著者
成田 孝三 藤田 昌久 岡田 知弘 足利 健亮 石川 義孝 金田 章裕 金坂 清則 石原 潤 応地 利明
出版者
京都大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1996

8年度は、1.都市を中心とするシステムについて欧米、日本、アジア・アフリカに関する比較研究を行う、2.地理学の空間分析、マルクス経済学の構造分析、近代経済学の計量分析の統合を目指す、3.日本のシステムについて動態的研究を行なう、という研究の枠組みと分担を決定した。9年度はそれに従って各自がフィールド調査を実施し、報告書の研究発表欄に掲げた成果を得た。10年度は統合の実を挙げるために、近畿圏を共通の対象として研究し、次の知見を得た。1.古代国土システムの構成要素としての近畿圏は、従来説の大化の畿内と天武の畿内の間に、近江を中心とする天智の畿内が存在し、それは三関の範囲に合致する軍事的性格を帯びており、中国の唐制に類似する。2.古代畿内の首都は孤立した一点ではなく、複数の首都ないしは準首都によって構成されており、それは現代の首都移転論をめぐる拡都論にも通じる状況である。3.中世期末畿内の構造変化を本願寺教団の教勢の進展を通じてみると、それは近江・京都・大阪を中核とし、奈良・三重・北陸に広がり、最後に兵庫・和歌山に伸びて現代の近畿圏を覆った。近江が中心となった理由はその生産力と交通の拠点性である。4.五畿七道の区分を踏襲してきた幕藩体制から近代国家体制への転換に伴って、府県を単位とする地方区分が確立した。近畿の範囲は6府県を核とし、場合によっては三重や福井が加わるという形をとった。この構成は現代にもつながっている。5.現代の大阪圏は初め西日本に広がっていたが、次第に縮小して上記の近畿圏に収斂しつつある。また近畿圏の構成単位である各日常生活圏の完結性が弱まり、大阪と京都を中心とする圏域に統合されつつある。それに伴って各種行政領域と日常生活圏との整合性が崩れ、その〈地域〉としての有意性が損なわれるおそれがでてきた。なおバブル崩壊後、中心部の都市地域と周辺部の農村地域との格差が拡大しつつある。
著者
成田 孝三
出版者
経済地理学会
雑誌
経済地理学年報 (ISSN:00045683)
巻号頁・発行日
vol.41, no.4, pp.308-329, 1995-12
被引用文献数
5

グローバルな経済システムの中枢として機能している現在の世界都市の盛衰は, 多国籍企業の立地戦略と国際的に移動する人々の性格によって規定される. 後者は少数のエリートと多数の移民労働者よりなるが, 本稿が問題とするのは受け入れ国におけるエスニックマイノリティとしての移民労働者である. 80年代に急増した東京の移民労働者(ニューカマー)は, 非合法就労者, 底辺労働者, 被搾取者, 被差別者, 社会問題の発生源等々と極めてネガティブに評価されてきた. しかし移民労働者は都市に活力をもたらす可能性を保有しており, その発現を妨げてきたのは彼らを受け入れる方式である, というのが筆者の基本的な視点である. 例えば65年の移民法修正後にアメリカで増加したいわゆるニューカマー, とりわけアジア系の移民労働者の多くは, 強固な家族的紐帯, 高い教育水準, 多様な民族的組織, 旺盛な労働意欲等によって社会的上昇を遂げ, 大都市インナーシティの再活性化に寄与してきた. 彼らがそのようにポジティブな存在であり得るのは, 就労の権利を得た家族として定住しているからである. わが国でもそれに対応するものとしてオールドカマーたる在日韓国・朝鮮人が存在する. このような視点の有効性を示すために, 「在日」の大集積地であり, 典型的なインナーシティである大阪市生野区と東京都荒川区を主要な対象地域として, 「在日」の就業構造, 事業活動, 街づくり, 住宅改善の実態を検討した. その結果, 民族差別のきつい日本社会の中で彼らは大きなハンディを背負いながらも, たくましいエネルギーを発揮して, 自らの生活とコミュニティの向上に努め, インナーシティの活力保持に貢献していることが明らかになった. 就業機会を極めて狭く限定し, できるだけ単身者を短期間受け入れようとしているわが国の対ニューカマー政策は, 彼らにとってマイナスであるといわねばならない.
著者
足利 健亮 金田 章裕 応地 利明 成田 孝三 山田 誠 青木 伸好
出版者
京都大学
雑誌
一般研究(B)
巻号頁・発行日
1992

都市の立地決定は、計画都市の場合、大別して二つのタイプに分かれる。一つは近代以前に多いタイプで、立地決定が1人の権力者によって為されるものである。もう一つは近現代に多いタイプで、権力者というよりは為政者の合議によって決定が下される。後者のタイプは、特に時代が新しいものは、立地決定に至る経過が記録に残されていると考えてよいから、それを把握することは容易である。しかし、北海道の諸都市や新大陸の諸都市でも、19世紀以前の計画都市では、立地決定に至る経過の完全な復原は、史料の散逸ではやくも困難になっていることが多い。一方、近代以前の計画都市の選地にあたっては、多くの場合選地主体者たる権力者の意図が記録されることはない(戦略機密なので)から、文献史料による方法で「意図」と「経過」を解くことは不可能と言ってよい。ところが、都市が作られたという事実は地表に、従って地図上に記録されて残り続けてきているから、これを資料として上記設問の解答を引き出すことが可能となる。徳川家康や織田信長の城と城下町の経営の意図、つまり安土や江戸をどうして選んだかという問題は、上記の歴史地理学的手法による研究で解答を得ることができた。例えば、江戸を徳川家康が選んで自らの権力の基盤都市として作ったのは、不確かな通説とは異なり、富士が見えるという意外な側面の事実を「不死身」と読みかえて、自身の納得できる理由[選地理由]としたと説明する方が明快であることを、研究代表者は明らかにした。その他、各研究分担者によって日本古代地方官衙、同近代の計画都市、前近代アジア都市、アメリカ・ワシントン、カナダ諸都市など具体的に取り上げて選地理由と経過を明快に説明する結果を得た。詳細は、報告書(冊子)に論述された通りである。