著者
鈴木 正夫
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.120, no.1, pp.241-260,

魯迅は長く日記をつけた。その日記は彼の没後に公刊された。その1929年6月20日の条に、内山完造の招きに応じた会食の場で横山憲三なる人物と同席したとの記述がある。『魯迅日記』の注釈には、この横山は中国杜会情況研究のために上海に居住したことになっている。この注釈は内山完造の教示によるものと思われる。ところがこの横山は、軍の特命を受けて諜報活動のために上海に派遣され、身分を秘匿して共産党の動向などを探っていた憲兵大尉であった。魯迅の周辺には若い共産党員らがいた。内山完造の経営する内山書店には、日中の様々な人士が出入りした。横山は魯迅の人脈を調べ、内山書店を足場とした諜報活動をしなかったろうか。魯迅は横山の正体をついに知ることはなかったと判断される。一方、内山完造は営業のために魯迅の名声を利用し、商取引を通じてにしろ日本軍との個人的パイプをもち、それを利用して中国人を軍から護ったと言いうると考える。
著者
新井 克弥
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.117, pp.173-188, 2009

本論文は J. F. リオタールによる〈物語論〉の、わが国における受容と展開についての考察である。〈物語論〉は80年代後半にわが国に紹介されて以来、リオタールの概念とは異なった複数の解釈によってこれが導入され、その混乱が現在も続いている。本論ではその導入過程を辿ることで生じた解釈のねじれを明らかにし、これを修正、統合しつつ、次代の分析装置としての〈物語論〉の構築を試みていく。展開は以下の通り。まず雛形となるリオタールの〈物語論〉を示し、次いでわが国へのローカライズとして、時系列的に大塚英志と大澤真幸の物語論を取り上げる。さらにこれら二つの物語論を折衷するかたちで登場した東浩紀の〈データベース消費論〉を概観し、その理論的な矛盾を〈感情の構築主義〉と大澤真幸の議論を援用して脱構築することで、わが国における今日の〈物語論〉=〈データベース消費論〉の可能性について考察する。最終的に提示されるのは物語論の二つの視座の統合としての物語の今日的態様と文化社会学の概念装置としての〈物語論〉の可能性である。
著者
福圓 容子
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.114, pp.89-107, 2008

シェイクスピアの第一・四部作の全てに登場する唯一の人物は、ヘンリー六世の后マーガレットである。王妃という立場上、王権にまつわる闘争を描いた『ヘンリー六世』三部作において彼女が中心的な位置を占めるのは当然であるが、シェイクスピアは劇のプロットの進行上必要性が無いにもかかわらず、史実を枉げて彼女を『リチャード三世』に登場させた。彼女に与えられたのは、アクションに関わらない部外者として他の人物に対し呪いの言葉を投げかけるという役割である。本稿では、『ヘンリー六世』三部作において描かれるマーガレットの言動が、近代初期の父権制社会の中でどのような意味を持つのかを詳細に検討する。その結果を踏まえた上で、シェイクスピアが『リチャード三世』においてマーガレットを再登場させた理由と彼女に託した呪詛という役割の意味を考察する。
著者
藤原 怜子
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.116, pp.171-188, 2009

2009年のニューイヤー・コンサートで一石を投じたバレンボイムのウィーン伝統音楽の見直しについて、その歴史的意味を考察する。シュトラウスの時代にはなかったウィンナ・ワルツのリズム上の魅惑的な溜めはどのように醸成されたのか。ウィーンの舞踏文化とクラシック界の現状を探りながら、ウィーンの人々にとって、あるいは観光客にとって、そしてメディアの向こうにいる世界中のファンにとって、振り撒かれる魅力の根源に迫る。毎年選出される新たな世界的指揮者のなかで、古楽出身のアーノンクールが目指す真のウィーン伝統音楽の再生は、多くの人々に刺激を与え、その成果が期待されるところである。甘く美しくなりすぎたウィンナ・ワルツに新たな解釈が加わることによって、新生ウィーンの音楽が生れる日は近い。
著者
多ヶ谷 有子
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.126, pp.129-179, 2012

我が国の「甲賀三郎伝説」は、話型の国際分類であるAT301に属すると指摘されている。古英詩『ベーオウルフ』はAT301の元祖ともみなされるが、一方で、この話型に属するか否かの議論がある。本稿は、『ベーオウルフ』と「甲賀三郎伝説」とを話型で比較することを出発点として、AT301の話型が発達していく流れにおける両者の位置を見定め、両者の関連の態様を検討する。結論を言えば、「甲賀三郎伝説」はAT301の話型の流れにあって、ほぼ完成した形を示すのに対し、『ベーオウルフ』はAT301が完成する途上にあるといえる。しかし、両者ともその流れの中にあるという意味で関連している。
著者
郷原 佳以
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.131, pp.121-141, 2014

モーリス・ブランショ(1907-2003)はフロイトの精神分析とどのような関わりをもったのだろうか。まず気づかれるのは、ブランショが同時代の作家や批評家たちと異なり、精神分析を文学に導入することに対してきわめて慎重であり、文学作品の精神分析的解釈を繰り返し批判したことである。文学言語は作者の精神分析には還元しえない「終わりなきもの」への接近であるというのがブランショの見解であった。他方でブランショは、精神分析理論における「反復強迫」や「死の欲動」に関しては、同じ理由から、文学の経験との親近性を見出していた。注目すべきは、ブランショが1956年の論考「フロイト」において、多くの留保は示しながらも、精神分析における「対話」に「終わりなきもの」との関わりを認めたことである。ブランショにとって、精神分析は治癒のための制度である限りでは文学とは相容れないが、その「対話」においては文学の経験と接近するのである。
著者
島村 宣男
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.112, pp.145-179,

最新のハリウッド情報によれば、イギリス・ルネサンス期の詩人John Miltonの傑作叙事詩Paradise Lost(1674)の映画化の企画が進行中であるという。周知のように、聖書は創世記を下敷きにした「人間の最初の不服従」(man's first disobedience)と「あの禁断の木の実」(the fruit of that forbidden tree)の物話である。これは、ときに「アメリカ最初の詩人」という比喩をもって語られるMiltonの詩想の浸透ぶりが、いかに強く、そして深いかを物語っているだろう。本稿は、先に公表した「"It's Milton. Always there"--The Devil's Advocate (1997)」に続き、Miltonの詩想のアメリカ大衆文化への影響のほどを探る試みである。ここで対象となるのは、特異な映像感覚で知られるDavid Fincherの演出によるハリウッド映画Se7en(aka. Seven, 1995)である。ジャンルの上からは所謂「心理的ホラー映画」(psychological horror movies)に属して、複数の映画賞も受賞して世評も高く、知的なメッセージ性を込めた問題作となっている。中世カトリック神学における伝統的な観念の体系、「七つの大罪」(the Seven Deadly Sins)をプロットの下敷きに据え、Miltonをはじめ、Dante, Chaucer, Shakespeareといった中・近世の詩人たちばかりか、Maugham, Hemingway, Capoteといった20世紀作家たちへの引用や言及が目配りよくなされているのがその特徴である。映画の成否は脚本(script)次第とはしばしば言われるが、このユニークな作品の脚本を執筆したのはA . K. Walker、とりわけ興味深いのは、本稿のタイトルの一部にもなっているMiltonの詩句への徹底した拘りである。本稿は、その映画台本(screenplay)の有意味的な台詞を分析することによって、「なぜMiltonか?」("Why Milton?")という文化論的な問いへの解答の一例を提供する。
著者
郷原 佳以
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.119, pp.1-31, 2010

モーリス・ブランショは1960年前後から断章形式に関心を示すようになった。70年代になると「断片的なもの」への傾斜は決定的となり、後期ブランショを代表する二著『彼方への一歩』(1973)と『災厄のエクリチュール』(1980)はいずれも全編が断章形式で書かれている。50年代末から70年代末にかけて、ブランショのなかで「断片的なもの」が大きな位置を占めるようになったことは明らかである。では、その「断片的なもの」とは何なのか。断章形式への傾斜は40-50年代のブランショの文学論といかなる関係にあるのか。そこにはある種の断絶があるのだろうか。しばしば言われるように、断章形式への移行は全体性の形式たる「書物」からそれに収斂しない「エクリチュール」への移行であり、ブランショの「断片的なもの」は全体性と無縁なのだろうか。しかし、だとすると、『国際雑誌』が「全体へのパッション」を持たなければならないと言われるとき、その「全体」とは何なのか。本稿では、『彼方への一歩』を過去のテクストと照らし合わせて読解することにより、これらの問いに取り組む。そこから導き出されるのは、ブランショの思考の断絶ではなく深化である。
著者
岸 功
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.120, pp.91-115, 2010

まず、2100年までの社会保障給付費を六つの部門(医療・年金・介護・雇用労災・生活保護社会福祉・児童手当)別に推計する。それに基いて社会保障の国庫負担合計(社会保障関係費)を求める。また、経済成長率の前提からGDPを得て、国税の税収を求める。一般歳出合計、国債費等を求め、基礎的財政収支と一般会計の歳入余剰を求める。そして、一定の算式により国債残高純増を計算する。こうして国債の残高の推移を求めることができる。財政論的には「国債残高の対GDP比」の収束により財政の持続可能性を判断するが、わが国の場合、経済成長が続けば持続可能であるが、子孫には大きなツケがまわされる可能性がある。国債償還計画をたてた上で、財政再建と成長戦略を実行することが必要である。
著者
小林 照夫
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.119, pp.73-98, 2010

イングランドにおいては、議会主導の政治体制を誘導したのは、「ピューリタン革命」と「名誉革命」である。そして、イングランドではこの二つの革命を通して市民革命が実現した。そのイングランドの特徴は、市民革命を史的事象として実在させながらも、旧体制での権力の象徴であった国王(女王)が国家の首長として機能した点にある。そして、その首長の権力を議会が牽制した。その結果、イングランドの近代化は、議会と国王(女王)が「イギリス近代化車」の両輪として機能し、他の西欧諸国とは異なる近代に向けての独自の絶対王政を歩みはじめた。ブリテン島のもうひとつの王国、スコットランドの移行期となると、その特徴を明確に位置づけることは難しい。何故なら、スコットランドでは移行期の一つの政治体制である絶対王政が、イングランドほど鮮明に形づくられたものではなかったからである。特に、1603年以降の同君連合時代は、スコットランドから国王を送り込みながら、イングランド王国の政治体制に引きずり込まれた形になった。イングランドが17世紀を通して、封建制から近代への移行を自らのものにしたのに対して、スコットランドではそうした史的歩みが見えなかった。17世紀はスコットランドにとって不幸な時代だったのか。1707年の「合邦」は不幸な時代の帰結なのか。本稿では、そうした素朴な問題意識に基づき、17世紀のスコットランドの宗教と政治を主題としつつ、スコットランドの宗教改革の史的現実、一王・二議会制下でのスコットランドとイングランドの関係を、比較史の座標の中で考察することにする。
著者
佐藤 佑治
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.105, pp.131-136, 2005

司馬懿の遼東遠征が持つ意味を、公孫氏政権の盛衰とからめて考えてみた。この遠征の成功は司馬懿の国盗りの本格的なスタ-トとなったのではないかと考えられる。これには倭の女王卑弥呼への王号授与がおおきなヒントになっている。
著者
島村 宣男
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.113, pp.21-51, 2008

アメリカ映画のジャンルの一つに「西部劇」(westerns)がある。アメリカは19世紀末の西部辺境(frontiers)を舞台に展開する人間ドラマは、さしずめこの国の時代劇は江戸期の「股旅もの」に匹敵するだろう。東に一宿一飯の旅鴉がいれば、西には流れ者のガンマン(gunslingers)がいて、編み笠にはカーボーイ・ハット、腰に差した長刀差には腰に吊るした拳銃、寒風吹きすさぶ河原での出入りには砂塵舞う大平原でのガンファイトといった好対照、物語りのプロットは共通して「勧善懲悪」、端から一般大衆の嗜好に見事に適っている。この国の時代劇についても然り、半世紀前にはかの国の西部劇にも John Wayne, Gary Cooper, Burt Lancaster, Kirk Douglas といった大スターがスクリーン狭しと暴れまくり、映画ファンの血をたぎらせたものである。ところがどうだろう、昨今ではその隆盛の面影すらない。本稿は、2007年度に全米で公開されて高い評価を得た西部劇(日本未公開)で、James Mangold 監督作品の 3: 10 to Yuma のなかで描かれた主要なキャラクターの人間性の在り処を検証する試論である。この作品で興味深いのは、主人公の一人を聖書の読者に仕立て、旧約は「箴言」(Proverbs)の聖句を再三引かせていることである。西部劇における聖書の引用は特に珍しいわけではなく、これまでにも、Pale Rider(1985年度作品、監督・主演 Clint Eastwood)や Tombstone(1998年度作品、監督 George P. Cosmatos、主演 Kurt Russell, Val Kilmer)では、ともに新約は「ヨハネの黙示録」(The Revelation)を典拠とする引喩・引用がある。もとより本稿は、映画評論の域を超えるものとして、ことばを中核に据えて見えてくるはずの、アメリカ文化論の構築を企図する筆者の一連の作業に属する。
著者
多ケ谷有子
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.120, no.1, pp.73-107,

14世紀の頭韻詩、Sir Gawain and the Green Knight 解釈の一つの鍵は、1月1日の新年、新年の贈り物、新年のゲームをキー・ワードとする物語構造の仕組みである。本論ではこの物語構造の仕組みと仕掛けに関する考察を通して、貴族的遊びと貴族的精神の重層的意味が読み取れることを明らかにし、一つの読みを提示したい。SGGKの物語の構造を捉えたとき、まず、大きな枠組みとしては、全体がゲームであり、その大枠のゲームの中に、マトリョーシュカのように、いわば入れ子式にゲームが仕組まれている。この物語の構造は『詩編』などに見られるように、キアズマ、コンチェントリックといった詩形を取り入れているが、その詩形には物語の中心テーマが投影されている。したがって、物語全体をゲームととらえ、物語解釈のうえで重要な鍵となるキー・ワードを踏まえ、物語構造から見た一つの読みを試みる。
著者
島村 宣男
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.109, pp.133-162, 2006

仮想された近未来の「ファシズム国家イギリス」を舞台にした大人向けのグラフィック・ノベル(劇画)の傑作に、A. Moore & D. Lloyd, V for Vendetta (1989)がある。その独特の世界観に共感をもつファンも少なくない。1980年代はMargaret Thatcherの超保守的な政権下にあって、社会全体に閉塞感の漂う時代が生んだ作品で、その下敷きになったのは、17世紀初頭の帝都ロンドンで未遂に終わった爆弾テロ事件、所謂「火薬陰謀事件」である。このグラフィック・ノベルの力強い語りの世界を、映画Matrix Trilogy(1999/ 2003)の脚本・監督・製作で広く知られるWachowski兄弟による脚本をもとに映像化したのが、Matrix三部作で撮影監督をつとめたJames McTeigueによる同名の近作(日本公開は2006年)である。この作品の特徴は、そのスタイリッシュな映像はもとより、メッセージ豊かな物語性にある。「血肉」を超える「理念」の強靭さを謳いあげ、2006年度の映画界を代表する一作となった。本稿は、このほど公刊されたシューティング・スクリプトの有意味的な台詞の分析を中心に、V for Vendettaの特異で重厚な物語世界を読み解く試論である。
著者
中村 克明
出版者
関東学院大学文学部人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.128, pp.73-86, 2013

平和的生存権(平和に生きる権利)は,1962(昭和37)年に星野安三郎によって提唱された"新しい人権"である.平和的生存権の法的性格・意味内容に確立した学説は存しないが,この権利の中核に徴兵制の否定があることは大方の承認するところである.国民を強制的に軍隊に徴収し,一定期間,軍事訓練させ,戦争に備えるための徴兵制が,人命・人権尊重の観点からはもとより,平和主義その他の諸点からみても,野蛮で非人道的な制度であることは明白である.今日,軍隊を有する国家において,徴兵制廃止の動きがみられるのも,当然のことといってよいのである.そもそも軍隊は,その目的が何であれ,"破壊と殺戮"を本務とする戦争のための暴力装置である.軍隊は平和を保障するものではなく,戦争を保障するものである.軍隊の保有と徴兵制の制定を望む勢力が現在,政財界において中枢を占めるに至っているが,この制度の復活は国際的潮流に逆行するだけでなく,我が国が戦後培ってきた民主主義体制を崩壊させる危険性が極めて大きい.平和的生存権論のより一層の進展が,強く望まれる所以である.
著者
兒玉 幹夫
出版者
関東学院大学人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.102, pp.41-59, 2004

フランス革命のスローガンであった「自由,平等,友愛」は、広く近代社会の普遍的価値として認められている。自由と平等については、これまでしばしば論じられてきたが、友愛に関する議論は極めて少ない。そこで、まずフランス革命期に友愛思想がどのようにして登場してきたかを追究する。次いで、革命後にサン-シモンが博愛思想を展開するに至る思考過程をたどる。続いてコントによる愛他主義の社会学理論としての性格づけをおこなった。これらの思想をふまえた上で、友愛,博愛,愛他主義の社会学史上の意義を検討して、主観主義と客観主義の両面から研究する必要を主張した。最後に、友愛思想の現代的意義を探り、災害、福祉、国際協力などにおける組織的ボランティア活動に実践としての友愛を認めた。
著者
小林 照夫
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.113, pp.147-168, 2008

「神戸淡路大震災」、「中越地震」と言った大地震をはじめ、日本の各所では大小の地震が発生している。一部の地震学者が言うように、日本は「地殻大変動の時代に入った」のではないかと、危機感を抱いている人も多い。そうした状況を反映して、昨今の町内会の課題は、「自主防災」にあると言っても過言ではない。勿論、それは、地震の脅威に対する地域社会の取り組みであるが、その背景では、NPO「帰宅難民の会」の誕生をみると、戦後の郊外住宅団地の造成に伴う日本的職と住の遠隔地化による震災時の危機感が、強く作用しているように思える。そこで、本稿では、同一コミュニティ内での職住一体化乃至は近接のタウンづくりが現在でも都市構造の本質をなしている英国の都市の歴史を検証しながら、日英地域社会比較文化論と題して、コミュニティの在り方について言及を試みることにした。
著者
多ケ谷有子
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.123, pp.105-139,

イングランド最古の叙事詩Beowulfと渡辺綱伝説のモチーフの類似については、島津久基の『羅生門の鬼』で詳細に論じられて以来、衆目を集め、両者の比較検討も行われるところとなった。本稿は、Beowulfと日本の古典文学における類似するモチーフの比較というテーマの一環として、『古事記』における「国譲り譚」と『出雲国風土記』の「安木郷猪麻呂説話」を取りあげ、類似するモチーフの比較検討を行った。前者については、新来の神/英雄が在来の神/怪物と素手で闘い、相手の手/腕を害し、その結果在来の神/怪物は湖に逃走し、新来の神/英雄に追われて完敗し、国譲りが完成する/斃される、という類似がみられる。後者については、娘/息子を害された父/母が復讐し、斃した相手から片脛/片腕を奪い返し、相手の死骸を曝す、という類似が見られる。本稿では、この類似についての考察を行い、加えて、話型の比較考察をすることの意味を見出し、今後の研究につなげる展望を模索した。
著者
多ヶ谷 有子
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:21898987)
巻号頁・発行日
vol.134, pp.71-92,

1901年英国のY. PowellがBeowulfと渡辺綱伝説の類話性を指摘、同じ頃東大で小泉八雲が同様な指摘を講義、1903年G. L. Kittredgeが、1909年W. W. Lawrenceが両者の類似に言及した。1907年栗原基らは両者の関連に興味を示した。1929年、島津久基は両者の関連を詳細に論じ、伝播を前提する必要性を否定したが、呼応して、瀧川政次郎、藪田嘉一郎は伝播を主張した。1998年、黒田彰は島津説を尊重しつつ、なお何らかの関連性の可能性を論じた。筆者はBeowulfと日本の古典文学との類似モチーフを多年論及して来たが、本稿では『古事記』の「国譲り譚」と『出雲国風土記』の「安木郷猪麻呂説話」を取りあげる。前者については、新来の神/英雄が在来の神/怪物と素手で闘い、相手の手/腕を害し、その結果在来の神/怪物は湖に逃走し、新来の神/英雄に追われて完敗し、国譲りが完成する/斃される、という類似がみられる。後者については、娘/息子を害された父/母が復讐し、斃した相手から片脛/片腕を奪い返し、相手の死骸を曝す、という類似が見られる。類話の収集と研究は継続されるべきであり、Beowulfと渡辺綱伝説の関連性もさらに検討されるべきである。