著者
井口 梓
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100150, 2012 (Released:2013-03-08)

高度経済成長以降の日本では、都市部への人口流出が進んだ。1970年代の都市部には幼少期を農村地域で過ごし、大学進学や就職を機に上京する若者が急増した。この時期における農村へのUターンという行為は、「都市での挫折」を想起させる場合もあった(山田1992)。しかし、1980年代には農村回帰を志向する都市住民があらわれ、農村に都市住民が移り住む現象を「田舎暮らし」と称し、次第に様々な雑誌やテレビ番組を通して、社会現象として取り上げられるようになった。「田舎暮らし」という現象はいつから生じ、都市住民のイメージする「農村での暮らし」はどのように変化したのか。本発表は、都市住民の農村移住、とくに「田舎暮らし」というキーワードに着目し、その実態と変化を検討することを目的とする。本発表では、新聞記事、雑誌『田舎暮らしの本』などメディアによるイメージの形成や、民間企業による商品造成、自治体による移住促進事業など、「田舎暮らし」をめぐる様々な動向を踏まえ、以下の4つの時期に分けて検討した。。1983年に「田舎暮らし」という言葉が用いられるようになった当初、その暮らしぶりは、都市的要素を極限まで排した原始的な農村生活と、有機農業に従事した生活設計が追求されていた。有機農業や自給自足、農地や家屋、生活財の手作りにこだわるライフスタイルは、現在の「田舎暮らし」でも志向されており、都市とは対極の存在として「田舎」を認知する農村観は、30年経過した現在も変化していない。バブル経済期や2007年問題など、社会の大きな変動を背景として、「リゾート」や「グリーンツーリズム」、「農村回帰」、「団塊世代」、「エコ」、「ロハス」など、その年々の流行を取り入れつつ、「田舎暮らし」のイメージは著しく変化してきた。そこには、「田舎暮らし」をあっ旋する民間企業や情報発信するメディア媒体、支援事業を実施する行政、受け入れる地域社会、移住者自身など、様々な主体の思惑や価値観が存在し、これらがせめぎ合うことで、それぞれの時代に適合した「田舎暮らし」を商品化してきたことが明らかとなった。
著者
米家 志乃布
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.95, 2010

本報告では、モスクワ・サンクトペテルブルク・イルクーツクでの史料調査をもとに、シベリア・ロシア極東における植民都市の建設の状況、各都市を対象とした都市地図を概観し、シベリア・ロシア極東における20世紀前半の近代都市地図の特徴について考察することを目的とする。 モスクワのロシア国立図書館(РГБ)の地図室には、ロシア各地の地図が地域別に分類されており、最近のものまで各種揃っている。そこで、1900年代前半を中心に、当該期において東シベリアの中心都市であったイルクーツク、ロシア極東の主要な植民都市であるウラジオストク・ハバロフスク・ブラゴベシチェンスクで出版された地図を、地図室内の目録で検索して閲覧・撮影した。また、サンクトペテルブルクのロシア国民図書館(РНБ)の地図室においても地図を閲覧した。ここではモスクワと同様の地図が複数確認された。しかし、地図の撮影は許されておらず、閲覧のみであった。イルクーツク大学付属学術図書館も地図の撮影は禁止、閲覧のみであった。帝政時代におけるイルクーツクの都市計画図や都市図など多くの地図資料の所蔵が確認できた。 地図の発行主体は、帝政期においては「市参事会」の発行であるケースが多かった。つまり、都市行政を担う役割の組織が、都市地図も発行していた。しかし、実際の測量、土地の区画設定や各土地の価格などの実質の土地管理は軍が行っていたと思われる。都市地図内部に軍事区域が描かれている場合と描かいていない場合があるものの、特に極東の3都市(ウラジオストク、ハバロフスク、ブラゴベシチェンスク)をみる場合、ロシアにとって「東方を征服する」ための軍事拠点であることが地図作製のコンテクストを考えるうえで重要である。軍の外部に公表しても構わない情報のみ、印刷地図として発行され、一般の市民(移民など)に公表されていたと推測できる。1922年の日本軍のシベリア撤退以後は、ソ連政府の管轄のもとで都市の復興を行う必要からも、さまざまな整備が急速に行われたことが予想できる。そのなかで、都市地図が一般向けに作製され、発行されたのであろう。1920年代頃の作製である都市地図は、いずれも地図の周囲に広告が掲載されていることに特徴がある。しかし、帝政末期のように、軍事施設の記載や中心部をとりまく周囲の開発地域の記載はなくなり、その部分を覆い隠すように各種広告が存在することが特徴である。東シベリア総督府があったイルクーツクは、極東の3都市に比べて、20世紀初頭においてはすでに都市内部のさまざまな施設の建設がすすんでいた植民都市であり、同時期の極東の都市地図に比べると、都市地図としても大型であり、中心部の周囲にある建設・開発可能地域の情報が詳細である。しかし、基本的には都市地図の作成状況は極東と同様である。 ロシアで作製された大縮尺の地域図を考えるうえでは常に描かれていない情報、隠されている情報を推測する必要がある。地図史研究でいう「沈黙」の論理を考えていくことが重要であろう。帝政末期~ソ連初期における各地域の軍事施設に関する情報は、軍事史文書館など別機関での史料調査を今後の課題としたい。
著者
黄 璐
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

<p>2016(平成28)年熊本地震では,震度7を2回記録する地震が発生し,熊本市全地域における住宅は多くの被害を受けた.被災地の生活を再建するに当たり,住宅再建は重要な課題の一つである.そのため,2016年4月以降に発生した熊本地震における地域コミュニティの被害と復興過程について検討してきた.とくに被災地の中,住民主導による速やかに生活が再建できた東無田集落を対象にし,主体間の関係性を着目しながら,復興の主体の関係づくりはいかに震災復興に影響したのかを分析することを目的とする.</p><p> 本報告は,熊本地震による被害の概要を振り返ったうえで,熊本地震の被災地で見られた地域コミュニティが地震直後からどのように生活を再建したのか,また,長期的な復興過程でどのように他の復興主体と関係づくりをしたのかについて検討しながら,地域コミュニティの自主行動にみられる主体性,とりわけ状況に応じて臨機応変にとられた行動について検討した.</p><p> そこで,まず行政,マスメディア,外部支援者など関係当事者が,被災地住民を支援する体制を表現する枠組みとして提起された「減災の四面体モデル」を援用し,この四つの関係当事者を災害復興の主体として主体関係を考察する.また,災害から復旧・復興の過程についての古典的なモデルに基づき,震災復興過程を①生活・住宅再建期,②復興主体形成期,③復興課題解決期3つの期間ごとに分析した.さらに,住民主導型災害復興に着目しながら,各段階の主体行動と関係性から震災復興における主体関係性とその形成要因を明らかにした.</p><p> 対象地域(東無田集落)の被害状況は以下の通りである.①集落全体の住宅被害が顕著し,約7割以上は全半壊を受けた.②集落住民の7割は高齢者であり,自力再建世帯は約60戸であった.③仮設住宅入居数は76戸中192名であった.集落の復旧・復興のために,どのように自発的に取り組んでいるのかとその効果,これらの活動を通して,他の主体との間にどのような関係を構築したのかを明らかにするため,2020と2021年に復興と関わる重要な人物と集落住民に向けた聞き取り調査とアンケート調査を実施した.</p><p> その結果として,東無田集落の復興特徴は以下の3点が挙げられる。①生活再建期(2016年4月-2016年6月):この期間は,独自のボランティアを受け入れた集落住民は外部支援者との双方向関係が構築することができ,ボランティア団体の作業効率化したうえ,集落の住宅解体作業が他地区よりも相対的に早く進んだ.②復興主体形成期(2016年-2017年2月):この時期は,東無田復興委員会の活躍を通じて,集落住民が復興の活動に主体的に取り組み外部から来る人々との交流を通じて主体性を回復させ,復興を自らの問題として取り組む時期である.とくにインターネットの活用,マスメディア団体を依頼と東無田独自の災害スタディーツアーなど積極的な活動を通じて,集落住民・復興組織とマスメディアとの双方向関係を促進できた.このような外部との交流の事業化は,外部へ発信しながら,積極的に行動を起こす住民の存在特に高齢住民の生きがいを発見しながら,集落と外部の関係だけでなく,集落内部関係も緊密に結びつけた.このような関係づくりはその後の復興課題の解決に多大な影響を与えた.③復興の課題解決期(2017年-2019年10月):この時期は,住民を主体としてまちづくり協議会と連動し,復興の目標を実現するための活動時期である.その典型例としては,災害公営住宅の建設問題について,協議会と意識高い住民を中心として展開より意識的課題解決に向けた能動的活動を行い,成果を取得した.さらに,この段階には行政との関係は以前の単一関係から双方向関係へ進化したことも明らかになった。</p><p> 主体性の立場から対象地域の復興過程の全体像を捉えるうえで,主体関係性からみた震災復興過程の地理学視点は次の3点が有効である.第1に,平時からの住民自治によるコミュニティづくりの取組が,住民同士の間,住民と行政または他の主体との信頼関係を築くことに有益である.第2に,地域住民は他の主体間の双方向関係は地域の復興効果を高めていると推測できる。特に本報告の場合,住民と外部支援者・マスメディアと支援したり支援されたり双方向関係の支え合い関係が災害復興に強い地域社会をつくることと繋がっている.また,住民主体的な復興といっても,行政や他の主体の役割も大きい.第3に,住民内部の相互関係づくりが震災復興の前提となり,住民主体の内発的意識と行動を呼び起こす中心人物が重要であることが指摘できる.</p>
著者
野上 道男
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

中国史書によれば2世紀末に倭国に「乱」があり、それを契機に卑弥呼が国王に共立された、という.日本の歴史における古代はここに始まると見て良いであろう.結論を先にすると「倭国乱」は冷夏による2年続きの飢饉で起きた社会不安と食を求める民衆の流浪が実態であり、戦乱ではない.冷夏の原因はタウポ火山(NZの北島)の大噴火である.<br> 以下の項目について、検証した(ここでは内容の詳細は省略).<br>1)氷床コアの記録: 2)中国史書の記録:3)古事記・日本書紀の記事:<br> 崇神7年は豊作だった.豊作で2年続きの「疾疫」が治ったのであるから、それが栄養失調症であったことをうかがわせる.さらに崇神12年の条には天皇が回顧して言う言葉の中に「寒さ暑さ序を失えり.疾病多に起こりて、百姓災を蒙る」とある.つまり疾疫が農と関係する栄養失調症であり、その原因は異常気象であったことがさらに明確に述べられている.<br> 伝染病の大流行によって土地を捨てる流民は発生しないだろう.食を求めて「百姓流離」と解釈する方が自然である.魏志韓伝の同時代にも、後漢が植民地支配していた楽浪郡の郡県から韓人の流民が起こったとの記事がある.中国の黄巾の乱(民衆蜂起)や流民の発生は凶作飢饉が原因である.民衆は課税の対象である水田を捨て、冷夏に強いドングリなどの果実が豊富でヒエ・アワなら稔る落葉広葉樹林帯に疎開したのであろう.<br> 非農業人口が多く稲作依存率が高い地方(弥生時代の先進地域、すなわち九州地方北部)ほど冷夏飢饉の影響は深刻だったはずである.クラカタウ火山大噴火による宣化元年(536年)の飢饉の際にも、各地の屯倉の米を那の津(博多港)の倉庫に集めるよう、勅令が出されている.
著者
神田 孝治
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

<B>Ⅰ. はじめに</B><BR> 近年,映像メディアの撮影地を訪れて映像の世界を追体験する、フィルム・ツーリズムが注目を集めている。こうした観光が既存の観光地を舞台とする場合、映像メディアによる同地の空間表象は、それまで魅力を生じさせていたものと必ずしも同じではない。本研究では、映像メディアによってかつてない新しい空間表象が観光地にもたらされた場合、現地の地域社会がどのように反応するのかについて、映画『めがね』の舞台となった与論島と、アニメ『ひぐらしのなく頃に』の舞台のモデルとされる白川郷を取り上げて検討する。<BR><B>Ⅱ.映画『めがね』と与論島</B><BR> 与論島は、沖縄本島の北方約23kmの距離にある、周囲約21.9kmの小さな島である。この地は、1953年から1972年の沖縄本土復帰まで、南西諸島における日本最南端となっており、1970年前後にはサンゴ礁と美しい海の観光地として人気を博した。かかる観光ブーム時の与論島は、若者にとっての「自由」の島、「恋愛」の島であるとされ、ある週刊誌ではそこを奔放な性の楽園として描き出した。そうした与論島の空間表象や、それをもとに展開される若い観光客たちの実践は、地域社会の大きな反発を招いた。しかしながら、沖縄観光の本格化などを背景に、1979年をピークに観光客が漸減するなかで、次第に観光客と地域社会の対立は表面化しなくなっていった。<BR> 2007年に公開された映画『めがね』は、この与論島をロケ地としており、そこに新しいイメージを付与している。「何が自由か、知っている」をキャッチコピーとする同映画は、都会から南の島にやって来た女性が、いわゆる観光をするのではなく、何もせず「たそがれる」という内容になっている。この映画は、1970年代の観光ブーム時と同じく、与論島に自由のイメージを喚起する。しかしながらその表象は、男性にとっての性的な楽園から、恋愛等をせずにゆったりとした気持ちでたそがれるという、特定の働く若い女性にとって魅力あるものへと変化している。こうした映画に対して、与論島の住民から反発の声を聞くことはない。そうしたなかで、地元の観光協会は、製作会社の意向や自分で情報を探して来島しようとする観光客の性質などから、大々的に観光宣伝を行わない方針をとっているが、時間が経過するなかで、映画『めがね』を観光に活用する取り組みを着実に進展させている。<BR><B>Ⅲ.アニメ『ひぐらしのなく頃に』と白川郷</B><BR> 白川郷は、1995年に世界文化遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」に登録され、観光地として人気を博している地域である。1994年に日帰り宿泊計約67.1万人であった観光客は、2009年には約173.1万人にまで増加している。同地は近年、観光パンフレット等において、しばしば「日本の原風景」と表象されている。<BR> この白川郷は、2006年に公開されたアニメ『ひぐらしのなく頃に』の舞台のモデルであると考えられたことから、惨劇の村・雛見沢という新しいイメージを喚起することになった。雛見沢のイメージは、のどかな日本の原風景と、その裏に存在する隠された惨劇の村という両義的なものである。かかるイメージを消費する観光客は、世界遺産としての白川郷を訪れる人々とは異なる特徴を持っている。そうした観光客は、主として2~3名グループの若い男性で、多くがインターネットで情報収集し、しばしば白川郷のガイドマップを改変して作成された雛見沢の地図を持参して、アニメで登場したと考えられるポイントを見物するのであり、場合によってはアニメキャラクターのコスプレをしている。<BR> 地元の観光協会は、先の与論島の事例と同じく、こうした観光客の性質上、積極的な宣伝を行わない方針をとっている。しかしながら、住民の反応は大きく異なり、一部で許容する声があるものの、アニメの内容やこうした観光客に対して嫌悪感を抱き、そのイメージが白川郷にふさわしくないと考える住民が存在する。こうしたなかで、白川郷においては、同アニメを活用した観光振興の動きを確認することができない状態にある。
著者
淡野 寧彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.94, 2005

_I_.研究の視点と目的 戦後の畜産物消費の増加とともに,日本の養豚業産地は発展を遂げてきた。しかし,近年の食品流通のグローバル化や食品の輸入自由化が進むなかで,国内の養豚業にとって海外産地との競合は避けられない状況にある。一方で,BSEや鳥インフルエンザの発生,産地表示の偽装といった畜産物の生産や流通に対する消費者の不信感から,食品の安全性を重視する消費者ニーズなども発生している。こうした問題に対し,国内の養豚農家や豚肉を取り扱う食肉業者などは,事業の合理化や再編成,あるいは新たな事業展開を行わねばならない状況にある。 本研究では,上記のような養豚業を取り巻く課題への産地の対応として,高付加価値食品による商品の差別化に視点をおき,特に近年,全国各地で着手されている銘柄豚の生産・販売に着目して検討する。事例地域として,大消費地を抱える関東地方において,著しい飼養頭数の増加が起こり,かつ,現在,銘柄豚の生産が行われている茨城県旭村を選定した。_II_.関東地方における銘柄豚生産・販売の類型 『銘柄豚肉ハンドブック 改訂版』に記載されている銘柄豚のうち,関東地方において養豚農家によって生産が行われている銘柄豚43種類を取り上げた。これらは実施主体の性格から,大きく3つに分類できる(右図)。特にこのなかで,近年の銘柄豚生産・販売の性格を有するものは,「農協主導型」と「個人主導型」のなかでも複数の出荷先を持つ「複数取引系」である。_III_.銘柄豚の生産・販売の実態と課題 _-_茨城県旭村の事例から_-_ 茨城県旭村は,全生産額に対する第1次産業の割合が約50%を占める農村地域で,メロンや甘藷栽培とともに養豚業も発展している。旭村では,今日,「農協主導型」の属する「ローズポーク」と,「個人主導型複数取引系」に属する「はじめちゃんポーク」の生産が行われている。旭村でローズポーク生産にたずさわるのは,農協に出荷する養豚農家6戸のうち3戸であり,そのなかには母豚55頭という小規模な経営の農家も含まれる。ローズポークの生産・販売には,農協によって生産方法や生産農家,流通経路,販売店が指定され,高付加価値食品を供給する独自の枠組みが構築されている。しかし,販売される地域が限られ,販売量も伸び悩んでいる。一方,「はじめちゃんポーク」の生産・販売では,母豚5000頭を飼養する極めて規模の大きい養豚農家が銘柄豚生産に着手し,出荷された肉豚は複数の食肉業者によって関東地方一円に流通している。しかし,銘柄豚生産農家は流通や販売に直接関わっていないため,銘柄豚として販売されるかどうかはそれぞれの食肉業者の対応に左右されがちである。_IV_.関東地方における養豚業存立にとっての銘柄豚の意義 関東地方における銘柄豚生産の大部分は養豚農家によって行われており,個々の養豚農家が自らの経営方針のなかで生産に着手している。このことは,これまでにも指摘されてきた,農家を中核とする養豚業が現在も存続していることを意味している。その一方,流通や販売の面では,農家や食肉業者,農協,販売店などの間での結びつきが弱いために,銘柄豚による商品の差別化が十分行われていないことが明らかとなった。
著者
和田 崇
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.17, 2010

日本の観光は近年,物見遊山,団体客,発地型,一過性,通過型などを特徴とする形態から,体験・交流,個人客・小グループ,着地型,持続性,滞在型などを特徴とする形態へと変化してきた。これらの新しい観光は,「見る」「食べる」といった従来からの目的に加え,「体験する」「学ぶ」「癒す」「追体験する」という目的も顕在化している。このうち,「追体験する」ことを主目的とする旅行形態として,小説や映画,テレビ番組,歌,漫画,アニメなど,メディアを介して記録・伝送・鑑賞される映像や画像,音楽,文章などのコンテンツに関わる場所を訪ねるコンテンツ・ツーリズムが盛んになりつつある。本発表では,コンテンツ・ツーリズムの一つとしてアニメキャラクターを活用した観光をとりあげ,鳥取県境港市と同北栄町を事例に,自治体や地元企業,市民・NPOなどの関係機関が観光地づくりにどのように関わっているかという点を中心に報告する。すなわち,2つの事例について,アニメキャラクターを活用した観光まちづくりの実態を報告するものである。 アニメキャラクターを活用した観光まちづくりは,コンテンツの種類および地域との関わりという2つの視点から,いくつかのパターンに分類できる。コンテンツの種類からみると,アニメは商業系アニメ,芸術系アニメ,自生系アニメの3つに分類できる。また,地域との関わりからみると,題材型,ゆかり型,機会型の3つに分類できる。 鳥取県境港市は,漫画家・水木しげる氏が育った地であることに着目して,水木氏の代表作品である「ゲゲゲの鬼太郎」を活用した観光まちづくりを推進している。1992年から商店街(水木しげるロード)に「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪などのブロンズ像を設置したほか,鬼太郎列車の運行(1993年~),水木しげる記念館の運営(2003年~),各種イベントの実施などにより,水木しげるロードへの入込客数は1994年の約28万人から2008年には約172万人へと大幅に増加した。取組みの中心的役割を果たしたのは,当初は境港市役所であった。その後,商店街にブロンズ像が設置され,集客効果が実感できるようになると,鬼太郎音頭保存会(1996年),水木しげるロード振興会(1998年)など市民活動団体が組織されたほか,境港市観光協会や境港商工会議所も妖怪そっくりコンテストや境港妖怪検定,妖怪川柳コンテストなどユニークなイベントを主催した。また,水木作品(漫画およびその原画)の著作権を保有する水木プロダクションが,水木氏ゆかりの境港市のまちづくりに協力的であったことも,市内の各主体による取組みを後押しした。例えば,水木プロダクションはブロンズ像や記念館展示物のキュレイションを担当したほか,市内事業者が関連グッズを開発する際の著作権使用料を減免するなどした。 鳥取県北栄町は,「名探偵コナン」の原作者・青山剛昌氏が同町出身であることに着目し,1999年から「名探偵コナンに会える町」づくりを推進している。具体的に,1999年にJR由良駅と国道9号を結ぶ県道を「コナン通り」と命名し,7体のブロンズ像を設置したほか,2007年に青山氏の作品や仕事ぶりなどを紹介する「青山剛昌ふるさと館」を整備した。同記念館の入館者数は年間約64,000人(2008年)である。北栄町の取組みは,旧大栄町商工会が提案した「コナンの里」構想をきっかけに,旧大栄町役場が地域振興券に名探偵コナンをデザインしたことに始まる。その後も旧大栄町(2005年から北栄町)が名探偵コナンを冠したイベントを開催したり,観光プロモーションを展開したりした。活動が進展するに従い,町民の活動に対する認知度と参加意欲が高まり,2000年にはコナングッズを販売する「コナン探偵社」が町民有志によって設立された。北栄町では,町役場が漫画の著作権者である小学館プロダクションとの交渉を担当している。小学館プロダクションは,作品のイメージ保持と適切な著作権管理の観点から,著作物使用協議を慎重に行うほか,ふるさと館での展示方法や接客方法について北栄町役場に対してきめ細かく指導している。しかし,こうした慎重な協議ときめ細かな指導は,北栄町にとって時間的・精神的な負担,迅速な観光プロモーションへの障害となっている面があることも否めない。
著者
天野 宏司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

埼玉県秩父市では,アニメーションを積極的に活用し旅客誘致をはかるため秩父アニメツーリズム実行委員会を組織している。2010年には『銀河鉄道999』を,2011年には『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』を活用し,誘客に効果を上げた。本報告は,この実行委員会の一員として知り得た事情を含め,コンテンツツーリズムの成果と課題を報告する。
著者
平塚 延幸
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.245, 2013 (Released:2013-09-04)

【調査目的と問題意識】谷川岳一の倉沢にモレーンが存在するとして、氷期に氷河が存在したと推定されている(小疇・2002)。侵食営力・運搬作用と堆積物は整合性があり、侵食地形の実態から下流部の堆積物の性格も明らかになる。本地域での雪渓消長後、基盤上の侵食作用の状態を観察調査した。【調査および調査地域の概要】谷川岳一の倉沢本谷の堆雪域は3地域に分類できる。①本谷滝沢下部②本谷二の沢合流部③テールリッジ末端周辺。調査地域は③を対象とした。一の倉沢に氷体が存在したとするならば③の地域はその影響があると考えた。【調査結果】(a)烏帽子スラブ及び衝立スラブはアバランチシュートであり全層雪崩により形成される(下川・1980)。各スラブはシーティング(金子・1972)が明瞭で条痕は見られない。衝立スラブと衝立沢間のリッジ末端は全層雪崩・積雪グライドの影響による鈍頂山稜がある。(b)衝立スラブと衝立沢合流部は地形変換点を形成し雪崩堆積場となる。河床にはいくつかのポットホールが存在する。河床には研磨痕はみられない。(c)テールリッジ末端はシーティングが見られ、雪渓(残雪)グライドが卓越するスカート状の露岩斜面が広がり本谷に接する。本谷には滝壺上部が水流侵食で深掘りされた変形ポットホールがみられ、雪渓(残雪)滑りと圧力による水流変換と高圧水流が考えられる。(d)本谷縦断形は急斜面が垂壁で河床へつながる場合と、急斜面が水流研磨面に移行する場合とに大別出来る。河床に節理に制約されたポットホールが存在し、水流研磨平滑面を形成する。水流研磨面に擦痕はない。(e)平滑斜面を作った水流は、右岸からの小リッジをけずり込み滝窪を作る。リッジ下流側は水流と雪渓グライド両営力により磨かれた羊群岩状地形を形成する。(f)V字状に狭まった場所に滝中腹が水流で岩盤が丸く削り込まれて、水流が空中に舞う滝がある。同様な微地形がいくつか存在し水流の落ち込み位置が変化することがわかる【調査結果のまとめ】(1)アバランチシュートは、シーティングの影響を受け、全層雪崩および水流による研磨が卓越し、三日月型などの氷食痕(岩田・2011)は見られない。(2)アバランチシュートに挟まれたリッジは平坦化作用を受けているが、現在でも全層雪崩や積雪グライドの影響化にある。(3)雪渓消長時期に対応した雪渓グライド作用が斜面に見られる。(4)本谷の縦断形は、雪渓グライド影響下の斜面→岩屑剥離が卓越した岩角の目立つ垂壁→水流研磨による河床という変化と、斜面から河床への移行という二つの形態をとる。水流研磨斜面や雪渓グライド卓越斜面には、氷河研磨痕や氷河擦痕などは確認できなかった。(5)水流は節理に影響されて曲流し、またポットホールを作る。水流研磨によるスプーンカット状微地形が見られる。これらは雪渓・積雪の圧力による水路変換・高水圧を受けた結果と考えられる。 谷川岳主稜線には化石周氷河性平滑斜面・化石雪窪が広がり、16000年以前には、それらは標高1300-1400mに位置していた(高田・1986)。周氷河性地形の標高低下は標高1000m付近の谷地形に影響を及ぼしたに違いない。一方、日本の多雪化は12000年以降に始まり7000年には完了した(小泉・1982)と言われる。今回の調査では、一の倉本谷には顕著な氷河侵食の作用は見られない。これらをどのように解釈するか、上流部の調査を含めて課題が残されている。
著者
ラナウィーラゲ エランガー
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.165, 2010

人間とゾウの競合(Human Elephant Competition -HEC)は、人間社会とその経済・文化生活、およびゾウの保護活動と環境に対し悪影響をもたらす、人間とゾウとのあらゆる関わり合いと定義されている(IUCN-SSC 2007)。スリランカでは、人口増加とそれに伴う居住地の拡大、および農地開発による森林減少によってゾウの生息地が失われたことで、HECが発生するようになった(Gunaratne & Premarathne 2006)。スリランカの野生生物保護部局によると、HEC によって年間約 150頭の ゾウが死んでいるといわれている。同様に、年間30 人から50 人のヒトが死亡していると推定されている。<BR> 本研究では、スリランカの中央州における人間とゾウの競合の諸相を把握し、農業活動とゾウによる被害の関係とそれを生み出す地域の性格を明らかにすることを目的とする。<BR> スリランカの中央州は人口 2,423,966 で、スリランカで2 番目に人口の多い州である。18世紀半ばから、茶畑とコーヒーの栽培農場、あるいはその他の開発のために山林の伐採が進み、その結果、スリランカの野生のゾウは中央州のほとんどの地域で絶滅してしまった。一部の地域で残存する野生のゾウは生息地をめぐって人間と競合している。人間とゾウの競合関係を明らかにするため、本研究は中央州のマータレ(Matale)地域のピデュランガラ(Pidurangala)地区という農村地域を対象地域とした。この地域では、野生のゾウの正確な生息数は不明だが、およそ150頭から200頭のゾウが生息しているといわれている。そして、ピデュランガラ(Pidurangala)地区の人口と世帯数は565と176である。<BR> ピデュランガラ(Pidurangala)地区には雨季と乾季に基づく特有の農地の利用パターンがある。農家は雨季には水田で米を栽培し、乾季には焼畑農業を行って野菜を栽培していた。しかし、1990年にサンクチュアリや生物保護区となった以降、焼畑農業が禁止されたた。そのため、農家は自宅の庭や敷地内(ホームガーデン)で野菜を栽培するようになった。<BR> この地区にけるゾウによる被害は農作物被害・家屋損害・人身事故という3つのカテゴリに分けられる。その中でも農作物被害が最も多く起こっている。農作物被害は米と野菜の収穫時期に多く発生している。家屋損害は収穫されたばかりの米が多く貯蔵されている時期に集中している。ゾウは米が貯蔵されている家屋を襲い、家屋の一部に貯蔵されている米や野菜を食べようとして、家屋を破壊する。それ以外にも、ホームガーデンで野菜を栽培するようになってからは、ゾウが野菜などの作物を狙って来るようになり、ゾウの襲来とともに家屋被害が起こるケースも多くなった。農作物被害と家屋損害に関連した人身事故の発生件数は少ないが、2009年に2人がゾウに襲われて死亡した。<BR> 人間による農業活動のパターンとゾウの被害は、密接な関係にあることがわかった。ピデュランガラ(Pidurangala)地区は人間の居住地・農業地であると同時に、ゾウの生息地としても重要な地域である。そのため、HECを軽減させる方策の検討が急務となっている。今後は、HECを軽減させるための方策の検討の一つとして、ピデュランガラ(Pidurangala)地区の住民がゾウの生態をどのように認識しているかを明らかにし、ゾウとどのように共存するのかを検討することが重要である。
著者
黒田 圭介 宗 建郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

Ⅰ.はじめに <br>「ゆるキャラ」は「ゆるいキャラクター」を略したもので,主に地域情報のPRに使用される着ぐるみのマスコットキャラクターである。ゆるキャラは,その名前・デザインともに地域の様相を簡潔に反映したキャラクターである場合が多く,例えば2016年ゆるキャラグランプリで総合1位を獲得した高知県須崎市のPRキャラクター「しんじょう君(名前の由来は同市を流れる新荘川より)」の風貌は,同市に生息していた「ニホンカワウソ」をデフォルメしたものであり,頭には同市名物「鍋焼きラーメン」を模した帽子がかぶせられている1)。このようにゆるキャラは,ある地域に対して知識の乏しい第三者に,ネーミングの語感と見た目のインパクトを通して地域情報をアピール,伝達する手段として活用されていると考えられ,本発表はこれを地域調査(まちたんけん)結果のまとめ方の一例として教材化し,教員養成系学科の地理学の授業に組み込んだ教育実践の報告である。具体的には,斜陽化が進む地方都市の商店街調査を実施し,その特徴(特長)を凝縮した一体のゆるキャラ作成を義務付けて調査結果をプレゼンテーションさせた。この活動を通じて受講者(多くが小学校教員を志望)に対し,地域の特徴を見出そうとする探求心や,ゆるキャラ作成を通じて他者への伝達力を養成しようと試みた。さらに,ゆるキャラを,「まちたんけん」のまとめ(第三者への伝達手段)として利用できる可能性を学生自身に探究させ,将来の教材研究への柔軟な姿勢を育てることを大きな目的の一つとした。<br><br>Ⅱ.実施概要 <br>講義は西南学院大学人間科学部児童教育学科で隔年開講されている「地理学Ⅰ」で,例年小学校生活科の「まちたんけん」をテーマに地域調査を実施している。本年度の調査地は長崎県島原市の中心部に細長く立地する5つの商店街,北より森岳商店街(島原最古の商店街で,観光地的雰囲気が漂う),天蓋式のサンシャイン中央街と一番街,住宅と店舗が混在する湊道商店街とみなと商店街とし,それぞれ班単位で聞き取り調査やシャッター率調査等の活動を行った(2017年6月17日実施)。なお,島原市での本調査前に,学内及び大学近隣の商店街において聞き取り調査等の事前トレーニングを行っている。<br><br>Ⅲ.結果 <br>クオリティに差が出たものの,ほとんどの班は商店街の特徴を捉えたゆるキャラを作成した。しかし,みなと商店街を調査した班のみ,擬人化もすることなく,上手な鯉を描いてきた。事前指導において,ゆるキャラの概要や将来の生活科の授業でどう活かせるか等の説明はしたが,「絵の上手さより,地域(商店街)の特徴を簡潔に反映した親しみのもてる図案とすべき」旨の説明を行わなかったことに原因があると考えられ,これを反省点として次回講義へ活かしたい。<br><br>Ⅳ.学生アンケート結果(まとめにかえて) <br>最終回講義時に,本講義で行った活動についてのアンケートを実施した。ゆるキャラ作成への問いに関しては,「ゆるキャラの特徴を作るために,より注意深く調査でき,よいと思う」等,概ね好意的な意見が多かった。一方で,「自分たちが調査した商店街では元々ゆるキャラがいたので,難しかった。」や「もっと違った形でまとめる調査結果があると思う。」等の意見もあった。生活科の授業にどう活かせるかへの問いには「自分たちの学びを集約したゆるキャラという方法は,子ども達の工夫を様々にわき立てると思う(原文ママ)」等の意見があった。アンケート結果より,本講義の取り組みは,教員志望の受講者に,「まちたんけん」の調査結果のまとめの方の,新たな方法の可能性を探求させる有意義な機会になったと考えられるが,PRキャラとしてのゆるキャラの特徴を事前指導で詳細に説明しないと,単なるキャラクターデザインに終始したり,その作成自体に否定的な意見が生まれたりと,課題も多く残った。<br><br>参考Website<br>1)須崎市役所(発行年不明):「しんじょう君OFFICIAL WEBSITE」,http://shinjokun.com/,2017年7月20日閲覧.&nbsp;<br>
著者
森山 裕太 青木 久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<br><br>1.はじめに<br><br> 岩石海岸における特徴的な波食地形に波食棚がある.波食棚とは,海崖基部から海側に向かって平坦面をもち,その海側が急崖となっている地形である.波食棚の高さは,波の侵食力や岩石の抵抗力(力学的強度)などの諸要因によって規定されると報告されている.本研究では,まず静岡県須崎半島の岩石海岸に卓越する波食地形を把握する.そして恵比須島に発達する,火山角礫岩と砂岩からなる波食棚の形成高度の違いについて,岩石の抵抗力という観点から定量的に明らかにすることを目的とする.<br><br>2.調査地域の概観<br><br> 須崎半島は,静岡県下田市東部に位置する半島であり,伊豆半島ジオパーク下田エリアの一部となっている.恵比須島は,須崎半島南部の沖にある小さな島であり,須崎ジオサイトとなっている.恵比須島を調査地域として選定した理由は,(1)島の周囲には「千畳敷」と呼ばれる火山角礫岩と砂岩で構成される波食棚が発達すること,(2)それらの波食棚は近接して存在するため,作用する波の侵食力や潮汐の場所的違いが少なく,波食棚の地形と構成岩石との関係を考察しやすいと考えたためである.<br><br>3.調査方法<br><br> まず地形図の読図と現地観察に基づき,須崎半島南部に発達する波食地形を分類し,地質図を用いて,構成岩石との対応関係を調べた.次に,恵比須島に発達する波食棚を構成する火山角礫岩と砂岩の分布を調べ,地質図の作成を行った.さらに火山角礫岩と砂岩からなる波食棚に測線を設け,レーザー距離計を用いた縦断面測量を行い波食棚の形成高度を把握した.またシュミットハンマーによる岩石強度の計測を行った.<br><br>4.結果・考察<br><br> 須崎半島南部の岩石海岸は火山角礫岩,砂岩,安山岩で構成されており,波食棚の地形が卓越することがわかった.安山岩からなる海岸では,一部海食崖(プランジングクリフ)となっている海岸も存在した.<br><br>恵比須島に発達する波食棚は,火山角礫岩の波食棚のほうが砂岩の波食棚よりも高い位置に形成されていた.構成岩石の強度は火山角礫岩のほうが砂岩よりも大きな値を示した.このように力学的強度の大きい火山角礫岩の方が,砂岩に比べて波食棚の形成高度が高いという結果は,火山角礫岩の波食棚は砂岩に比べ,波によって下方に侵食されにくく,高い位置に形成されていることを示唆している.
著者
和田 崇
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.33, 2009

「セカンドライフ」は,従来のインターネット・サービスと比べて,表現の幅と活動の幅が大きく広がったとされる(山口,2007)。本研究は,「セカンドライフ」にみられる表現の幅と活動の幅の拡大が,従来のインターネット上でのコミュニケ―ションの方法や社会的ネットワークの構造や形成過程,さらにサイバースペースとジオスペースの相互関係をどのように変化させているかという点について論じることを目的とする。3D仮想空間は独自のコミュニケーション環境を持つ空間であり(山口・野田,2008),それを生み出す独自機能として,アバター,チャット,自己組織化,の3点をあげることができる。自己表現,変身願望,着せ替え人形としてアバターは,それ自体を話題にできることや文字以外に表情やしぐさで表現できることから,利用者間のコミュニケーションを活発にする働きがあるとされる。チャットはコミュニケーションの同期性は高いが,情報の蓄積性が乏しい。自己組織化とは利用者の行動と相互作用がその空間構造や社会規範を規定していくことをいう。2001年にプロトタイプが開発され,2003年6月に商用サービスとなった「セカンドライフ」では,上記に加え,仮想空間内の瞬間移動,持ち物の所有・管理,友達の設定,コミュニティの形成,土地の所有,オブジェクトの作成と著作権の付与,仮想通貨リンデンドルの付与および支給,仮想通貨リンデンドルとアメリカドルの交換などの機能・サービスが提供されている。「セカンドライフ」の利用者数は,2006年の約10万人から2007年5月には約650万人に急増した。そのうち日本人の利用者数は約4万人(2007年5月)と言われる。インターネットメディア研究所が2007年に実施した日本人の利用動向調査によると,利用者の年齢は20代後半から30代が中心である。利用者の居住地は関東地方が突出する。職業はほとんどが社会人で,しかもITリテラシーが高いと思われる層の利用が多い。しかし,継続的な利用は初期登録者の1/4程度といわれ,利用が定着しない理由として,全体像がつかみにくいこと,楽しみ方がわかりにくいことなどが指摘されている。その中で,継続的に利用するようになった者は,仮想街の見物,知人や初対面の人とのチャット,買い物,オブジェクトの作成,ダンス,イベント参加など,様々な方法により「セカンドライフ」で長い時間を過ごしている。また,日本人や日本企業の利用を支援する仮想市民ネットワークやコンサルタント企業も存在する。「セカンドライフ」は世界中からアクセス可能で,「セカンドライフ」内では国・地域の境を越えて利用者同士が仮想的に接近・接触したり,コミュニケーションしたりすることができる。そのため,ジオスペースとは無関係に思われる。しかし,次の5点において,「セカンドライフ」にも地理を見いだすことができる。第1は管理区域としての地域(「シム」)であり,設計者が設定したグリッド(緯度経度に相当)がその位置を規定する。第2は「セカンドライフ」内に形成される仮想都市の存在である。AKIBAやOKINAWAといった日本人街の形成も進んでいる。これらは仮想空間に形成される地理といえる。第3はジオスペースの地域コンテンツの発信である。自治体や観光協会などが観光情報を提供するとともに,仮想体験を通じて,集客や販売の促進に結びつけようとしている。第4は特定地域の課題解決に向けた国や地域の境を越えた協力活動である。新潟県中越地震に関する募金活動などがその例である。第5は「セカンドライフ」内での対人関係の形成とジオスペースでの地域単位でのイベント開催である。これらはジオスペースにおける地理を反映している。このように,「セカンドライフ」にみられる地理は,仮想社会(サイバースペース)と現実社会(ジオスペース)が入り交じったものとなっている。また利用者は,仮想経験とジオスペースでの行動,およびそれぞれをベースとした2種類のコミュニケーションを展開している。
著者
中村 洋介
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震はMw9.0と有史以来に我が国で発生した最大規模の地震である。同地震と同じくマグニチュード9クラスの地震であるスマトラ沖地震は、2004年12月26日に発生した本震(Mw9.1)以降、10年弱の間にマグニチュード7~8クラスの余震が10回以上発生している。&nbsp;2011年東北地方太平洋沖地震と2004年スマトラ沖地震は、プレート境界で発生した低角逆断層型の地震でメカニズムが非常によく似ている。実際に、東北地方太平洋沖地震においても2011年3月11日の本震発生以降余震ならびに誘発地震が頻発し、現在もなお地震活動が活発である。気象庁によると、東北地方太平洋沖地震が発生した2011年3月から2013年3月までの2年間の間に、同地震の余震・誘発地震とみられる地震はM4以上が5794回、うちM5以上は753回である。現在のところ、最大余震は本震から30分後に茨城県沖で発生したM7.7であるが、本震から約1ヶ月後の2011年4月7日には宮城沖でM7.2の地震(スラブ内地震)が、本震から約1年9か月後の2012年12月7日には同じく宮城沖でM7.3の地震(アウターライズ地震とみられる)が発生している。&nbsp;また、誘発地震も数多く発生しており、本震の翌日の2011年3月12日には長野県北部を震源とするM6.7の地震ならびに秋田沖を震源とするM6.4の地震が発生している。本震から3日後の2011年3月14日には富士宮付近を震源とするM6.4の地震が、同3ヶ月後の2011年6月30日には松本市付近を震源とするM5.4の地震が、同1年11ヵ月後の2013年2月25日には栃木県北部を震源とするM6.2の地震がそれぞれ発生した。これらの地域は東北地方太平洋沖地震発生以後に地震活動が活発になった地域が多く、現在もなお地震活動が活発である。以上を考慮すると、東北地方太平洋沖地震もスマトラ沖地震と同様に、今後長期間に渡って余震・誘発地震が発生すると考えられる。<br>
著者
荒堀 智彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

1. 研究の背景と目的<br>&nbsp;感染症流行の調査監視,防疫を行う際,流行状況や患者数の把握を目的として運用される感染症サーベイランスがある.日本では都道府県単位,保健所管轄区単位における広域な流行状況の把握を基本としているが,サーベイランスのみでは局地的な地域内伝播を把握することは難しい.また,重松・岡部(2008)ではサーベイランス情報には地域に関する情報が含まれておらず,ローカルな防疫戦略や,住民に提供する情報に付加価値を付与するためにも他の地理情報との結び付けが重要となると指摘している.<br>&nbsp;そこで荒堀(2013)では,和歌山県の学校施設における学級・学校閉鎖状況から,県内諸地域におけるインフルエンザの空間的拡散について,学校間距離による分析を行った.しかし,2009年9月以降を対象とした伝播のみを扱っているため,県外からの伝播経路の考察ができていない.また,インフルエンザはヒト同士の接触,移動によって感染が広がると考えられるため,環境要因として人々の行動範囲である生活圏を考慮する必要がある.和歌山県は全体の約81%が山間部で占められており,全市町村において,常住地における従業・通学者数が最も多い.そのため,生活圏内における伝播を分析することで,局地的な地域内伝播を考察することが可能であると考えられる.本研究では,2009年の新型インフルエンザパンデミックを概観し,県外からの侵入と局地的な地域内伝播について,生活圏との関係を考察することを目的とする.<br>2. 研究方法<b><br></b>&nbsp;本研究では国立感染症研究所と和歌山県による感染症サーベイランスデータ,および新聞記事資料を用いる.新聞記事資料からは,2009年シーズンにおける世界の流行状況と,サーベイランスから得ることが困難な学校施設以外の地域伝播に関する情報を抽出した.生活圏は流行シーズンに近い平成22年国勢調査従業地・通学地集計により,通勤・通学圏を生活圏として用いた.<br>3. 新型インフルエンザパンデミックと日本への影響<b><br></b>&nbsp;2009年の新型インフルエンザは,3月下旬のメキシコにおける発生を発端に,約1ヶ月の間に米国,英国,トルコなど40ヶ国・地域に急速に伝播した.流行開始直後に米国とメキシコのウィルスがA(H1N1)亜型と判定され,これを受けて世界保健機関(WHO)は6段階ある警戒水準をフェーズ5に引き上げた.最終的に6月には警戒水準をフェーズ6に引き上げており,ウィルスの感染力が強かったことがわかる.<br>&nbsp;日本においては,2009年5月上旬にカナダから成田空港に帰国した3名の感染が確認された.当初は成田空港検疫所の症例が,国内最初の症例とされていたが,国内流行開始後の調査で神戸市における発生が成田空港よりも先であったことが明らかにされている(谷口,2009).インフルエンザは潜伏期間のある感染症であるため,感染から発症までのタイムラグが関係していると考えられている.その後,5月下旬にかけて,近畿地方では兵庫県,大阪府で,関東地方では東京都から神奈川県,埼玉県で患者が確認された.和歌山県内においては和歌山市において5月下旬にハワイに渡航歴のある患者が1名確認され,7月上旬の山形県の発生をもって国内全都道府県の発生が確認された.<br>4. 和歌山県におけるローカルな伝播過程<b><br></b>&nbsp;2009年5月下旬に県内で初発例が確認された後は,6月下旬に橋本市においてタイに渡航歴のある患者が1名確認された.大阪府では6月下旬まで患者の増加が続いていたものの,和歌山県においては2例目の確認が初発例の1ヶ月後であったのは,和泉山脈を隔てた生活圏の分断の影響と考えられる.以後7月下旬までの患者数の増加は,和歌山県北部から大阪府南部への通勤・通学者から発生し,和歌山市と岩出市において高校生を中心とした集団発生が確認されている.北部の市町村のうち,和歌山市と岩出市は,泉佐野市などの大阪府南部への通勤・通学者数が多いことが要因として考えられる.7月下旬以降には和歌山市から約70km離れた田辺市において高校生の集団発生を発端とした感染者増加が確認されている.田辺市の事例は,初発患者が夏季のクラブ活動において田辺保健所管内を移動したことによる接触の影響が考えられているが,初発患者の感染経路は不明である.他の市町村では,9月以降に感染者の増加が確認された.以上により和歌山県へのウィルス侵入は関西空港を経由した渡航経験者から始まり,地域内伝播と生活圏については,北部は大阪府との通勤・通学,中南部は中心地から生活圏内の移動による影響が強かったと考えられた.<br>&nbsp;こうしたローカルな伝播過程は,荒堀(2013)による学級・学校閉鎖からみた和歌山県内の空間的拡散パターンの裏付けとなる.
著者
宇都宮 陽二朗
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1.米大統領のホ゜ートレートに見る地球儀</b> <br>初代から45代までの大統領のホ゜ートレートを通覧し、執務室に同一地球儀のないことや、それを傍にホ゜ース゛の政治家の存在を知った。Pobanz氏は地球儀を従えたHitlerの写真は皆無と答えている (Kimmelman, 2007)。ホ゜ートレートや報道写真の構図を、モテ゛ル数、相対位置、注目度、意義理解度等に着目し整理した。地球儀を伴う肖像が皆無や複数、単なるインテリアなど様々であるが、その中でTheodore Rooseveltは特異である。 <br> <b>2.</b> <b>Teddy</b><b>と地球儀</b> <b><br>1) </b><b>立ち姿の</b><b>Teddy</b> <br>LOC他のweb画像に大地球儀を従える立ち姿や椅子に腰掛けホ゜ース゛を決めたTeddyがいる。立ち姿では、地球儀を右脇にしたTeddy㋐と、左脇にしたTeddy㋑が正面を見据えている。その地平環と地平環支持枠接続部には四分円の補強飾りがある。Teddyの身長178cmから比例計算すると、地球儀の球径は80cm、高さは130~150cmとなる。画像㋐をトリミンク゛し、サイン入りでKansas City Starの一文の抜粋を加えた画像もある。 西海岸に達したこの国は19世紀後半、ハワイ、ハ゜ナマやフィリヒ゜ンを手中へと画策し、帝国主義国へ仲間入りを試みており、棍棒外交の彼のWWI参戦の論調はその延長上にある。大地球儀を従え、正面を見据えるホ゜ース゛は、他のいずれの大統領にもなく、彼が大地球儀の意義を十分に知り、引立役としたことを示す。<br>&nbsp;<b>2) </b><b>椅子に腰掛けた</b><b>Teddy</b><b><br></b>腰掛けた彼の写真はLOCの横向きと書物を左手に正面を向くホ゜ース゛、さらにFine art の2枚及びphactual.comの1枚がある。撮影日は立ち姿と異なり、3本の曲がり脚と中央支柱に縦の筋が認められる。Fine art画像のTeddyは椅子に腰掛け、事務机に左肘を、肘受けに右腕を預け、カメラ/正面を見据える。後方の地球儀に子午環と地軸、地図模様が見え、四分円の補強飾から立ち姿のそれと同地球儀と推定される。他のphactual.comの写真ではTeddyは縫いぐるみの熊を抱いている。 <br> <b>3</b><b>. &nbsp;NY Police Commissioner</b><b>時代</b> <br>spiritualpilgrim.netの写真はNY市警視総監時代(1895&ndash;1897)のOfficeで、Teddyの左手は机の引出しを掴む。事務机後方で半円が椅子の肘掛けに隠れるが、来客用椅子の背もたれ頂部飾り横材ではなく、Harvard大の回答で地球儀と確認できた。 机高、80cmとの比率から椅子の背横木の高さは121cm、背もたれの横木は114cmと算出さきる。地球儀の高さはこの横木に匹敵し、子午環の直径は52cm, 球体のそれは46cmと算出される。ただし、半円を暖炉のアーチ状焚口の枠とすれば、球体の直径は46cm以下となる。立ち姿の別写真では地球儀の高さは右肘付近にあり、身体比から、115cmとなる。これから、彼は、一地方都市のNY市警視総監職でも、相当の地球儀マニアで、執務室の肖像写真の原風景であろう。 大島大使、井上公使との総統執務室での会談やBerghofでのHelga Goebbelsや、数人と討議するHitler後方に大地球儀が写るが、筆者の捜索でも、Hitlerには地球儀を横にしたホ゜ース゛の写真はなく、地球儀を権威づけに用いなかったことが知られる。これに対し、四半世紀以上前にその意義を知り、活用したTeddyは地球儀に関する限り、メカ゛ロマニア<b><sup>注</sup></b><b><sup>)</sup></b>と見なせる。 <b><br>4.</b><b> </b><b>木工屋の修理した地球儀</b><br>&nbsp;donsbarn.comのwebpageに副大統領公式オフィスのTheodore Rooseveltの地球儀の修復記事があった。画家のJ. L. G. Ferrisが1904年に、Teddyが、床置き地球儀球面のカリフ゛海からヘ゛ネス゛エラ付近を拡げた5本指で押さえながら、フ゜ロイセン国王に抗議する様を描いている。 彼の描く地球儀の架台部分は木工屋の修復地球儀に酷似し、脚の形はほぼ一致するが、これを従えたTeddyの写真はない。絵画中の地球儀の高さと直径は彼の身長から各々、109~115cm、75~79cmと算出される。 <b><br>5.まとめ</b> <br>米国歴代大頭領のホ゜ートレートを見ると、執務室の主人毎に地球儀が異なり、皆無や複数の存在も明らかとなった。その中で、Teddy Rooseveltの地球儀の意義を知悉したホ゜ース゛は他の誰にも見られない。チャッフ゜リンのThe Great Dictatorで洗脳された我らの常識にも拘わらず、彼はHitlerのお株を奪った、元祖メカ゛ロマニアと言えよう。(注:メカ゛ロマニアは意味を限定して使用)
著者
畠山 輝雄 駒木 伸比古
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p><b>1</b><b>.はじめに</b></p><p></p><p> COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の感染拡大に伴い,人間の移動がウイルス感染拡大に影響するという観点から,各国で独自の移動制限が行われた。日本でも新型インフルエンザ対策特別法(以下,特措法)に根拠を置く緊急事態宣言に伴い都道府県を単位とした「移動自粛要請」という形で対策が行われた。このような中,特措法や緊急事態宣言に関わるさまざまな計画や提言,方針において「地域」が使用され,それらを背景として,国内の移動制限が行われた。しかし,これらで使用された「地域」は,異なる空間的範囲や用途による抽象的な表現であったため,具体性の欠如や実態との乖離が生じている。</p><p></p><p> 地理学では,地域概念として「地域」を類型化し説明してきた背景があるため,本報告では緊急事態宣言に伴う移動制限に対して地域概念という視点から考察する。</p><p></p><p><b>2</b><b>.研究方法</b></p><p></p><p> まず,COVID-19の感染者数の空間分布について,各都道府県のウェブサイトから抽出したデータにより都道府県単位と保健所管轄区等の単位により比較をした。その上で,移動制限に関する権限の考察を,特措法の条文と各都道府県の新型インフルエンザ対策行動計画から考察した。そして,移動自粛要請を都道府県単位とした経緯について,新聞記事検索や政府の関連資料,全国知事会資料から考察した。さらに,海外の移動制限との比較をするために,各国における日本大使館のウェブサイトに掲載される資料から考察した。</p><p></p><p><b>3</b><b>.都道府県単位の移動制限と地域概念</b></p><p></p><p> COVID-19の感染者数の空間分布は,一般的に都道府県単位で公表されているが,保健所管轄区等の単位で再集計したところ,都道府県内でも空間分布に地域差があり,一様ではないことが明らかとなった。</p><p></p><p> 以上よりCOVID-19の感染分布と移動制限を地域概念から考察すると,COVID-19の感染拡大地域は「等質地域」であり,感染要因は飛沫感染や接触感染が多いことを考えると,人間の行動圏(「機能地域」)と大きく関係する。このような等質地域や機能地域という実質地域で生じている問題を,「都道府県をまたぐ移動の自粛」という形式地域単位での移動制限によって感染防止対策をした。</p><p></p><p> 都道府県単位で移動制限を行うメリットには,万人にわかりやすく,規制や監視をしやすいことが挙げられる。都道府県知事には,緊急事態宣言により住民の移動自粛要請をする権限が国から委譲され,それにより自動車ナンバー調査や都道府県境による体温チェックなどが行われた。しかし,特措法では自粛要請として強制力はない。つまり,上記のような移動制限の明確化は,結果として自粛警察による監視を促す結果となった。これはデメリットでもあり,移動に関する明確な境界設定による差別や偏見がおき,県外ナンバーへの嫌がらせも生じた。</p><p></p><p><b>4</b><b>.都道府県単位の移動制限の経緯と諸外国との比較</b></p><p></p><p> そもそも,特措法には移動自粛についての言及はあるが,その空間的範囲については明確に示されていない。なぜ,「Stay home」だけではなく,都道府県という空間的範囲への言及が必要だったのであろうか。これは,2020年3月中旬から4月にかけて大都市圏での移動自粛要請やコロナ疎開と呼ばれる大都市圏から地方圏への移動による感染拡大が背景であると考えられる。政府の方針において最初に都道府県単位の移動制限の言及があったのは4月7日の7都府県への緊急事態宣言時であり,4月16日の緊急事態宣言の全国への拡大時により強調されることとなり,その後は既成事実化された。</p><p></p><p> 諸外国では,日本と同様に州や県単位での移動規制が多い。しかし,これは日本とは異なり法的強制力があるゆえ意味のあることである。そのような中,フランスでは自宅からの距離による移動規制をしていることは興味深い。</p><p></p><p> 日本においては,都道府県界という移動境界を明確化することはデメリットの方が大きいため,フランスで行われた機能地域的対策が,現行法の強制力がない中ではより現実的ではなかろうか。また,今回のように都道府県に強力な権限を委譲していくことを今後さらに進めていくのであれば,より住民の生活圏に合致する都道府県域の再編も視野に入れる必要がある。</p><p></p><p> </p><p></p><p> 本研究の遂行にあたっては,科学研究費補助金(基盤研究(B)「ローカルガバナンスにおける地域とは何か?地方自治の課題に応える地理的枠組みの探究」研究課題番号20H01393,研究代表者:佐藤正志)を使用した。</p>
著者
神谷 浩夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.39, 2006

1.問題の所在<BR> グローバル化の進展によって,より安価な賃金コストの地域に生産拠点を移転させ,グローバル市場において優位性を確保しようとする動きが活発になりつつある.こうした生産拠点の海外移転は労働力が非可動的であることを想定している.もちろんこれは,他の生産要素に比べた相対的なものである.実際には,地域間で賃金格差が大きい場合にも労働力は移動する.けれども,労働力の国際移動は素材や製品の輸出入と比べると規制が大きい.<BR> 東南アジアへの日本企業の進出は1970年代ころから活発化し,それにともない海外へ赴任する日本人の数も増大していった.海外で働く日本人の多くは,男性従業員が妻と子供を同伴するスタイルをとっていることが多い.一方1990年代半ばから,海外で働くことが20代の独身女性の間でブームとなっている.とりわけ,香港やシンガポール,上海など東南アジア諸国で働く女性が増加しているものと思われる.そこで本発表では,東南アジアで働く日本人女性に着目し,シンガポールで働く独身女性が増えた理由を検討する.<BR><BR>2.分析の手順<BR> 企業の海外進出にともなう人口移動の実態を明らかにし,海外で働く日本人独身女性が増えた理由を検討するためには,その前に日系企業の進出状況が東南アジアでどのように進んだのかを明らかにしておく必要がある.<BR> 次に,東南アジアに滞在する日本人の動向を把握することで,シンガポールにおける日本人女性が就いている職業に関して予察的な考察を試みる.海外で働く日本人に関しては,労働力調査といった国内で利用可能な労働力に関する各種統計が利用できないため,多面的に推測を積み重ねる方法をとらざるを得ない.<BR> 最後に,東南アジア諸国において日本人が働く際に大きな影響を与える就労ビザの発給方針についても整理しておく.<BR><BR>3.結果の概要<BR> 地域オフィスが形成される過程やその役割に関して考察した鍬塚(2001)は,シンガポール地域オフィスは販売管理業務あるいは現地の合弁製造会社に対する本社サービスの提供にあることを明らかにした.世界都市としてのシンガポールの機能はこうした中枢管理機能に負っている部分が大きく,日系企業の事業所もほぼこうした原理に則っている.日系企業の進出状況を業種別の現地法人で見てみると,シンガポールでは製造業が4分の1を占めるに過ぎないのに対して,マレーシアやタイでは製造業がほぼ半数を占めている.<BR> 図1は,シンガポールにおける長期滞在者の推移を示したものである.本人(男)の人数は,日系企業の現地法人に勤務する駐在員の数に相当すると考えることができる.本人(女)の人数は,男性に比べると圧倒的に少ないことから,量的な面では家族を同伴する駐在員の人数に比べれば,シンガポールで働く(おそらく独身の)日本人女性はごく少数である.それでも,1990年代に入ってから増えていることが読み取れる.<BR> その他の検討結果については,当日に報告する予定である.<BR><BR>文献<BR>鍬塚賢太郎 2001. 日本電機企業の東南アジア展開にともなうシンガポール地域オフィスの形成とその役割. 地理学評論 41A-3, 179-201<BR>Thang, L. L., MacLachlan, E., and Goda, M. 2002. Expatriates on the margins: a study of Japanese women working in Singapore. Geoforum 33, 539-551.
著者
山本 健太 久木元 美琴
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

大都市における文化創造機能については,これまで主として生産者の視点から議論されてきた.他方で,文化を消費する人々の行動については,十分な知見が得られていない.特に,従来の研究蓄積において,消費者の行動とその空間性について言及したものはみられない.本研究では,大都市における文化産業として演劇をとりあげ,観劇者の属性と消費行動の特性の一端を,アンケート調査の結果から考察する. <br> 具体的には,小劇場劇団Hの劇場Aにおける公演(10月26日~31日,10公演)の観劇者を対象として,アンケート調査を実施した.当該公演の客入数は合計617,回答数は98であった.アンケートでは,これまで明らかにされてこなかった観劇者の居住地や職場の位置,観劇前後の行動などの質問を設定した.<br> 劇団Hは,2001年に旗揚げし,現在は劇団代表で脚本・演出も手掛ける俳優Nの下で9人が活動している.劇場Aは1984年に設立され,舞台配置にもよるが,60席程度を設置できる規模である.小劇場の中でも知名度の高い劇場で,中堅劇団の公演地として選択されることが多い.最寄駅は京王井の頭線駒場東大前駅である.<br><b> 観劇者の属性:</b>性別年齢別回答数では,女性の20代後半から30代前半がボリュームゾーンになっている.職種では,事務職(24)が最多で,その他専門技術職(13)が次ぐ.最終学歴では大学卒(非芸術系)が卓越するが,芸術系出身者も少なくない.居住地の最寄駅をみると,劇場の立地を反映して,JR中央線沿線や東急田園都市線,京王線,小田急線など,新宿や渋谷を起点とする路線沿線に居住するものが多い.一方,広島県(2人)や富山県(2人)など,遠距離地域からの集客があることも注目される.<br><b> 観劇に至る経緯:</b>公演を知るきっかけは,「チラシ」が98人中37であり,重要な情報収集ツールになっている.また,劇団関係者(21)や友人(17)からの情報も多い.さらに,本公演では,劇場Aを通じて観劇に至ったことに言及したものが8人(9%)いた.このことは,劇場による宣伝が公演を実施する際に無視できないことを示している.観劇に来た理由では,「演出家[m3]&nbsp;Nの演出/脚本が好きだから」(50)が最も多く,「好きな俳優が出演する」(24)との回答も少なくない.誘われて観劇に来たものは13あり,ここでも,友人ネットワークを通じた「口コミ」による観劇者動員の重要性が指摘できる.<br><b> 劇場の立地と観劇者の行動:</b>観劇を決定する際に,劇場の立地をどれくらい重視するか尋ねた結果,劇場の駅からの距離や劇場周囲の雰囲気はあまり重視されないことが示された.他方で,職場や自宅からのアクセスは,「気にする」「とても気にする」の合計(46)が,「あまり気にしない」「全く気にしない」の合計(38)を上回った.これは,仕事帰りに観劇に立ち寄る場合や,終業後に一度帰宅してから観劇に至る場合が少なくないことによる.このことから,終業後に公演時間に間に合う劇場立地であることが,観劇を決定する上で重要な要素となっているといえよう.<br><b> 劇場周辺における観劇者の消費行動:</b>観劇前後の訪問場所をみると,57人中15人が,単館系映画館や小劇場,美術館などを挙げ,近在する文化施設を「ハシゴ」している様子が認められた.劇場Aは,渋谷と下北沢の中間地点に位置し,いずれの街からもアクセスしやすい.渋谷や下北沢といった盛り場や,そこに立地する文化施設に近いことが,本事例における回答者の「ハシゴ」行動を支えていると推察される. 消費者のこうした行動は,都市における演劇文化の消費行動の実態や,ひいては「都市の魅力」「地域の魅力」の要因を検討するうえで,無視できない知見であろう.このような消費行動が他地区での公演においても認められるのか,事例の蓄積が必要である. <br>
著者
片山 雅木
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

昭和の時代待ち合わせと言うと駅というのが定番であり、 駅の改札口の横や待合室に置かれた伝言板には待ち合わせの時間通りに来なかった人向けのメッセージが黒板一杯に書き込まれていたものであった。国有鉄道における伝言板は「告知板」という名称で明治37年に新橋、横浜、大阪など8駅に設置されたのが始まりで、その後大正から昭和にかけて住宅地が都市郊外に移り、大都市圏中心に通勤・通学の足として電車網が急速に整備され発展するとともに、各鉄道路線が交わるところに設けられたターミナル駅が人々が交差する場所となり、伝言板の設置とあいまって待ち合わせの場所となっていった。伝言板に書かれるメッセージが待ち合わせに関する物から変化していったのが1980年代頃であった。この変化は、駅が人々が集まり滞留する場所から街中の繁華街へ行くための単なる通過点になったことや、電話の普及により公衆電話や自宅の電話等を介して連絡をとる手段が登場した事によってもたらされた。伝言板が待ち合わせに使われなくなり、若者中心に仲間間のやり取りやいたずら書きが目立つようになりJR始めいくつかの鉄道会社では携帯電話の普及を待たず1990年前後から徐々に撤去が始められていった。これら変化を伝言板という今までほとんど省みられなかった物から辿ってみることにより、伝言板の役割の変化をもたらした鉄道や社会の変化について考察をおこなった。