著者
寄藤 晶子 天野 香緒理 岡崎 綾香
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1.はじめに<br>福岡県太宰府市にある太宰府天満宮は菅原道真を祀った神社であり、江戸時代から参拝の地として知られる。近年では、天神からの西鉄バス・電車が増便されたほか、中国からのクルーズ船観光がバスで移動する際のルートに組み込まれ、国内外から多くの観光客を集める。本研究では、こうした訪問者の変化に注目し、高度経済成長期以降の参道の土地利用の変化を、とくに店舗数や業種構成の変化とその背景を中心に明らかにする。<br>&nbsp;<br>2.研究の方法<br>「太宰府観光案内冊子」「ゼンリン住宅地図」「住宅案内図」をもとに、1973年・1982年・1992年・2014年の参道地図を作成した。また、太宰府観光案内所・参道各店舗で聞き取り調査と参与観察を行い、店舗数や業種の変化、業種転換の経緯などを明らかにした。<br>&nbsp;<br>3.参道の店舗数・業種構成の変化<br>店舗数は、1973年の52店舗から2014年の61店舗と9店舗増えた。背景には、土地面積の大きい店の分割や、民家の店舗化がある。業種構成をみると、飲食店の減少が目立つ。老舗の食堂では、実質的な食事の提供をやめ、梅が枝餅などの甘味のみの販売にシフトしていた。その背景には、後継者問題や経営者の高齢化により食事の提供が難しくなったことに加えて、観光客の滞在時間の短縮化傾向と、軽食を手に持っての「食べ歩き」行動の増加があるものとみられる。1973年に見られた民家、酒屋や新聞販売店、薬局などの生活品を扱う店舗はほとんど姿を消した。代わって土産・民芸店が目立ち、なかでもチェーン店の進出も顕著である。参道が地元住民の生活に密着していた場所としての意味合いを失い、「観光地」化していったといえる。その「観光地」化の内容も興味深い。1973年当時には、高級博多人形といった博多の民芸品を扱う店が複数あったが、現在では外国人観光客向けに「日本風」を強調した安価な手ぬぐいや扇子、お香などの和雑貨を多く取り扱うものへと変化した。学会当日は地図と合わせて示したい。
著者
谷 謙二
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100061, 2014 (Released:2014-03-31)

1.はじめに 近年、Web地図サービスが質・量ともに向上し、さまざまな地図情報が公開されるようになった。これには、タイルマップという標準化された地図画像形式でWebサーバ上に地図画像ファイルを置くことで、Google Maps APIやOpenLayers等を用いてWeb上で簡単に閲覧システムを構築できるようになったことが公開地図情報の増加に寄与している。筆者は、2005年から旧版地形図を閲覧するためのWindows上で動作するソフト、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ」を開発し、公開しているが(谷 2009,2011)、2013年9月にWebサイト時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(http://ktgis.net/kjmapw/)を公開し、Webブラウザ上で閲覧できるようにした。ここでは、システムの機能と開発過程および利用状況について報告する。 2.システムと機能および開発過程 本サイトでは、ユーザーがWebサイトのファイルにアクセスするとJavaScriptが読み込まれ、Google Maps API v3を使用してWebサーバ上の地形図画像ファイルを読み込んでいく。実行されるプログラムはブラウザ上で動作し、サーバ側にはファイルが置かれているだけでシンプルな構成となっている。図1は閲覧画面であり、左側に収録された過去の地形図画像、右側にはGoogleマップが表示される2画面構成で、位置を特定しやすくするほか、変化もわかりやすい。また、標高に応じた色分けもオーバーレイしている。さらに、街歩き等でスマートフォン等の画面の小さい携帯情報端末でも使用できるよう、ブラウザのサイズに応じてレイアウトが変更されるようにし、現在地を中心に移動軌跡を表示できるようにした。 地形図画像ファイルはWindowsデスクトップ版のファイルを再利用し、フリーソフト「MapTiler」1.0 Beta2を使ってタイルマップ形式に分割した。ただしこれは画像ファイルを1つずつしか変換できないため、重複部分を1つの画像にまとめるツールなどはVB2010で自作した。8地域に関してズームレベル8~16のデータセットを作成し、120万の画像ファイルをサーバにアップロードした。画像ファイルはGoogle Maps APIを用いて表示され、そのための処理をJavaScriptで自作した。8月に作成を開始し、9月15日に公開した。その後も標高を表示する等の改良を行った。3.利用状況  本サイトの情報はTwitter等のSNSを通じて拡散され、最初の半月では1日平均4,400件と大量のアクセスがあったが、それ以降は500~1500アクセス/日で落ち着いている。従来のインストール作業の必要なデスクトップ版に比べ、簡単に閲覧できるWeb版の方が多くのユーザーの獲得という点ではより有効である。過去の地形図は地域の歴史を知るだけでなく、防災や住宅購入の下調べ等様々な用途に役立つので、さらに普及をはかっていきたい。 文 献谷 謙二 2009.時系列地形図閲覧ソフト『今昔マップ2』(首都圏編・中京圏編・京阪神圏編)の開発 .GIS-理論と応用:17(2),1-10. 谷 謙二 2011.時系列地形図閲覧ソフト『今昔マップ2』への東日本大震災被災地域データセットの追加について.埼玉大学教育学部地理学研究報告:31,36-42.
著者
布施 孝志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.225, 2007

<BR><B>1. はじめに</B><BR> 現代に至るまで、東京において数多の都市開発が行われてきた。その対象も、規模を問わず多岐にわたる。これらの開発においては、多かれ少なかれ、地形改変がともなってきた。都市計画による開発の概要は、東京市史稿や区史等において垣間見ることができるが、その中には、地形改変に関する記述を見出すことはできない。更には、個々の小規模開発においては、広く知られていないものも多く存在する。<BR> 一方で、旧版地形図に代表される地図は、作成された時代の都市や地域の姿を雄弁に物語っている。これまでにも、地図を頼りに幾多の開発が行われ、現在の都市の姿があるといえる。その地図を時系列で示せば、都市の歴史を如実にあらわすことができる。<BR> 近年では、GISの技術を用いて、これら旧版地形図をアーカイブ化することにより、その有効活用が期待されているところである(国土交通省国土地理院, 2004)。その結果、時系列情報を統一座標系で管理することが可能となり、比較対照や定量的分析が容易となる。換言すれば、様々な断片的情報を集約し、表現・分析することが可能となるのである。<BR> 以上の背景の下、本研究は、東京都心部における、明治期以降の地形変化を抽出し、地形改変の変化を整理することにより、広く知られていない開発の歴史の発掘を試み、東京の姿を再認識することを目的とする。<BR><B>2. 旧版地形図のデジタルアーカイブ</B><BR> 本研究では、東京都心部における地形改変を網羅的に抽出するために、旧版地形図のデジタルアーカイブ化を行う。対象として、地形表現がなされている初期の大縮尺地形図として、五千分一東京図測量原図(1886、1887発行)に着目する(山口・師橋・清水, 1984)。更に、1909年以降発行されている、1万分1地形図のうち、1909年、1930年(関東大震災後)、1955年(第2次大戦後)、1983年(現図郭に変更後最初のもの)もあわせてデジタル化を行う。なお、対象範囲は、五千分一東京図測量原図にあわせ、東京都心部の7.5km四方とする。これらの地形図を幾何補正によりラスターデータとして整備した。更に、このラスター地形図より、標高点、等高線、水涯線をデジタイジングすることによりデジタル地形モデルを作成し、今後の分析を考慮し、5mグリッドのDEMを整備した。<BR><B>3. 地形変化の抽出・分類</B><BR> 前節で作成した五千分一東京図測量原図によるデジタル地形データと、現在の数値地図5mメッシュ(標高)との差分をとることにより、地形変化箇所の抽出を行う。差分結果のうち、標高値変化の大きな箇所に限定し、土地利用との変化をあわせてみることにより、252箇所を調査対象とした。なお、土地利用変化を追うために、デジタル化していない旧版地形図も、紙媒体のまま適宜参照した。抽出された地形変化箇所を、地形変化の形状、主な土地利用の変化から分類を行う。地形変化形状としては、盛土(盛土、及び崖の盛土)、切土(切土、及び崖の切土)、盛土と切土の両者に分類が可能である。土地利用の変化に関しては、鉄道建設、道路建設、宅地造成、公園等の整備に分類される。<BR><B>4. 地形改変の事例</B><BR> 分類結果より興味深い箇所を例示する。鉄道建設、道路建設の例では、後楽園付近における丸の内線や道路建設のための斜面掘削や九段坂における路面電車開通のための坂の緩勾配化がみられる。宅地造成においては、市ヶ谷台町において、監獄の移転に伴い、谷地が埋め立てられた例がみられる。その他、広く知られていない地形改変の痕跡を確認することができ、東京における都市開発と地形改変の関連性を認識することができた。<BR><B>5. おわりに</B><BR> 本研究では、デジタルアーカイブ化された旧版地形図とデジタル地形モデルを主に用いることにより、地形改変の歴史を追跡し、土木史における旧版地形図の意義を示した。今後は、インフラ整備による開発と、それ以外の開発との分類を行い、都市に与えるインパクトを議論していくことが課題である。<BR><B>文献</B><BR> 国土交通省国土地理院(2004)『基本測量長期計画』<BR> 山口恵一郎・師橋辰夫・清水靖夫(1984)『参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図」測量原図複製版(36面)解題』日本地図センター.
著者
清水 克志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

<b>1.はじめに</b><br><br> 日本におけるキャベツ生産は,明治前期の導入以降,寒冷地である北海道や東北地方で先行し,大正期から昭和戦前期にかけて西南日本へと拡大していった.前者は,キャベツの原産地と風土が類似していたため,春播き秋穫りの作型での栽培が可能であったのに対し,後者は,冬穫りや春穫りの作型の確立とそれに適した国産品種の育成を待たねばならなかったからである.実際に関東地方以西では,アメリカ原産のサクセッション種が導入されて以降,同種をもとにした国産品種が各地で育成され,キャベツ産地が形成された.<br><br> 本報告では,大正期以降に西南日本において形成されたキャベツ産地の事例として,広島県呉近郊の広村(現,呉市広地区)を取り上げ,篤農家による品種改良と産地形成の過程を復原するとともに,当時の日本におけるキャベツの普及に果たした役割を明らかにすることを目的とする.<br><br><b>2.広島県におけるキャベツ生産の推移</b><br><br><b> </b>広島県におけるキャベツの作付面積は,1908(明治41)年には僅か2.2haに過ぎなかったが,大正期を通じて漸増し,昭和戦前期に入ると1929年には100ha,1938(昭和13)年には200haへと急増した.作付面積の道府県別順位も1909年の29位から,1938年には17位まで上昇していることから,広島県は,大正期以降に顕著となる西南日本におけるキャベツ生産地域の一つと位置づけることができる.<br><br> 明治末の時点でややまとまった形でのキャベツ生産は,広島市とその近郊(安佐郡)に限られていた.ところが,大正期には呉市の東郊にあたる賀茂郡の台頭が著しく,昭和期に入る頃には,賀茂郡が広島市や阿佐郡を凌駕していった.1928年を例にとれば,広村におけるキャベツの作付面積(30.7ha)は,賀茂郡全体の95%,広島県全体の33%を占めており,広村におけるキャベツ生産は,広島県内でも際立った存在となっていった.<br><br><b>3.賀茂郡広村における広甘藍の産地形成</b><br><br> 賀茂郡広村(1941年に呉市に編入)は,呉市街地の東方約5kmに位置する(図1).同村は黒瀬川の河口部にあたることから,三角州が発達し,江戸時代を通じて複数の「新開」が開かれた.新開地の地味が野菜栽培に適していたことに加え,呉の軍都化の進展よって,サトイモやネギなどの生産を中心に,近郊野菜産地としての性格を強めていった.<br><br> 1904(明治37)年頃に,玉木伊之吉(1886-1957)がサクセッション種を取り寄せて自家採種を繰り返し,広村での栽培に適した系統を選抜し,「広甘藍」と名付けた.玉木は呉市場で取引されるキャベツをみて,鎮守府での需要に着目し,広村でも栽培可能な系統の選抜を試みたのである.<br><br> キャベツに対する需要は明治末期には,呉鎮守府に限られていたが,大正期に入った頃から一般需要も創出され始めたことを受け,玉木は,1914(大正3)年には450名からなる広村園芸出荷組合を設立し,安定した生産基盤を確立していった.広甘藍の販路は,呉市場にととまらず,昭和期に入る頃には大阪・神戸市場,1932(昭和7)年以降は,東京市場にまで拡大した.<br><br><b>4.大都市市場における「広甘藍」</b><br><br> 第二次世界大戦以前の日本の園芸業について,総覧した『日本園芸発達史』には,「大正より昭和年代に至り最も華々しく活躍した」輸送園芸産地が列挙されている.このうちキャベツ産地は,岩手,長野,広島の3つのみであることから,広甘藍は,戦前期の西南日本を代表する輸送園芸キャベツであったと位置づけることができる.<br><br> 1935(昭和10)年頃の東京市場でのキャベツ入荷をみると,寒冷地の岩手や長野からの入荷が終了する12月以降,東京近在からの入荷が始まる6月までの間には,明確な端境期が存在した.その端境期を埋めるべく,岩手物の後を受けて東京市場へ出荷する産地が,泉州(大阪府南部),沖縄,広島,愛知などであった.当時すでに一年を通してキャベツに対する需要が存在していたことに対応するため,東京市場側では,西南暖地のキャベツ産地の形成を促したが,そのような動向を受け,広甘藍の産地では東京市場へと販路を拡大させていったとみられる.広甘藍は東京市場での取扱量こそ僅少ながら,その平均価格は一年間で最も高い水準にあったことから,高価格での有利販売を狙っていたことがうかがわれる.
著者
池谷 和信
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100224, 2012 (Released:2013-03-08)

1 はじめに 途上国における定期市は、野菜や家畜や衣料品などの流通のなかで生産者と消費者とをつなぐ結節点として経済的に重要な役割を果たしてきた(石原1987ほか)。同時に、定期市は様々な社会集団が相互に交流する場として社会文化的な側面を持つ。これまで報告者は、乾燥帯アフリカにおける牛市・ラクダ市に焦点を当ててフルベやソマリの牧畜民と定期市とのかかわりについて報告したが、ここではモンスーンアジアのバングラデシュの家畜市のなかで豚市に焦点を当てて、地域における豚の流通の実際を把握する。同時に、アフリカとアジアの家畜市における地域間比較の際の枠組みについて考察する。現地調査は、2011年12月にバングラデシュ北部のマイメンシン・ディストリクトを中心に約2週間にわたって行われた。対象地域は、ベンガル系のイスラム教徒が多数を占めているが、豚市に密接にかかわるのはベンガル系の非イスラム教徒およびマイノリティのマンディ(ガロ)の人々である。なお、豚市の分布および豚の売買の概観に関してはすでに報告した(池谷2011)。2 結果と考察 今回の調査では、年中行なわれている2つの豚市(Gaptoli,Shombugon)に加えて、12月から3月までの季節限定の2つの豚市(Bakgahitola, Haluaghat)を訪問した。その結果、「都市近郊型」と「都市郊外型」の2つのタイプに豚市は分類できる。前者は、大部分の購買者がベンガル系ヒンドゥー教徒であり、100km以上離れた地域からの購入者(仲買人)もみられた。これに対して後者では、購買者の大部分は近隣で暮らすマンディの人々である。 後者の事例を詳しくみてみると、マンディはキリスト教徒であり、クリスマス前後の時期の食用のため、およびそれ以降年始までの時期に親族の結婚式ほかなどが集中して、そこで豚を消費するために9-11ヵ月の大型の豚を購入していた。同時に、前回と同様な傾向として3-5ヵ月の小豚を肥育用に購入していた。この場合、飼育してきた豚を対象時期に地域需要に応じて販売するために新たな肥育豚を備えるということもみられた。 2つの季節限定型の市では,大部分の購買者がマンディであり仲買人が豚の群れをそのまま市場に移動してきていた。このため、市の開設時には牧夫が常に群れを監視していた。しかし、どうして市が3月まで継続する必要があるのかは明らかではない。 その一方、市に参与して豚を販売する仲買人の暮らす村を訪問することで、そこには多数の仲買人(ベンガル系ヒンドゥー教徒)が集まっていること、ダッカ市場、チッタゴン市場、本研究が対象とする豚市、近隣地域市場などのように個々の仲買人によって市場が異なっていた。彼らは、自らの群れを所有している人も多いが、別の群れの所有者から家畜を購入する。但し、肉量の大きい成獣を求めるダッカ市場と肥育用の幼獣を求める家畜市への供給では、仲買人の販売戦略が異なっている。 以上、国内の豚流通のなかで家畜市を媒介とする流通の位置づけ、および家畜市をめぐるベンガル系非イスラム教徒と近隣民族とのかかわり方が明らかになった。また、アジアとアフリカでは、家畜の流通における家畜市の役割やその比重が異なっていると考えられる。文献池谷和信2011「バングラデシュにおける家畜市と豚」日本地理学会予稿集石原 潤1987『定期市の研究:機能と構造』名古屋大学出版会
著者
若林 芳樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.20, 2007

<BR>1.はじめに<BR> 2005年に日本地理学会地理教育専門委員会が発表した世界地理認識調査(以下,学会調査と略称)は,マスコミをはじめとして大きな反響を呼び,地理教育の重要性を社会にアピールするのに一定の役割を果たしたことは間違いない.しかしながら,これまでその結果についての詳しい検討はなされていない.この調査で対象になった世界の国々の位置認知は,地理教育だけでなく空間認知研究の対象としても過去の研究の蓄積があるが,それらの成果をふまえて結果を吟味することは,地理教育の課題や対策を考えるのにも役立つと考えられる.そこで本研究は,空間認知研究の立場から,(1)位置認知の正答率を規定する要因として高校での地理の履修がどの程度重要なのか,(2)誤答の傾向や原因は空間認知の一般的性質によってどのように説明できるか,について世界地理認識調査の結果を精査した.<BR>2. 用いたデータと国の位置認知の傾向<BR> 学会調査と同じ質問紙を用いて筆者も独自に法政大学経済学部の地理学の受講者256名(大部分が1~2次年生)を対象にして,2005年4月の授業中に実施した.具体的には,地図上に番号で示された30カ所のうち,名称が示された10カ国がどれに当たるかを選んでもらうという課題である.これと併せて,高校での地理の履修,地理に関わりの深い事項への関心,地図利用度,性別などについても質問した.<BR> 国別の正答率を集計したところ,全体的に学会調査の結果よりやや低いものの,相関係数は0.988とかなり高いことから,解答パターンはきわめて類似していることがわかる.<BR>3.国の位置認知に影響する要因<BR> 国の位置認知については,地理教育分野やSaarinen (1973)をはじめとする空間認知分野での数多くの研究例があり,その一般的な傾向も知られている.それらの知見と学会調査の結果は概ね整合しており,アフリカやアジアの国々に対する知識の乏しさが表れている.<BR> 学会調査では,位置認知の正答率に影響する要因として高校での地理の履修が指摘されており,筆者の調査結果でも,全体的に地理履修者の方が正答率もやや高い傾向はあるものの,5%水準で有意差が認められたのはギリシャだけであった.また,解答者ごとの正答数を求め,地理の履修の有無による平均値の差の検定(t検定)を行ったが,5%水準で有意差はみられなかった.このことから,高校での地理の履修が国の位置の認知に決定的な影響を与えているとはいいきれない.そこで,地理に関係の深い「旅行」,「鉄道などの乗り物」,「登山」,「地図」に対する興味の有無を尋ねた結果と正答率との関係を調べた結果,半数以上の国について統計的に有意差がみられたのは,地図に対する関心の有無であった.ただし,地図に関心があると答えた70人のうち,53%の学生は高校で地理を履修していなかった.このことは,地図・地理に興味や関心を抱く生徒の多くが高校で地理を履修する機会を逸していることを示唆する.<BR>4.誤答の傾向からみた空間的知識の性質<BR> 誤答の傾向を検討するために,国ごとに最も多い誤答例を集計すると,ウクライナ,ギリシャ,ケニアを除いて,いずれも正答の国に隣接する国の位置を解答していた.つまり,誤答した解答者でも,およその国の位置は理解しているといえる.これは,空間的知識が階層的に組織されているという従前の空間認知研究の知見によって概ね説明できる.<BR>5.おわりに<BR> 筆者の調査から得られた結果は,学会調査の結果と概ね一致するものの,正答率を規定する要因については,学会調査とはやや異なる解釈となった.また,誤答にみられる傾向は,空間認知研究の知見によってある程度説明できる.これは空間認知研究,の成果を地理教育の評価や改善に応用できる可能性を示唆している.
著者
今井 理雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

東日本大震災は鉄道インフラに多大な痕跡を残したが,その復旧にあたっては,ルート選定,資金面をはじめ,様々な課題が指摘されている.被災した全ての鉄道路線において全面復旧が予定されるが,不通時の輸送体系や利用者の逸走,復旧後の持続可能性などに不安要素も残される.被災路線は概ね,過疎高齢化の進む地域にあり,輸送需要の下支えとなってきた高校生をはじめとする通学利用が減少傾向にある.仮に鉄道を復旧したとしても,不通時に逸走した利用者が回帰するとは限らず,維持には相当の困難を伴う.しかしながら多くの地域は鉄道の復旧を望んでおり,早い段階で鉄道復旧を果たした地域の事例は,その後の展開に影響を与えるものと思われる.茨城県ひたちなか市に路線を有するひたちなか海浜鉄道湊線は,市が主導する第三セクター事業者であり,被災によって運休を余儀なくされた鉄道のひとつである.最大の被害は,沿線の溜池決壊による軌道敷流出であり,洞門ひび割れ,軌道湾曲,駅ホーム崩落など,被害総額は約3億円弱に及ぶ.被災後,3月19日から代行バスによる輸送を開始するとともに,4月以降は沿線高校の授業開始とともに運行ダイヤを修正(増便)し,集中的な工事の結果,鉄道は6月下旬から順次復旧し,7月23日には全線復旧した.ひたちなか海浜鉄道においては,2009年8月~11月に実施したアンケート調査,乗降調査などをもとに,土`谷(2010)が旅客流動,鉄道存続についての市民,利用者の意向を明らかにしており,さらに豊田(2010a;2010b)が,第三セクター化の過程と沿線住民の意向,鉄道存続に向けた市民活動などについて分析している.また土`谷(2011)では,市民アンケートなどをもとに鉄道サービスの評価を検討している.以上のような知見をもとに,本研究では被災鉄道復旧の課題について,当鉄道を事例に,その一端を明らかにすることを目的とする.本研究では鉄道不通にともなう旅客流動の変化を明らかにするため,代行バス運行時(6月22日金曜日)および鉄道全線復旧後(11月8日火曜日)において,終日全便全旅客を対象としたOD調査を実施した.両調査とも基本的に,乗車時に調査票を配付し,降車時に回収,利用券種の分類を行った.さらに2009年10月末実施のOD調査のデータと比較することで,一連の旅客流動の変化を明らかにする.
著者
佐藤 将
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1.研究目的と分析方法<br>これまで都心部での地価の高さから郊外部に住居を構える子育て世帯が多かったが,バブル経済の崩壊以降は都心近郊に居住する子育て世帯が多くなり,居住選択の多様化がみられるようになった.このように住宅すごろくが変化する中でこれまでの進学・就職時点での居住地選択の研究に加え,子どもを出産した時点での居住地選択を把握する必要もでてきた.報告者はこれまで出生順位ごとの子どもの出産時点での居住地分析から子育て世帯のライフコースごとの居住地動向の把握に努めたが,全体での把握に過ぎず,さらに属性を分解して分析を進める必要が出てきた. そこで本発表では首都圏の対象は特別区に通勤・通学するする人の割合が常住人口の1.5パーセント以上である市町村とこの基準に適合した市町村によって囲まれている市町村とし,その上で0歳児全体を分母とした子どもを出産した時点での核家族世帯数を出生順位別かつ子育て世帯を専業主婦世帯と共働き世帯に分けて市区町村ごとに分析し,居住地選択の地域差について検討した.<br>2.分析結果<br>第1子出産時点の居住地分布について専業主婦世帯では都心中心部で低い一方,特別区周辺の市区において高いことがわかった(図1).共働き世帯では都心中心部で高く,さらに中央線,南武線,東急東横線沿線地域においても高いことがわかった(図2).第2子出産時点の居住地分布について専業主婦世帯では第1子の専業主婦世帯で高かった地域に隣接した地域において高く,共働き世帯では都内および郊外周縁部において高いことがわかった.<br>3.まとめ<br>分析結果を踏まえて出生順位ごとの居住地選択選好の特徴を考察する.第1子出産直後の専業主婦世帯は久喜市,茅ケ崎市と都心から距離がある地域でも高いことから子育て環境を重視した居住地選択をしているといえる.一方,共働き世帯は都心または都心アクセスの容易な沿線が高いことから,交通の利便性,都心への近さを重視した居住地選択をしているといえる.第2子出産直後の専業主婦世帯は第1子と比較して居住地選択が類似あるいは隣接地であることから第1子を出産直後から居住またはより良い住宅環境を求め,近隣から引っ越してきた世帯が多い地域であるといえる.共働き世帯は都心,郊外周縁部ともに職住近接を要因とした居住地選択をしているといえる. このように専業主婦世帯と共働き世帯にわけて居住地選択を見ることで子育て世帯の地域ごとの特徴をつかむことができた.
著者
田上 善夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.100, 2010

I 大規模な気温変化<br> 小春日和や寒の戻りなど季節外れの暖かさや寒さは、比較的広域に継続的に現れ、さらに局地的要因が加わって、地点により冬にも夏日となることさえある。こうした異常昇温や異常降温の発生には、大規模な暖気の北上や寒気の南下のもとでの、フェーンや冷気湖のような局地的現象の影響が考えられる。<br> この時ならぬ暖かさや寒さは、異常に大きな平年偏差として示されるが、平年値として日最高気温や日最低気温、あるいは日平均気温が用いられることが多い。これらによる場合、日単位以下の変化は明らかでなく、また極値の起時は異なるため、総観気候学的解析に適合しないことがある。ここではとくに局地的要因の影響解明のために、時別値の平年値にもとづいての解析を試みる。<br><br>II 時別の平年偏差<br> 気温資料には気象庁のアメダスを基本とし、また日本列島付近の総観気候場の解析には京大生存圏研のMSMデータを用いる。平年値としてアメダスの場合、現在は1979-2000年の平均が用いられている。ここでは対象期間を、アメダス再統計の1996年から2004年とし、この9年間の平均を求めて仮に「平年値」として用いることにする。この期間中の観測で、非正常値が1回以下のアメダス801地点を対象とする。なお2月29日は除き、対象時刻は78,840(9×365×24)である。<br><br>III 異常昇温・降温の出現<br> 地点ごとに平年偏差が、異常昇温は+10℃以上、異常降温は-10℃未満として、期間中の出現数を集計する。異常昇温の出現の多い地点は、北海道東部、三陸、北信越、山陰などに分布する(図1)。また異常降温の出現の多い地点は、北海道東部、東北から中部の内陸部、中国と九州の内陸部に分布する。この異常昇温の出現の多い地点は、日最高気温の平年偏差にもとづいてみた場合と類似するが、北海道東部でより顕著となっている。<br> 各時刻について気温平年偏差の全国平均値を求め、+5℃以上を広域異常昇温、-5℃未満を広域異常降温とする。広域異常昇温の出現の延べ時間数は、1998年、2002年、2004年にとくに多い。また広域異常降温は1996年、2001年、2002年にとくに多い。<br> 月別に集計すると、両者の出現は寒候期に多く、暖候期には少ないが、およそ春と秋に集中する(図2)。ただし両者の出現には差異があり、9月から3月には広域異常昇温の出現がより多く、4月から8月のみ、広域異常降温の出現がより多くなる。またとくに2月には広域異常降温の出現が圧倒的に多く、とくに4月には広域異常降温の出現が多くなっている。<br> なお広域異常昇温の出現がとくに多かった1998年4月や,また広域異常降温の出現のとくに多かった1996年4月などでは、全国平均の気温平年偏差の変動には、7日程度の周期がみられる。<br><br>IV 異常昇温と異常降温の発生<br> 顕著な異常昇温期間として、2004年2月19-23日の変化を示す。この間には高気圧が日本列島付近を東進した後、低気圧が日本海を通過した。昇温の中心域は、およそ西から東に移動していく。とくに中部地方内陸部では、日中の昇温が夜間も維持され、東海地方では日中に昇温が相対的に小さい一方、北陸地方では日中に昇温がとくに大きくなる(図3)。この間におよそ南風が吹走するが、南北での差は日中には大きく、夜間は小さい。<br> 顕著な異常降温の期間として、2004年4月23-27日には、降温は東日本側で大きく、とくに北海道東部から東北地方の三陸では顕著な降温がみられる。この間には低気圧が東北日本を横断した後、弱い冬型の気圧配置となった。降温の中心域はオホーツク海方面から東北南部方面に移動して行く。また平年偏差は、日中にとくに低くなっている。<br> このように時別値からみた場合、異常高温は局地的にはとくに山地風下側に日中に現れやすいが、それには日射による加熱や海風浸入の遮断が要因として大きいと考えられる。また異常降温は局地的には山地風上側に日中に表れやすいが、上層の強い寒気に加えて、下層に侵入した冷気が風上側に滞留することが、要因として大きいと考えられる。
著者
髙井 寿文
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>1.研究の目的<br></b>2006年の総務省『地域における多文化共生推進プラン』により,外国籍住民に対する防災情報の提供が推奨されている.多くの自治体で外国籍住民向けのハザードマップが作成されてきたものの,地名を多言語で表記しただけの地図で彼らが読図できるのか疑問である.そこで本研究では,外国籍住民の事例として日系ブラジル人を対象とした読図実験を行った.そして,彼らにとって分かりやすいハザードマップの地図表現について考える.<br><b>2.研究の方法</b><br>1)調査対象者<br>名古屋市港区の九番団地に居住する日系ブラジル人10名(男性5名,女性5名)を対象とした.調査を実施した2006年2月~2007年1月時点での年齢は20~60歳代,在日年数は1~8年間であり,多くは自動車関連工場で働く労働者である.<br>2)使用した地図<br>ハザードマップの基図の1つに用いられる都市計画基本図(平成12年度版)を用いた.個々の建物の家形枠が表示されているため,地図上で自宅を定位できる.都市計画基本図をベースに要素を追加し,表現の異なる3種類の地図を作成した.いずれも大きさはA2版で,縮尺は2万6千818分の1である.3種類の地図に表記した要素の内容は,それぞれ以下の通りである. 地図A:区の境界線. 地図B:地図Aの要素に加えて,学区の境界線,学区名,鉄道線路,鉄道駅,路線名,駅名. 地図C:地図Aと地図Bの要素に加えて,コンビニエンスストア,ガソリンスタンド,スーパーマーケットのロゴマーク.信号機,国道番号. 地図Bは,現行のハザードマップに合わせた地図表現である.地図Cで追加した要素は,髙井(2004)で明らかにされた,日系ブラジル人がナヴィゲーションの際に用いるランドマークの特徴に基づいている.<br>3)実験の手続き<br>調査対象者の自宅である九番団地と,彼らにとって身近な施設である港区役所および協立総合病院の位置をたずねた.地図A,地図B,地図Cの順番で提示し,九番団地に続けて港区役所と協立総合病院の位置を探し出してもらった.このとき読図しながら頭の中で考えたり思ったりしたことを,意識的に発話してもらった. 地図の紙面全体が収まる画角で8mmビデオカメラを設定し,調査対象者10名の読図の過程を録画した.読図中の発話プロトコルでは,彼らが手がかりとして用いた地図の要素に着目し,地名やサインの時系列での出現のしかたを検討した.また,録画した映像には調査対象者の地図上での手の動きが記録されている.この動作は定量的に把握できないものの,指示した場所は読図中の手がかりとして扱った.<br><b></b><b>3.分析結果</b><br>1)定位した位置の正誤<br>地図Aでは,全ての調査対象者が九番団地を定位できなかった.団地を示す家形枠に類似している工場や倉庫を間違えて定位した者が多かった.地図Bでは,大きく離れて定位した者は減少した.それに対して,地図Cでは10名中8名が正確に定位できた.定位した九番団地の位置と本来の位置との距離のずれは,地図Aで最も大きく,次いで地図B,Cの順に小さくなった.地図Bでは大体の位置に定位できたものの,地図Cの方が,より正しく定位しやすくなることが分かった.一方,地図Cで港区役所または協立総合病院を定位する課題では,いずれも正しく定位できた者は少なかった.<br>2)発話プロトコルの内容と読図中に指示した場所<br>地図Aでは,名古屋港や幹線道路を発話しながら探し出そうとしたが,地図上で指示した場所は,そのほとんどが間違っていた.地図Bでは,最初に名古屋港駅を見つけた後に,地下鉄の線路をたどりながら,次々に駅名の注記や幹線道路を指示した.地図Cでは,全員が九番団地の向かい側にある『サークルK』を発話しながら指示した.この『サークルK』が,九番団地の定位を容易にするサインであることがわかった. しかし,同じコンビニエンスストアのロゴマークがたくさん表記されているために,かえって定位するのに混同した者もいた.このことは,ランドマークを機械的に表記すれば良い訳ではないことを示唆している. 以上の分析から,日系ブラジル人にとって自宅を定位しやすいハザードマップの地図表現が明らかとなった.適切なランドマークを現行のハザードマップに加えると,読図の精度が飛躍的に向上する.たとえばコンビニエンスストアのロゴマークのような絵記号を表記した地図表現が効果的である.<br><b>参考文献</b><br>髙井寿文2004.日本の都市空間における日系ブラジル人の空間認知.地理学評論77(8):523-543.
著者
川添 航 坂本 優紀 喜馬 佳也乃 佐藤 壮太 松井 圭介
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

1.はじめに<br>近年,アニメーションや映画,漫画などを資源とした観光現象であるコンテンツ・ツーリズムの隆盛が指摘されている.本研究は,コンテンツ・ツーリズムの成立による来訪者の変容に伴い,観光現象や観光地における施設や関連団体,行政などの各アクターにどのような変化が生じたかという点に着目する.研究対象地域とした茨城県大洗町は県中央部に位置しており,大洗サンビーチ海水浴場やアクアワールド茨城県大洗水族館などを有する県内でも有数の海浜観光地である(第1 図).また2012 年以降はアニメ「ガールズ&パンツァー」の舞台として商店街を中心に町内に多くのファンが訪れるなど,新たな観光現象が生じている地域でもある(石坂ほか 2016).本研究においては,大洗におけるコンテンツ・ツーリズムの成立が各アクターにどのように影響したかについて整理し,観光地域がどのように変化してきたか考察することを目的とする.<br><br>2.対象地域<br>調査対象地域である大洗町は,江戸時代より多くの人々が潮湯治に訪れる観光地であった.その観光地としての機能は明治期以降も存続しており,戦前期においてすでに海水浴場が開設されるなど, 豊かな自然環境を活かした海浜観光地として栄えてきた.戦後・高度経済成長期以降も当地域における観光業は,各観光施設の整備や常磐道,北関東道,鹿島臨海鉄道大洗鹿島線の開通などを通じ強化されていった.しかし,2011 年に発生した東日本大震災は当地にも大きな被害をもたらし,基幹産業である観光業や漁業,住民の生活にも深刻な影響を与えた.大洗町における観光収入は震災以前の4 割程度まで落ち込む事になり,商工会などを中心に地域住民による観光業の立て直しが模索されることになった.<br><br>3.大洗町における観光空間の変容<br>2012 年放映のアニメ「ガールズ&パンツァー」の舞台として地域が取り上げられたことにより,大洗町には多くのファンが観光者として訪れるようになった.当初は各アクターにおける対応はまちまちであったが,多くの訪問客が訪れるにつれて様々な方策がとられている.大洗町商工会は当初からキャラクターパネルの設置や町内でのスタンプラリーの実施など,積極的にコンテンツを地域の資源として取り入れれ,商店街などに多くのファンを来訪者として呼び込むことに成功した.また,海楽フェスタや大洗あんこう祭りなどそれまで町内で行われていたイベントにおいてもコンテンツが取り入れられるようになり,同様に多くの来訪者が訪れるようになった.これらコンテンツを取り入れたことにより,以前は観光地として認識され<br>ていなかった商店街や大洗鹿島線大洗駅などにも多くの観光者が訪問するようになった.宿泊業においても,アニメ放映以前までは家族連れや団体客が宿泊者の中心であったが,放映以降は1人客の割合が大きく増加するなどの変化が生じた.
著者
能代 透
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100096, 2014 (Released:2014-03-31)

I はじめに 本研究はフランスのZUS(都市優先対策地区)空間の政策を批判的に論じるものである。 フランスの都市郊外での移民系若者と治安部隊との衝突とが「フランスのZUS政策」と深くかかわっている。 その底流に、ムスリム移民と向き合う「ポストコロニアリズム」と国民不可分性(単一性)を憲法に掲げる「共和制国民国家」と、それを揺るがせ多文化主義を促す「EU統合」の動きがあり、その狭間で「トリレンマ(矛盾)」を抱えるフランス共和国のリアリティを都市空間の側面から研究した。II フランス郊外(バンリュー) 郊外(バンリュー)はその特徴により言葉以上に特別の意味をもつ。 かつての城壁都市の周辺地帯に位置しており、フランス特有の経緯による都市構造を形成している。第二次大戦後の復興期の労働者用に1950年代後半から、グラン・アンサンブル計画で郊外に低家賃社会住宅(HLM)の高層住宅団地(通称シテ)群が均衡都市郊外に政策で大量建設された。しかし、交通網、商店街、企業誘致などの街づくりが伴わなかったため都心部(旧城壁内)から隔離され、シテは低所得者層が集住するようになった。 さらに1980年代から脱工業化で、工場閉鎖、大量失業者、産業空洞化が始まり、次第にマグレブ系労働移民者階級が集住する空間となり、年を経て多様性を失い、ホスト社会の差別とセグリゲーションを受けるマグレブ移民二世が集住し、イスラム教義に基づくコングリゲーション(防衛・互助・文化維持・抵抗)が進行し、ジハード(ムスリムの防衛戦)に向かうマグマが増殖する空間となった。 ヨーロッパ最大のムスリム居住国である現在のフランスにおいて、それは「共和制理念とイスラム教義」の観念の対立となり、都市の「危険な均衡」をもたらせている。III 監視・防諜の装置としてのZUS 1995年、アルジェリア系「武装イスラム集団」が関与したとされる爆弾テロが、リヨンやパリで続発していた。 フランスに「同化」していたはずの移民二世が、この組織に加わっていたことが分かり、フランス社会に大きな衝撃を与えた。 マグレブ移民が集住する「郊外」は、イスラム過激派の温床とされ、フランス政府は1996年に都市再活性化協定法で国家権力が自治体との契約統治を超えて、各都市で直接介入できる特定区(ZUS)を郊外(バンリュー)のシテを重点的に指定した。ZUSは表向きには貧困地区対策であるが、監視・防諜装置として誕生し機能した。 そのことは入手したにフランス諜報研究センター(CF2R)の2005年9月付報告書で明らかにされた。1)        それによると、「フランス国内の630カ所の郊外地区(ZUS)の180万人の住民が、移民としての出自の文化や社会と強く結び付き、イスラム過激派が郊外の若者たちの組織化が進み、フランス社会に分裂の危機をもたらす危険性が高まっている」との報告がフランスの防諜機関である中央情報局(RG)から内務省に上がっていた。 これはZUSをムスリムの監視と防諜の装置としていた「証拠」である。 2005年10月、パリ郊外のクリシー・ス・ボアの団地で移民系少年と警官に衝突事件が発生した。 その後にボスケ地区のモスクで抗議集会中のムスリムたちに治安部隊が催涙弾を打ち込んだため、衝突が一気に拡大した。 彼らの精神と結束の拠り所であるモスクへの攻撃を彼らが許すことはなく、権力の治安部隊との衝突がフランス全土に広がった。 IV おわりに 現在のフランスは、約500万人のムスリムが暮らしているが、彼らの「外に見える行為」を実践するイスラム信仰は、フランス共和国の世俗主義の観念になじまない。 移民二世・三世の重層的な空間への帰属意識がアイデンティティの不安定化を招き、フランスで生まれた移民子孫たちが差別を受ける中でイスラムに覚醒していく。 政府がその実態を把握しようとしてもフランスの国民不可分性の理念から一部集団への表立った調査ができず、中央情報局による防諜活動を必要とした。取り上げたZUSは日本でも差別・貧困・荒廃の社会問題として注目されることが多く研究も多いが、本研究ではそのZUSに関する政策・制度をフランス均衡都市の地理学的構造に着目して研究した。  注1)   Centre Francais de Recherche sur le Renseignment、Eric Denécé LE DÉVELOPPEMENT DE L’ISALAM FONDAMENTALISTE EN FRANCE, ASPECT SÉCURITAIRES, ÉCONOMIQUES ET SOCIAUX  Rapport de recherché No.1 Septembre 2005, P7-9 「LA MONTÉE EN PUISSANCE DE L’ISLAM RADICAL DANS LES BANLIEUES FRANCAISES、
著者
喜馬 佳也乃 猪股 泰広 曽 斌丹 岡田 浩平 加藤 ゆかり 松村 健太郎 山本 純 劉 博文
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

本研究で対象とする筑波山は,茨城県つくば市と桜川市との市境に位置する山であり,日本百名山の一つに選定されている.筑波山は二つの嶺を有し,西側の標高871mの嶺が男体山,東側の標高877mの嶺が女体山と称される.南の山麓には男体山と女体山とをご神体とする筑波山神社が鎮座し,門前町が形成されている.本研究では筑波山における来訪者の特性や交通媒体の変化に伴う筑波山門前町の観光空間としての性格の変容とその過程を明らかにした.<br> 筑波山は古代から文献に登場しており,万葉集には歌垣の地として紹介されている.古くから人々に親しまれる筑波山には筑波山神社が古代,知足院中禅寺が781年には建立された.しかし,中世には神仏習合が進んだ.江戸時代には,都の鬼門を守護する山として幕府の保護を受け,中禅寺の南方に門前町が整備された.それによって旅籠や遊女屋,茶屋や土産物屋が集積し,現在まで続く門前町が形成されることとなる.明治時代に入ると,廃仏毀釈によって中禅寺が取り壊され,中禅寺本堂跡地に現在の筑波山神社拝殿が造営された.これにより中禅寺の門前町であった地域が筑波山神社の門前町となった.<br> 門前町は明治時代に一時衰退するも,東京と水戸や土浦とを結ぶ鉄道が整備される中で,再び賑いをみせた.1925年にはケーブルカー,1966年にはロープウェイが設置され容易に登頂できるようになった.また1914年から1987年まで運営していた土浦と筑波山を結ぶ筑波鉄道,1965年に完成した筑波スカイライン,2005年に開通したつくばエクスプレスのように道路や鉄道の整備が行われ筑波山域内および筑波山への交通の利便性が向上した.<br> 筑波山は都心から70 kmという立地もあり,戦前は宿泊を伴う参拝客や,講組織のような団体客が多かった.それが戦後になると,道路交通網の発達や自動車の普及により,バスを利用した団体ツアー客や自家用車による個人客が増加した.しかし,この頃には日光を代表とする関東圏の他の観光目的地へのマスツーリズム形態が進展したことにより,筑波山の観光地域としての相対的地位が低下した.モータリゼーションの進展は,旅館から土産物屋に転向する店舗をもたらしたとともに,筑波鉄道などの公共交通の衰退に繋がり,筑波山門前町の観光地域としての地位をさらに低下させた.<br> 観光地として低迷していた筑波山門前町に新風をもたらしたのが2005年のつくばエクスプレス開通と近年の登山ブームの到来である.2001年に開湯した筑波山温泉も,多くの登山者に利用されている.しかし,登山ブームによって創出された来訪者は交通の結節点となる門前町に食事等で滞在することが少なく,観光地内での門前町の実質的な中心性はそれほど上昇していない.<br> このように門前町では登山ブームにより創出された来訪者を十分に取り込めていない.その背景には,門前町の観光関連施設経営者の高齢化といった地域内部の課題も少なからず関係している.しかし,門前町の活性化には筑波山神社を主目的とする来訪者の存在も必要であり,その意味では御朱印帳などの新たな取り組みは注目される.<br>
著者
平井 松午
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100060, 2012 (Released:2013-03-08)

1.はじめに 江戸幕府は,安政元年(1854)の日米和親条約に基づく箱館開港にともない,翌年2月に松前藩領を除く蝦夷地全域を幕府直轄地とし,明治維新を迎えることになる。この蝦夷地第二次幕領期には,仙台藩・南部藩・津軽藩・秋田藩,安政6年以降はこれに会津藩・庄内藩が加わって,東北諸藩による蝦夷地の分領支配および警衛が行われた。そのため,東北諸藩は蝦夷地の各地に元陣屋や出張陣屋などを構え,数百人規模の藩兵を派遣してロシアの南下政策に備えることとなった(図1)。 本報告は,絵図資料等をもとに,GISソフトを用いて安政期におけるこれら蝦夷地陣屋の位置比定や景観復原を行い,その形態的特徴を明らかにすることにある。2.蝦夷地陣屋の絵図資料と陣屋の構造 東北諸藩による蝦夷地陣屋の建設にあたっては,陣屋建設地の事前見分,警衛持場絵図,陣屋周辺の絵図や陣屋配置図・陣屋建物差図・台場絵図等の作成,地元(東北)での建築部材の調達など,幕府や箱館奉行所の指導の下に準備が進められたとみられる。 これらの絵図や関連文書は,弘前市立図書館,盛岡市立中央公民館,函館市立中央図書館などに残されており,これらの絵図をGISソフト上で重ね合わせることで陣屋景観の3D復原も可能となる。 図2は,津軽藩・南部藩の蝦夷地警衛の拠点となった箱館近郊の千代ヶ台陣屋および水元陣屋の復原図である。ともに,外郭土塁や内郭土塁,水濠などで二重三重に囲繞された堅固な構造を有していたことが判明した。 しかしながら,こうした絵図資料を欠く陣屋も多く,その中には位置比定さえも困難な陣屋もある。報告時には,空中写真や発掘資料なども活用して,他藩の陣屋や出張陣屋についても景観復原を試みる。付記本報告は,平成22~25年度科研費・基盤研究(B)「文化遺産としての幕末蝦夷地陣屋・囲郭の景観復原-GIS・3次元画像ソフトの活用」(研究代表者:戸祭由美夫奈良女子大学名誉教授,ヶ台番号22320170)の成果の一部である。参考文献戸祭由美夫2000.幕末に建設された北海道の囲郭-五稜郭の囲郭プランのもつ意義の研究-.足利健亮先生追悼論文集編纂委員会編『地図と歴史空間』303-315。大明堂.
著者
浦山 佳恵
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

1.研究の背景と目的<br> 近年、生物多様性が人の暮らしにもたらす自然の恵みを&ldquo;生態系サービス&rdquo;とし、その変化を評価する試みがなされている。衣食住や信仰などの文化多様性は、生態系サービスのうち&ldquo;文化的サービス&rdquo;に含まれ、各地の生態系を維持し、人の社会・精神生活を支える礎にもなっているとされる。また、グローバル化が進むなか地域の魅力を高める資産になる、災害などからの回復力(レジリアンス)の源にもなりうる等の指摘もある。しかし、これまで文化多様性の変化について、地域レベルでの解明はあまり進んでいない。<br> 長野県は多様な自然環境を擁し食文化や行事等伝統文化にも多様性がみられるが、近年生物多様性の減少が指摘され、文化多様性へも影響が懸念される。市町村誌類から明治期~昭和30年頃の野生生物を用いた伝統行事について調べたところ、盆行事は野生生物利用の地域的多様性が顕著で、現在県版レッドリスト掲載種となっているキキョウをはじめ盆花の山野からの採取が広く行われていた。<br> そこで本研究では、長野県の文化多様性に生物多様性の減少が与えた影響を把握することを目的に、盆行事の多様性の変化とその要因を明らかにすることを試みた。<br><br> 2.研究方法<br> 文献調査により、盆行事の歴史や長野県における多様性について整理した。次いで、盆行事により区分された県下7地域ごとに1市町村選定し、4~6名の住民に集まってもらい、(1)昭和30年以降の盆行事の変化とその要因に関する聞取りと(2)昭和30年代の盆棚の復元を行った。調査にあたり、長野県で食文化による地域づくりに取組む池田玲子氏に各地域の調査協力者を紹介頂き、調査協力者を通して調査地や話者を選定した。特色ある行事として、諏訪地域の新盆の高灯籠建て、下伊那の念仏踊り等についても現地調査を行った。<br><br>3.盆行事の歴史と長野県における多様性<br> 盆行事の起源は定かでないが、中国で成立した「仏説盂蘭盆経」に基づく寺院での仏教行事が、7世紀には伝来し貴族社会で行われ、鎌倉時代末に家で祖先に食物を供える日となったとされる。各地の盆行事の伝承には固有の祖先祭りの性格が伝えられているともいわれる。伝統的な盆行事は、墓掃除、盆花採り、迎え盆(盆棚作り、迎え火)、送り盆(供物を川等に流す、送り火)、新盆・その他から構成され、地域により多様であった。迎え火と送り火により先祖を送迎するが、盆花採りによって盆花を依代に先祖を迎える、供物を川に流すことで先祖を送るとも考えられていた。長野県でも盆行事は多様で、上記の構成要素によって県下は7地域に区分された。<br><br>4.盆行事の変化とその要因<br> 昭和30年代には各地で身近な野生生物を利用した個性豊かな盆棚が作られていたが、昭和40年以降盆棚の多様性は減少していた。また、キキョウなどの盆花は栽培・購入されたものに変化し、アメリカリンドウやアスターなども用いられていた。その要因としては、勤めを中心とした生活様式への変化、盆花や盆ござ等の栽培・購入化、家の建て替え、高齢化等の社会的要因の他に、盆花や盆ござ等に用いられた野生生物の消失といった自然的要因が聞かれた。しかし、その自然的要因も、圃場整備や薪炭林の利用放棄・農地開発、畑の利用放棄など社会的要因によるものであったことも聞かれた。<br> 送り火と迎え火に用いる燃料の多様性も燃料の購入化により減少していた。供物を川に流すことはほとんどの地域で生活改善事業によって禁止され、供物は個々で処分されていた。諏訪地域の高灯籠建てはかつて新盆の家と親族が山からアカマツ等を伐り出し行っていたが、技術の継承が困難等の理由により行う家が減少していた。<br><br>5.おわりに<br> 長い歴史を持つ盆行事は、先祖を迎えることで故人と残された者、家族、親族、さらには地域住民が繋がりを深める行事であるが、行事を通して人々は山野やそこに生育する野生生物とも密接な関わりを築いてきた。しかし調査からは、社会環境の変化により、行事による自然環境との関わりは減少し、盆行事の多様性も減少している様子が伺えた。一方で、地域の文化を継承しながら生物多様性を保全する取組みは、里山等二次的自然の保全に役立ち、多くの地域住民の参加が得られる可能性がある点で重要である。今後さらに研究を進め、盆行事を地域の資源として再生し、キキョウ等の草原に生育する野生生物を保全する取組みに繋げていきたい。<br><br><br><br><br><br>
著者
谷岡 能史
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

1 はじめに<br>「御用部屋日記」(以下「日記」とする.)は,兵庫県豊岡市にあった出石藩の公式記録である.日記のうち1815年(文化12)~1869年(明治2)の664冊は現存し,豊岡市立図書館のホームページで閲覧できる.今回の発表はここから天候記録を抽出した結果である.<br><br>2 集計方法<br> 今回の発表では,日記において各日の記載の冒頭にある天候に関する記載を集計した.<br>「雨」「小雨」「大雪」などが記され,降水があったと考えられる日の数を降水日数,そうでない日(天候に関する記載がない日を除く.)の数を無降水日数として集計した.<br>また,降水日数のうち,「雪」「小雪」などの記載がある日の数を雪日数,「雨」を雨日数,雨と雪の両方が記載されている日をみぞれ日数とした.「霰」(あられ)と判読できた日もあり,便宜上「みぞれ」として集計したが,「霧」と見分けがつきにくかった.<br><br>3 集計結果<br> 1815~1869年について集計したところ,降水日数は2774,無降水日数は5543,判読不能の日数が39であった.図1はこれを月ごとに示したもので,12~2月に降水日数が多く,5月と8月は少なかった.<br> 時系列でみると,天候記録は1810年代後半と1850年代に多く,1820年代後半と1860年代は少なかった. <br> 冬(前年12月~2月)について,図2に示した中で降雪率が最も高かったのは1845/46年で,1月26日(和暦では弘化2年12月29日)には積雪が5尺に達したという.また,積雪7尺の記載がある1849/50年冬も降雪率が高かった.<br> 7月の降水率について,図3に示した中では1823年・1853年・1861年が0.10を下回った.このうち,1823年は「因府年表」(鳥取)等にも干ばつが記載されていた.逆に,1840年は日記において降水率が0.44と高かったが,「因府年表」には干ばつの記載もあった。しかし,日記で降水率が高いのは7月前半であり,「因府年表」においても7月13日(和暦6月15日)までは雨が多かったと記され,両者はこの点で整合的であった.<br> また,1850年10月8日(嘉永3年9月3日)には北東風を伴った水害の様子が書かれ,他地域との比較による台風進路の推定にも役立つと期待される.
著者
川久保 篤志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1.はじめに 2011年3月の東日本大震災に端を発する福島第一原発の未曾有の大事故は、現在でも事故原因の究明が完全には進んでおらず、避難を余儀なくされている原発周辺住民の帰還の目途も立っていない。にもかかわらず、政府は将来における原発廃止を決定できずにいる。この背景には、国家レベルでのエネルギーの安定供給の問題に加えて、原発の立地に伴う電源三法交付金による地域振興効果に期待する立地自治体等の思惑がある。 では、原発の立地地域では交付金をもとにどのような地域振興が図られてきたのか。本発表では、これまでの研究蓄積に乏しい島根原子力発電所(以下、島根原発)を事例に検討する。島根原発が地元にもたらしてきた交付金は1980年代に入って急増し、2010年までに累計720億円に達しており、その使途について検証する意義は大きいと思われる。 なお、島根原発が立地する松江市鹿島町は、松江市と合併する2005年までは八束郡鹿島町であったため、合併前に建設された1号機・2号機に関する地域振興効果の分析は旧鹿島町域で行い、現在建設中の3号機に関する分析は新松江市域で行うことにする。2.1号機・2号機の建設に伴う旧鹿島町の交付金事業の実態 旧鹿島町は、島根県東部の日本海に面した人口約9000人、面積約29km2の小さな町で、県東部有数の漁業の町として発展してきた。島根原発計画は1966年に持ち上がり、当時は原子力の危険性より用地買収や漁業補償に焦点が当たりながら、1974年には1号機、1989年には2号機が稼働した。 これにより多額の交付金や固定資産税が入ってきたため、特に1980年代と2000年代に積極的に地域振興事業が行われた。旧鹿島町役場と住民へのヒアリングによると、その主な使途は1980年代半ばまでは学校や運動公園、保健・福祉関係等の箱モノ建設が中心だったが、次第に、歴史民俗資料館(1987年)、プレジャー鹿島(1991年)、野外音楽堂(1998年)、鹿島マリーナ(2002年)、温泉施設(2003年)、海・山・里のふれあい広場(2005年)など、娯楽・観光的要素の強い事業が増加してきたという。これらの事業の中で住民から評価が高いのは、小・中学校校舎の新増設や公民館・町民会館の建設で、次代を担う世代の教育と地域住民のコミュニティ活動を活発化させる上で大きな役割を果たしたという。また、1992年の下水道施設の整備も高齢者の多い地元では高く評価されている。 一方、産業振興という観点では農業と漁業の振興が重要だが、農業については水田の圃場整備事業やカントリーエレベーターの新設を行い、生産の効率化・省力化を進めた。また、プレジャー鹿島や海・山・里のふれあい広場では地元の農水産物等の直売が行われた。漁業についても、町内4漁港の整備改修が進められ、恵曇地区に水産加工団地が整備されたた。しかし、これらの事業は一定期間、農業・漁業の維持に貢献したものの、1990年代後半以降には担い手不足から衰退傾向が著しくなった。 また、都市住民との交流促進の観点からは、総合体育館(1998年)・鹿島マリーナ・温泉施設が一定の成果をあげている。例えば、総合体育館は1999年以降毎年、バレーボールVリーグの招待試合を開催しており、2010年以降には松江市に本拠を置くバスケットボールbjリーグの公式戦や練習場として利用されている。鹿島マリーナは贅沢施設に思えるが、町中央部を貫流する佐陀川に無造作に係留していた船舶がなくなることで浄化が進み、かつ、山陽地方の釣りを趣味とする船主が係留料を支払うことで多額の黒字経営を続けているという。また、温泉施設は年間20万人の利用者がおり、夕方以降は常に満員という状況にある。3.3号機の建設に伴う松江市の交付金事業の展開と問題点 2005年に建設着工した島根原発3号機は、出力が137万kwと1号機・2号機を大きく上回っており、その交付金事業は桁違いの規模になった。図1は、これをハード事業(施設の建設が中心)とソフト事業(施設の運営が中心)とに分けて、示したものである。これによると、交付金は着工後に急増して2007年にピークの75億円に達した後、稼働年(2012年予定)に向けて減額されていることがわかる。また、交付金の使途は減額が進む中でソフト事業を中心としたものに変化していることがわかる。なお、発表当日はこの資料をもとに、交付金事業の内容を批判的に検討する。
著者
清水 克志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1.はじめに<br></b> ハクサイは明治前期に中国から日本へ導入された外来野菜である.一般に外来野菜は,「農商務省統計表」に記載が始まる明治後期以前における普及状況の把握が容易ではない.さらにハクサイに限って言えば,①欧米諸国から導入された「西洋野菜」と比較して導入政策が消極的であったことに加え,②明治後期以降も1941(昭和16)年に至るまで,統計では在来ツケナ類などとともに「漬菜」として一括集計されていたことなどにより,普及の概略を掴むことさえ難しい. 本報告では,ハクサイの普及状況について,量的把握が困難な事情を踏まえ,大正期を中心とした近代における『大日本農会報』や『日本園芸雑誌』,『主婦之友』などの雑誌類,栽培技術書などの記述を主たる分析対象とし,当時におけるハクサイ需要の高まりと種子の供給状況を突き合わせることを通して,明らかにすることを目的とする.<br><b>2.普及阻害要因としての「交雑」問題<br></b>明治前期には,政府によって山東系のハクサイ品種の導入が試みられたものの,それは内務省勧業寮と愛知県に限定されていた.ハクサイを結球させることが困難であったため,内務省では試作栽培を断念し,唯一試作栽培を継続した愛知県においても結球が完全なハクサイの種子を採種するまでに約10年の歳月を要した.結球種のハクサイは,「脆軟」で「美味」なものと認識されながらも,明治前期時点における栽培技術水準では「交雑」問題が阻害要因となり,栽培は困難とされ,広く周知されるまでには至らなかった.そしてこの時点では,結球種のハクサイよりもむしろ,栽培や採種が容易な非結球種の山東菜がいち早く周知され,三河島菜などの在来ツケナより優れた品質のツケナとして局地的に普及していった. 日清戦争に出征した軍人が,中国大陸においてハクサイを実際に見たり食べたりしたことを契機として,茨城県,宮城県などで芝罘種の種子が導入されたが,この時点でも「交雑」問題によって,ハクサイの栽培は困難な状況が続いた.日露戦争後の関東州の領有によって,中国や朝鮮にハクサイ種子を採種し日本へ輸出販売する専門業者が成立したため,購入種子によるハクサイの栽培が可能となった.しかしながら,輸入種子が高価であることや粗悪品を販売する悪徳業者の多発など,新たな問題が生じた.<br><b>3.大正期におけるハクサイ需要の高まり<br></b> 大正期に入ると,香川喜六の『結球白菜』(1914年;福岡),矢澤泰助の『結球白菜之増収法』(1916年;千葉),川村九淵の『学理実験結球白菜栽培秘訣』(1918年;東京)など,ハクサイの有用性を説き栽培を奨励する栽培技術書が相次いで刊行された.これら栽培技術書では,①ハクサイの「結球性」に起因する食味の良さと軟白さ,多収性と貯蔵性,寄生虫の害からの安全性などが高く評価されていたことに加え,②純良な種子を吟味して入手することが必要不可欠な条件であること,の2点に著述の力点が置かれていたことが読み取れる. 一方,『大日本農会報』には,1918(大正7)年以降,種苗業者による結球ハクサイ種子の広告の掲載が確認できるようになる.野菜類全般の種子を対象とする業者の広告は明治期からみられ,その中にハクサイが含まれるものも散見されたが,大正期に入ってハクサイ種子専門の業者が登場してくる事実は,ハクサイ種子に対する需要の高さと採種に求められる専門技術の高さを示すものであろう.また種子の価格を比較すると,結球種が半結球種や非結球種に比べ非常に高価であったことも確認できる.<br>&nbsp;<b>4.育採種技術の確立とハクサイ生産の進展</b> <br>大正期も後半になると,ハクサイ栽培に対する需要を背景に,日本国内でハクサイの育採種が試みられ,宮城県や愛知県を中心に各地で国産品種が育成された.その担い手の多くは一般的な篤農家ではなく,より専門的な知識や技術,設備を備えた種苗業者や公的機関であった. 「交雑」という阻害要因が解消され,ハクサイ生産の前提となる種子の供給体制が整ったことにより,昭和戦前期には国産品種の育成地を中心に,ハクサイ産地の成立が急速に進んだ.都市大衆層の主婦を主たる購読者層とする『主婦之友』に,ハクサイ料理に関する記事が初見されるのは1922(大正11)年である.このことは,東京市場において宮城などの産地からハクサイの入荷が本格化する1924年とほぼ時期を同じくして,料理記事が登場していることを意味している.調理法の記事数をみると煮物や汁の実,鍋物などの日常的な家庭料理の惣菜の割合が高い.漬物材料として所与の需要があったハクサイは,同時期の都市大衆層の形成とも連動しつつ,その食生活の中に急速に浸透していったことが指摘できる.
著者
立見 淳哉 筒井 一伸
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

都市から農山村への移住に注目が寄せられ,この現象をどのように理解するかをめぐって,様々な議論が行なわれている。とりわけ大きな影響力を持ったのが,2014年5月のいわゆる増田レポートにはじまる自治体消滅論と「地方創生」をめぐる政策動向である。これに対応するように,移住を行政の人口減少対策として位置付け,地方における「人口」増加に期待する議論が活発に行われてきた。 しかしながら全国の人口推計の結果などを考慮すると,移住による「人口」増加効果は限定的であるのも事実である。報告者の一人である筒井は,人口増加という数的な効果よりもむしろ,新たな人材の流入が既存の農山村コミュニティに,考え・年齢構成・技術・技能等の多様性をもたらし,新たな地域づくりにつながる効果を強調してきた。人口を重視する議論を「人口移動論的田園回帰」とするならば,後者の観点は「地域づくり論的田園回帰」と呼ぶことができる。この「地域づくり論的田園回帰」論は,地域の社会関係や資源との関わりの中で,移住者が自身の「なりわい」とそれを支える関係性(ネットワーク)を新たに形成していく過程に着目するものである。農山村における地域づくりという文脈における,移住者の「なりわい」づくりの「質」的な意義と言い換えても良い。 本報告では,この議論の延長として,筒井らが「なりわい」や「継業」という概念提起を通じて示そうとしてきたような,「田園回帰」のなかで少しづつ形を現しかけているように見える,社会・経済の特質を,私的利益の極大化を目指す通常の「経済」とは異なる「もう一つの経済」という視点から理論的な検討を試みるものである。 参照軸となるのは,フランスを中心とした諸国で,2000年代に入って急速に影響力を増しつつある「連帯経済Solidality Economy」の実践と理論的内容である。そして,連帯経済のガヴァナンスのあり方に関しては,イギリスで提唱され,日本では小田切らを中心に紹介されてきたネオ内発的発展論Neo-endogenous developmentとも親和性があり,この概念を媒介させることで,連帯経済と田園回帰をめぐる議論を架橋することを目指す。 理論的には,連帯経済に関する概念化を担ってきた(一部の,しかし影響力のある)研究者たちが参照し,あるいは近い関係にある,アクターネットワーク理論ANTやコンヴァンシオン理論を本報告でも上記の作業を行う上での導きの糸としたい。<br>
著者
呉 鎮宏
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

&nbsp; &nbsp;近年、訪日外国人旅行者数が増加し続けており、ことにアジアからの旅行者の成長が著しい。また、外国人観光客の観光行動の多様化により、従来の観光地域のみならず、地方への流動も見られるようになった。そこで本研究では、農山村地域におけるインバウンド受け入れに成功した山形県飯豊町における台湾人観光客誘致の取り組みを分析し、その受け入れ可能となった要因と構造を明らかにすることを目的とする。 <br>&nbsp; &nbsp;山形県飯豊町は山形県の南西部に位置しており、総面積の約84%が山林で、県内でも有数の豪雪地帯である。人口は約7,600人で(2015年6月時点)、町の基幹産業は農業であり、主要作物は米作と米沢牛の飼育である。飯豊町の観光・宿泊施設は主に第三セクターの形で運営されているが、近年、設備の老朽化や常連客の高齢化、東日本大震災の影響などによって、観光入込客が減少している。一方、近年の取り組みとしては、飯豊町観光協会(以下「観光協会」)が開催するスノーパーク、なかつがわ農家民宿組合による農村民泊体験等がある。<br>&nbsp; &nbsp; 2008年秋、観光協会に高畠にあるドライブインから「雪遊び」ができる場所について紹介の依頼があり、観光協会は町内の積雪期の未利用地(町有の駐車場)を雪遊びの場として提供することとし、2009年1月に最初の台湾人ツアーを受け入れた。 最初のツアーの経験を踏まえ、次のツアーでは歓迎の意を表すために、雪遊びの会場に台湾の国旗を飾り、帰りのバスに国旗を挿したスノーモービルを並走させて見送るなどの演出を行ったが、この取り組みは台湾人客と添乗員から大変好評を博し、これにより台湾の旅行会社からの継続的な送客に繋がった。 その後、2013年に雪遊びの会場を「スノーパーク」と名付けて、不定期の運営から定期営業を行うことになり、更に日本人客の受け入れを始めた。 しかし、スノーパークは立ち寄り施設であるため、体験料金以外の収入に結び付きにくく、収入は冬に限られてしまう。そこで、一年間を通じた集客をめざし、また台湾人旅行者の滞在時間を延ばすことでもたらされる経済効果を得るため、観光協会は台湾人観光客の宿泊について検討を始めることになった。 その過程で、台湾営業の際、台湾で「田舎に泊まろう」という番組が人気であることを知り、ランドオペレーターとのやり取りの中から、中津川地区の農家民宿を活用した「田舎に泊まろうツアー」が生まれることになった。ところが、農家民宿の経営者は60代以上の高齢者が多く、外国人の受け入れに対して不安を感じていた。スノーパーク受け入れ経験のある観光協会では、農家民宿経営者に対し地道な説得を続け、最終的には「やってみなければ分からない」ということで台湾人ツアーを受け入れることになった。ツアー受け入れを積み重ね、試行錯誤の中で外国人に対するおもてなしの仕方を固めていくことで、スタートした2011年度の92名から、2014年度には222名の受け入れ実績をあげるまでに成長した。<br>&nbsp; &nbsp; 飯豊町における台湾人ツアー受け入れの実務的な流れは以下の通りである。まず、観光協会は年1回程度台湾へ営業に赴き、ランドオペレーターとともに台湾の旅行会社に対して飯豊町の観光コンテンツについて営業活動を行い、それを受けて台湾の旅行会社は、飯豊町の商品を取り入れたツアーを設定して広告・募集活動を行う。このツアーの催行が決まった段階で旅行会社はランドオペレーターを通して観光協会に発注するという手順を取る。 このように、基本的には、観光協会は台湾の旅行会社と直接やり取りをするのではなく、ランドオペレーターを仲介してのやり取りとなっている。このことによって、言語上の問題が解決され、台湾での営業コストも圧縮されて、リスク対策ともなっており、観光協会の職員数が少なく組織が小さくても、台湾人ツアーの受け入れが可能となっているのである。 <br>&nbsp; &nbsp; 台湾人客の受け入れが一過性にならなかった背景には、観光協会が継続的な営業努力を重ねてきたことと、地域内の調整やフォローをこまめに担ってきたことが重要な要素であるといえる。飯豊町の事例をみると、外国人観光客の受け入れに際した地方における人的資源不足の問題は、ランドオペレーターの起用により解消できると考えられる。一方で、仲介役の介入によってサービスを供給する地域とサービスを受ける消費者との間が乖離することにもつながり、観光客のリアルな反応がつかみにくくなり、また常に新しいツアー受け入れが中心となってしまうため、リピーターの育成に結び付きにくい側面があるといえよう。 今回の報告は台湾人観光客自身がどのような志向・意見持っているかについて十分考察できなかった。この点については今後の課題としたい。