3 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1916年11月21日, 1916-11-21

3 0 0 0 OA 群書類従

著者
塙保己一 編
出版者
経済雑誌社
巻号頁・発行日
vol.第11輯, 1893
著者
中野 善逹
出版者
筑波大学教育研究科カウンセリング専攻リハビリテーションコース
雑誌
筑波大学リハビリテーション研究 (ISSN:09178058)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.3-10, 1994-03-31

「障害を持つアメリカ人に関する法律(1990年)」(ADA)は障害をもつ人びとに対する世界最初の包括的な市民的権利法である。本稿は、ADAの実施状況に関し、主として連邦政府諸機関から発行された、もしくは提供された諸資料をもとに、若干の検討を行う。(1)ADAの施行規則、ガイドライン、基準は ...

3 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1936年03月28日, 1936-03-28

3 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1937年06月25日, 1937-06-25

3 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1937年12月16日, 1937-12-16

3 0 0 0 OA 短信

出版者
国立国会図書館
雑誌
外国の立法 : 立法情報・翻訳・解説 (ISSN:13492071)
巻号頁・発行日
vol.(月刊版. 275-2), 2018-05
著者
海老澤 哲雄
雑誌
帝京史学
巻号頁・発行日
no.19, 2004-02-17

3 0 0 0 OA 底の社会へ

著者
小川未明 著
出版者
岡村書店
巻号頁・発行日
1914
出版者
改造社
巻号頁・発行日
vol.第4篇 (甲賀三郎集), 1929

3 0 0 0 OA 虞美人の涙

著者
甲賀三郎 著
出版者
一号館書房
巻号頁・発行日
1946
著者
甲賀三郎 著
出版者
世界社
巻号頁・発行日
1948
著者
Shigeki MATSUURA
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.669-676, 1996-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
4

工部省の高官・大鳥圭介が1882 (明治15) 年、アメリカの技術書「堰堤築新按」を翻訳して出版した。290ページからなる大著で、図・絵がふんだんに盛りこまれ、分かりやすく書かれている、大鳥の翻訳の意図は、それほど知識はないが実際に現場で工事を行う農民や村職人でも分かる技術書の出版であった。工部省は、政府の官営事業を直轄し、殖産興業政策を行ってわが国産業の近代化を推進する機関であり、そのために外国人を招聘し、欧米に留学生を派遣し、大学校を立して専門家の育成を図っていた。この機関の高官が、専門家ではない一般技能者の技術向上を目的として、このような書物を翻訳していたのである。ここに近代化を目指す明治新政府の懐の深さを強く感じさせる
著者
岡田 篤正 安藤 雅孝 佃 為成
出版者
Tokyo Geographical Society
雑誌
地学雑誌 (ISSN:0022135X)
巻号頁・発行日
vol.96, no.2, pp.81-97, 1987-04-25 (Released:2010-02-25)
参考文献数
35
被引用文献数
6 2

Four trenches (Trenches A-D) were explored across the Yasutomi fault (a strand of the Yamasaki fault system) to date recent past faultings. Trench A was 3 m deep and 28 m long across the fault (Upper in Fig. 3 and Fig. 4), and the additional excavation was made down to 5 m deep (Fig. 5) from the western wall of trench A. The sizes of other tenches are similar to that of trench A. Since this site was being developed after this trenching for the building lot of a factory, many pieces of important geological evidence were gradually exposed with progress of the construction. This enabled us to make a further detailed geological and geomorphological study of the Yasutomi fault. The results are summarized as follows : 1) Yasutomi fault, which has been considered to be predominantly left-slip active one estimated from tectonic morphologies, was geologically confirmed that this had dislocated with predominantly lateral-slip component at least since a few tens of thousand years.2) Widely sheared zones appeared along the north side of the active trace do not accompany any tectonic features. Therefore, this straightly trending depressional zone is to be recognized as a fault-line valley. A new fault was originated along the southern rim of pre-existed weak zone probably since the late Quaternary.3) The valley-filling deposits are disturbed at the lower part of the trench but not at the upper part this suggests that the fault has not moved since the deposition of the upper horizon although small earthquakes have been reported to occur frequently around the fault. Sense and amount of vertical offset, drugged structure and other fault features vary laterally along this, as common in high angle strike-slip fault.4) The latest displacement occurred between late 7 th and 12 th Centuries, probably associated with the 868 Harima Earthquake (M=7.1). Two more faultings were also inferred from C-14 dates of disturbed and undisturbed strata within a deformed zone of the fault, although they are less reliable. The recurrence interval of earthquakes as large as the 868 event is estimated to be at least 1000 or possibly a few thousand years along this strand of the Yamasaki fault system.
著者
前川 要 千田 嘉博 高橋 浩二 村越 潔 酒井 英男 モリス マーティン 宇野 隆夫
出版者
富山大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1999

研究成果の慨要を下記の3つに分けて記す。(1)遺跡の年代われわれの唐川城跡における3年間の測量・発掘調査の最大の成果は、中世城館ではなく古代環壕集落であることを明らかにしたことである。いままで、中世城館として考えられ、環境集落の研究史では全く採り上げられなかった。それは、第1次調査における土塁の盛り土から出土した土師器碗破片と土塁の上から検出された鍛冶炉跡SX02の埋土基底部から出土した土師器甕口縁部より明らかとなった。遺跡の存続年代は、従来の土器編年観から10世紀半ばから11世紀初頭頃で、年代的には、50年から60年ほどの期間である。(2)規模・機能と集住唐川城跡については、従来略測図のみ公表されていたが、今回トラバース測量を実施して正確な測量図を作成した。その結果、面積が約8万2千m^2、浅い空堀状の遺構,2条の空堀跡と外土塁、竪穴住居跡あるいは鉄生産関連遺構と考えられる窪みを多数確認した。これらのことから、唐川城跡は,二条の空堀と浅い空堀状の遺構によって,北から3つの郭で構成され、そして中心の郭が最も大きく高いことが判明した。また城城内に竪穴住居跡,鍛冶関連遺構が41箇所存在することを確認した。また、小鍛治の関連と想定される小型の窪みは16箇所以上存在する。第2次発掘調査では、2軒の住居跡を検出したが、いずれも新旧2時期存在した。そのことから、41箇所の2倍程度、つまりすくなくとも百軒弱の集落であることが推定できる。井戸は、井戸は北側郭と南側郭に各1基確認した。どちらの井戸も上端幅約10m,深さ約2.5mを測る。第1次調査では、南側郭の井戸を半分断ち割りしたが、湧水層が確認できず溜井戸の可能性がある。また、井戸周辺に竪穴住居跡あるいは,鍛冶関連遺構と推察する円形の窪みを確認した。鉄生産の際の水を溜める遺構の可能性がある。(3)手工業生産今回の大きな成果の一つは、精錬炉が盛り土をした階段状遺構の頂上から2碁見つかったことである。付章の深澤・赤沼論文によると、鯵ヶ沢町杢沢遺跡と同様の竪型炉であり、関連性が考えられる。従来、環壕集落からは、小鍛冶炉を検出した例はあるが、精錬炉を検出したのは初めてである。北側井戸周辺では直径約2m前後の窪みが約7箇存在しており鉄滓が地表面採集できる。さらに南側井戸東側平坦面にも10基以上の窪みがあり、ここでも鉄滓が地面採集できる。これらのことは、少なくとも北郭と南廓では、精錬と小鍛冶を一連の工程で、土木工事を含めて、大規模かつ組織的に行っていたことを示している。また、内面漆塗りの土師器甕が出土したことは、漆容器として使用された可能性がうかがわれ、漆生産工房があったことを推測させる。
著者
鄭 敬珍
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.151-181, 2016-03

1764年の通信使行は、使行のすべてを尽くしたと評価されるほど、苦難に満ちた使行であったが、日本人との詩文や筆談の唱和を通した文化交流は、どの使行よりも盛んに行われたといわれている。本稿は、この1764年の朝鮮通信使の日本来聘の際に、大坂で行われた朝鮮の製述官・書記と木村蒹葭堂をはじめとする蒹葭堂会の人々の交遊を再考察するものである。この交遊については、すでに高橋博巳をはじめ、先行研究において論じられてきたが、その交遊を可能にした背景や、朝鮮側の人々については、十分な考察が行われてこなかった。一方で、朝鮮の書記・成大中が依頼したとされる「蒹葭雅集図」の製作過程についても再考察の余地があると考えられる。 本稿では、まず、朝鮮側からの視点に寄り添って、蒹葭堂会の人々と交遊した製述官や書記たちが「庶孼」という庶子の身分であったことに注目した。庶孼身分と朝鮮通信使との関連性について分析すると同時に、彼らが朝鮮通信使に参加する前からすでに、詩社などを通し、文人との交遊を持っていたことも明らかにした。 本稿は、使行録の記録を分析材料として取り上げ、日本ではほとんど注目されてこなかった、製述官・南玉の『日観記』を中心に、江戸に向かう前と帰路の大坂での記録を時系列で追うことを試みた。このような考察を通して明らかになったのは、朝鮮側の製述官や書記たちは、通信使として派遣される前から文人詩社に集い、文人としての経験を培っていた、ということである。そして、そのようなことが、1764年の交遊を可能にした一因になっていたのである。多様な階層の文人による蒹葭堂会と、朝鮮社会の特殊な身分の「庶孼文人」たちの間に、文人として認識が共有されていた可能性は、交遊の産物である「蒹葭雅集図」の製作意図を考える上でも重要な意味を持つ。「蒹葭雅集図」の意味合いについては、今後の課題として、「蒹葭雅集図」と朝鮮後期の雅集図との比較分析を行うなど、さらなる考察を加えていきたい。本稿が、朝鮮通信使に関する研究だけでなく、近世日本と朝鮮社会における多様な「文人」の有様を考察する上でも、有効な手がかりとなることを期待したい。