活での満足感へ正の影響を及ぼすことが明らかになった.そして,各尺度を学校群(A 高校とB 高校)と男女の4群別にして多母集団の同時分析を行ったところ,両親の受容的な養育態度が,誇大的な自己愛傾向から傷つきやすさを伴う自己愛傾向を介在する場合には,学校生活での満足感へ負の作用をすることが明らかとなった.また,両親の受容的な養育態度が直接的な影響を及ぼす場合には,学校生活満足感へ正の影響を及ぼすことが示された.さらに,回避的な自己愛傾向を抑制し,学校生活へ適応させるには,女子では父親の受容的な養育態度が重要であることも示唆された.第7章では,本論文の総括的討論を行った.[研究1]から[研究5]までで検討された高校生の自己愛は,自己愛の2側面の特徴を示すことが明らかとなった.そして,これらの自己愛は表裏一体であり,その表面化している側面の裏に,もう一方の側面が潜んでいることが推測された.したがって,妥当な「自己評価」として自己を肯定的に捉えることができないために,自己評価を保証してくれる他者を必要として,承認欲求が強いことが示されたのである.さらに,本研究における自己愛傾向者は,親から情緒的で共感的な養育をされていないことも考えられた.それは自己評価を安定させるために,他者からの肯定的な評価をいつも求めているからである.すなわち,彼らのなかに誇大性としての優越感や特権意識があるからこそ,周囲からの特別な配慮を求めるのである,これに対して他者が否定的・無視的な態度をとった場合には,過剰な怒りを生じさせることになる.ところがその一方で,自尊心の低さ,空虚感,心気的傾向などが存在するのか,他者に対する過敏反応や傷つきやすさとして表されていると考えられた.以上のようなことが学校生活への適応を抑制するように作用していることが示唆されたといえるのである.本研究の今後の研究課題としては,調査対象者が特定地域の高校であったために,これらの結果をすぐに一般化することはできない.そのため,今後は,大規模なサンプリングと発達段階的な調査を実施することが求められる.また,基本的信頼感と親子関係の結果は,一定の範囲で支持されているが,一方向からの検討であるために十分とはいえないであろう.双方向からの検討は,他の関連変数の究明も含めて今後の課題である.さらに,教育現場では,自己愛傾向が高く,学校不適応に陥っている生徒に対する具体的な援助方法を明らかにすることが必要となる.
著者
石川 哲子
出版者
関西大学大学院東アジア文化研究科
雑誌
東アジア文化交渉研究 = Journal of East Asian cultural interaction studies (ISSN:18827748)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.137-151, 2020-03-31

After the Meiji Restoration, and the introduction of modeling techniques from Europe, traditional wooden sculpture transformed greatly in Japan. While most sculptors moved to modeling, and the end of the Meiji Period and the introduction of the sculptures of Auguste Rodin, this trend intensified, and wooden sculptors fell into decline. Nevertheless, there were still many sculptors who concentrated on wood sculptures, though not as many as before, with a few exceptions. This paper looks at Nakatani Ganko (1868-1937), an active sculptor, who considered sculpture not as ornaments for display but as a work of fine art from as early as the Meiji to Taisho periods. This was a transition period when ornaments began to be valued as fine art. Nakatani came from the countryside to Tokyo, where he was appreciated, yet today few of his works seem to be extant and there is still little known about his life and activities. He is an artist who has been neglected. This paper focuses on the activities and works of representative artist of the time, Hirakushi Denchu, and his early profound interaction with Nakatani to bring into relief the actual image and characteristics of Nakatani's works as one aspect of the history of early modern sculpture in Japan.
著者
高松 良幸
出版者
静岡大学
巻号頁・発行日
2010-03-31

平成19年度~平成21年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書
著者
安藤 史帆
出版者
首都大学東京
巻号頁・発行日
pp.1-159, 2016-03-25

首都大学東京, 2016-03-25, 修士(文学)
著者
大井田 晴彦 OIDA Haruhiko
出版者
名古屋大学文学部
雑誌
名古屋大学文学部研究論集. 文学 (ISSN:04694716)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.233-244, 2016-03-31

Naishi no Kami (Early Autumn) of Utsuho Monogatari, is important chapter that connect the first half portion and the rear half portion. Nakatada and Fujitsubo, Kanemasa and Jizyuuden, Toshikage no Musume and Emperor Suzaku, these couples had loved each other, but could not be married. In Sumo festival, they enjoy love games. In Naishi no Kami, there are many mistakes and contradictions. For example, in Fukiage, Emperor Suzaku commanded that Msayori should marry Atemiya off to Suzushi, the First Princess off to Nakatada, but this royal command changed in Naishi no kami. Nakazumi who had died in shock of Atemiy’s bridal appears in this Chapter. Other Chapters had rewrited, but Naishi no Kami had not rewrited because of sophisticted representation. Thus these conflicts caused. Some keywords and motif are reperated many times in this chapter. In Naishi no Kami, autumn wind is blowing all the time. Yomogi (wormwood) and mugura (sagebrush) reminisce deep affection and Platonic love of Kaguyahime and the Emperor of Taketori Monogatari. The episodes of Zyohuku and Kuramoti no Miko reminisce Toshikage’s drift. This Monogatri tries to return to starting point. Naishi no Kami was the requiem for Toshikage. By repetition of keywords and motif, theme of this chapter has been emphasized.