著者
岩船 昌起
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

<b>【はじめに】</b>2016年熊本地震災害では,九州の県と市町村は,九州地方知事会での決定に基づき「カウンターパート方式」で被災市町村をそれぞれを専属的に支援した。筆者も,鹿児島県担当の宇城市で集中的に支援活動を行い,災害対策本部等に助言している。本発表では,この活動や宇城市提供データに基づき,宇城市での被害や避難者の実態を報告する。<br><b>【地震の概要】</b>2016年4月14日21時26分に熊本県熊本地方を震央とする震源の深さ11kmでM6.5の地震が発生し,益城町では震度7,宇城市では震度6弱が観測された(気象庁)。また,同じく熊本地方を震央とする震源の深さ12kmでM7.3の「本震」が16日1時25分頃に発生し,西原町および益城町で震度7,宇城市で震度6強が観測された。<br> 本震以降,熊本県阿蘇地方や大分県西部および中部でも地震が頻発し,14 日21 時以降6月30日までに震度1 以上を観測する有感地震が1,827 回発生している。これは,平成16年新潟県中越地震(M6.8)など日本で観測された活断層型地震の中で最も多いペースである。<br><b>【熊本地震による被害の概要】</b>熊本地震災害の主要な被災地の熊本県と津波災害が際立った東日本大震災被災地の岩手県とでの被害状況を比較する。人的な被害としては,死者・行方不明者が岩手県の方が桁違いに多いが,負傷者は熊本県が8倍弱多い。地震動による瓦の落下や家具の倒れ込み等で外傷を負った方々が多かったものと思われる。物的被害として,全壊は岩手県の方が7倍程度多いが,一部損壊は熊本県がほぼ倍程度の数となっている。<br> 東日本大震災では,全壊あるいは大規模半壊でも家屋を解体して「滅失」と判定されて応急仮設住宅に入居できた方々が多く,応急対策期の避難所での生活よりも復旧期の仮設住宅での暮らしの中でさまざまな問題が現出した感がある。一方,熊本地震では「一部損壊」認定世帯が被災者の大半を占め,半壊以上ので手厚く施される生活再建支援のさまざまな手立てを熊本地震災害被災者の大半に適用できない可能性が高い。<br> また,熊本地震では,土砂災害で阿蘇地方での大規模崩壊等が注目されているが,ほとんど報道されていない宅地や農地の盛土地等で小規模な崩壊や亀裂が多数生じており,それらの土地所有者の多くがその対処に難儀している。それは,宅地被害でも家屋の破壊に結びつかないと罹災証明で評価され難く,特に私有地の被害が公的支援の対象になり難いからである。盛土地での被害は,1978年宮城県沖地震や2011年東日本大震災でも丘陵地の団地等で繰り返し発生しており,日本列島の造成地では地震動でどこでも生じる可能性が高かい問題であった。<br><b>【避難者の特徴】</b>宇城市提供の避難者数データから, 14日「前震」直後より16日「本震」以降で避難者数が多いことが分かる。17日0時に宇城市内避難所20施設合計で,宇城市人口の2割程度の11,335人が最大の避難者数として記録されている。また,日中には避難者数が減じ,寝泊まりする夜間に増加する傾向がある。<br>&nbsp;一方,約93年間(1923年~2016年4月13日)の宇城市での最大震度は,震度4であった(気象庁)。従って,「前震」までに震度5弱以上の経験者はごくわずかであり,かつ震度5弱以上の地震は宇城市で発生しないと考えていたようであった。そして,地震災害を身近なものと考えていなかったことから,地震にかかわる科学的な知識や地震から身を守る知識や技術も地震が多発する地域の人びとに比べて相対的に低かったと思われる。<br> 「地震に対する備え」が十分でなかった宇城市民は,14日夜の前震と16日未明の地震で「地震の揺れに対する恐怖心」が強化され,家屋の損壊が酷くなくても自宅に入れない人びとが多数出現した。特に夜に地震に遭ったことから家の中で寝られない人びとが多く,それが避難者数の夜間増加の要因となった。<br>&nbsp;避難者が抱く「地震に対する恐怖心」を軽減・解消するためには,地震の発生が収まることが最も重要であるが,活断層が存在する熊本では今後も地震が必ず発生し,再び恐怖心が呼び起される可能性が高い。これに対処するには,ソフト面では,心理的なカウンセリング等と並んで,防災教育を通じて「地震を知り,これへ対処できる」知識と技術を「地震を経験した人びと」が身に付ける必要がある。具体的には①市民が地震に関する科学的知識を身に付けること,②家具の固定など被害に遭い難い居住環境を事前に整えておくこと,③地震発生時には自身の安全にかかわる周囲の状況を見極められること,④これに応じて「身を守る」行動を選択実行できることなどに及ぶ。<br><b>【本発表では】</b>今後の防災教育の立案にかかわり,宇城市提供資料の分析や,実施予定の質問紙調査の結果も交えて,本発表時には,熊本地震災害避難者の詳細な特徴を報告する。
著者
高根 雄也 近藤 裕昭 日下 博幸 片木 仁 永淵 修 中澤 暦 兼保 直樹 宮上 佳弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

本研究では、地表面からの非断熱加熱を伴うハイブリッドタイプのフェーンが、風下末端地域の高温の発生に寄与しているという仮説を、3つの異なる手法・視点:独自観測・数値シミュレーションによる感度実験・過去データの統計解析から検証した。このタイプのフェーンは、1)典型的なドライフェーン(断熱加熱)と、2)地表面からの加熱(非断熱加熱)の複合効果によって生じる。フェーンを伴うメソスケールの西寄りの風に沿った地上気象要素の現地観測により、1)の典型的なフェーンの発生が確認できた。このフェーン発生地の風下側の平地における2)地表面からの非断熱加熱の効果に関しては、風下の地点ほど温位が高くなるという結果が得られた。そして、その風下と風上の温位差がフェッチの代表的土地利用・被覆からの顕熱供給(地表面からの非断熱加熱)で概ね説明可能であることが、簡易混合層モデルによるシンプルな計算にから確認できた。この非断熱加熱の存在を他の手法でより詳しく調査するため、WRFモデルによる風上地域の土壌水分量の感度実験、および過去6年分の土壌水分量と地上気温、地上風の統計解析で確認した。その結果、風上側の地表面から非断熱加熱を受けた西寄りの風の侵入に伴い、風下の多治見が昇温していることが両手法によっても確認された。この地表面加熱を伴うハイブリッドタイプのフェーンが、この風の終着点である多治見の高温に寄与していると考えられる。
著者
髙橋 由佳矢 河野 忠
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.244, 2013 (Released:2013-09-04)

1. はじめに 静岡県浜松市水窪町の標高654mに位置する窪地にはほぼ7年周期で出現すると伝えられている湧水池がある。普段は水の無い窪地となっていて,スギやヒノキといった人工林に覆われている。湧水池が発生する直前には大量の降水が確認されている。杉森ほか(2001)によると,地質と降水が地下水面に影響し,湧水池が出現すると報告されている。また,400年以上前から出現していたと言い伝えられているが,詳しいことはわかっていない。この池は,今現在も明確な発生条件やメカニズムが解明されておらず,周期的に出現する理由も不明のままである。そこで,本研究では,降水量や現地の自然条件を基に,出現メカニズムを解明することを目的とした。今回は,主に2012年7月と12月に現地調査において湖盆測量を行った結果を報告する。2. 研究対象地域 池の平の池は水窪町奥領家にある亀ノ甲山峠を200m程下った場所の窪地にある。山道は佐久間ダム建設以来,廃道に近い状態である。山道は崩れている箇所が多くあり,山全体が地すべり地であることが伺える。3. 調査・研究手法 現地では,湖盆測量,検土杖を用いた簡易地質調査,湧水と沢水のサンプリングを行い,現地にて電気伝導度,ORP,pH,水温を測定した。持ち帰ったサンプルは役場から頂いた2010年出現時の池の水と共にイオンクロマトグラフィを用いて無機イオン成分の分析を行った。3. 結果と考察 標高654m付近で湖盆測量を行い等深線を示した結果,この池の最大長は130m,最大幅50m,周囲244m,面積4325m2,容積11375m³,となった。 水質分析の結果,2010年出現時のサンプルは各溶存成分量が乏しく雨水と変わらないことが判明した。池の100m程下った場所の沢水は2010年出現時の水質と比較して,各溶存成分量が高くなっていて,特にカルシウムイオン濃度の値は6.73mmg/lの値を示した。4. 今後の研究課題 池水の出現機構解明のために,湖盆に時期水位計を,水窪町役場に雨水採水器と転倒ます型雨量計を設置した。今後は,同位体水文学的手法を用いて涵養源の推定を行う予定である。5.参考文献杉森・佐藤・津田・尾口・小森(2001):遠州七不思議の池 「池の平」 の出現理由.日本地理学会発表要旨集,No.60,147.
著者
岩間 英夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100010, 2013 (Released:2014-03-14)

1.はじめに 東海村は、東日本大地震の津波で東海原子力第2発電所の発電機3基のうち1機が冠水した。外部電源が復旧したため、かろうじて危機を回避できたが、人災が起こっても不思議ではなかった。 発表者は、これまで鉱工業を中心とする産業地域社会形成の研究を行なってきた。本研究の目的は、その視点から、日本の原子力産業のメッカである茨城県東海村を研究対象に、原子力産業地域社会の形成とその内部構造を解明し、かつ原子力産業との問題点を指摘することである。2.東海村原子力産業地域社会の形成 まず、東海村への進出決定の背景を捉える。次に、原子力産業の集積では、1957年8月、日本原子力研究所東海研究所において日本最初の原子の火が灯った。1959年3月には原子燃料公社東海精錬所が開所し、核燃料の開発、使用済み燃料の再処理、廃棄物の処理処分の技術開発を本格化した。1962年、国産1号炉(JRR-3)が誕生した。1966年7月日本原子力発電㈱がわが国初の商業用発電炉である東海発電所の営業運転を開始した。1967年4月、大洗町に高速増殖炉用のプルトニウム燃料開発・廃棄物処理の実用化を目指した大洗研究所、1985年4月、那珂町(現、那珂市)に那珂核融合研究所が発足した。2005年10月、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構が統合して「独立行政法人日本原子力研究開発機構」となり、本社が移設された。 これによって、日本原子力研究開発機構の本社事務所を中核に18の原子力施設が集積、4,386人の職員が研究開発・運営する「日本の原子力産業のメッカ」となった。<BR> 2013年5月現在、東海村の人口は3万7883人で、東海村発足時からは約50年で約3.3倍に増加した。<BR>3.東海村原子力産業地域社会の内部構造 日本原子力研究所の内部構造は、国道245号線に沿った事務所を中心に、臨海部の砂丘地帯に生産(研究開発)機能、国道245号線から原研通りに沿って阿漕ヶ浦クラブ、原子力センター、諸体育施設、原研診療所のサービス機能、そして最大規模の長堀住宅団地、荒谷台住宅団地からなる居住機能が東海駅に近接して造成された。住宅団地の中央部には、商業機能として生活協同組合の店舗・売店が設けられた。このように、日本原子力研究所はその事務所を中心に生産、商業・サービス、居住の3機能からなる1極型圏構造を展開した。同様に、原子燃料公社東海精錬所、東海原子力発電所にも1極型圏構造が展開した。これらの3公社によって、東海村の原子力産業の内部構造は多極連担型となった。 2005年に統合すると、日本原子力研究開発機構の本社事務所を中心に、大洗研究所、那珂研究所も含めて、広域にわたる一大原子力研究開発センターを形成した。その内部構造は、日本唯一の原子力産業による総合的研究開発の1核心(多極重合)型圏構造となった。 これらの結果、東海村の原子力産業地域社会は、日本原子力研究開発機構本社を中核とする、海岸部と村の外縁部に生産地域、村の中央部に位置する常磐線東海駅を中心とする商業地域、商業地域に隣接して公営住宅団地や企業社宅、そして周辺に拡大する職員の持ち家と日立市・ひたちなか市の工業都市化による宅地化が重なって住宅地域が形成した。4.まとめ(原子力産業地域社会の形成と問題点) その結果次のことが明らかとなった。 1. 日本唯一の原子力産業による総合的研究開発型の1核心(多極重合)型圏構造を形成した。しかし、 これは一般的産業地域社会の内部構造であって、核の危険性と安全性を大前提として配慮した原子力産業地域社会の展開とは言えない。 2.1956年の候補地選定条件においても、津波に関しては全く触れていなかった。アメリカからの原子炉導入を含めた安全神話が先行し、日本の自然環境の特性をも踏まえた日本人による原子力の主体的研究が欠落したまま今日に至っている。 3.東日本大震災後義務づけられた避難区域で換算すると、20㎞圏内の警戒区域で人口約90万人が、半径120㎞圏に放射能が拡散したら、首都圏を含む約2000万人が避難しなければならない。もはや避難が現実的に無理であるとするなら、東海村は原発などの危険施設は除去して対応する段階にきている。
著者
金 延景
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

新宿区大久保には,韓国人ニューカマーの集中居住地区であると同時に,商業業務中心地区としての性格を強く帯びたコリアタウンが形成されており,エスニック景観が顕著にあらわれている.本研究では,大久保コリアタウンの形成過程とその変容を明らかにすることを目的としている.<br> 韓国系施設は1990年代から2000年代初頭にかけて主に職安通りを中心に分布し,段階的に裏通りから表通りへ,2階以上から1階へ拡散しながら,ハングルの看板や広告を中心としたエスニック景観を形成し始めた.当時のコリアタウンでは,韓国食料品店,韓国料理店,ビデオレンタル店,不動産,美容室,教会や寺など韓国人ニューカマーに向けた韓国現地の商品や情報,そして日本の生活に必要なサービスやコミュニティを提供する場として機能していた.<br> そして,2003年ドラマを中心とした第1次韓流ブームにより,日本人観光客が急増したことで,コリアタウンは大久保通りへ拡散し,2005年頃にはコリアタウンのメイン通りとされた職安通りよりも大久保通りの方に多くの韓国料理店や韓流グッズ店が出店されるようになった.2009年のK-POPを中心とした第2次韓流ブームにより,大久保コリアタウンは一層拡大し,裏通りや2階以上へ再び拡散する一方,「イケメン通り」への出店が顕著にみられた.エスニック景観は,ハングルから日本語に変わり,韓流スターのサインやポスターを飾り,スクリーンやスピーカーを設置して映像や音楽を流すなど韓流スターを媒介としたエスニック景観へ変化した.<br> こうしたコリアタウンの変化には,第2次韓流ブームの他,2008年のリーマンショック以降,円安・ウォン高により日本人の間でブームとなった韓国旅行が影響している.2008年から2009年にかけては,一時期,大久保では比較的売り上げや客数減っていたことから,韓国の観光名所である明洞で日本人顧客が求めていた商品やメニューが積極的に投入されたとみられる.&nbsp;
著者
東郷 正美 長谷川 均 後藤 智哉 松本 健 今泉 俊文
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.111, 2010

ヨルダン高原の北西端部に位置するウム・カイスは、古代都市ガダラに起源もつ遺跡の町である。ガダラは63 BCのポンペイウスよる東方遠征後、デカポリスの中心的都市となって大いに栄えた。しかし、749年に起こったパレスティナ大地震によって壊滅し、以後再興されることはなかったとされる。749年の大地震は、死海トランスフォーム断層に沿う活断層帯の活動で生じたM 7クラスの地震とみられている(Marco et.al, 2003など)。<BR> ウム・カイス遺跡を調査する機会に恵まれた演者らは、749年大地震のガダラ壊滅への関与を示す明確な証拠を求めて、発掘調査で露出した多数のローマ円柱に注目し、その出土特性を調べた結果、以下のような知見を得た。<BR><BR> 1)底面の縁が欠けている円柱が多数見いだされる。<BR> 2)このような底面縁に欠損部が認められる円柱を、64例見つけたが、その 多く(53例)は、円柱表面に特徴的な溶食帯(ひとつの接線に沿い一定の幅 をもって柱の両端に達するように生じている)を伴っていた。<BR> 3)このような溶食帯が上記の底面縁欠損部と対置するように発達するもの が、36例もある。<BR> 4)倒れた方向が判定できる円柱が36例あった。それらの方向性に注目する と、12例がほぼ東西方向、13例が南北方向を示し、この2方向への集中度 が高い。残りの11例はいろいろな方向に分散している。<BR> 5)倒壊した円柱とローマ時代の生活面との間に、10~数10cm、ところによ ってはそれ以上の厚さを持つ堆積物が存在することが多い。<BR> 6)倒壊円柱包含層の年代を把握するため、その上・下位層準中より年代 測 定試料を採取して14C年代測定を試みたところ、1870±40yBP、1740 ±40yBP(以上、下位層準)、1760±40yBP、1730±40yBP(以上、同または 上位層準)とほぼ同時代を示す結果が得られた。<BR><BR> 上記1)の底面縁の欠損部は、円柱が倒れる際に支点となった部分にあたり、この時柱の全過重がここに集中することで破壊が生じて形成されたと推定される。上記2)3)の溶食帯は、円柱が倒れた後、風雨にさらされてその頂部(嶺線付近)から溶食が進行したこと、しかし、溶食は円柱全面に及ぶことなく、また、浸食量も大きいところでも深さにして1cm程度であることから、円柱はまもなく埋没したものと思われる。多くの事例が以上のように同じような痕跡をとどめていることは、建物の倒壊が同じ原因で一斉に生じたことを示唆する。<BR> 上記4)は、倒壊した円柱群に、大地震の地震動による倒壊を思わせる全体的に系統だった方向性が明確に認められないことを示している。上記5)は、建物の一斉倒壊事件に先立ち、ガダラは市街地への大量の土砂に侵入を許していたことを意味しており、この時にはすでに都市維持機能は失われていたことを表している。その時代は、上記6)から4C初頭を前後する頃と推定されるので、ガダラの終焉に749年パレスティナ大地震は無関係と考えられる。
著者
熊原 康博
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.334, 2013 (Released:2013-09-04)

1.はじめに 発表者は,太平洋戦争直後に撮影された縮尺2万分の1米軍空中写真の地形判読により,群馬県南東部の太田市東部から桐生市西部にかけてのびる活断層(太田断層)を発見した.本発表では,地表踏査および,群列ボーリング調査,トレンチ掘削調査の結果を報告する.また,本断層の最新活動時期や地盤災害の痕跡の時期や分布から,本断層が818年(弘仁九年)の起震断層である可能性についても議論する.本研究は文部科学省による「地震及び火山噴火予知のための観測研究計画」の支援を受けた.2.断層変位地形 本断層は、渡良瀬川の西側に沿って認められる南-北走向~北西-南東走向の少なくとも長さ18kmの活断層である. 断層の南部では,断層崖を境に利根川起源の中位面(館林面),扇状地面,旧利根川の河道が,東側低下の変形を受けており,その変位量は古い地形面ほど大きいことから累積的な変形が示唆される.断層崖の幅が100mに達する撓曲変形をなすことや,断層上盤側で盛り上がる地形が認められることから,西傾斜の断層面をもつ低角な逆断層と想定される.利根川左岸までは館林面の変形を指標として,本断層を認めることができるが,右岸は利根川の浸食/堆積が著しく,本断層の南延長については不明である. 断層の北部は,渡良瀬川の向きと断層の走向がほぼ平行になるため,河食崖と断層崖との区別が困難であった.八王子丘陵の東縁沿いでは,丘陵を開析する谷の谷口に小規模な扇状地が形成されている.これらの扇状地は南東側低下の撓曲変形を受けていることが,写真判読からは認定される.ただし現在では土地改変が進んでいることから詳細は不明である. 3.群列ボーリング調査 太田市龍舞において,断層に直交する測線で5本の群列ボーリング調査を行った.その結果,下部の礫層上面を指標とすると約4.3m,浅間板鼻黄色軽石(YP:13~14ka降下)を含む砂層上面を指標とすると2m程度の東側低下の高低差が断層崖直下で認められた.これは,礫層堆積以降少なくとも2回の断層変位が認められること,YP以降に最新活動があったことを示す.4.トレンチ掘削調査 ボーリング調査と同地点で,断層崖を横切るトレンチ掘削調査を2回実施した.トレンチ壁面からは,傾斜する2つの地層とそれらをアバットする水平な地層が認められた.傾斜する下位の地層(A層)は,上部にYPを含むラミナをもつ砂層であった.YPを鍵層として地層の傾斜の変化をみると,トレンチ西側で水平であったYPが東(崖基部)に向かって徐々に傾斜が急になる.また,A層の上位にはYPの傾斜と同じ程度の傾斜である腐植質粘土層(B層)も認められ,14C年代値の内最も若い年代はAD540-650である.一方,B層を覆う水平な地層(C層)も認められ,浅間Bテフラ(As-B: AD1108降下)を含み, 14C年代値の内最も古い年代はAD770-980年であった. 一般的に腐植質粘土層は水平堆積することから,B層が断層変位を受けた地層、C層を変位後の地層とみなした.最新活動の時期は,両者の14C年代値からAD540-980といえる.最新活動の垂直変位量は少なくとも1.2m以上であるが,B層の上部が欠落しているため,正確な量は不明である. 5.古地震の記録,周辺の地盤災害の痕跡との関係 トレンチ掘削調査で得られた断層活動の年代からは,本断層が、『類聚国史』の記事に記された,関東地方における818年の大地震の起震断層の候補となりうる.また,群馬県南東部や埼玉県北部では,噴砂・地割れ跡など強い地震動が生じたことを示す地盤災害の痕跡が多くの考古遺跡から報告されてきた.この地域は,榛名二ッ岳渋川テフラ(Hr-FA)とAs-Bの降下範囲であるため,噴砂・地割れの発生年代を両テフラ降下間(6世紀初頃~1108年)に限定され,早くから818年の地震との対応が指摘されていた.これらの古代の地盤災害は,本断層から20km以内に分布し,本断層の活動に伴って発生した可能性を示唆する.6. 太田断層で発生する地震の予測 太田断層の全長(長さ18km)から,断層全体が一度に活動した場合,M6.9程度の地震が発生することが予測される.ただし,利根川右岸の埼玉県北部でも,古代の噴砂・地割れ跡が多数認められることを考えると,さらに断層が南へ延びる可能性は高い.そのため,地震の規模もさらに大きくなると予想される. 本断層の活動履歴について検討する.YP以降に断層活動があったことは確実である.最新活動の垂直変位量が1.2m以上である一方,YPを指標した場合,その量は約2mである.したがってYP以降の断層活動が1回か2回かは厳密には明らかにできない.ただし,中位面のその量は3~4mと小さいことから,活動間隔は長いものと考えられ,YP以降に1回の可能性が高い.
著者
青野 靖之
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.17, 2013 (Released:2013-09-04)

17世紀以降に江戸(東京)で書かれた古記録類から得られたサクラの植物季節データを用いて、3月平均気温の復元を試みた。西暦1636年から1905年までで判明した合計207年分のヤマザクラの満開日により、17世紀中盤以降の3月平均気温の推移が明らかになった。解析の結果、17世紀後半と19世紀初頭に寒冷な時代のあることがわかった。これらの低温期は、京都における3月の気温の復元推移にも共通して現れており、太陽活動のマウンダー極小期(17世紀後半)とドルトン極小期(19世紀初頭)に対応したものである。マウンダー極小期とドルトン極小期における江戸の3月平均気温はそれぞれ、およそ4℃、5℃とみられる。
著者
田嶋 玲
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

1.はじめに<br> いわゆる「民俗芸能」についての研究は、1990年代以降その様式や内容に着目した研究に代わって、現代における村落社会の変化に伴う文化変容や観光資源化プロセスなどが主要なテーマとなった。特に、演劇に分類される民俗芸能については、芸能の担い手である演者の実践に注目した研究がなされてきた。一方、上演を成立させるもう一つの「担い手」である観客や上演の主催者については、まだ議論の余地があるといえる。また、地理学ではこれまで特に神楽が議論の対象となってきたが、同じく演劇性をもった民俗芸能である地芝居(農村歌舞伎)に触れているものは少ない。<br> そこで、本研究では著名な地芝居の一つである「檜枝岐歌舞伎」を例に、上演を支える構造とその変遷を公演記録をもとに分析し、地芝居の上演をめぐる環境の変化を明らかにする。<br><br>2.研究対象の概要と方法<br> 檜枝岐歌舞伎は、福島県檜枝岐村で江戸時代から現在まで伝承・上演が続けられてきた地芝居の一つである。上演は村民による一座「千葉屋花駒座」がボランティアで運営しており、出演者もほとんどが村民である。現在では観光化が進み、村の重要な観光資源ともなっている。<br> 檜枝岐歌舞伎は村内での上演が活動の中心となっているが、村外での上演も過去から現在まで幅広く行われている。本研究では特に村外で上演を行った場所と、上演の開催名目や主催者に注目する。一座関係者から提供を受けた公演記録帳3冊からこれらの点を分析し、その対象期間は提供資料に記載された範囲の1967年11月から1996年9月までとした。<br><br>3.上演場所の変化とその要因<br> 1960年代終盤から1980年代までの村外上演は、旧伊南村や旧南郷村、石川町など同じ福島県内や、新潟県旧入広瀬村や旧守門村、群馬県片品村や栃木県栗山村など、比較的檜枝岐村に近接した町村部での開催が中心となっていた。その開催名目や主催者を見ていくと、1970年代初頭までは祭礼に招かれての上演がいくつか見られた。しかしそれ以降は、敬老会や高齢者福祉施設での上演が増加していった。これは、会津地方周辺における地芝居を取り巻く社会的状況の変化が要因と考えられる。高度経済成長期以降、それまで村落地域の一般的な娯楽であった地芝居は、テレビなどの新しい娯楽の登場や担い手となる若者の流出で、幅広い世代が楽しめる娯楽としての地位を急速に失っていった。その結果、次第に観客は高齢者層中心となっており、その状況が反映されたものと推察される。<br> その後、1980年代後半以降の村外上演は、県内の都市部や他の都県での開催が増加していった。その名目も、フェスティバルや民俗芸能の上演を目的とした大会が中心であり、「伝統文化」としての扱いを受けることが一般的となった。これは檜枝岐歌舞伎が観光化し、外部に広く知られる民俗芸能となったことが要因と考えられる。檜枝岐歌舞伎は1960年代後半から徐々に観光資源として扱われはじめ、村内での上演に多くの観光客が集まるようになった。そして1980年代には村内での上演に800人以上を集客するまでになり、福島県を代表する伝統文化として注目が集まっていたことが窺える。<br> こうして檜枝岐歌舞伎の外部公演を支える観客や主催者は、娯楽や祭礼の一要素としての上演を期待する村落地域の住民から、「伝統文化」の上演を期待する都市住民へと変化していったといえる。
著者
小野 映介 矢田 俊文 海津 颯 河角 龍典
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100029, 2015 (Released:2015-04-13)

1596年慶長伏見地震の際に,現在の徳島県鳴門市の撫養(むや)地区が隆起し,入浜塩田を営むことが可能になったとする史料が存在する.本研究では,史料に書かれた内容の信ぴょう性について,地形・地質学的な側面から検討を行った.入浜塩田では潮の満ち引きを利用して製塩を行う.したがって,その立地は地形条件によって制限される.撫養地区の塩田が鳴門南断層の上盤に広がっている点,塩田の開発域の南限が鳴門南断層とほぼ一致している点,16世紀に鳴門南断層が活動し,0.5~1.0 mの上下変位を生じたと考えられることなどを勘案すると,地震性隆起が塩田開発の契機となったとする文書の内容は事実である可能性が極めて高いと判断できる.
著者
安部 真理子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1.はじめに 沖縄島・名護市東海岸の辺野古・大浦湾にはサンゴ礁、海草藻場、マングローブ、干潟、深場の泥地といったタイプの異なる環境と地形が存在し、生物多様性を支えている。国の天然記念物であり絶滅危惧種絶滅危惧IA類(環境省)であるジュゴンと餌場である海草藻場をはじめとし、2007年にその存在が発見されたチリビシのアオサンゴ群集、長島の洞窟など、この海域全域におよび生物多様性が高く、複数の専門家(黒住ら 2003、藤田ら2009)が述べているように、今後も新種や日本初記録、ユニークな生活史を持つ生物が多発見される可能性が高いことが示唆されている。 2.&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 環境アセスメント(環境影響評価)の問題 本事業に伴う環境アセスは、2012年2月に仲井真元沖縄県知事が「環境保全は不可能」と断じたほど、科学的に大きな問題があり、住民参加や情報の透明性という観点からも多くの問題が存在した。しかしながら2013年12月に仲井真県知事の手により、正反対の判断が下され、公有水面埋立申請が承認された。 3.&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 環境アセスメントの対象とならない埋立土砂 環境アセスの段階では埋立土砂の調達先については示されなかったものの、公有水面埋立手続きの段階になり、初めて埋立土砂の具体的な調達先が明らかにされた。160 ヘクタールの埋立てに2,100 万立方メートルの土砂が使用される。この量は10 トントラック300 万台以上の土砂に相当する。以下に、4つの問題について指摘する。a)埋立土砂調達予定先の環境への影響、b)土砂運搬船とジュゴンとの衝突の可能性、c)海砂採取により嘉陽の海草藻場への影響が生じる可能性、d)埋立土砂に伴う埋立地への外来種の移入。 4.&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 情報の隠ぺい、後出し 環境アセスの期間においても、公有水面埋立申請書の段階においても、環境に大きな影響を与える工事について、情報の隠ぺいおよび後出しが行われている。 5.&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 環境アセス後に判明した科学的事実の軽視 昨年5~7月に自然保護団体が行ったジュゴンの食痕調査により、ジュゴンがこれまで以上に高い頻度で埋立予定地内および周辺を餌場として利用していたことが解明された。このようにジュゴンが採餌域を拡大し、大浦湾の埋め立て予定地内および周辺を利用することは、環境影響評価が行われた時点では予測されていなかったことである(日本自然保護協会 2014年7月9日記者会見資料)。しかしながら事業者は事業の中断および変更は行っていない。 4.環境保全措置の問題点 環境影響評価書(補正後)には環境保全措置が書かれているが、公有水面埋立承認が下りてから埋立工事が開始されるまでの「調査期間」には、その保全措置が適用されない。着工前の調査の時点でも、厳重な保全措置が取られるべきである。つまり着工前に影響を与える行為をしながら、事後に保全措置を取っても意味がない。 5.&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; おわりに 辺野古・大浦湾はIUCNが3度にわたる勧告を出しているほどの貴重な自然であり、沖縄のジュゴン個体群は、世界のジュゴンのなかで最も北限に位置する重要なものである。日本が議長国をつとめた2010年に採択された愛知ターゲット目標10「脆弱な生態系の保全」と目標12 「絶滅危惧種の絶滅・減少を防止する」を守れない事業を進めることは国際的にも許されないことである。
著者
伊藤 修一
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100103, 2014 (Released:2014-03-31)

Ⅰ.はじめに 破産は債務者の財産状態が悪化して,債権者への債務完済が不可能となることを指し,日本では破産法に基づく裁判手続きによって認められる(斎藤 1998).法制度の違いはあるが,アメリカ,イギリス,カナダ,オーストラリアなどの先進国では近年個人の破産が増えており,日本も破産事件の8割以上が個人(自然人)によるものであって例外ではない. 破産事件総数の推移は,法務省『司法統計調査年報』に基づいて,山本(2012)などが定量的に説明している.1980年までは3,000未満だった件数は,1983年の貸金業規制法施行と出資法改正の直前の駆け込み的な取立行為が多かったことや,非事業者の破産に破産宣告(破産手続開始決定)と同時に手続を終了させる同時廃止型破産を積極的に適用されはじめたことによって,同年には2.64万件と,それまでの8倍も増加した(第1のピーク).その後バブル景気に伴って1万件台まで減少したが,バブル経済の崩壊のほか,消費者信用の与信枠が拡大されて,「カード破産」が増加したことで1993年には4.62万件まで急増した(第2のピーク).さらに長引く平成不況は1990年代後半から件数の増勢を促して,2003年には過去最悪の25.2万件に達した(第3のピーク).しかし,翌年の貸金業規制法改正や2006年の貸金業法施行で過払金請求が増加したことなどで減少傾向となり,2012年は第3のピーク時の36.8%にあたる9.26万件に至る. このような破産傾向に地域差があることは,晝間(2003)が指摘している.これによると,各県を1985~1998年の破産率の順位の平均と変動の大きさの組み合わせから9分類した結果,変動が最小のグループのうち,高位は九州・中国地方,中位は四国・近畿地方,低位は中部・関東地方の諸県が占める.一方,変動が最大のグループでは高位に九州地方,中低位には東京圏や中京圏の諸県が含まれている.これは,基本的な分布パターンがいわゆる「西高東低」であって,大都市はパターンの変化に重要な役割を果たしていることを示唆している. この分布は第1と第2のピークの間にみられる特徴であり,全国推移の傾向からは1985~1998年の前後で分布が異なることは容易に推察される.そこで,破産率の全国推移が前述のピークに従って,統計的にも4期に区分されるかどうかを確認したうえで,各年の破産率の分布パターンを空間的自己相関統計量を用いて検討する.Ⅱ.分析データ 本研究で用いる破産事件数は『司法統計調査年報』における破産の新受事件数である.この件数は,原則として債務者の住所地を管轄する地方裁判所ごとに集計される.地方裁判所は50か所に立地するが,分析の都合上,県ごとに件数を再集計して用いる.これを住民基本台帳に基づく人口1万で除した値を破産率とする.対象とする期間は全県の統計がそろう1972~2012年とする.Ⅲ.破産率の全国推移 推移の特徴から4期に区分されることを仮定して,クラスター分析によって,傾向をとらえた(図1).第1期は1972~1991年で,破産率が平均0.72‱と全期間中で最低である.続く1992~1997年が第2期で,平均4.25件で第1期の6倍程度増加した期間である.第3期は1998~2001年と2008~2012年に分かれているが,2002~2007年は平均16.1‱と,第3期の10.3‱よりも高く,特異な期間と判別された.Ⅳ.破産率分布パターンの変化 第1期は,モランI統計量が平均0.3程度で推移し,弱い集中傾向がみられる(図1).1972年から第1のピーク直前の1981年までは中京圏と大阪圏の府県で,ローカルモランI統計量により有意な高率の空間クラスターが認められた.ただし,九州地方や東北地方で破産率が急上昇したこともあって,このクラスターは1983年には完全に解消した.同時廃止型破産の積極導入は,分布パターンを激変させた一因であることがうかがえる. 一方で,1980年代前半から第4期の2000年代半ばまでのおよそ20年間にわたって,九州地方では高率の空間クラスターが,北関東や甲信越地方に低率の空間クラスターがそれぞれ形成された.この間のモランI統計量は増加傾向で,1996年からの8年間で7年も0.4を超えており(図1),前述の「西高東低」パターンが強まったといえる. しかし,2003年以降はモランI統計量は急低下して,第3期後半の2009・2010年には有意な負の値を示すように,「西高東低」パターンを形成するクラスターは解消している.特に2007年以降の東京都は全国一破産率が高く,2004年からは平均20.7‱と近隣県よりも有意に高率であり,貸金業への規制が強まる第4期以降に,他県とは異なる例外的な特徴を示している.
著者
河野 忠
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.169, 2004 (Released:2004-11-01)

1.はじめに井戸枠はその材質(木材,石)に基づく技術的制約から四角形,もしくは丸形にするのが一般的である.しかし日本各地には六角形,八角形の井戸が40ヶ所程存在する.なぜ六角にするのかという疑問から,まず数字の意味に注目してみた.日本では八は縁起の良い意味で使われるが,六は神聖な数として知られている一方で,墓や地獄などといった事象に通じる数として認識されている.数の意味で六角井戸をとらえた場合,そこには「六」本来の意味とは別の,特別な意味があるに違いないと考えた.そこで,本研究は日本各地の六角井戸の分布や現地調査から,六角井戸が造られた人文,自然地理学的背景を明らかにすることを目的とする.2.六角井戸の分布と故事来歴六角井戸は秋田から沖縄まで,全国各地に見られるが,その分布は京都・奈良,淡路島周辺,長崎・沖縄に集中する傾向が見られた.またその半分近くが海岸付近に存在し,弘法伝説のある井戸が6ヶ所あった.中部地方以北の六角井戸は,元々あった丸い井戸側にあとから六角形の枠をつけたものが多く,正確には六角井戸とは言い難いものであった.京都・奈良は歴史上の人物や史実に基づく井戸が多く,史蹟となっている場合が多かった.淡路島周辺の井戸は記紀や風土記などに登場する古井戸が多く,海岸付近に存在する.長崎の井戸はやはり海岸付近にあるが,中国人が築造して南蛮貿易船などへ水を供給した史実がみられる.3.多角形にする特別な理由沖縄はもともと丸形の井戸側であるが,そこに井戸枠を造る材料として石灰岩のブロックを使用した.このブロックを組み合わせて井戸枠を作るには,小型の井戸は六角形,大型は八角形にすると効率がよい.石の文化圏に属する沖縄ならではの井戸といえよう.一方で神奈川県鎌倉市小坪海岸にある六角井戸は,六角の二辺を逗子側,四辺を鎌倉側が使用する水利権を表すために築造された.これは,六角井戸が朝夕に井戸の利用が集中する際の合理的な対策として築造された典型的な理由であろうと考えることができる.
著者
細井 將右
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

明治16年陸地測量部による地形図作成はドイツ式に変わったが、工兵測量は引き続きフランス式で、参謀本部を含む陸軍の指導者を養成する陸軍士官学校の地図測量教科書『地形學教程』はどのように対応しているか。残されている明治20,30年代ほかの『地形學教程』に明治初期導入のフランス地図測量技術の影響を見ようとするものである。明治28年第三版は巻之一、二と付録の3冊から成る。大まかに見て、巻之一は地形図の基礎知識と利用法、巻之二は自ら行う地図測量法で、こちらは明治9年のクレットマン『地理図学教程講本』の後継といえよう。明治31年に改正、活版洋装本に。明治34年改訂版は巻之一、二と附録の3冊から成る。巻之一、二の内容構成は従来のものをほぼ踏襲、巻之二には、「アリダード二ベラトリース」(測斜照準儀)のようなもののほかフランス語器具名が多数見られるが、その後、器具の選別、国語化が進み、大正時代には、例えば上記の器具は測斜儀となる。昭和15年改訂版でも巻一、二の上記枠組みはほぼ保たれている。
著者
西岡 尚也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

&nbsp;JAMSTEC(海洋研究開発機構)では「黒潮親潮ウオッチ」において毎週水曜日に黒潮流路予測を更新しネットに公開していて大変興味深い.過去の最大蛇行には、紀伊半島沖から鳥島までの蛇行みられる.ここでは沿岸地域との交流以外に、鳥島との交流(漂流)に視点を当てて考察したい.<br>&nbsp; 髙橋(2016)によれば江戸時代を通して数十年おきに、鳥島に漂流民が漂着した.日本列島沿岸部の交流に黒潮が果たした役割だけでなく、鳥島のような「孤島」との関係でも黒潮の役割を忘れてはいけない.<br> &nbsp;本発表では「①黒潮の蛇行」と「②鳥島漂流」さらに「③捕鯨船」に助けられたという偶然に注目し、黒潮と捕鯨文化そしてジョン万次郎の世界地図の意義まで拡大して考察を進めたい。これらは全て沿岸流「黒潮の存在」が結びつけた結果である.<br><br>
著者
河本 大地
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100268, 2016 (Released:2016-04-08)

Ⅰ 背景と目的 「持続可能な開発」は、「将来の世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、現在の世代のニーズを満たす開発」とされる。そのための教育が「持続可能な開発のための教育」で、持続発展教育などとも呼ばれる。以降、本研究ではESDと呼ぶ。日本が大きく関わる形で、ユネスコが世界的に主導してきた。 ジオパークは、日本ジオパーク委員会(2014)によると「地球活動の遺産を主な見所とする自然の中の公園」で、「ユネスコの支援により2004年に設立された世界ジオパークネットワークにより、世界各国で推進されて」きた。 ESDとジオパークは、持続可能な開発を志向する点、ユネスコと密接な関係を持つ点が共通する。そこで本研究では、日本におけるESDとジオパークの関係のこれまでをふりかえり、今後の可能性を検討する。 なお、日本地理学会2015年春季学術大会のシンポジウムにおいて、発表者は「ESDとジオパーク」と題する発表の機会を得た。本研究は、その際にいただいたコメントや、その後の調査や経験等をふまえ、内容を整理しなおしたものである。 Ⅱ 方法 まず、ESDの考え方とこれまでの経緯をみる。次に、ESDとジオパークの関係のこれまでを振り返る。ここでは第一に、両者を掛け合わせた研究や実践事例のレビューをおこなう。第二に、ESDを実践展開する拠点として文部科学省が位置づけるユネスコスクールと、ジオパーク活動との関係を確認する。 続いて、ESDとジオパークの掛け合わせで社会にどんな可能性が開かれうるのか、そのためには何が必要かを議論する。ここではまず、2015年以降のESDのベースとされる「持続可能な開発のための教育(ESD)に関するグローバル・アクション・プログラム(GAP)」の「優先行動分野」が、ジオパークに関してどう実践可能かを検討する。そのうえで、ジオパークは地球科学と地域づくりの掛け合わせという視点から、ESDでジオパークに開かれる新たな可能性を考察する。 Ⅲ 結果と考察 ジオパークでは教育や持続可能な開発が重視されており、理念的にはESDとの親和性が高い。また、ESDとジオパークの双方にユネスコが深く関係している。しかし両者の関係や、ジオパークにおけるESDの実践について、明示的に書かれたものは少ない。また、日本のジオパークでは、文部科学省によってESDの実践拠点とされているユネスコスクールに関して、ほとんど意識されてこなかったことが判明した。ESDとジオパークは基本的にそれぞれ別の道を歩んできたと言える。 では、ESDとジオパークの掛け合わせで社会にどんな可能性が開かれうるのだろうか。そのためには何が必要だろうか。「ESDの可能性を最大限に引き出し、万人に対する持続可能な開発の学習の機会を増やす」ことを目的とするGAPの「優先行動分野」についてジオパークの場合を検討すると、学習環境を整え学習機会を充実させるための組織運営に関して、多くの改善すべき点が見出された。それはたとえば、ジオパーク学習をおこなう学校をユネスコスクールにするとともにESDの実践拠点としての機能を発揮させること、ジオパークに関わるすべての組織において組織全体としてESDに取り組む態勢を整えること、教員養成やスタッフ研修、ガイド養成等にESDを導入すること、ユースの主体的な動きを大事にすること、運営組織を多様な主体が参加できるようにすること、すべての人々がジオパークから学べるよう意識して様々な学習機会をつくることなどである。 一方、学習内容については、GAPからは、学習指導要領に盛り込まれている「持続可能な社会の構築」の観点でジオパークを扱うこと、地形・地質等と気候変動や生物多様性との関係を扱うこと、国際開発協力の視点を持つこと、資源の効率化や社会的責任等の観点を導入すること、ユースが変革の担い手となるよう参加型技能を習得できるようにすることなどが見出された。 続いて、地球科学および地域づくりの観点から、ESDとしてのジオパーク学習の内容を検討した。その結果、地球科学の観点からは第一段階として身近な地域の自然が、第二段階として地球活動のメカニズム理解が見出された。地域づくりの観点からは、第一段階として暮らしと自然の関わりが、第二段階として社会的「折り合い力」の育成が見出された。また、それらの第三段階として、ジオパーク活動を通じた国際理解・国際協力も重要なテーマとなることが示唆された。 以上から、ジオパークを活用して「持続可能な社会づくりの担い手を育む教育」であるESDを進めるには、組織運営と学習内容の変革が必要と言える。ESDの態勢を整え、地球科学と地域づくりから得られる学びを最大化することで、ジオパークを持続可能な社会づくりの担い手を育む場にすることができる。
著者
神田 孝治
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.321, 2013 (Released:2013-09-04)

Ⅰ. はじめに 近年,映像メディアの撮影地を訪れて映像の世界を追体験する、フィルム・ツーリズムが注目を集めている。こうした観光が既存の観光地を舞台とする場合、映像メディアによる同地の空間表象は、それまで魅力を生じさせていたものと必ずしも同じではない。本研究では、映像メディアによってかつてない新しい空間表象が観光地にもたらされた場合、現地の地域社会がどのように反応するのかについて、映画『めがね』の舞台となった与論島と、アニメ『ひぐらしのなく頃に』の舞台のモデルとされる白川郷を取り上げて検討する。Ⅱ.映画『めがね』と与論島 与論島は、沖縄本島の北方約23kmの距離にある、周囲約21.9kmの小さな島である。この地は、1953年から1972年の沖縄本土復帰まで、南西諸島における日本最南端となっており、1970年前後にはサンゴ礁と美しい海の観光地として人気を博した。かかる観光ブーム時の与論島は、若者にとっての「自由」の島、「恋愛」の島であるとされ、ある週刊誌ではそこを奔放な性の楽園として描き出した。そうした与論島の空間表象や、それをもとに展開される若い観光客たちの実践は、地域社会の大きな反発を招いた。しかしながら、沖縄観光の本格化などを背景に、1979年をピークに観光客が漸減するなかで、次第に観光客と地域社会の対立は表面化しなくなっていった。 2007年に公開された映画『めがね』は、この与論島をロケ地としており、そこに新しいイメージを付与している。「何が自由か、知っている」をキャッチコピーとする同映画は、都会から南の島にやって来た女性が、いわゆる観光をするのではなく、何もせず「たそがれる」という内容になっている。この映画は、1970年代の観光ブーム時と同じく、与論島に自由のイメージを喚起する。しかしながらその表象は、男性にとっての性的な楽園から、恋愛等をせずにゆったりとした気持ちでたそがれるという、特定の働く若い女性にとって魅力あるものへと変化している。こうした映画に対して、与論島の住民から反発の声を聞くことはない。そうしたなかで、地元の観光協会は、製作会社の意向や自分で情報を探して来島しようとする観光客の性質などから、大々的に観光宣伝を行わない方針をとっているが、時間が経過するなかで、映画『めがね』を観光に活用する取り組みを着実に進展させている。Ⅲ.アニメ『ひぐらしのなく頃に』と白川郷 白川郷は、1995年に世界文化遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」に登録され、観光地として人気を博している地域である。1994年に日帰り宿泊計約67.1万人であった観光客は、2009年には約173.1万人にまで増加している。同地は近年、観光パンフレット等において、しばしば「日本の原風景」と表象されている。 この白川郷は、2006年に公開されたアニメ『ひぐらしのなく頃に』の舞台のモデルであると考えられたことから、惨劇の村・雛見沢という新しいイメージを喚起することになった。雛見沢のイメージは、のどかな日本の原風景と、その裏に存在する隠された惨劇の村という両義的なものである。かかるイメージを消費する観光客は、世界遺産としての白川郷を訪れる人々とは異なる特徴を持っている。そうした観光客は、主として2~3名グループの若い男性で、多くがインターネットで情報収集し、しばしば白川郷のガイドマップを改変して作成された雛見沢の地図を持参して、アニメで登場したと考えられるポイントを見物するのであり、場合によってはアニメキャラクターのコスプレをしている。 地元の観光協会は、先の与論島の事例と同じく、こうした観光客の性質上、積極的な宣伝を行わない方針をとっている。しかしながら、住民の反応は大きく異なり、一部で許容する声があるものの、アニメの内容やこうした観光客に対して嫌悪感を抱き、そのイメージが白川郷にふさわしくないと考える住民が存在する。こうしたなかで、白川郷においては、同アニメを活用した観光振興の動きを確認することができない状態にある。
著者
西村 雄一郎 森田 匡俊 大西 宏治 廣内 大助
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100321, 2014 (Released:2014-03-31)

1.はじめに 東日本大震災以降、携帯電話やカーナビゲーションシステムのGPSログ、ソーシャルネットワークサービスなどにおける位置情報がついた書き込み、災害情報報道などを含むいわゆる「震災ビッグデータ」の分析が進んでおり、特にそれらに含まれる位置情報を活用したGISによるビジュアライゼーション・空間分析が行われている(渡邉 2012)。これらは、「マスメディア・カバレッジ・マップ」「報道カバレッジマップ」と名付けられており、音声の書き起こしテキストから地名を抽出し、地域区分に基づいて集計されたデータを地図化することによって、報道の地域的な偏りや報道空白地域を明らかにするものであった。 一方、これらの分析で権利処理の関係などから利用されなかったのが震災発生時の放送映像である(村上 2013)。しかし、放送映像には、多くの地理的な情報が含まれており、被災地域のフィールドワークと組み合わせることによって、被災当時の状況や変化を復元することの可能な資料として、また報道と実際の被災状況のギャップを相互に検証することの可能なデータとして利用することが可能である。そこで、本発表では、2012年度に実施された「NHKアーカイブス学術利用トライアル研究Ⅱ」において、2000年9月東海豪雨のニュース映像の閲覧に基づくデータ化・地図化を行うとともに、ニュース映像に基づくデータと被災地域における地理学的なフィールドワークの結果をオーバーレイすることで比較を行い、こうした災害映像の被災状況復元のための利用可能性や限界、また報道内容と実際の被災状況の間にどのようなギャップや齟齬が発生したのかについて検討した。2.NHKアーカイブス災害映像からの地理的情報の抽出 今回東海豪雨を対象として取り上げた主な理由としては、映像が数多く存在し、また報告者らがこれまでに複数回調査を行うなど、被災地域の地理的な環境や詳細な地理的情報を熟知しているためことによる。東海豪雨に関する映像資料の検索・閲覧は、NHKアーカイブズ(川口)で報告者自身が行った。ここでは、全国放送のニュース映像・並びに取材VTR素材の閲覧が可能であり、保存VTRの検索を行うことが可能なデータベースを利用して、東海豪雨に関連する映像の検索を行った。データベース・放送された映像のほとんどには、映像の撮影地点を特定する情報が入っていなかったため、検索された映像にみられるさまざまな地理的要素(交差点名の標識・店舗名を示す看板や広告、また道路・鉄道・街路樹等の形状や起伏、空撮の場合は道路網の形状、建物や堤防等の形状、被害状況など)を既存の地図情報や被災地域でフィールドワークによる景観的な特徴と照合し、撮影地点の特定を行った。3.報道マッピングとフィールドワークによるデータの比較分析 このようにして作成した位置つきの撮影地点情報についてGISを用いてマッピングを行った。当日の発表では、特に名古屋市や周辺地域を含むマッピングの結果ならびに、フィールドワークや実際の被災状況と比較した結果を報告する。文献 渡邉英徳:散在データ間の地理的・時間的関連性を提示するマッシュアップコンテンツの Web アクティビティによる制作,2012.https://sites.google.com/site/prj311/event/presentation-session/presentation-session3#TOC-Web- 村上圭子「震災ビッグデータ」をどう生かすか−災害情報の今後を展望する−,放送研究と調査,pp. 2-25,2012.
著者
卯田 卓矢 矢ケ﨑 太洋 石坂 愛 上野 李佳子 松井 圭介
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100193, 2014 (Released:2014-03-31)

初詣や初宮、七五三などの年中行事・人生儀礼を通じた地域の社寺との関わりは、日本人の宗教的行動の一つとして位置づけられる。この行動に関しては、主に宗教社会学において各種の宗教意識調査を用いた経年的分析が行われてきた。ただ、既往の研究では日本人全般を分析対象とする傾向が強く、特定の地域に視点を置いた考察は十分ではない。特に、農村部とは異なり地域の社寺との関係が希薄な居住者が多く存在するニュータウン地区については、現代日本の宗教的行動と地域との関係を検討する上で重要な対象地域であるが、これまで本格的に論じられることはなかった。一方、宗教地理学では、特定の宗教の地域受容過程や信仰圏を主なるテーマとしており、地域住民の宗教行動(参拝行動)に主眼を置いた研究は行われていない。 以上を踏まえ、本研究ではニュータウン地区を対象に、住民の年中行事(初詣)および人生儀礼(初宮、七五三、厄除け)をめぐる参拝行動と地域との関係について検討することを目的とする。対象地域のきぬの里は常総市の南西部に位置し、常総ニュータウンの一部として1990年後半ごろより開発が行われた。
著者
三上 岳彦 平野 淳平 財城 真寿美
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.18, 2013 (Released:2013-09-04)

江戸幕末期の1850-1860年代は,小氷期の終了期に相当するが,日本では公式の気象観測記録が無いために気温変動の詳細は不明であった。一方,演者らの研究グループでは日記天候記録に基づく18世紀以降の気候復元や19世紀前中期の古気象観測記録の発掘とデータベース化を行っている。そうした一連の研究によって,江戸幕末期に相当する1850-1860年代の夏季気温が一時的にかなり高温化していたことが明らかになった。本研究の目的は、日本の小氷期末に出現した夏季の一時的高温化の実態を明らかにし、気象観測データの得られるヨーロッパや北アメリカにおける同年代の気温変動と比較しながら、高温化が半球的な大気循環場の変動とどのように関連していたのかを考察することである。