著者
田原 真司
出版者
日経BP社
雑誌
日経ビジネス (ISSN:00290491)
巻号頁・発行日
no.1117, pp.54-60, 2001-11-19

日本を代表するグローバル企業のソニー。中国最大のテレビメーカー、TCL集団。そして中国発の急成長ネット企業、アリババ・ドット・コム。そのトップが香港に集い、企業提携、経営哲学などで白熱の議論を交わした。中国の「世界の工場」への躍進を背景に実現した、90分に及ぶ"異色鼎てい談"の行方は——。
著者
井上円了 著
出版者
哲学書院
巻号頁・発行日
1888
著者
石村 多門
出版者
一般社団法人日本物理学会
雑誌
日本物理學會誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.54, no.8, pp.636-644, 1999-08-05

いわゆる「構造主義」の思想的核心として, 「構造的因果性」なる概念を取り出すことができよう. それは, フランスの哲学者アルチュセールが提起した, 全く新しい因果概念である. 「因果性」という言葉で, 我々がまず真っ先に思いつくのは, 時間的先後関係によって因果性を捉える「継起的因果性」の観念であろうし, 少数の人は, 全体が部分を規定するという「全体的因果性」を思い浮かべるかもしれない. しかし, そうした因果観念は「非科学的」なものにすぎず, これらの観念に依拠して思索を進めている限り, 科学的認識を構築することはできない, というのがアルチュセールの主張であった. 本稿では, こうした挑戦的な企図に立った「構造的因果性」概念の意義について, これまで余り論じられてこなかった視角から敷延することに努めたい.
著者
今井 康雄
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.2, pp.98-109, 2006-06-30

ウィトゲンシュタインの後期哲学は、反表象主義の主要な典拠となっており、教育学においても、「情報化」の要請に対応した、「力」を重視する現代的な教育論の傾向にそって解釈がなされている。これに対して本稿が試みるのは、ウィトゲンシュタインの後期哲学を、「力」を重視する教育論の基盤を掘り崩すような哲学として解釈することである。ウィトゲンシュタインは、反表象主義の立場を徹底することによって、一方で教えることの不確実性を明らかにするとともに、他方では、この不確実性を回避するために教育論が通常子供の心のなかに想定している「力」の観念を解体する。その結果、教育は極めて脆弱な営みとして現れることになる。ウィトゲンシュタインは、その小学校教師時代、こうした教育の脆弱さに実際に直面していたと推測できる。しかし『哲学探究』のなかには、教育の脆弱さを克服する可能性が、理解されていないものを理解可能なものにおいて示すという「事例」のメディア的構造として示唆されてもいるのである。
著者
ポパー哲学研究会編
出版者
未來社
巻号頁・発行日
2001
著者
堀池 信夫 HORIIKE NOBUO
巻号頁・発行日
2011

課題番号:20320008
著者
金 泰勲
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.31-42, 2007-03

韓国の「初等学校」における英語教育は,1981年より4年生以上の児童を対象に「特別活動」のなかで始まった.そして,1994年,韓国が世界貿易機構(WTO)に加盟したことをきっかけに,「世界化」政策の一環として,初等学校における英語教育の必修化が具体化された.その後,1995年2月に「世界化推進委員会」から大統領に提出された「初等学校における英語教育に関する報告書」に基づき,同年3月には「教育部」が「初等学校」における英語教科新設後2年間,試験実施されたのち,1997年に必修化された.一方,中国において小学校の教育課程上,外国語教育の一環として英語教育が登場するのは,文化大革命終結直後の1978年である.その後,本格的に,中等段階での英語教育の漸進的定着,21世紀にむけた資質教育の大方針の採用とこのための基礎的教育研究,IT革命の推進状況などを踏まえて,教育部は,2001年の新しい課程の実施により初等英語教育をカリキュラムに正式に入れることを設け,新しい課程の試行案を一部の地域から段階的に導入し,2004年までに全国実施することを定めた.その社会背景としては,韓国同様に2001年中国のWTO加盟,同年に,2008年の北京オリンピック開催が決まり,社会一般とくに保護者からの初等英語教育の強い実施要求が,何よりも追い風となった.
著者
橋爪 恵子
出版者
美学会
雑誌
美學 (ISSN:05200962)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.13-24, 2011-06-30

In The Poetics of Space (1957), Gaston Bachelard adopts a phenomenological approach to the literary image for the first time. In the volume, he introduces the notion of "Retentissements" (echoes)-the creative reception of image-which is given a central role in the work. This paper aims to examine the evolution of his theory, particularly in relation to his epistemology and earlier theory of art. When Bachelard refers to Husserl's phenomenology in his epistemological work, he criticizes it as too "formal." To Bachelard, the examples Husserl gives do not provide a sufficient understanding of the relationship between subject and object in science. In his earlier theory of art, Bachelard also establishes his distance from Sartre's phenomenology, which draws a clear distinction between the reality and the image. For Bachelard, they are intimately interwoven and escape from the fact-imagination opposition. Paradoxically, although he seems hostile toward phenomenologists, his critique eventually leads him toward a new phenomenology of the imagination. In the process of his debate with them, Bachelard appropriates some features of their theories in order to forge his own. In this way, he evolves his theory of the imagination and, in this sense, he is influenced by other phenomenological thought and, in turn, echoes (retentir) them.
著者
ミラー マービン
出版者
帯広畜産大学
雑誌
帯広畜産大学学術研究報告. 第II部, 人文・社会科学篇 (ISSN:03857735)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.60-78, 1973-03-30

現代活躍している文学作家あるいは現代劇作家たちの中に,よく宗教的テーマを取り上げている人がいることはたびたび指摘されている。ある時は聖書のイメージをそのまま借り,ある時は神学的用語を利用することもある。この論文の目的は,アメリカの一流劇作家のアーサー・ミラーが書いた「転落の後に」と,旧約聖書の創世記1章から4章までにでてくる人間の本質に関する教えやイメージを比較することにある。創世記にあるイメージのほとんどが主人公のクェンティンと彼の2番目の妻になったマギーとの間の会話に現われてくる。弁護士クェンティンが妻と娘の待つ家へ帰る途中,初めて彼女に会った時の彼の励ましのことばが彼女のために新しい生活の出発点になった。その結果,マギーは彼を神々のように見るようになった。ふたりの関係の進行と,創世記に記述されている誘惑の進行の中に,ほとんど同じ段階が見られる。つまり,どちらも哲学的レベルからしらずしらずに全く好色の誘惑へという段階を辿っている。結婚して間もなく,新しい妻マギーを憎むようになった原因は,自分の心の中の悪から生まれてきたものであることを彼は認めた。妻の死を望んでいることに気がついた時,自分は恐ろしい人間であることが初めてわかってきた。これは彼ひとりの問題ではなく,全人類が彼のように悪を持っていることがこの劇の重要点のひとつだと思う。「転落の後に」にある救いは,最後の場面に次のようにまとめて書かれてある。「人間とは危険な存在だと!-今でもぼくはこの世界をふたたび愛し,生きぬく確信をもっている。-やはり転落の後に,原罪を背負い,多くの死に当面した後に,真に知りうるのだ。-殺そうと思うことは殺すことではない。しかし,恵まれた勇気をもって,もしも現われ出るならば,それに立ち向うだろう。そして愛のきざしによって家族の邪魔者に対するように,これを許す。くり返し,くり返し,永遠にか?-」(アーサー・ミラー全集第III巻,226〜227ページ,菅原卓訳,早川書房)結論に至る過程の背景には,聖書的・神学的イメージが流れていると言える。その結論にも聖書の教えに似たような点が少なくともふたつある。ひとつは救いの希望,いまひとつは,人間の救いが実現されるために人間と神との協力が必要であることである。しかし,一方ではクェンティンが自分の悪の全責任を負って,自分の力でその人間性の醜さを絶えず許すという決心がでてくるが,聖書による救いとは程遠い。悪の問題の最終的解決は,人間の外側からでないと不可能であることを聖書は絶えず教えている。すなわち,全人類の救いは神から(つまり,人間の外側からきた)イエス・キリストを通してしか得られないと聖書は主張するが,クェンティンによる解決はこれと全く対照をなしている。