著者
豊田 哲也
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100051, 2011 (Released:2011-11-22)

地域格差を論じるにあたっては、地域間格差と地域内格差の概念を区別することが重要である。前者は平均的水準で比べた「富裕な地域」と「貧困な地域」の差という空間的な関係であり、後者は散布度で測った「富裕な層」と「貧困な層」の差という階層的な関係である。近年の社会疫学では、「豊かな地域ほど健康である」という絶対所得効果だけでなく、「経済格差が大きな地域ほど不健康である」という相対所得仮説が提起され、大きな論争を呼び起こしている。日本社会は経済格差が小さいと考えられてきたが、1990年代以降はジニ係数が継続して上昇傾向を示すことから、所得の地域間格差や地域内格差が健康水準に影響を与えている可能性がある。本研究では都道府県別に世帯所得の分布を推定し、平均寿命との相関を見ることで上記2つの仮説を検証することを目的とする。 使用するデータは「住宅・土地統計調査」の匿名データである。「世帯の年間収入階級」別の世帯数から、線形補完法により収入額のメディアン(中位値)、第1四分位値(下位値)、第3四分位値(上位値)を推定し、四分位分散係数を求める。今回の分析では以下の点で方法の改良と精緻化を図っている。(1)世帯所得には規模の経済が作用するため、平均世帯人員の平方根を用いて等価所得を求める。(2)高齢化にともなう年金生活世帯の増加など人口構成の変化要因を除くため、「世帯を主に支える者」の年齢階級で標準化をおこなう。(3)物価水準の地域差や時系列変化を考慮し、「地域物価差指数」と「消費者物価指数」をデフレーターとして所得を実質化する。こうして求めた1993年、1998年、2003年の所得分布と、「都道府県生命表」から得られる1995年、2000年、2005年の平均寿命について相関を調べる。 推定された所得と平均寿命の相関を見ると、女性では有意な相関を見出せないが、男性では地域の所得水準(中位値)が高いほど、また地域内の所得格差(四分位分散係数)が小さいほど平均寿命が長いという関係がある。また、2000年から2005年にかけて所得格差と男性寿命の相関が強まった。ただし、所得水準と所得格差の両変数間には強い逆相関が存在するが、偏相関係数により前者の影響を取り除いた場合でも、後者と平均寿命の間に有意な関係が認められた。この結果から、男性に限り日本においても前記2つの仮説は支持されると考えられる。
著者
村山 祐司
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100157, 2015 (Released:2015-10-05)

GIS革命は,都市地理学にどのような方法論的発展をもたらしたであろうか. 都市に関するデータは多岐にわたり,センサスをはじめ膨大な地理空間情報がデジタル化され蓄積されてきた.最近では,POS,各種統計の個票,さらに都市住民がSNSを通じて発信するボランタリー情報なども利用可能になっている.リアルタイムで提供される非集計の情報は,位置と時間を付与した時空間データとして体系的に整備していくことが求められ,データベース構築に対してGISの果たす役割は大きい.コミュニティレベルを例に挙げれば,字,町丁,地区,学区,自治会区,あるいはメッシュなど,さまざまなスケール単位 で自在にデータを組み替えられるし,位置・時間情報を手がかりに,研究目的に沿う新たな空間データを作り出すことも難しくない.可変単位地区問題(MAUP)にも柔軟に対応できる. これまで概念提示に留まっていた精緻な空間モデルや分析手法を操作可能にするとともに,実証研究への適用を実現させたGISの功績は大きい.グローバル/ローカル・モデル,ボロノイ分割,空間的自己相関,パターン認識など,その事例は枚挙にいとまがない.高度な空間解析機能がGISソフトウェアにモジュールとして組み込まれ, GIS初心者でもこれらの機能を難なくハンドリングできる.これらの空間解析機能を駆使した実証的な都市地理研究を通じて,新たな知見が数多く見いだされている. 今日,高精細な衛星画像が安価で入手可能になり,リモートセンシング(RS)とGISを結びつけた都市の空間分析が存在感を増しつつある.たとえば,ランドサット画像から都市的土地利用・被覆を導出し,社会経済的特性や人口分布とグリッド単位でオーバレイさせ,それらの関連性を探る研究があげられる.ALOS,ドローン,航空レーザ測量などからDEM,DSMを導くことで建築物の高さ(DSM-DEM)を自動計測し,都市の水平的拡大とともに垂直的拡大を時系列的に3D可視化する試みもみられる.NDVI(植生指標)を算出し,定量的に都市緑地の量や分布を推定することもたやすい. 多種多様な属性が同一基準で都市ごとにデータベース化されれば,研究者間で情報を共有でき,都市空間の比較研究も飛躍的に進むであろう.これまでの都市地理学は,特定の都市を対象とした個別実証分析が多数を占めた.GIS革命は個々の都市の機能や特性を都市群全体の中に位置づける相対的思考を醸成させ,都市が有する一般性と固有性の議論を深化させた.GIS革命はいわば触媒の役割を果たし,GIS技術を武器にしながら,時空間概念を旗印に専門分化が進んだ都市地理学の諸分野を結びつけるだけでなく,時空間分析に関心を持つ隣接諸科学も引き寄せたと言えるかもしれない.計量革命は空間プロセスの研究を興隆させたが,GIS革命は空間プロセスから空間予測の研究,さらに空間制御・管理の研究へと都市地理学をいざなった.ジオシミュレーション技法を活用した空間予測モデル,遺伝的アルゴリズム,セルオートマタ,ニューラルネットワーク,エージェント・モデルなどを活用した精緻なシナリオ分析は,現実に即した都市政策や都市計画の策定に貴重な情報を提供する. 重要なのは,アーバナイゼーションやメトロポリタニゼーションといった空間プロセスを解き明かすメカニズム研究に加え,持続可能な都市像すなわち理想的なアーバニティ,メトロポリタニティを科学的に見定め,都市の空間動態を今後いかに制御・管理すべきかを科学的に提示することである.そこには,フォアキャストではなくバックキャスト的思考が求められる.GISの果たす役割は大きい.
著者
小林 修悟 小寺 浩二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

Ⅰ はじめに河川流域の流域管理や環境保全を行うためには、流域単位での水域環境の把握が必要となる。近年はGISの普及により、河川流域の空間把握が格段に簡便となり、気候や地形等の河川の多様な水質形成因子の表現が可能となった。2000年以降、「水環境の地理学」の研究グループでは「河川流域の水環境データベース」作成が試みられている。当研究室では天塩川(清水ほか2006)、北上川(平山ほか2009)などの一級河川や大規模支流(信濃川支流魚野川、森本ほか2008)にて流域特性把握の研究が成された。本研究は水環境データベースの一環として尻別水系流域の流域特性把握を行うものである。当地域における羊蹄山湧水や公共水質観測による報告はあるが、支流を含めた水系全体の水質分析が成された例はない。主要溶存成分による水質分析とGISを利用した流域特性解析を紹介する。Ⅱ 流域概要 尻別川は支笏湖西方に位置するフレ岳(1,046m)に起源し、西方に流れ羊蹄山(1,893m)北麓を迂回し、蘭越町磯谷で河口へと達する、流域面積1,640km2、幹線流路長126km2の河川である。源流から喜紋別にかけての上流部では1/60以上と急勾配となっており流量は少ない。中流部から下流部にかけ支流合流と羊蹄山を中心とした湧水供給を受け、蘭越からの下流部では1/500‐1/5000程度と緩勾配となり、流量も増加し大河川となり河口へと注ぐ。 当地域は北海道有数の酪農、農業地帯となっており、主な農産品には馬鈴薯やアスパラガス等となっており、下流部は水田地帯が形成されている。観光面では羊蹄山湧水やラフティングといった、水資源による地域振興が成されており、尻別川が当地域に与える影響は大きくなっている。Ⅲ 研究方法国土数値情報等の公共作成データ等をGISソフト用いた流域規模での空間把握による自然地誌作成を行った。また、尻別川水系の水質特性把握を行うために、2012年5、7、9月下旬にて、本流、2次流以上の支流下流、湧水及びそれに準ずる河川最上流部の50点程サンプリングを行い、現地観測(気温、水温、流量、EC、pH、RpH)を行った。サンプルを濾過後、研究室にてTOC、イオンクロマトグラフィーによる主要溶存成分分析を行い、GISソフトによる図化により流域特性の鮮明な把握を行った。Ⅳ 結果と考察流域にはイワヲヌプリ(1,116m)に起源するpH4.0前後の硫黄川・ニセコアンベツ川等の酸性河川や、pH8.0前後の真狩川などを含み、湧水供給の高い河川など多様な河川が存在する。流域の大半が森林となっており5月下旬の河口部のECは95μm/cmと人為的影響が少ないことを示している。しかし、酪農地帯や耕作地流辺の小規模河川においてはpH、ECが高く人為的な影響を受けている。Ⅴ おわりに 本研究により尻別川水系には多様な特性を持つ河川が存在することが判明した。今後も調査を継続し年変動を把握し、水系特性及び各河川の水質形成の解明を行いたい。
著者
鳴海 邦匡
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.223, 2007

<BR>1.はじめに<BR> 近年,里山のような身近な自然環境が注目され,保全への関心も高まっている.こうした自然環境の多くは,ここ100年程の里山の植生景観の変遷にみられるように,大きく変動するものであった。そのことは,保全をすすめていくうえで,いかにして変化する景観を評価するかが重要となることを示している。<BR> こうした観点から,報告者は神社林の森林景観の変動について先に検討した(鳴海・小林,2006).西日本の鎮守の森の多くは,現在,常緑広葉樹林として構成されている.それは多くの人々にとって昔から変わらないと認識される植生景観であった.しかし,先の検討を通じて,こうした森林景観のある部分は,近代以降に形成された比較的新しいものであることが明らかとなった.かつては矮小なマツ,恐らくアカマツの卓越する景観であったと考えられる.<BR> この議論をすすめていく過程で,近代における地域環境史資料としての正式2万分1地形図を基礎にしながら,近世の地図の有効性に注目した.そこで利用した近世の地図は,幕府の検地に際して作られたものであり,地目を表すうえで植生を描き分ける必要があった.近代以前の自然環境をみていくうえで,近世の地図は重要な資料であるが,十分な資料批判が求められる.<BR> 今回の報告では陵墓の景観変化に注目した.それは,陵墓の植生景観も,神社林と同様,現在にかけて大きく変動していたからである.その際,山陵図と呼ばれる資料に注目し議論を進めている.<BR><BR>2.山陵図について<BR> 山陵図は,近世から近代にかけて,陵墓の探索や修繕事業にともない作製された図を指している.また,陵墓地の比定は社会的にも当時の大きな関心事であったことから,山陵図に類した資料も存在する。ここで山陵図に注目したのは,この図が現地調査に基づく陵墓の現況の把握や,修繕結果の報告を目的に作られたものであり,地域環境史資料としての活用に堪えうると判断されるからである.また,関連する文献資料が多いのも理由である.<BR> こうした事業は,主として幕府(近代以降は明治政府)によって元禄以降,享保,文化,安政,文久,慶応,明治と度々実施されることとなった.そして,その度毎に山陵図が作製されている.この時期以降,陵墓は保護される対象へと次第に変化していく.実際,当時の陵墓の多くは年貢地や小物成地として登録されていたように,周辺の農民らが林産資源の採集地や耕作地として利用する場であった.そうした利用状況を反映して,山陵図に描かれた当時の墳墓の景観,特に植生景観は現在のものと比べて著しく異なっていた.以下ではその一例を挙げてみたい.<BR><BR>3.山陵図に描かれた植生景観とその変化<BR> 元禄期(1690年代),奈良奉行が京都所司代の指揮のもと,大和国内の陵墓調査を実施した.当時の状況を描く字王墓山古墳(景行天皇陵,山邊道上陵)の山陵図をみてみると,この時に村々から提出された記録(耕作地として樹木のない年貢畑であったと記す)の内容と一致する.他の陵墓の多くも,こうした植生被覆の乏しい景観となっていた.<BR> こうした陵墓の多くは近世を通じて次第に森林化していくこととなる.文久期(1860年代)の修陵事業に際して描かれた景行帝の山陵図をみると,灌木や竹の生い茂るなかマツ形の樹木が卓越しつつある状況が描かれており,元禄期と異なる景観を示し注目される.<BR><BR>4.まとめと今後の課題<BR> これまでみてきたように,山陵図は近世から近代にかけての植生景観の変遷を知る有効な資料であるといえる.ここまでみてきた近世の陵墓の景観は,明治に入るとさらに大きく変化していくこととなる.先にみた景行帝陵について正式2万分1地形図(1908(明治41)年測図)をみると,針葉樹の植生記号のみで示されているのが確認される.この後,帝室林野局により作製された陵墓地形図(1926(大正15)年測量)では,主に「松」樹の記号で覆われていることが確認され,この針葉樹がマツであることを示している.<BR> こうした近代以降の景観変化は,計画的な植樹や伐採を経た結果であった.先にみた神社林のように,現在,常緑広葉樹の卓越する陵墓の植生景観は,比較的新しいものであるといえ,身近な自然環境の変動をしる良い事例であると考えられる.
著者
田島 幸一郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.63, 2004 (Released:2004-07-29)

1.はじめに わが国では、1960年代以降、自動車が普及したことによりライフスタイルが大きく変化した。こうした状況の中で、急速な勢いで台頭してきたのが幹線道路沿いに見られる「ロードサイド型店舗」と呼ばれる店舗である。こうした現象は全国的レベルで進展しており、ロードサイド型店舗が集中している地区では新しい商業地を形成するまでに至っている。このような傾向は住民の重要な商業拠点としての役割を果たしてきた中心商店街の衰退をもたらした原因の一つとして考えられている。2.研究対象地域と目的本研究では対象地域として神奈川県厚木市を取り上げた。厚木市内では国道246号線沿線と、国道412号バイパス沿線の2か所でロードサイド型商業地の形成が著しい。国道246号線は1964年8月に開通し、東京都渋谷区と静岡県沼津市を結んでいる。また、東名高速道路と並走しており、厚木I.C.は東京大都市圏の外縁道路と結ばれていることから自動車通行量が多く、ロードサイド型店舗も早い時期から立地が確認されている。それに対し、国道412号バイパスは1992年3月に開通した新しい幹線道路でありながら、すでに沿道には集中的に店舗が立地している。そこで、本研究では2ヶ所のロードサイド型商業地を業種構成や利用客の実態から比較し、双方の特徴を明らかにすることを目的とする。3.結果 国道246号線沿線地域においては、店舗の立地が始まった1960年代後半では自動車販売業や自動車整備業、ガソリンスタンドなどの自動車関連業の割合が高かった。しかし、1970年代に入ると、飲食業が急激に増加しチェーン展開している店舗が立地した。以後、国道246号線沿線では飲食業の割合が常に1位となっている。また、道路の持つ性格上、利用客は広範囲に渡っていることも明らかになった。このことから、国道246号線沿線の商業地を「通過型」に分類した。 国道412号バイパスは、厚木市の郊外地区を縦貫し、津久井郡へ抜ける生活幹線道路であり、特に厚木市内には吾妻団地をはじめとした住宅地が広がっている。これらの要因から、ロードサイド型店舗の主な対象客は地域住民であることが明らかになった。この通りでは、飲食店よりも衣料品店や家電販売店、自動車関連店などの物販店の割合が高いことから、国道412号バイパス沿線のロードサイド型商業地はその性格を「居住地型」に分類することができる。 このように、厚木市の事例では、通過型と居住地型の2つのロードサイド型商業地が存在し、その業種構成や、成立過程にも違いがあることがわかった。 表1 ロードサイド型商業地のパターン 通過型 居住地型立地 都市と都市を結ぶ 市街地と郊外住宅地を結ぶ 主要幹線道路沿線 生活幹線道路沿線顧客・商圏 広範囲 地域住民主体業種構成 飲食店>物販店 物販店>飲食店厚木市の場合 国道246号線 国道412号線バイパス
著者
柴田 陽一
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.146, 2013 (Released:2013-09-04)

【はじめに】公共サービスの地理学は,公共サービスの地域差や公共施設の立地問題などを研究テーマとしている。こうしたテーマを追求する上で,小中学校は一つの研究対象となりうる。その理由は,小中学校は義務教育であるがゆえに,どこに居住する児童・生徒にとっても通いやすい地点に立地するのが望ましいにもかかわらず,実際は必ずしもそうなっていないからである。そこで,小中学校の最適立地地点はどこか,いかに通学区域を設定すべきかといった問題に関して,これまで多くの研究が行われてきた。なかでも児童・生徒の総通学距離の最小化が,これらの研究の焦点であった。/日本の法律をみると,「義務教育諸学校等の施設費の国庫負担等に関する法律施行令」(2007年改正)には,「通学距離が,小学校にあってはおおむね4km以内,中学校にあってはおおむね6km以内であること」とある。また,小中学校施設整備指針(2010年改正)には,児童・生徒が「疲労を感じない程度の通学距離を確保できることが望ましい」とある。しかし,都市部はさておき,児童・生徒数減少のため学校の統廃合が進んだ山間部では,上記の距離以上を通学する児童・生徒も少なくない。/では,1986年の義務教育法施行以降,義務教育(小学校6年と初級中学3年)の普及を急速に進めてきた中国(小学校就学率1965年=84.7,1980年=93.0,1990年=97.8,2000年=99.1,2010年=99.7%)において,小中学校の立地はいかに変化したのか,その立地は適正な通学距離を確保しるものなのか。本報告では,昨夏にフィールド調査を行った吉林省長春市近郊農村の事例を中心に,これらの問題を検討することを通じて,中国農村地域の特徴の一端を考察してみたい。【東湖鎮黒林子村におけるフィールド調査】フィールド調査は,2012年8月16-18, 21, 25日に,小島泰雄氏,中科院東北地理所の張柏氏・劉偉傑氏と共に実施した。黒林子村は,長春市の東に位置する九台市東湖鎮(長春市街地から約20km,戸籍人口3.2万人)の1行政村である(鎮全体の行政村は12)。村中心部は長春市街地から約10kmに過ぎず,近年,近郊農村化しつつある(野菜生産の開始,幹線道路沿いへの企業の立地)。村は8つの村民小組(隊,社とも)から構成され,2012年時点の人口は423戸・1,452人である(1990年=372戸・1378人,2000年=391戸・1418人)。/村委員会での聞き取りによると,現在の黒林子小学は全学で6班約40人であり,教職員と生徒の数はそれほど変わらない。1960年代に開校(市志→1964年)する前は,北東約2kmに位置する双頂子小学へ通学していた。中学校は村になく,現在も昔も10km強離れた鎮中心部の中学校(現在の東湖鎮中心学校,市志→1957年開校)へ通学しているという。また,農民(1932~1951年生まれの6人)への聞き取りからは,1940~60年代初頭は,村に小学校がなく別村に通学していたが,通学先は同じではない(双頂子,大頂山,大何屯など)といった情報が得られた。通学先に違いが生じた理由は,就学時期・個人的事情を除けば,各農民の居住する小組の村内における位置にあると考えられる。【長春市周辺における小中学校の立地変化】市志に基づき,長春市周辺における小学校の立地地点を調べると,(日本の基準であるが)学校から4km以上離れた地域は,周辺の農村地域でも多くないことが判る。中学校の立地地点をみても,ほとんどの地域は6km圏内に含まれている。ただ,市志のデータは1988年のものであることに注意が必要である。/というのも,1980年代半ば以降,政府は農村の小中学校の分布調整に着手し,多くの学校を統廃合する政策を実施してきた。2000年代に入ると,政策は「撤点併校」と呼ばれ,統廃合がさらに進められた。その結果,2000年から2010年の間に全国の農村小学校数は約半分に減少し,ある調査によると,平均通学距離は小学校で5.4km,中学校で18kmにもなり,多くの中途退学者を生み出す原因になっているという。そのため,現在の長春市周辺の小中学校の立地地点も,1980年代末とは異なる。【おわりに】中国政府は義務教育の完全普及を目指し,義務教育法を2006年に改正した。その中では,義務教育無償の原則や農村と都市の教育格差是正の方針が明確に打ち出されている。しかし,農村地域を小中学校の立地変化からみると,むしろ農村と都市の格差は広がっている。今後は,特定地域の小中学校の統廃合過程をより具体的に明らかにしたい。
著者
渡来 靖 岡本 惇 中村 祐輔
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100195, 2016 (Released:2016-04-08)

駿河湾域ではしばしば駿河湾収束線と呼ばれる収束線が形成され,駿河湾周辺の静岡県東部地域に局所的な荒天をもたらすこともある.駿河湾収束線の研究は古くからなされているが,近年の気候学的特徴は十分に調査されていない.本研究では,最近20年間の地上観測データから駿河湾収束線の気候学的特徴を明らかにするとともに,その形成条件について検討する. 駿河湾収束線の典型事例を抽出するために,相模湾を囲むAMeDAS観測点8地点(御前崎,菊川牧之原,静岡,清水,富士,三島,松崎,石廊崎)の地上風時別値を用い,平面近似法により一時間ごとの発散量を求めた.求まった発散量が負値であれば駿河湾域で地上風が収束していることになるが,その中で発散量が −1.0×104 s-1以下となった場合を強い収束と定義した.これは,発散量が負値となった全時間のうちの上位約5%に相当する.さらに,強い収束が少なくとも3時間以上連続した場合を収束事例とした. 1995~2014年の20年間について,駿河湾域での強い収束の出現頻度を調べたところ,強い収束は寒候期の1~3月に最もよく出現し,平均約3~4%の出現頻度である一方,夏季の6~8月にはほとんど出現しなかった.1~3月の3か月間の収束事例をカウントすると20年間で162事例(平均8.1回/3か月)であったが,2013,2014年の12回/3か月から1999,2002年の1回/3か月まで,出現頻度の年々変動は大きい. 抽出された収束事例について,ひまわり赤外画像を元に駿河湾域の雲の形状から分類を行った.全事例のうちの49%は上層の雲等の影響で相模湾域の局所的な雲の形状を判別するのが困難であった.30%は駿河湾付近を始点として南東方向に延びる雲列が見られ,駿河湾域やその南東側での地上風の収束により形成されたものと推測される.線状雲列が見られた事例はさらに,雲列の東側にも雲域が広がる場合(以降T型と呼ぶ)と,そうでない場合(S型)に分けられる。S型,T型の割合はそれぞれ19%,11%である.残りの21%は,相模湾域に雲が見られなかったり,明瞭な雲列が形成されていない事例である. 輪島,浜松,館野のゾンデデータより求めた上空850hPa面の地衡風を調べたところ,強い収束の出現時は北~北北東の風であることが多く,その傾向はS型でもT型でも違いはなかった. S型の典型事例である2012年1月2日と,T型の典型事例である2012年3月21日について,領域気象モデルWRF Version 3.2.1を用いて再現計算を行い,相模湾域における収束線の形成要因を調べた.S型事例における駿河湾域の地上付近を始点とする後方流跡線解析の結果によると,相模湾では主に富士川の谷からの北風と,伊那谷を通って赤石山脈を迂回するように吹き込む西風が収束していることがわかる.T型事例ではさらに,関東山地を迂回して伊豆半島を越えて吹き込む東風も見られる.駿河湾域での収束線形成には,駿河湾周辺の地形の影響を受けて山地を迂回する流れが卓越することが重要であることを示唆する. 駿河湾収束線は主に1~3月に出現し,出現時の上空の風は北~北北東風である.S型やT型で見られる列状雲は伊豆諸島付近まで延びており,中部山岳域を大きく迂回するような地上風系に影響されていると思われるが,駿河湾域での強い収束の形成には駿河湾周辺の谷筋を抜ける流れが重要であることが示唆された.
著者
河野 忠
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.168, 2004 (Released:2004-11-01)

1.はじめに高知県の沈下橋に代表される潜水橋は,日本各地に存在している.その概要は高知県(1999)の調査で,全国に407ヶ所現存していることが明らかとなった.その第一位は高知県(69ヶ所),第二位が大分県(68)で,以下,徳島県(56),宮崎県(42)と続いている.しかし,このデータは一級河川のみに限られており,その実態は未だ不明である.そこで大分県における沈み橋の実態を明らかにするため,悉皆調査を実施した.2.沈み橋の数と築造年大分県には四万十川や吉野川に架かるような100mを超える大きな沈み橋こそ少ないものの,200ヶ所以上存在していることが判明した.なかでも杵築市の八坂川には明治9年築造の「永世橋」という,日本最古といってよい沈み橋が残っている.これまでは,高知市にあった昭和2年築造の「柳原橋」が最古(現存する橋では四万十川の「一斗俵橋」,昭和10年)とされていたが,50年ほどその起源をさかのぼれることがわかった.また,大分県院内町には,河川の合流地点にある中州に延びたT字型をした「三つ又橋」という珍しい沈み橋の存在も明らかとなった.3.沈み橋の名称沈み橋という名称は,九州地方固有のものであり,高知県では沈下橋と呼ぶ.一般的には潜水橋と呼ばれ,潜り橋(東北_から_中部),冠水橋(荒川流域),潜没橋(京都府),潜流橋(広島県),地獄橋(関東)などの例がみられる.4.沈み橋の建設要因大分県に沈み橋が多い理由としては,小藩分立に由来する財政難,および肥後石工の流れを汲む豊後石工の存在がある.しかし,最も決定的な要因は地形,地質的条件と考えられる.大分県の沈み橋は,国東半島(22%)と大分県北部(26%),南部(40%)に集中している.南部に沈み橋が多い理由は,9万年前の阿蘇大噴火による火砕流堆積物(溶結凝灰岩)の存在といってよい.この溶結凝灰岩は竹田から臼杵,大分市にかけて堆積しており,広くて浅い谷底平野と河床縦断面が緩やかで平らな河床を形成している.北部は第三紀の古い地質であり,開析の進んだ谷が多い.従って,農地と河床との高低差が少なく,堤防も少ないことから,沈み橋の条件が整っていたといえよう.5.参考文献高知県四万十川流域振興室(1999):流域沈下橋保存に係わる全国事例調査結果,高知県.
著者
花岡 和聖
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100040, 2011 (Released:2011-11-22)

本研究では、明治後期から大正軍縮期までを対象に、近代日本の軍事的・社会経済的動向を踏まえつつ、海軍志願兵の志願者の地域差とその経年変化を明らかにした。特に日露戦争期の志願者数の急増に着目した。本研究で得られた研究成果は、以下のように整理できる。 ?@海軍志願兵の志願者数は、日露戦争期に急増し、その後、政治経済的動向を受けて上下変動を繰り返した(図1)。特に日露戦争期に志願者数が急増し、その熱狂の「波」は東日本から西日本へと波及した(図2)。志願兵の合格率は、明治後期の30%代から大正期には50%を上回り、学力や栄養状態の改善とともに合格率は上昇した。 ?A志願兵の合格者の内訳をみると、対象期間を通じて農業従事者 が60%以上を占め、農村地域が海軍志願兵の供給を担っていた。ただし、日露戦争期には、商工業者の割合が一時的に増加した。 ?B府県別に志願兵の志願率をみると、明治後期は関東地方で低く、東北や四国・中国、九州地方で顕著に高い傾向が確認された。大正期に入ると、近畿地方でも志願率が低下し、大都市を含む府県とそうでない府県での差が確認される。この時期、志願率の格差は縮小傾向にあるが、要因分析の結果を鑑みると、その主要因は地域間の経済格差の縮小であったと考えられる。 ?C日露戦争期に着目すると、増加率は、1904年(明治37)に東日本でまず増加し、翌年に西日本で増加するといった空間的拡散を確認できた。それ以外の大半の年次の増加率には、統計的に有意な地理的パターンを見いだせなかった。一方で、日露戦争期、志願率の地域差は大幅に縮小し、その後もその地域差は維持された。 ?D志願率の地域差を規定する要因を分析したところ、志願率は粗付加価値額で表される府県の経済状況に強く影響を受け、特に大正期の好景気になるとその傾向は顕著になった。以上から志願兵への志願は、地域の雇用機会と密接に関わり、海軍志願兵は不景気における雇用機会の一つであったと考えられる。 ?E志願兵と九州及び中国・四国地方との結合関係が両地方で拮抗するようになった。同時に、東京と大阪を中心とした「都市―農村」や「中心―周辺」といった地域構造が当時形成されつつあり、志願率の地域差もその枠組みに準拠するように変化したと考えられる。
著者
手代木 功基
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>はじめに </b><br>モンゴル国南部には草本が卓越する乾燥ステップが広がっている。こうした草本優占景観の一部には、灌木が集中して分布する地域がみられる。世界の乾燥・半乾燥地域の植生と放牧圧の関係を検討したAsner et al. (2004)は、草原中の灌木は,過放牧に起因する草原の劣化にともない優占すると指摘した。一方で、モンゴルにおいては、これらの灌木は家畜の採食資源になっているという報告もある(Fujita et al., 2013)。このように、内陸アジアの乾燥ステップにおける灌木の分布の実態や放牧との関わりについては不明な点が多い。 したがって本研究では、モンゴル国南部、マンダルゴビ地域において、高解像度衛星画像を用いて灌木の分布を明らかにすることを試みる。そしてその結果をもとに、分布の要因や家畜の放牧との関係を定量的に検討する。 &nbsp; <br><br><b>方法 </b><br>調査地はモンゴル国ドンドゴビ県、サインツァガーン郡である。特に県の中心地であるマンダルゴビの南東部を対象とした.降水量は年変動が大きく、干ばつやゾド(寒冷害)もしばしば発生する。対象地域には家畜を飼養する牧民が居住している。牧民は主に移動式の住居に居住しており、季節的に遊動しながら放牧を行っている. 現地調査は2013年9月、2014年1月,及び8月に実施した.灌木の分布を現地で記録して衛星画像解析時の参照情報にするとともに、対象地域における牧民の樹木利用や放牧活動について調査した。放牧活動については、対象地域内で家畜を飼養している牧民のヤギとヒツジにGPS首輪を取り付け、放牧場所を記録した。 灌木の分布は、空間解像度が50cm(パンクロ)、2m(マルチ)と高いWorldView-2(撮影日:2011年7月14日及び10月24日)を利用して抽出した。この解析にはExelis VIS社製ENVI5.1とFeature Extractionモジュールを使用した。 &nbsp; <br><br><b>結果と考察</b><br>調査地域では、主に<i>Caragana microphylla</i>と<i>Caragana pygmala</i>が灌木として出現した。これらの灌木の周囲にはしばしば砂が堆積したマウンド(nebkha)が形成されていた。マウンドの高さは平均が約30cmであった。 次に、衛星画像上でオブジェクト分類を行って、灌木の分布密度を算出した。その結果、灌木の分布は地域内において一様ではなく、偏りがみられることが明らかになった。これらの灌木の分布は、マクロスケールにおける地形や土壌の差異と関わりがあると考えられる。 次に、灌木の分布と放牧場所の関係について検討した。その結果、灌木が高密度で分布する場所はヤギ・ヒツジの放牧場所として利用されていることが明らかになった。牧民は季節によって放牧場所を移動させており、特に草本の採食資源が減少する冬から春にかけて灌木の密集地帯を利用していた。 牧民は、草本が不足する時期や、干ばつなどの災害時には灌木が家畜にとって需要な採食資源になると語る。したがって、今後は干ばつやゾド時における灌木の利用状況を定量的に明らかにすることを通して、乾燥ステップにおける樹木の役割を再評価していく必要がある。<br><br>*本研究は,総合地球環境学研究所「砂漠化をめぐる風と人と土」プロジェクト(研究代表者:田中樹)及びJSPS科研費・若手研究(B)「乾燥地域における放牧システムのレジリアンスに関する研究:樹木の役割に着目して」(課題番号:25750118)の成果の一部である。
著者
石坂 愛
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100015, 2016 (Released:2016-04-08)

1980年代~1990年代の商業空間の変容により,地方都市における中心市街地のシャッター通り化は我が国の深刻な問題となった.この傾向は地方都市においてまちおこしという意識を喚起させ,日本の観光形態にも影響を与えた.各々の地域における観光協会や自治体は商品価値を生む地域資源の探索に尽力し,その中で注目されるのがテレビアニメ(以下,アニメ)作品の舞台や映画のロケ地を新たな資源とし,アニメファン(以下,ファン)による「聖地巡礼」を促す動きである(山村,2009).聖地巡礼とは,アニメ作品のロケ地,またはその作品や作者に関連する場所,かつファンによってその価値が認められている場所を「聖地」とし,そのような場所を訪ねることと山村(2008)は定義する.聖地巡礼に関する研究の多くは商工会や自治体によって展開されるイベントに着目し,その開催経緯や参加するファンの目的という点に言及している.しかし,まちおこしの背景にある課題に中心市街地の衰退があると考えれば,アニメを題材としたイベント等の展開やアニメファンによる聖地巡礼が,中心市街地において商業を営む地域住民に対していかに影響をもたらすかを考察する必要がある.本研究は,茨城県大洗町を作品の舞台とするテレビアニメ「ガールズ&パンツァー」(以下,ガルパン)が,大洗町の中心市街地に立地する小売店にもたらす社会・経済的変化を明らかにすることを目的とし,中心市街地の小売店経営者における地域住民やファンとの人間関係およびガルパンへの意識の変化と,ファン来店後の売り上げの変化を震災以前とアニメ放送以降に区分して分析した.その際,店舗の業種や立地特性を考慮するために2つの商店街における小売店について検討した.アニメ劇中に多くの店舗が登場した曲がり松商店街は,早期から聖地巡礼目的のファンの通行する様子がみられた.対する大貫商店街は劇中での登場も乏しく,店舗は分散して立地している. 調査の結果,飲食店および酒類,海産物,軽食を販売する食料品店はほぼ全店来店者数および売り上げが増加している.また,買回り品販売店や理美容室等のサービス業においても一部増加がみられた.各小売店はリピーターを獲得し,アニメ放送終了2年後も震災以前の2割以上の来店者数を維持している.なお,店舗におけるファン誘致の成功と来店者数・売り上げ増加率において,小売店の業種や店舗の立地はほとんど関係なく,ファン誘致を成功させた小売店は共通して「ガルパンらしさ」の創出などにより,ファンを受け入れる姿勢を見せている.「ガルパンらしさ」は,各小売店が所有する店舗においてガルパンに関連するイラストやフィギュアなどの装飾品を展示することで,店内および店頭におけるガルパンの景観的要素を強化している様子を意味する.ファンは商店会主催のクイズラリーや店舗に展示されるガルパンに関連グッズの見学など,消費行動以外を目的として来店した店舗においても消費行動をとる傾向にあるため,来店者数増加を経験した小売店は売り上げも増加している. 経営者のアニメやファンに対する理解は,店舗における来店者数の増加や「ガルパンらしさ」の有無に関わらず好転する傾向にある.一方で,「ガルパンらしさ」の創出やファン誘致に積極的な経営者はガルパンを通じて地域住民との交流が活発になっているのに対し,コマーシャルツールとしてのガルパンに一線を画す経営者に関しては地域住民間の交流が活発になったケースが少ない.後者にあたる経営者は地域住民という立場でガルパンを受け入れているものの,既存の客層や販売商品を考慮して,店舗においてファンの誘致を控えている傾向が強い.まちおこしという課題を振り返るならば,このような小売店の経営者の意向を汲み取り,地域コミュニティの紐帯を強めていく必要がある.山村高淑(2008):アニメ聖地の成立とその展開に関する研究―アニメ作品「らき☆すた」による埼玉県鷲宮町の旅客誘致に関する一考察―.北海道大学国際広報メディアジャーナル7,145-164.山村高淑(2009):観光情報革命が変える日本のまちづくり インターネット時代の若者の旅文化と新たなコミュニティの可能性.季刊まちづくり22,46-51.
著者
鈴木 晃志郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

1990年代に飛躍的な進歩を遂げたICT(情報通信技術)は、誰もがウェブ上で情報交換できる時代をもたらした。いまや紙地図は急速にウェブや携帯端末上で閲覧できる電子地図へと主役の座を明け渡しつつある。二者の決定的な違いは、地理情報を介した情報伝達が双方向性をもつことである。Google Mapなどの電子地図とLINEやFacebookなどのコミュニケーションツールの連携で、利用者はタグや文章、写真を貼り付けてオリジナルの主題図を作成でき、不特定多数に公開できるようになった。また、OpenStreetmapなどに代表される参加型GISの領域では、官公庁や製図家に限られていた地理情報基盤整備の局面における、一般人の参画を可能にしつつある。<br> しかし、こうしためざましい技術革新に比して、利用者側に要求されるモラルや責任、リテラシーについての議論は大きく立ち後れている。阪神大震災の教訓を踏まえ、電子地理情報の基盤整備に尽力してきた地理学者たちは、2007年に制定された「地理空間情報活用推進基本法」に貢献を果たすなど、電子国土の実現に深くコミットしてきた。電子地理情報の利活用におけるユビキタス化は、その直接・間接的な帰結でもある。ゆえに、ユビキタス・マッピング社会の実現は、地理学者により厳しくその利活用をめぐるリスクや課題も含めて省察することを求めているといっても過言ではない。本発表はこうした現状認識の下、地理学者がこの問題に関わっていく必要性を大きく以下の3点から検討したい。<br><br>(1)地図の電子化とICTの革新がもたらした地理情報利用上の課題を、地理学者たちはどう議論し、そこからどのような論点が示されてきたのかを概観する。この問題を論じてきた地理学者は、そのほとんどが地図の電子化がもたらす問題を「プライバシーの漏洩」と「サーベイランス社会の強化」に見ており、監視・漏洩する主体を、地理情報へのアクセス権をコントロールすることのできる政府や企業などの一握りの権力者に想定している。本発表ではまず、その概念整理を行う。<br><br>(2)地理学における既往の研究では、地理情報へのアクセスや掲載/不掲載の選択権を、一握りの権力(企業や行政、専門家)が独占的にコントロールできることを主に問題としてきた。しかし、逆にいえば、権力構造が集約的であるがゆえに、それら主体の発信した情報に対する社会的・道義的責任の所在も比較的はっきりしており、そのことが管理主体のリテラシーを高める動機ともなり得た。これに対し、ユビキタス・マッピング社会の到来は (A)個人情報保護に関する利用者の知識や関心が一様ではない、(B)匿名かつ不特定多数の、(C)ごく普通の一般人が情報を公開する権力を持つことを意味する。それでいて、情報開示に至るプロセスには、情報提供を求めてプラットフォームを提供する人間と、求めに応じて情報提供する人間が介在し、一個人による誹謗中傷とも趣を異にした水平的な組織性も併せ持っている。ユビキタス・マッピング社会は、そんな彼らによって生み出される時にデマや風聞、悪意を含んだ情報を、インターネットを介してカジュアルに、広く拡散する権力をも「いつでも・どこでも・だれでも」持てるものへと変えてはいないだろうか。本発表では、ある不動産業者が同業他社あるいは個人の事故物件情報を開示しているサイトと、八王子に住む中学生によってアップロードされた動画に反感を抱いた視聴者たちが、アップロード主の個人情報を暴くべく開設した情報共有サイトの例を紹介して、さらに踏み込んだ検討の必要性を示す。<br><br>(3)地理情報をめぐるモラルや責任の問題は、端的には情報倫理の問題である。本発表で示した問題意識のうち、特にプライバシーをめぐる問題は、コンピュータの性能が飛躍的に向上した1980年代以降に出現した情報倫理(Information ethics)の領域で多く議論されてきた。本発表では、これら情報倫理の知見からいくつかを参照しながら(2)で示された論点を整理し、特に地理教育的な側面から、学際的な連携と地理学からの貢献可能性を探ることを試みる。<br>
著者
森 正人
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.254, 2009

本発表は、中世の武士である楠木正成が1930年代の日本においてどのように意味づけられ、彼に関する催事や事物が形作られていったのか、またそうした出来事をとおしてどのように人びとのアイデンティティが刺激されたのかを論じる。よく知られるように、楠木正成と息子正季は後醍醐天皇に対する忠誠を、命を賭して体現した人物として『太平記』に描かれているが、南北朝時代の南朝に与したため江戸時代にいたるまで朝敵と見なされていた。楠木正成の名誉回復がなされ、江戸時代末期に尊皇攘夷運動が高まると、「忠君」楠木正成は顕彰の対象となる。各地で執り行われた鎮魂祭は招魂社の設立運動にいたり、後に靖国神社と名を変える招魂社にまつられる英霊から区別された楠木正成はただ一人、湊川神社に祀られることになった。 国家を代表する偉人としてがぜん注目されるようになった楠木正成は、宮城前への銅像設置や、南北朝のどちらが正統であるかをめぐってなされた南北朝正閏論争をとおして完全なるナショナル・ヒーローの座へ登りつめていった(森2007)。したがって、楠木正成の近代に注目することで、日本のナショナリズムや国家的アイデンティティの問題の一端が明らかになると思われるのだが、この楠木正成が見せた国家的偉人への軌跡を正面からあつかった研究は実はそれほど多くない。 近代日本のナショナリズム研究は、1990年代に大きな興隆をみた。ベネディクト・アンダーソン(1997)の想像の共同体の議論を受けながら、近代史や法制史を中心に国家的諸制度の整備が確認された。地理学においては近代における均質的な国家空間創出のためのさまざまな物質的基盤が解明された。それらの研究が一段落した後に残されたのは、国家的な諸制度や観念の形成に貢献したローカルなるものの役割の検討であった。すなわち、アイデンティティであれ諸制度であれ、それらは決して国家によってのみ作動されたのではなく、地域や郷土などといったローカルな地理的範域での実践もまた国家的なものを下支えしていたことが確認されたのである(「郷土」研究会2003)。 ただし、国家的スケールに対して地域的スケールでの実践の重要性を強調するだけでは、国家と地域を二項の固定的なものと前提してしまう。国家も地域も、首尾一貫性を持つ地理的スケールではない。それらは、相互の関係性のなかで認識されるべき地理的スケールであるだけでもない。むしろ国家的スケールも地域的スケールも、後にそれと確認されるスケールでの諸実践をとおして認識される。したがって、一貫した地域も国家もなく、事後的に確認される地域的なるものと国家的なるものととらえ、地域と国家というスケールの二分法の不可能性と、それが生成されるプロセスに取り組むことが重要となろう。こうした空間への視座は、近年の英語圏人文地理学における空間の存在論の高まりと共鳴している(Massey 2003, 2005; アミン2008)。 国家/地域的なるものを、出来事をとおしてその都度に構成し直される関係的なものとすれば、国家や地域へのアイデンティティもまた、自律的な人間主体の内側からの発露とすることも、あるいは人間主体の外側に措定される権力主体からのイデオロギー的呼びかけととらえることも困難になる。すなわち、とある地理的範域に対するアイデンティティは、前提される地理的スケールの外部、人間主体の外部にある事物や自然や機械などの客体との折り重なりの中でつねに刺激され、形作られ続けているのである。アイデンティティを含む人間の感情や倫理は、つねに資本によっても多方向へ屈曲されている(スリフト2007)。 本発表はとくに1930年代に照準する。この時期、楠木正成は国家的偉人であると同時に、彼を輩出したり彼が最期を遂げたりした場では地元の英雄として取り上げられた。それは楠木正成の死後600年を祝う1935年に一つのピークを魅せた。楠木に関わるイベントは郷土を確認させる出来事であり、そのイベントは行政だけでなく新聞社やレコード会社やラジオ局などの資本によっても開催されたのである。
著者
矢ケ崎 典隆 深瀬 浩三
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.55, 2009

ロサンゼルス大都市圏はアメリカ合衆国において最も急速に都市化が進んだ地域の一つである。ロサンゼルス市とその周辺部では20世紀に入って都市化が加速し、人口が急増した。ロサンゼルス市中心部と多数の郊外都市を結びつける電車網が発達するとともに、モータリゼーションも進行し、都市域が空間的に拡大した。増加する人口に食料を供給するために農業が発達し、第二次世界大戦直前まで日系人は農産物の生産と流通において重要な役割を演じた。しかし、戦後、都市化の更なる進行に伴って農地の蚕食が進み、農業景観は大きく改変されるとともに、日系人の経済活動も変化した。本論文では、ロサンゼルス市中心部の南方に位置するガーデナ市およびトーランス市を研究対象地域として、都市化に伴う農業的土地利用の変化について検討した。この地域では、ロサンゼルス大都市圏において農業が最近まで存続するとともに、第二次世界大戦前から日系社会が存在し、日系農業が盛んに行われた。 ガーデナ・トーランス地域では、20世紀に入ると、日系人の流入とともにイチゴ栽培が盛んになった。イチゴ栽培には大きな資本は不要であったし、借地することにより、家族労働力に基づいた小規模な農場経営が可能であった。日系人の増加に伴って日本街が形成された。また、日系農業協同組合や日本人会が組織され、それらは日系社会において経済的にも社会的にも重要な役割を演じた。時間の経過とともに日系人の居住地は拡大し、多様な野菜類の栽培に従事するようになった。 第二次世界大戦中の強制収用に伴い、日系農業は中断を余儀なくされたが、戦後、日系人の帰還に伴って日系社会が再建された。しかし、都市化の進行によって、また、一世の高齢化に伴って、野菜栽培を中心とした日系農業は衰退した。戦後の日系経済の中心となったのは植木業と庭園業であった。日系植木生産者の多くは、ウエストロサンゼルスからの移転者であった。庭園業は戦前においても一世にとっての主要な業種であったが、戦後の日系人にとっても容易に就業できる業種であった。こうして、植木業と庭園業は戦後の日系社会の重要な産業となった。都心部からの日系人の流入に伴って、ガーデナ・トーランス地域の日系人口は増加した。 都市化の進行に伴ってガーデナ・トーランス地域の農業的土地利用は縮小を余儀なくされ、1980年代までには農地はほとんど消失していた。住宅地化、工業化が顕著であり、特にトーランス市にはトヨタ自動車をはじめとする日系企業の進出が著しい。最後まで存続したのが植木園(鉢植えの花壇苗、グリーンプランツ、鉢植えの花卉)の経営である。しかし、近年、日系の植木業はさらに衰退の危機に瀕している。日系4世の高学歴化が進み、後継者不足は深刻である。外的要因としては、都市化の圧力に加えて、経済の停滞、技術革新(例えば、プラグ方式の普及)、ラティーノ生産者の増加と競合、大型量販店の進出と低価格競争などの影響も深刻である。<br> 2007年8月に行った現地調査により、限定された農業的土地利用の存続が明らかになった。それは、植木業の残存が認められたことである。小規模な植木園が依然として経営を続けており、特に、高圧送電線下の細長い土地を電力会社から借地することにより、鉢物類が栽培されている。また、特殊な残存形態として、日系農民がトーランス飛行場内に借地をして、トマト、イチゴ、とうもろこしを栽培する事例が確認された。農産物は道路に面した販売所で直売され、新鮮な商品を楽しむ常連に支えられて経営が維持されていた。 ロサンゼルス大都市圏は、経済活動、人種民族、文化景観において多様でダイナミックな地域である。今回の調査によって明らかとなったガーデナ・トーランス地域における土地利用の変化と日系農業の変化は、ロサンゼルス大都市圏のひとつの面を示している。こうした事例研究を蓄積することが重要である。
著者
福岡 義隆 丸本 美紀
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

Ⅰ. はじめに<br> 気候とは中国古来の農業暦「二十四節気七十二候」の「気」と「候」に由来する(福井)ということ、あるいは和辻(1979)の不朽の名著「風土」がclimateと訳されているなどから、気候は人間生活の環境であると言える。一方、地球とは異なる大気がある火星でも気象現象が発現しているが、生物が生育できない火星には言うまでもなく地理事象である気候現象はない。要するに、気候学が気象学の一部という説は妥当ではない。<br>瀬戸内気候はその名のとおり、瀬戸内地方に広がる日本の中でも雨の少ない気候区である。その特有の瀬戸内気候タイプは福井英一郎や関口武、鈴木秀夫ら地理学の気候学者による気候区分法によって設定され、研究のみならず地理教育などでも多用されてきた。ブローデル(1991)の『地中海』に「陸と海の地中海のうえに空の地中海が広がっている」という一節がある。これに肖り「陸と海の瀬戸内海の上に空の瀬戸内海が広がっている」のである。<br>瀬戸内気候は夏に少雨であるという定性的な表現だけでなく、瀬戸内気候という気候の強弱を定量化しその地域性を表現することも重要である。本研究では福井(1966)により、瀬戸内気候度の定量化を試みた。<br>Ⅱ.瀬戸内気候度の提唱と計算方法<br> かつてゴルチンスキーは海洋度を、福井は地中海気候度なるものを提唱し、各々計算式を設定した。瀬戸内気候度は夏季3ケ月中の8月の雨量が少ないという季節性に注目して、8月の降水量をpとし、夏季3ヶ月間の降水量Pに対するpの割合を瀬戸内気候度Scとし次式で表した。 <br>Sc=100cos2 ɵ<br>Ⅲ. 瀬戸内気候度計算結果とその地理学における気候学的問題<br> 瀬戸内地方の内沿岸の気象官署の資料から上記のScを計算し、Scが90以上を大S、89~85を中S、84以下を小sとした(図1)。大Sが中四国の中心都市に見られ、また、隣り合った京都盆盆地より奈良盆地の方が瀬戸内気候の影響が強いことなどが注目され、このことは水収支の比較(丸本、2014)によっても明らかにされている。<br>Ⅳ. 終わりに <br> 瀬戸内気候度の分布からその場所性を論究する気候学は純然たる地理学である。さらに「気候などの自然地理こそ歴史に影響を与え、歴史を支配する決定要素である」(『カントと地理学』松本)。かのフェーブルの『大地と人類の進化』もブラーシュの『人文地理学原理』などでも気候の役割を重視している。内村鑑三の『知人論』でも「地理学は諸学の基なり」とその重要性を述べている。
著者
曽我 とも子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.92, 2009

福原は12世紀末に平清盛が造成した都で,安徳天皇の行幸から半年で平安京に還都した上,後に建造物は全て焼き払われた。このため,都市としての福原の姿を詳細に再現することは難しい。本研究は,福原に造営された安徳天皇新内裏の位置を陰陽五行思想の考え方をもとに推測した。<BR> 清盛は福原の鎮護のために多くの神社を勧請した。そのうち新内裏造営にあたり注目すべき2つの神社がある。比叡山になぞり,日吉山王権現(大山咋神)を祀った丹生山の丹生神社と,都の鬼門よけに京都の北野天満宮を勧請した北野天満神社である。新内裏の位置と推定する荒田町から,丹生山は陰陽五行思想で天を表し,最も神聖視される西北方位にある。荒田町から東北に位置する北野天満神社の神使は牛,神紋は松である。松と牛を合わせると,「松=八白」「牛=土星」で「八白土星」となり,八白土星の方角は丑寅である。<BR>丹生山から南東方向に直線を引くと,線上に菊水山,大山咋神社,荒田八幡神社,および大輪田泊にあった七宮神社が位置する。北野天満神社から南西に引いた線上には宇治野山(熊野神社),大倉山が位置する。この2線の交点が新内裏であった可能性が高い。<BR>道教思想において北極星に次いで重視されたのが北斗七星で,北極星を中心とした北斗と南斗の角度が約67度である。<BR>丹生山と,北野天満神社から引かれた線の交点は約67度となり,この67度の地点を新内裏(北極星)とし,丹生山にある丹生神社を南斗六星,北野天満神社を北斗七星とみなして配置したと考えられる。
著者
今泉 俊文 楮原 京子 大槻 憲四郎 三輪 敦志 小坂 英輝 野原 壯
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.5, 2006 (Released:2006-05-18)

1.はじめに 陸羽地震(1896年)は,千屋断層が引き起こした典型的な逆断層タイプの地震であり,世界的に見ても歴史地震としては数少ない逆断層の例の一つである.これまで本断層を対象に地形・地質調査,トレンチ調査,反射法地震探査・重力探査等いろいろな調査研究がおこなわれてきた.演者らは,千屋丘陵の西麓・花岡で,陸羽地震時の断層露頭を発見した.地表トレースが地形境界に沿って湾曲することが明確になり,逆断層の先端(地表)から地下に至る断層の形状・構造が複雑であることがわかった,その形成過程とあわせて検討することが必要である.2.断層線 花岡・大道川(菩提沢)の河岸において断層露頭を発見した.この場所は,千屋丘陵西麓(断層崖)から300m程山側(東側)に入り込んだ沖積扇状地の扇頂付近にあたる.露頭の標高は,丘陵前面の断層崖基部に比べて高い.つまり,断層線は地形境界に沿うように湾曲する(図1).松田ほか(1980)は,花岡では断層が扇央を通過すると考えていたが,地籍図・土地台帳図の解釈からは,山際を通過することが指摘されていた(今泉・稲庭,1983).このような崖線の湾曲は,逆断層の特徴でもある.中小森のトレンチ調査現場(天然記念物保存地)の小谷で行われたボーリング調査結果から,このような断層線の湾曲は,地表近くで断層の走向または傾斜が変化(地下から地表に向かって雁行)することによって生じると考えた(今泉ほか,1986).花岡の谷(大道川)は.千屋丘陵の開析谷では谷幅も広い.谷幅に応じて湾入の程度が変わるとすれば,断層面の形状の変化も,谷幅に比例した深度から生じていると考えるべきだろう.この露頭の脇を通って(せせらぎ公園のある沢沿い),1996年に活断層を横切る反射法地震探査がはじめて実施され,千屋断層がemergent thrustであることや,この断層に沿って断層上盤側が東側へ傾動する構造などが明らかにされた(佐藤ほか,1998). 逆断層露頭を直接観察できる地点(一丈木・赤倉川河岸など)や,明瞭な地震断層崖が連続する場所は,千屋丘陵の麓でも,大局は断層線がほぼ北北東〓南南西走向を示す区間である.これに対して,走向が変わる千屋丘陵北端部や南端部では,断層上盤は撓曲変形を示し,陸羽地震時の断層の詳細な位置や変位量は不確かである.北端部や南端部では,逆向き断層を含めた副次的な断層によって,上盤側に数列の背斜状の高まりが生じている.3.断層露頭 上盤側の新第三紀層と段丘堆積物が下盤側の地震前の地表に衝上(傾斜は約30度)して.そこに崖高1.2m程の低断層崖を形成している(崖の上にはかつて小規模な発電所があった).断層に沿っては,砂礫層の回転・引きずりが明瞭である.この地形面(砂礫層の堆積の)年代を知るために年代を測定中である.あわせてこの露頭から陸羽地震以前の活動についても(その時期も含めて)詳細を検討中である.
著者
牛垣 雄矢 木谷 隆太郎 内藤 亮
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100057, 2015 (Released:2015-04-13)

1.研究目的 発表者の一人は,東京都千代田区秋葉原地区について,すでに2006年における現地調査と2000年以前の資料を基に,商業集積と変容の過程を分析するとともに(牛垣2012・2013),「地域的個性」の形成過程という文脈で考察した(牛垣2014)。しかしこれらの論文においては,雑居ビルに入居する店舗については補足的な扱いにとどまり,ここに入居する小規模な店舗の集積・変容の過程については課題となっていた。本発表では,2013年に実施した現地調査によって得られたデータを基に,雑居ビルに入居するような小規模な店舗も含め,2006年から2013年にかけての商業集積の変容について考察する。 2006年から2013年にかけての7年間で,同地区は大きく変容しているように見える。家電業界の再編,サブカルチャーやアイドルブームといった近年の動向が,同地区に変化をもたらしているとも考えられる。2.研究方法 牛垣(2012)と同様,単独の店舗が占有している建物を「占有ビル」,複数の店舗が入居している建物を「雑居ビル」とし,同地区へ集積する店舗の規模を区別する。また,立地傾向とその変化については,秋葉原駅からの遠近と表通り・裏通りを区別し,A~Fの6地区に区分して分析する。3.結果 ①同地区を代表する業種であった家電,デジタル,アニメ関係の店舗が減少したのに対して,比較的新しい業態であるメイド喫茶が雑居ビルで急増し,同地区に固有の空間的性格をもたらしている。逆に,アニメ関係店は雑居ビルで急減しており,雑居ビルにおける店舗の入れ替わりや業種・業態の変化が顕著である。 ②家電業界の再編の影響もあり,秋葉原駅近辺に立地していた老舗の電気店が全国的にチェーン展開する企業の傘下に取り込まれている。また家電系以外の店舗においても,占有ビル・雑居ビル双方でチェーン店が増加し,他の商業集積地と同様に,商業空間の均質化が進行している。 ③これに対して駅から離れた裏通りの雑居ビルでは,メイド喫茶のほかリフレ系やJK散歩といったよりオタク度の高い店舗が入居しており,表通りと裏通りで空間的性格が二極化している。 ④また,比較的軽度なオタクといえる一般的なアニメやアイドル店は占有ビルに多いのに対して,少女アニメ店やメイド喫茶は雑居ビルに多く入居する傾向がみられ,アニメ系の店舗の中でも立地傾向は二極化している。4.考察 大手流通企業によるチェーン展開が進む中,国内外で商業空間の均質化が進行しているが,固有の景観的・機能的性格を有していた秋葉原地区においても,駅近辺・表通りに立地する大型店ではチェーン化が進行したのに対して,裏通りなどに多い雑居ビルでは同地区特有の性格が強化され,空間的性格が二極化している。家電街からパソコン街,パソコン街からアニメ街への変容の際には,駅近辺や表通りに立地する大型店でこれらの新しい業種を取り扱ったことが,同地区の業種変化をもたらしたが(牛垣2012),2006年から2013年にかけての変化はこれと異なる傾向をみせている。 これは,同地区がこれまで小売業中心の商業集積であったのが,飲食・サービス業の割合を高めていることとも関係があると考えられ,その点においても大きな変化といえる。また,第二次世界大戦後のラジオ店から家電・パソコン関係と,電子部品を扱い技術的な知識が要求される業種であったのが,アニメ化によってそれが不要となったことで,同地区に同業種が集積する必要性が減じたといえるが(牛垣2012),メイド喫茶などの集積によりこの傾向が更に強まったといえる。
著者
村山 良之 笠原 慎一郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100244, 2015 (Released:2015-04-13)

東日本大震災の経験を踏まえて,文部科学省は,2012年『学校防災マニュアル(地震・津波災害)作成の手引き』と2013年『「生きる力」を育む防災教育の展開』(1998年度版の改訂版)を学校現場に向けて提示した。これらはそれぞれ,学校の防災管理と防災教育の充実,向上を学校に求めた文書である。   学校の防災管理 大津波による被災や避難所での混乱を経験して,学校の防災管理の改善が急務である。上記の文部科学省(2012)は,これを踏まえたもので,各学校の防災マニュアル改訂の指針となるべきものである。これを基に,複数の教育委員会がマニュアルの「ひな形」を作成,提示している。標準的なマニュアルを基にして(適宜複製,改変して)各校のマニュアルを作るのは,「諸刃の剣」である 。 鶴岡市教育委員会は2012年度から防災教育アドバイザー派遣事業を行い,村山が指名された。その初年度は,鶴岡に関連するハザードと土地条件,および文部科学省(2012)等をテキストにマニュアル作成に関する内容の教員研修会を4回開催した。しかし,年度末に各校の防災マニュアル(相当の文書)を収集したところ,一部の学校で充実した改訂・策定が行われていたものの,多くの学校はまだまだであることが判明した。そこで,現職教員院生を含む発表者らは,宮城県教育委員会の了承を得て,宮城県教育委員会(2012)を下敷きにして,鶴岡市版を作成し,2013年度末に各校に配信した(鶴岡市教育委員会,2014)。これらの最初に,各校がマニュアル作成の前提となるべき事項を確認,整理するための頁を設定した。担当教員がもっとも苦労する頁になるかもしれないが,「自校化」の鍵と思われる項目群である。この頁の作成作業を,少なくともその確認を,校内の全教員でされることを望みたい。「諸刃の剣」であることを少しでも避けるための工夫である。(山形市版作成も進行中) 学校防災マニュアルは,改訂を継続することが必要であるし,実際場面では即興的な逸脱があり得ることも心しておくことが必要である。これらも,東日本大震災の教訓である。学校の防災教育 児童生徒に身近な地域の具体例を示したりこれを導入に用いたりすることは,学校教育においてごく日常的に行われていることである。自然災害は地域的現象であるので,学校の防災教育においては学区内やその周辺で想定すべきハザードや当該地域の土地条件と社会的条件を踏まえることが必要であるし,これによって,災害というまれなことを現実感を持って理解できるという大きな教育的効果も期待できる。すなわち福和(2013)の「わがこと感」,笠原(2015)の「自己防災感」の醸成につながる。たとえば山形県で火山災害を学ぶには,桜島ではなく吾妻山,蔵王山,鳥海山のうち近い火山を事例とすべきであるし,地震災害ならば1964年新潟地震や山形盆地西縁断層帯等を取り上げるべきである 。山形県に限らず最近大きな自然災害を経験していない多くの地域でも,過去の災害事例や将来懸念される災害リスクには事欠かない。ハザードマップも(限界も踏まえて)活用されるべきである。 このように防災教育は,多分に地域教育でもある。ただし防災資源も提示する等して,危険(のみ)に満ちた空間と認識されることは避けるべきである。たとえば小学生の「まちあるき」では,危険箇所とともに,堤防の役割(と限界)の指摘,防災倉庫の見学,消防団や自主防災組織へのインタビュー等,無理なく可能であろう。あらためて取り組むべき課題 当該地域に関わる誘因と素因の理解は,学校の防災管理や防災教育における自校化の土台としても必須であり,さらに,東日本大震災の教訓の1つである児童生徒自ら判断の土台でもある。 ところが,学校防災を担う学校教員にとって,当該地域のハザードや素因(とくに土地条件)を理解することが難しいことが指摘されている。自然災害に対する土地条件をもっともよく示すのは「地形」である。地形は地表面の形状であるから,わかりやすいはずであるが,そうは思われていない。国土地理院のウェブサイトから,容易に複数の地形分類図(土地条件図,治水地形分類図,都市圏活断層図等)にアクセスできるようになった。これと国や自治体が公表している各種ハザードマップを組み合わせることで,より的確な解釈が可能となる(はずである)。 地域と学校の実態に即した学校防災マニュアルの作成や改訂,防災教育の教材やプログラムの開発と実践が求められている。地理学研究者,地理教育学研究者は,学校教員と共同でこれに当たるまたはこれを支援すべきと考える。また,学校現場の教員や教員を目指す学生に,これを可能にするための,地球科学に関する基礎的な内容を含む研修や大学での授業が必要と考える。
著者
和田 崇
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100015, 2012 (Released:2012-09-14)

近年,漫画やアニメ,ゲームを始めとする日本のコンテンツが海外で注目されるようになり,日本政府もこれを踏まえるかたちで,日本独自のコンテンツを海外に積極的に発信する「クールジャパン」戦略を展開してきた。一方で,日本国内においても,地方の自治体や経済団体などが漫画やアニメ,映画などのコンテンツを活用した観光振興や文化振興に取り組む事例が増加している。本発表では,日本におけるコンテンツを活用した地域振興活動について,その発展要因と活用パターンを概観する。 コンテンツを活用した地域振興活動が活発となってきた要因(背景)として,製作者と消費者,地域それぞれの環境変化を指摘できる。コンテンツの製作者は,デジタル化に伴って情報の編集・複製が容易になったこともあり,リスク削減と収益拡大のために,コンテンツの二次使用を積極的に行うようになり,地域もメディアの一つとみなされるようになった。また制作に当たり,新たなストーリーやロケーションを地域に求める動きも活発となってきた。消費者は,メディアごとにコンテンツを楽しむ従来からの消費形態に加え,インターネット上でコンテンツをめぐるコミュニケーションを楽しむという形態が確立した。その一方で,コンテンツゆかりの場所やリアルに再現される場所を訪ねることにより,コンテンツをより深く味わおうとする行動もみられるようになってきた。 各地域の自治体や経済団体などは,地方分権が進展する一方で,地域間競争を勝ち抜くことが求められるようになり,地域資源を活用した地域の個性化・魅力化に取り組むようになった。その際,手軽に制作あるいは活用可能な資源としてコンテンツが注目されるようになった。 コンテンツを活用した地域振興活動にみられるコンテンツと地域の関係については,3つのパターンを見出すことができる。第一は,歴史や風景など場所の持つ力がコンテンツに組み込まれている点である。それによって,製作者はコンテンツの魅力を高め,自治体や経済団体などは地域の魅力を発信している。第二は,地域がキャラクターの新たな活動場所となっている点である。それによって,製作者は二次使用の機会を広げ,自治体や経済団体などは地域や商品の知名度向上とブランド化に結びつけている。第三は,地域がコンテンツ消費者のライブ体験,購買,交流の場所となっている点である。