著者
高瀬 弘一郎
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.1-24, 1983-05

論文
著者
五野井 隆史
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.60, no.4, pp.495-517, 1991

論文特集対外交渉史はじめに一 トンキン初期布教に関する史料二 使節派遣の経緯三 使節のマカオ・トンキン往還四 トンキンにおける使節 (一) 国王鄭氏との接触 (二) 情報の蒐集 (三) 教化活動おわりに
著者
木幡 順三
出版者
慶應義塾大学
雑誌
哲學 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.71-95, 1977-01

1) Obwohl die Wortbedeutung der "Rhetorik" vielfach ist, kann die Sache der Rhetorik heute noch ein gewisser Forschungsgegenstand der wissenschaftlichen Asthetik sein. 2) Bei Platon und Aristoteles haben sich die Urteile uber die Rhetorik ganz anders gebildet : wahrend Platon sie nicht fur techne hielt, erkannte doch Aristoteles ihren technischen Charakter an. Dass die schonen Kunste sich auf sogenannte "kunstlerische Wahrheit" grunden, wusste Aristoteles genug, und die Besonderheit ihrer modifizierten Kategorien hat nun wohl einen mit der Rhetorik gemeinsamen Horizont : pistis. Die Rhetorik enthalt diejenigen Momente, die andernfalls asthetische Werte tragen konnten, 3) Welche Position zeigt denn die Rhetorik innerhalb vieler Kunsten (artes) an? -Im Wesentlichen gehort sie zur "praktischen" Kunst und ausserdem zur "poie-tischen" und "theoretischen" (nach H. Lausberg). Sowohl nach den generibus als auch den partibus artis zeigt deutlich die Rhetorik eine technische Kompliziertheit. Geschweige denn in Bezug auf die schonen Kunste. 4) Uberzeugtsein ist gewiss die gemeinsame Erfahrung der Rhetorik und des asthetischen Erlebnisses. Enthymema als rhetorische Schlussfolgerung, Paradeigma als rhetorische Induktion - beide fuhren uns zum subjektiven gefuhlsevidenten Uberzeugtsein. Dieser Zustand konstituiert sich auf dem glaubhaften Horizont (Pistis-horizont), Pathos und Ethos verschlingen sich dabei miteinander. Die Rhetorik hat uberdies noch hypokritische Momente, die seit Aristoteles schon strukturell nicht genug erklart worden sind. 5) Die Rhetorik loste sich bisher in der literarischen Technik auf, aber sie drang nicht weiter in alle Zweige der schonen Kunste ein. Und doch bleibt sie impliciter auf dem Gebiet heutiger Massenkomunikation. Die philosophischen Meditationen daruber warnen uns jetzt vor kultureller Gefahrlichkeit. Deshalb mussten wir ernstlich fragen - Wohin die Rhetorik?
著者
井上 坦
出版者
慶應義塾大学
雑誌
哲學 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.117-137, 1966-03

[I] 平等の根拠をめぐる二つの立場[II] ルソーについての法実証主義的解釈[III] ルソーの自然権論[IV] 自然権と自然法の区別[V] 自然権の根拠 : より高次の根拠の探求[VI] 社会的平等の目的[VII] 社会的平等の保障Selon les auteurs recents, l'idee de droit naturel ne joue pas de role important dans la theorie sur les droits de l'homme de J.-J. Rousseau, si meme elle y occupait une place quelconque. L'egalite de droits naturels des hommes donc n'est pas reel non plus chez lui. Je voudrais montrer, au contraire, ce qui est suivant. (1) Rousseau a pose le droit naturel pour fondement du droit civil qui concerne sur l'egalite parmi les hommes. Il affirme que le contrat social garantit les droits de l'egalite et de la liberte, mais ne les fonde pas. (2) A l'en croire, toutes les regles du droit naturel decoulent de deux princepes anterieur a la raison, c'est-a-dire, l'amour de soi-meme et la pitie naturelle. Donc Rousseau a refute la notion de la loi naturelle tant qu'elle signifie la loi de la raison. (3) Suivant lui, les hommes sont egaux parce qu'ils se ressemblent. Leur egalite consiste aussi dans une identite de situation et de destinee ; elle " exprime leur commune misere, leur commune faiblesse. Les hommes ne sont naturellement ni rois, ni grands, ni riches ; tous sont nes nus et pauvres, tous sujets aux mfseres de la vie, aux dou-leurs de toute espece. Enfin, tous sont condamnes a la mort. Voila ce qui est vraiment de l'homme. (Emile, Liv. IV) Voila le veritable fondement de l'egalite naturelle des droits humains.
著者
岡本 良知
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.12, no.2, pp.173-180, 1933-05
著者
伊東 剛史
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.77, no.2, pp.329-359, 2008-12

論文はじめに第一節 調和の喜び第二節 骨相学と人間の自己認識第三節 教育と意志の力第四節 変容する「幸福な家族」の肖像おわりに
著者
今宮 新
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.155-177, 1944-07

1 0 0 0 OA 守部學の成立

著者
中井 信彦
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.45-99, 1942-09

一 幸手蓬壺の守部二 「神風問答」から三 「神道辨」へ四 安田躬絃五 村田春海六 守部學の成立
著者
川上 多助
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.1-53, 1932-03
著者
小林 澄兄
出版者
慶應義塾大学
雑誌
哲學 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.309-331, 1958-11

文部省の「教育課程審議会」は、昨年(昭和三十二年)十月道徳教育の時間特設をきめ、また同省の「教材等調査研究会」は、今年三月小・中学校の道徳教育の実施要綱をきめて、それぞれが文部大臣に答申され、いよいよ今年四月の新学年からこの実施要綱にもとづく道徳教育が、特設される時間その他の時間に、各学校で行われることとなった。この既定の事実の前後を通じて、道徳教育に関する世間の論議は、まことにうるさいほどさかんであった。まさにあめいぜんそうの観を呈した。現にそうである。このようなことは、日本の教育史上未曾有の現象だといってよい。マス・コミュニケエションの流行のせいでもあろうが、道徳教育をとくに必要とする事情が日本の社会に現存するからにほかならぬと判断される。それにしても、このようなことは、私の知る限りでは、今日どこの国にも類例はなく、日本にだけある現象であって、欧米の教育界・教育学界などでも、道徳教育に関する多少の論議がないではないが、あまりさわぎ立ててはいない。もっと落ちつきはらっている。どうしてこのようなちがいが出てきたかということも、不思議といえば不思議である。道徳教育の時間特設の必要はないとか、各教科とくに社会科が道徳教育を引受けてやりさえすればよいとか、特設時間において実施要綱にもとづく徳目教授をすることになるであろうから、それはよくないとか、むかしの修身教授にもどって国家主義の道徳教育を復活させる意図であろうとか、現在の政府や与党の「ためにする」道徳教育であるから、教育の中立性を犯すことになるとか、その他いろいろの臆測的論議が全盛をきわめてきている。そのなかで、文部省の考え方ややり方を批難する声の方が一方的に高いようである。私は、以下、これらの問題をめぐって所感を述べるほか、道徳教育のあるべき筋道を明らかにすることを、この論文のねらいとしようと思う。しかし与えられた紙幅に限りがあるから、十分に意をつくすことはできないであろう。
著者
伊東 裕司
出版者
慶應義塾大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2006

目撃者が,容疑者を含む複数の人物の顔を見て,目撃した犯人がいるか,いるとしたらどの人物かを判断するような揚合に,事前にその顔を思い出し言語記述することは,判断の正確さにどのように影響するだろうか。言語記述が顔の再認を妨害すること(言語隠蔽効果)を報告する研究がある一方,促進することを報告する研究,効果がないことを報告する研究もある。本研究では,顔の再認記憶に言語記述が及ぼす効果について,妨害,促進効果の生起条件,生起メカニズムを明らかにすることを目的とする。再認時に記憶の全体的,非分析的な側面が優位であれば妨害効果,部分的,分析的な側面が優位であれば促進効果が生じる,保持期間が長くなるなど記憶が衰えると部分的,分析的な側面が優位になるとするBEASモデル(Itoh,2005)の仮定を軸に3つの研究が行われた。第1の研究では,保持期間が長くなると顔の記憶の部分的,分析的な側面が優位になることが,コンピュータで合成した顔刺激を用いた再認実験から明らかになった。またこの優位性は,課題状況によって引き起こされる構えが原因である可能性が示唆された。前半部分はBEASモデルを支持し,後半部分は支持しないが,更なるデータの収集が必要であると思われる。第2の研究では,言語記述を要求されない場合でも自発的な言語記述が顔の記憶を妨害する可能性が示された。この現象に実際に言語がかかわっているかどうかについての検討を現在計画中である。第3の研究では,顔以外の記憶材料(雲,指紋)を用いて,符号化時に全体的,非分析的な側面と部分的,分析的な側面のいずれかに対する処理を,Navon図形を用いた課題によって促し,言語記述の効果を検討することで,モデルの仮定を検討した。モデルの仮定を支持するデータが得られたが,データ数が十分とはいえず,さらにデータを収集し,より確かな結論を得るべく,継続の研究を行っている。
著者
大西 広 田上 孝一 瀬戸 宏 松井 暁
出版者
慶應義塾大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2013-04-01

本研究の多くの部分は研究代表者・分担者が所属する社会主義理論学会の協力を得た。特に中国の研究者との交流を重視し、2013年12月に12名の中国人研究者を招き、「中国特色社会主義の行方と理論問題」の主題で第四回日中社会主義フォーラムを開催した。2015年4月には中国人研究者1名を招き講演会「『さあ「資本論」を読んでみよう』について」を開催した。2016年3月には四名の中国人研究者を招き、「中国社会主義の多様性」を主題に第五回日中社会主義フォーラムを開催した。いずれも社会主義理論学会と当科研費プロジェクトの共催である。参加者・集会報告などはいずれも社会主義理論学会HPに掲載されている。
著者
中井 忠男 秋山 誠一郎
出版者
慶應義塾大学
雑誌
体育研究所紀要 (ISSN:02866951)
巻号頁・発行日
vol.7, no.1, pp.49-62, 1967-12

I. 目的ならびに調査方法 1. 目的 2. 対象 3. 質問紙II. 結果 1. プロフィルについて 2. 各類型について 3. 体育会各部についてIII. まとめ
著者
柳瀬 昇
出版者
慶應義塾大学
巻号頁・発行日
2009

本稿は、2009年5月までにわが国での導入される予定の裁判員制度の意義を、公法学及び政治学の領域において昨今きわめて注目されている討議民主主義(deliberative democracy)理論に基づき、再構成しようとするものである。第1編では、この制度を創設する裁判員法(裁判員の参加する刑事裁判に関する法律)の立法過程の分析を通じて、制度がそもそも目指していた意義と制度設計上の論点について考察するとともに、裁判員制度の概要を整理する。ここでは、裁判員制度が、単純な民主主義の理念に基づく司法の民主化のためではなく、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資するべく設けられたものであるということを確認する。第2編では、現代民主主義理論の転回者として注目されている討議民主主義理論について、公法学及び政治学における主要な議論を踏まえて、その内容の明確化を図る。これは、公共的な事項の検討・決定にあたって、十分な情報に基づく個人の内心における熟慮と他者との間の討議という過程によって形成される選好を重視すべきであるとする民主主義理論である。第3編では、第1編及び第2編を受けて、この新しい民主主義理論に基づき裁判員制度の意義を再構成することが可能であり(制度設計者の意思などにこの理論と通底するものがあるため)、かつ、妥当である(裁判員制度の憲法解釈論上の2つの難点を克服しうるため)ということについて論証し、この理論が裁判員制度の設計や運用に関して、どのような示唆を与えるかについて検討する。裁判員制度の意義を討議民主主義理論に基づき再構成するならば、この制度は、国民が刑事事件の裁判という公共的な事項について、検討し、決定するという1つの「公共的討議の場(forum for public deliberation)」を創設するものであるといえる。そして、それを通じて国民の公民的徳性(civic virtue)を涵養することを、制度導入のもう1つの意義として挙げることができる。This paper attempts to formulate a new interpretation of the purpose of the saiban-in (lay judges) trial system from the perspective of the theory of deliberative democracy.The saiban-in trial system means participation of the general public in the criminal justice system, which will be implemented in Japan by May 2009. In the first part of this paper, I analyze the legislative process of the Law for Implementation of the Saiban-in System in Criminal Court Procedures (Act No. 63 of 2004), which institutes this trial system. Additionally, I consider the expected purpose, the controversial issues concerning the institutional design and basic structure ofthe saiban-in system. Thereby, it becomes apparent that this trial system is designed not for democratization of the judiciary but for enhancement of the power and authority of the judiciary.In the second part, I explore what deliberative democracy is. The theory of deliberative democracy now attracts a great deal of attention in the fields of both constitutional and political theories. It is commonly believed that this turned the democratic theory in the twentieth century drastically. This theory respects the value of people’s well-informed deliberations and requests to make a consideration or a decision on public affairs based on refined preferences after suchdeliberations.Based on the preceding parts, in the third part of this paper, I first demonstrate that it is possible and appropriate to propose a different interpretation of the purpose of the saiban-in system according to the theory of deliberative democracy. The reason why my proposal is possible is that some founders of this trial system seem to strongly sympathize with this new democratic theory. The reason why it is appropriate is that this theory can provide answers to two questions that this trial system has for its constitutionality. The second point that requires clarification is to examine what this democratic theory suggests about the saiban-in system. On interpreting the saiban-in system from the standpoint of deliberative democracy, we can understand that this trial system establishes a sort of forum for public deliberation, where people deliberate about criminal cases that are public affairs and make decisions. We conclude that to cultivate people’s civic virtues through deliberation is another meaning of the saiban-in trial system.
著者
清水 潤三
出版者
慶應義塾大学
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.118-119, 1942-09

書評
著者
細谷 誠
出版者
慶應義塾大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2014-04-25

(1)PENDRED症候群特異的iPS細胞の樹立:PENDRED症候群患者3症例から採血を行い疾患特異的iPS細胞を樹立した(2)内耳PENDRIN陽性細胞の誘導法の確立:これまでに内耳PENDRIN陽性細胞の誘導方法は知られていなかった。今回、新規誘導法を樹立し、iPS細胞から内耳前駆細胞マーカー陽性細胞を経て内耳細胞特異的マーカーおよびPENDRED症候群の原因遺伝子であるPENDRINの発現を示す内耳PENDRIN陽性細胞の誘導法を確立した。誘導法の効率化も行いほぼ100%の細胞でPENDRINを発現する高効率誘導法の確立にも成功した。(3)疾患iPS細胞から誘導した内耳PENDRIN陽性細胞と、正常コントロールラインから誘導した内耳PENDRIN陽性細胞の細胞生物学的特性の比較:疾患iPS細胞から誘導した内耳PENDRIN陽性細胞と正常コントロールラインから誘導した内耳PENDRIN陽性細胞の細胞生物学的特性の比較を行い、ストレス脆弱性を疾患iPS細胞から誘導した内耳PENDRIN陽性細胞では示すことを発見した。(4)疾患iPS細胞におけるゲノム編集技術を用いた遺伝子変異修復:疾患iPS細胞に対してTALENを用いてゲノム編集(遺伝子修復)を行い、H723R homo 変異ラインにおいて、1アリルのみ正常化したラインおよび2アリルとも正常化されたラインの樹立に成功した。前述の疾患細胞由来の内耳細胞にのみみられるストレス脆弱性は遺伝子修復により軽減されることを確認した。(5)疾患iPS細胞から誘導した内耳PENDRIN陽性細胞におけるストレス脆弱性をターゲットとした薬剤スクリーニング系の構築とそれを利用した既存薬スクリーニングの実施:疾患細胞由来の内耳細胞にのみみられるストレス脆弱性を評価対象とし、既存薬スクリーニングを行いストレス脆弱性を軽減する薬剤の同定に成功。
著者
上田 修一
出版者
慶應義塾大学
雑誌
Library and information science (ISSN:03734447)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.17-25, 1999
被引用文献数
3

短報The word "kansei" originally means "sensitivity" in Japanese. A somewhat different andexpanded meaning of this word began to be used in Japan, at first in the area of marketing, in1984. Gradually it had been used in various fields, and eventually became a buzzword of the1980s. "Kansei" is an intentionally ambiguous word, meaning some ambiguous and illogicalway of accepting sensible objects, something like "feeling", "sensitivity", and "impression" inEnglish. In 1990s, the concept of "kansei" was introduced to information retrieval research. Experiments with "kansei" keywords consisting of adjectives, have been carried out for the retrievalof pictures and music. Normally steps of constructing and retrieving a "kansei" database are asfollows: (1) to assign "kansei" keywords to images manually; (2) to relate the "kansei" keywords thusassigned with the characteristics (ex. color) extracted from the images; (3) to create a databaseconsisting of images, their characteristics and "kansei" keywords; (4) to retrieve images with"kansei" keywords. Many experiments have shown that such a method of creating databases achieves theoptimal performance in small size databases. Thus, it will be most probable that it cannot beapplied to operational databases.