著者
Junji NAGATA
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.75, no.5, pp.213-235, 2002-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
22

Under the producers' price limitation policy, sugar cane farming in Okinawa cannot exist without rationalizing its management, mainly through the introduction of mechanical harvesting. This has become a serious problem especially in the isolated islands where sugar cane farming and sugar production are the main industries. In this paper, I focused on Minamidaito Island, which is the only area in Okinawa that has introduced mechanical harvesting on a large scale, and examined the actual management of sugar cane farming, based upon a survey conducted in Kita Village in 1988. The conclusion revealed that the mechanization of harvesting did not necessarily serve for the rationalization of the management. The characteristics of the management of sugar cane farming on Minamidaito Island after mechanization are: remarkably increased investment in capital equipment and in farmland improvement, increased cultivation cost needed for new planting and application of fertilizers and chemicals, and increased labor input. These lead to diminishing the income of farmers because problems like how to take advantage of the capital equipment, how to convert the conventional extensive system of cultivation to a labor-intensive, capital-intensive system have not been discussed enough. The liberation from hard labor by the mechanization of harvesting is considered to be the minimum necessity for the young labor force to participate in sugar cane farming. But at the same time, if the mechanization does not lead to the rationalization of its management, sugar cane farming will gradually lose its future labor force, and its status as the main industry of the isolated islands of Okinawa will be lowered.
著者
島津 俊之
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.75, no.2, pp.88-113, 2002-02-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
110
被引用文献数
3 2

本稿は地理学史におけるクリティカル・ヒストリーの潮流に鑑み,明治政府の地誌編纂事業を新出史料に基づいて再構成し,近代日本の国民国家形成との関係性を考察した.一国地誌の編纂は当初民部省・文部省・陸軍省で個別に構想され,文部省は『日本地誌略』を,陸軍省は『兵要日本地理小誌』などを刊行した.陸軍省から正院に移った塚本明毅は『日本地誌提要』を編纂し,さらに「皇国地誌」の編纂を推進した.それを「大日本国誌」に発展させた内務官僚桜井勉の異動は,その中止や地誌編纂事業の帝国大学移管と規模縮小につながり,井上毅文相の裁定と死は当該事業の命運を断った.正院-内務省系統のキーパースンは,地誌編纂の表象的な国土統合機能を主権強化の要件としたが,国民統合の構想には欠けていた.しかし,対外的な国威発揚の用具ともなった『日本地誌提要』は,その記載内容が実質的に国民統合に向けて動員された.かかる「意図せざる結果」は,国土統合や主権強化の諸過程とあいまって,国民国家形成に寄与し得るものであった.
著者
原田 洋一郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.75, no.1, pp.41-65, 2002-01-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
30
被引用文献数
1

本稿では,神岡鉱山栃洞地区での江戸末期における鉱山開発の展開とその地域的基盤について,開発に必要とされた技術者,資金の確保のあり方に注目して検討した.北陸,東海地方には,衰退した鉱山から盛況へ向かいつつある鉱山へと移動を繰り返す金山師が多数存在し,地域に技術者が確保されていた.開発資金は,主に船津町村,高山町の商人によって供給された.とりわけ,山元の船津町村では江戸末期までに戸数が増加し,さまざまな属性の者が居住するようになっており,それらが時期に応じ,経済力に応じて,資金供給,下請稼行,必要物資などの販売など,異なったかたちで開発に関与したことが,開発の継続と盛行に大きく寄与していた.江戸末期には対象地域のような,比較的貧弱な鉱床の開発が広く行われたが,それらの開発は,地域住民の積極的な開発への関与,全国規模での鉱物資源の流通システムの成立によって可能になったと考えられる.
著者
町田 洋
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.37, no.9, pp.477-487, 1964-09-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
9

いわゆる荒廃河川の地形学的な意義を検討するために,長野県の姫川支流浦川を対象にして,過去およそ50年間にすすんだ侵蝕・堆積の過程と,砂礫供給源として下流に与える影響とを明らかにした。 1) 古い火山体の一部である浦川流域の稗田山では, 1911年8月巨大な地すべり性崩壊が発生し,崩壊物質は土石流の形で流下して,崩壊地直下から約6kmの区間の浦川谷を深く埋積し,姫川本流をせきとめた。 2) その後,斜面からの土石の流下が相対的に少なくなるにつれて,埋積谷は水流に刻まれ,段丘化した.下刻は下流部に生じた遷急点の後退という形式ばかりでなく,急傾斜の上流側からも始まり,次第に一様にすすめられた.河床の低下は上流部で100~50m, 中・下流部で30m内外に達した.開析の初期には下刻が急速にすすみ,その後側刻がすすんでいる. 3) 浦川におけるはげしい侵蝕の結果,搬出された多量の砂礫が合流点直下の姫川のポケットに堆積し,この部分の姫川の河床縦断形は浦川によってつり上げられた形となった. 4) 浦川合流点以下の姫川中流部の河床に堆積する砂礫の内容は,その供給源からみて, (a) 稗田山系, (b) 風吹岳系(ともに浦川から搬出される), (c) 姫川上流域系,にわけられる.それぞれの地域の砂礫流下率を,河床礫の岩質別分類を行なって試算すると, 41%, 26%, 33%となった.面積的には姫川上流域の1/21にすぎぬ小渓流浦川の荒廃渓流としての性格が示される.また,砂礫流下量の多い河川の砂礫は,広い流域から一様の割合で供給されるというよりも,ある限られた地域の異常に急速な侵蝕に由来する場合の多いことが示唆される.
著者
千葉 立也
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.51, no.3, pp.235-244, 1978-03-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
41
被引用文献数
2

Electoral geography, which deals, for the most part, with the regional variations in voting behavior, has occupied one of the main field of the study on the political behavior or on the opinion. Some new ways of research have been introduced in this field and these are summarised here in reference to main and important articles of electoral geography. 1) One of the traditional view points represented by Siegfried is that the political opinion is concerned much more with the social integration of the community through the activities and influences of the social, political and economic organizations or groups. Without this point of view, quantification of each socio-economic element would not be able to clarify the complex relations between community and opinion of its residents. 2) On the other hand, the behavioral approach, represented by Cox, considers spatial elements which are important in the behavior and decision and gives its own explanation in the field of geographical studies to the modeling of voting behavior within the spatial context. But many problems remain to be solved; measuring of the network structure, the information flow and the attitude changed by the acceptance of information, tempo-spatial generalization from the results of small-scale sampling survey to large-scale voting characteristics and so on. 3) Kasperson and McPhail, for example, have recently written some interesting articles which show one of the recent trends in this field. This is the dynamic analysis of areal differentiation in voting behavior and its influence upon the political system through the electoral results. These new points of view in electoral geography within the field of political geography should introduce more of the works done in the recent accomplish ments in social geography so as to elaborate the analysis of spatial pattern in voting behavior.
著者
髙橋 由佳矢 河野 忠
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.244, 2013 (Released:2013-09-04)

1. はじめに 静岡県浜松市水窪町の標高654mに位置する窪地にはほぼ7年周期で出現すると伝えられている湧水池がある。普段は水の無い窪地となっていて,スギやヒノキといった人工林に覆われている。湧水池が発生する直前には大量の降水が確認されている。杉森ほか(2001)によると,地質と降水が地下水面に影響し,湧水池が出現すると報告されている。また,400年以上前から出現していたと言い伝えられているが,詳しいことはわかっていない。この池は,今現在も明確な発生条件やメカニズムが解明されておらず,周期的に出現する理由も不明のままである。そこで,本研究では,降水量や現地の自然条件を基に,出現メカニズムを解明することを目的とした。今回は,主に2012年7月と12月に現地調査において湖盆測量を行った結果を報告する。2. 研究対象地域 池の平の池は水窪町奥領家にある亀ノ甲山峠を200m程下った場所の窪地にある。山道は佐久間ダム建設以来,廃道に近い状態である。山道は崩れている箇所が多くあり,山全体が地すべり地であることが伺える。3. 調査・研究手法 現地では,湖盆測量,検土杖を用いた簡易地質調査,湧水と沢水のサンプリングを行い,現地にて電気伝導度,ORP,pH,水温を測定した。持ち帰ったサンプルは役場から頂いた2010年出現時の池の水と共にイオンクロマトグラフィを用いて無機イオン成分の分析を行った。3. 結果と考察 標高654m付近で湖盆測量を行い等深線を示した結果,この池の最大長は130m,最大幅50m,周囲244m,面積4325m2,容積11375m³,となった。 水質分析の結果,2010年出現時のサンプルは各溶存成分量が乏しく雨水と変わらないことが判明した。池の100m程下った場所の沢水は2010年出現時の水質と比較して,各溶存成分量が高くなっていて,特にカルシウムイオン濃度の値は6.73mmg/lの値を示した。4. 今後の研究課題 池水の出現機構解明のために,湖盆に時期水位計を,水窪町役場に雨水採水器と転倒ます型雨量計を設置した。今後は,同位体水文学的手法を用いて涵養源の推定を行う予定である。5.参考文献杉森・佐藤・津田・尾口・小森(2001):遠州七不思議の池 「池の平」 の出現理由.日本地理学会発表要旨集,No.60,147.
著者
岩間 英夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100010, 2013 (Released:2014-03-14)

1.はじめに 東海村は、東日本大地震の津波で東海原子力第2発電所の発電機3基のうち1機が冠水した。外部電源が復旧したため、かろうじて危機を回避できたが、人災が起こっても不思議ではなかった。 発表者は、これまで鉱工業を中心とする産業地域社会形成の研究を行なってきた。本研究の目的は、その視点から、日本の原子力産業のメッカである茨城県東海村を研究対象に、原子力産業地域社会の形成とその内部構造を解明し、かつ原子力産業との問題点を指摘することである。2.東海村原子力産業地域社会の形成 まず、東海村への進出決定の背景を捉える。次に、原子力産業の集積では、1957年8月、日本原子力研究所東海研究所において日本最初の原子の火が灯った。1959年3月には原子燃料公社東海精錬所が開所し、核燃料の開発、使用済み燃料の再処理、廃棄物の処理処分の技術開発を本格化した。1962年、国産1号炉(JRR-3)が誕生した。1966年7月日本原子力発電㈱がわが国初の商業用発電炉である東海発電所の営業運転を開始した。1967年4月、大洗町に高速増殖炉用のプルトニウム燃料開発・廃棄物処理の実用化を目指した大洗研究所、1985年4月、那珂町(現、那珂市)に那珂核融合研究所が発足した。2005年10月、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構が統合して「独立行政法人日本原子力研究開発機構」となり、本社が移設された。 これによって、日本原子力研究開発機構の本社事務所を中核に18の原子力施設が集積、4,386人の職員が研究開発・運営する「日本の原子力産業のメッカ」となった。<BR> 2013年5月現在、東海村の人口は3万7883人で、東海村発足時からは約50年で約3.3倍に増加した。<BR>3.東海村原子力産業地域社会の内部構造 日本原子力研究所の内部構造は、国道245号線に沿った事務所を中心に、臨海部の砂丘地帯に生産(研究開発)機能、国道245号線から原研通りに沿って阿漕ヶ浦クラブ、原子力センター、諸体育施設、原研診療所のサービス機能、そして最大規模の長堀住宅団地、荒谷台住宅団地からなる居住機能が東海駅に近接して造成された。住宅団地の中央部には、商業機能として生活協同組合の店舗・売店が設けられた。このように、日本原子力研究所はその事務所を中心に生産、商業・サービス、居住の3機能からなる1極型圏構造を展開した。同様に、原子燃料公社東海精錬所、東海原子力発電所にも1極型圏構造が展開した。これらの3公社によって、東海村の原子力産業の内部構造は多極連担型となった。 2005年に統合すると、日本原子力研究開発機構の本社事務所を中心に、大洗研究所、那珂研究所も含めて、広域にわたる一大原子力研究開発センターを形成した。その内部構造は、日本唯一の原子力産業による総合的研究開発の1核心(多極重合)型圏構造となった。 これらの結果、東海村の原子力産業地域社会は、日本原子力研究開発機構本社を中核とする、海岸部と村の外縁部に生産地域、村の中央部に位置する常磐線東海駅を中心とする商業地域、商業地域に隣接して公営住宅団地や企業社宅、そして周辺に拡大する職員の持ち家と日立市・ひたちなか市の工業都市化による宅地化が重なって住宅地域が形成した。4.まとめ(原子力産業地域社会の形成と問題点) その結果次のことが明らかとなった。 1. 日本唯一の原子力産業による総合的研究開発型の1核心(多極重合)型圏構造を形成した。しかし、 これは一般的産業地域社会の内部構造であって、核の危険性と安全性を大前提として配慮した原子力産業地域社会の展開とは言えない。 2.1956年の候補地選定条件においても、津波に関しては全く触れていなかった。アメリカからの原子炉導入を含めた安全神話が先行し、日本の自然環境の特性をも踏まえた日本人による原子力の主体的研究が欠落したまま今日に至っている。 3.東日本大震災後義務づけられた避難区域で換算すると、20㎞圏内の警戒区域で人口約90万人が、半径120㎞圏に放射能が拡散したら、首都圏を含む約2000万人が避難しなければならない。もはや避難が現実的に無理であるとするなら、東海村は原発などの危険施設は除去して対応する段階にきている。

3 0 0 0 OA 地名の話(上)

著者
柳田 國男
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.8, no.5, pp.422-440, 1932-05-01 (Released:2008-12-24)
著者
竹村 利夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.51, no.9, pp.721-729, 1978-09-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
20
被引用文献数
1 1

The Takashozu fault system, running NE-SW direction, is located at the northwestern foot of the Takashozu Mountains, Toyama Prefecture, and separates the Tonami Plain from the high mountains. Along the fault line, several kinds of fault topographies have developed, such as terminal facets, kern cols, kern buts and valleys flowing parallel to the strike of the fault. At Inami and Akasobu, the Miocene andesitic rock has thrusted up from south to north onto the terrace gravels of the middle and upper Pleistocene ages. The Takashozu fault has dislocated vertically the several levels of terrace surfaces here and there along the fault line. The higher the terraces are, the larger the amount of displacement is. In the drainage basin of the Sho River, it is inferred that not only Pleistocene terraces but also Holocene terrace gravel beds have been cut by the fault activities. In the southwestern part of the Tonami Plain, the gradient of the terrace surface is steeper in the older terraces. The valley dissecting the higher terrace surfaces shows an asymmetric form, i.e., the valley walls of the northern side are generally steeper than those of the southern side. It would be considered that the principal factor forming this asymmetric valley topography is the continuous upheaval of the mountains located to the south of the plain.
著者
岩塚 守公
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.33, no.3, pp.97-104, 1960-03-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
1
被引用文献数
1 2

Flood damages are brought frequently on the land of Japan by heavy rainfall in typhnon season (from middle August to late September) and the rainy season (from early June to middle July), and her communities suffer a large amount of loss by those damages. In 1958, from Sept. 26 to 27, a large scale typhoon (So called the Kanogawa Typhoon) attacked the eastern Japan (Fig, 1), and the followed heavy rainfall caused violent flood damages on several parts in these regions. The distribution of rainfall at that time was very complicateb (Fig. 2), and an extremely heavy rainfall were concentrated on the middle part of Izu Peninsula, Tokyo metropolitan area and another several regions. The characteristics of disasters, however, much differed in each regions, in accordance with their physio-and socio-characters. In Tokyo metropolitan area, the extensive alluvial plain develops to the east, and flood damages happened often there by overflowing from large rivers (the Arakawa, the Edogawa and Tamagawa etc.). But rainfall distribution brought by that typhoon was somewhat un usual and the rain did not concentrate on the upper part of these large river area but on the place near Tokyo Bay. So, by overflowing rlom small rivers, flood damages were more severe in and around the low upland and the hill to the west of city than on the extensive alluvial lowland along to these large rivers. The total amount of flooded houses reached to about 460 thousands at that time. Kanogawa is a small stream which runs in the nouthern part of Izu Paninsula. The disaster occured in the Kanogawa river basin was characterized by the violent inundation, covered almost whole lowland in this river basin, and the severe damage, caused by this inundation: for example, 1, 273 of people were killed and injured, the amount of flowed and destroyed houses exceeded the number of flooded houses and the amount of flowed and buried arable lands are much more than the quantity of flooded (Table 1). Chiefly from the physical points of view, we tried to make clear the causes which brought the disasters in this river basin. These causes may be briefly summarized as follows; 1) The extremely heavy rainfall concentrated on the upper part of this river basin, and theextremely volumenous runoff took place very rapidly, because of the full saturation of the land surface by foregoing much rainfall and the steep gradient of the river and its branches. 2) Moreover, bridges obstructed the flowing of runoff and temporarily reserved more volumenous water behind them. So, when these bridges were destroyed, the extremely volumenous runoff flowed suddenly downwards. 3) Consequently, the volume of maximum discharge far exceeded the estimated hiqh waten dis charge flood and the bank was broken at everywhere. The bank on undercut slopes of meander course were especially destroyed than others. 4) At the mountain region, many landslides and debris flows occurred, and the debris flows caused some damages on roads and horseradish (Wasabi) fields which are the important fields for the cash products in this region.
著者
熊原 康博
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.334, 2013 (Released:2013-09-04)

1.はじめに 発表者は,太平洋戦争直後に撮影された縮尺2万分の1米軍空中写真の地形判読により,群馬県南東部の太田市東部から桐生市西部にかけてのびる活断層(太田断層)を発見した.本発表では,地表踏査および,群列ボーリング調査,トレンチ掘削調査の結果を報告する.また,本断層の最新活動時期や地盤災害の痕跡の時期や分布から,本断層が818年(弘仁九年)の起震断層である可能性についても議論する.本研究は文部科学省による「地震及び火山噴火予知のための観測研究計画」の支援を受けた.2.断層変位地形 本断層は、渡良瀬川の西側に沿って認められる南-北走向~北西-南東走向の少なくとも長さ18kmの活断層である. 断層の南部では,断層崖を境に利根川起源の中位面(館林面),扇状地面,旧利根川の河道が,東側低下の変形を受けており,その変位量は古い地形面ほど大きいことから累積的な変形が示唆される.断層崖の幅が100mに達する撓曲変形をなすことや,断層上盤側で盛り上がる地形が認められることから,西傾斜の断層面をもつ低角な逆断層と想定される.利根川左岸までは館林面の変形を指標として,本断層を認めることができるが,右岸は利根川の浸食/堆積が著しく,本断層の南延長については不明である. 断層の北部は,渡良瀬川の向きと断層の走向がほぼ平行になるため,河食崖と断層崖との区別が困難であった.八王子丘陵の東縁沿いでは,丘陵を開析する谷の谷口に小規模な扇状地が形成されている.これらの扇状地は南東側低下の撓曲変形を受けていることが,写真判読からは認定される.ただし現在では土地改変が進んでいることから詳細は不明である. 3.群列ボーリング調査 太田市龍舞において,断層に直交する測線で5本の群列ボーリング調査を行った.その結果,下部の礫層上面を指標とすると約4.3m,浅間板鼻黄色軽石(YP:13~14ka降下)を含む砂層上面を指標とすると2m程度の東側低下の高低差が断層崖直下で認められた.これは,礫層堆積以降少なくとも2回の断層変位が認められること,YP以降に最新活動があったことを示す.4.トレンチ掘削調査 ボーリング調査と同地点で,断層崖を横切るトレンチ掘削調査を2回実施した.トレンチ壁面からは,傾斜する2つの地層とそれらをアバットする水平な地層が認められた.傾斜する下位の地層(A層)は,上部にYPを含むラミナをもつ砂層であった.YPを鍵層として地層の傾斜の変化をみると,トレンチ西側で水平であったYPが東(崖基部)に向かって徐々に傾斜が急になる.また,A層の上位にはYPの傾斜と同じ程度の傾斜である腐植質粘土層(B層)も認められ,14C年代値の内最も若い年代はAD540-650である.一方,B層を覆う水平な地層(C層)も認められ,浅間Bテフラ(As-B: AD1108降下)を含み, 14C年代値の内最も古い年代はAD770-980年であった. 一般的に腐植質粘土層は水平堆積することから,B層が断層変位を受けた地層、C層を変位後の地層とみなした.最新活動の時期は,両者の14C年代値からAD540-980といえる.最新活動の垂直変位量は少なくとも1.2m以上であるが,B層の上部が欠落しているため,正確な量は不明である. 5.古地震の記録,周辺の地盤災害の痕跡との関係 トレンチ掘削調査で得られた断層活動の年代からは,本断層が、『類聚国史』の記事に記された,関東地方における818年の大地震の起震断層の候補となりうる.また,群馬県南東部や埼玉県北部では,噴砂・地割れ跡など強い地震動が生じたことを示す地盤災害の痕跡が多くの考古遺跡から報告されてきた.この地域は,榛名二ッ岳渋川テフラ(Hr-FA)とAs-Bの降下範囲であるため,噴砂・地割れの発生年代を両テフラ降下間(6世紀初頃~1108年)に限定され,早くから818年の地震との対応が指摘されていた.これらの古代の地盤災害は,本断層から20km以内に分布し,本断層の活動に伴って発生した可能性を示唆する.6. 太田断層で発生する地震の予測 太田断層の全長(長さ18km)から,断層全体が一度に活動した場合,M6.9程度の地震が発生することが予測される.ただし,利根川右岸の埼玉県北部でも,古代の噴砂・地割れ跡が多数認められることを考えると,さらに断層が南へ延びる可能性は高い.そのため,地震の規模もさらに大きくなると予想される. 本断層の活動履歴について検討する.YP以降に断層活動があったことは確実である.最新活動の垂直変位量が1.2m以上である一方,YPを指標した場合,その量は約2mである.したがってYP以降の断層活動が1回か2回かは厳密には明らかにできない.ただし,中位面のその量は3~4mと小さいことから,活動間隔は長いものと考えられ,YP以降に1回の可能性が高い.
著者
青野 靖之
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.17, 2013 (Released:2013-09-04)

17世紀以降に江戸(東京)で書かれた古記録類から得られたサクラの植物季節データを用いて、3月平均気温の復元を試みた。西暦1636年から1905年までで判明した合計207年分のヤマザクラの満開日により、17世紀中盤以降の3月平均気温の推移が明らかになった。解析の結果、17世紀後半と19世紀初頭に寒冷な時代のあることがわかった。これらの低温期は、京都における3月の気温の復元推移にも共通して現れており、太陽活動のマウンダー極小期(17世紀後半)とドルトン極小期(19世紀初頭)に対応したものである。マウンダー極小期とドルトン極小期における江戸の3月平均気温はそれぞれ、およそ4℃、5℃とみられる。
著者
松本 正美
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.49, no.10, pp.655-668, 1976-10-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
45

筆者は1975年の6月に Harvey の処女作“Explanation in Geography”(第15章まで)の邦訳を完了した.それを機会に,現代地理学め歴史と構造とを整理してみようとしたのが本稿である.我が国のこれまでの地理学史や地理学方法論は,地理学の「対象」や,それを取り扱う「方法」に関する議論に終始している.しかし,そのような「対象」や「方法」の論理は,「主体」の論理に先行されねばならない.本稿はその論理を「人間の人間化」と規定し,その論理を詳述するとともに,それをHartshorneからHarveyへの流れに沿って具体化している.人間が「生理的人間」から「知的存在」を経由して「志向的意識の主体」へと純化されるにつれ,その各段階にそれぞれの地理学が存在し,しかも人間の規定様式が地理学の内容を制約するのである.現代地理学の構造と歴史は,英文要旨の中に図表化しておいた.これらの認識が,地理学そのものを洞察する唯一の手段であると信じる.
著者
小野 映介 矢田 俊文 海津 颯 河角 龍典
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100029, 2015 (Released:2015-04-13)

1596年慶長伏見地震の際に,現在の徳島県鳴門市の撫養(むや)地区が隆起し,入浜塩田を営むことが可能になったとする史料が存在する.本研究では,史料に書かれた内容の信ぴょう性について,地形・地質学的な側面から検討を行った.入浜塩田では潮の満ち引きを利用して製塩を行う.したがって,その立地は地形条件によって制限される.撫養地区の塩田が鳴門南断層の上盤に広がっている点,塩田の開発域の南限が鳴門南断層とほぼ一致している点,16世紀に鳴門南断層が活動し,0.5~1.0 mの上下変位を生じたと考えられることなどを勘案すると,地震性隆起が塩田開発の契機となったとする文書の内容は事実である可能性が極めて高いと判断できる.
著者
伊藤 修一
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100103, 2014 (Released:2014-03-31)

Ⅰ.はじめに 破産は債務者の財産状態が悪化して,債権者への債務完済が不可能となることを指し,日本では破産法に基づく裁判手続きによって認められる(斎藤 1998).法制度の違いはあるが,アメリカ,イギリス,カナダ,オーストラリアなどの先進国では近年個人の破産が増えており,日本も破産事件の8割以上が個人(自然人)によるものであって例外ではない. 破産事件総数の推移は,法務省『司法統計調査年報』に基づいて,山本(2012)などが定量的に説明している.1980年までは3,000未満だった件数は,1983年の貸金業規制法施行と出資法改正の直前の駆け込み的な取立行為が多かったことや,非事業者の破産に破産宣告(破産手続開始決定)と同時に手続を終了させる同時廃止型破産を積極的に適用されはじめたことによって,同年には2.64万件と,それまでの8倍も増加した(第1のピーク).その後バブル景気に伴って1万件台まで減少したが,バブル経済の崩壊のほか,消費者信用の与信枠が拡大されて,「カード破産」が増加したことで1993年には4.62万件まで急増した(第2のピーク).さらに長引く平成不況は1990年代後半から件数の増勢を促して,2003年には過去最悪の25.2万件に達した(第3のピーク).しかし,翌年の貸金業規制法改正や2006年の貸金業法施行で過払金請求が増加したことなどで減少傾向となり,2012年は第3のピーク時の36.8%にあたる9.26万件に至る. このような破産傾向に地域差があることは,晝間(2003)が指摘している.これによると,各県を1985~1998年の破産率の順位の平均と変動の大きさの組み合わせから9分類した結果,変動が最小のグループのうち,高位は九州・中国地方,中位は四国・近畿地方,低位は中部・関東地方の諸県が占める.一方,変動が最大のグループでは高位に九州地方,中低位には東京圏や中京圏の諸県が含まれている.これは,基本的な分布パターンがいわゆる「西高東低」であって,大都市はパターンの変化に重要な役割を果たしていることを示唆している. この分布は第1と第2のピークの間にみられる特徴であり,全国推移の傾向からは1985~1998年の前後で分布が異なることは容易に推察される.そこで,破産率の全国推移が前述のピークに従って,統計的にも4期に区分されるかどうかを確認したうえで,各年の破産率の分布パターンを空間的自己相関統計量を用いて検討する.Ⅱ.分析データ 本研究で用いる破産事件数は『司法統計調査年報』における破産の新受事件数である.この件数は,原則として債務者の住所地を管轄する地方裁判所ごとに集計される.地方裁判所は50か所に立地するが,分析の都合上,県ごとに件数を再集計して用いる.これを住民基本台帳に基づく人口1万で除した値を破産率とする.対象とする期間は全県の統計がそろう1972~2012年とする.Ⅲ.破産率の全国推移 推移の特徴から4期に区分されることを仮定して,クラスター分析によって,傾向をとらえた(図1).第1期は1972~1991年で,破産率が平均0.72‱と全期間中で最低である.続く1992~1997年が第2期で,平均4.25件で第1期の6倍程度増加した期間である.第3期は1998~2001年と2008~2012年に分かれているが,2002~2007年は平均16.1‱と,第3期の10.3‱よりも高く,特異な期間と判別された.Ⅳ.破産率分布パターンの変化 第1期は,モランI統計量が平均0.3程度で推移し,弱い集中傾向がみられる(図1).1972年から第1のピーク直前の1981年までは中京圏と大阪圏の府県で,ローカルモランI統計量により有意な高率の空間クラスターが認められた.ただし,九州地方や東北地方で破産率が急上昇したこともあって,このクラスターは1983年には完全に解消した.同時廃止型破産の積極導入は,分布パターンを激変させた一因であることがうかがえる. 一方で,1980年代前半から第4期の2000年代半ばまでのおよそ20年間にわたって,九州地方では高率の空間クラスターが,北関東や甲信越地方に低率の空間クラスターがそれぞれ形成された.この間のモランI統計量は増加傾向で,1996年からの8年間で7年も0.4を超えており(図1),前述の「西高東低」パターンが強まったといえる. しかし,2003年以降はモランI統計量は急低下して,第3期後半の2009・2010年には有意な負の値を示すように,「西高東低」パターンを形成するクラスターは解消している.特に2007年以降の東京都は全国一破産率が高く,2004年からは平均20.7‱と近隣県よりも有意に高率であり,貸金業への規制が強まる第4期以降に,他県とは異なる例外的な特徴を示している.
著者
河野 忠
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.169, 2004 (Released:2004-11-01)

1.はじめに井戸枠はその材質(木材,石)に基づく技術的制約から四角形,もしくは丸形にするのが一般的である.しかし日本各地には六角形,八角形の井戸が40ヶ所程存在する.なぜ六角にするのかという疑問から,まず数字の意味に注目してみた.日本では八は縁起の良い意味で使われるが,六は神聖な数として知られている一方で,墓や地獄などといった事象に通じる数として認識されている.数の意味で六角井戸をとらえた場合,そこには「六」本来の意味とは別の,特別な意味があるに違いないと考えた.そこで,本研究は日本各地の六角井戸の分布や現地調査から,六角井戸が造られた人文,自然地理学的背景を明らかにすることを目的とする.2.六角井戸の分布と故事来歴六角井戸は秋田から沖縄まで,全国各地に見られるが,その分布は京都・奈良,淡路島周辺,長崎・沖縄に集中する傾向が見られた.またその半分近くが海岸付近に存在し,弘法伝説のある井戸が6ヶ所あった.中部地方以北の六角井戸は,元々あった丸い井戸側にあとから六角形の枠をつけたものが多く,正確には六角井戸とは言い難いものであった.京都・奈良は歴史上の人物や史実に基づく井戸が多く,史蹟となっている場合が多かった.淡路島周辺の井戸は記紀や風土記などに登場する古井戸が多く,海岸付近に存在する.長崎の井戸はやはり海岸付近にあるが,中国人が築造して南蛮貿易船などへ水を供給した史実がみられる.3.多角形にする特別な理由沖縄はもともと丸形の井戸側であるが,そこに井戸枠を造る材料として石灰岩のブロックを使用した.このブロックを組み合わせて井戸枠を作るには,小型の井戸は六角形,大型は八角形にすると効率がよい.石の文化圏に属する沖縄ならではの井戸といえよう.一方で神奈川県鎌倉市小坪海岸にある六角井戸は,六角の二辺を逗子側,四辺を鎌倉側が使用する水利権を表すために築造された.これは,六角井戸が朝夕に井戸の利用が集中する際の合理的な対策として築造された典型的な理由であろうと考えることができる.
著者
吉川 虎雄 貝塚 爽平 太田 陽子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.37, no.12, pp.627-648, 1964-12-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
18
被引用文献数
23 27

土佐湾北東岸に発達する海鍛丘は,上位より羽根岬面,室戸岬面および沖鷲地に分け皇れ,いずれも南東より北西に低くなる.室戸岬面の高さは南海地震の際の隆起量と正の相関を不し,地震削の沈降量とは負の相関を示す.約120年を周期としておこった大地震の際の室戸岬付近の隆起は,その間の沈降よりも大きく,段丘面の高度分布はこのような隆起沈降を差引した結果である南東より北西への傾動陸起にキって決定されたと考えられる.このような隆起地域であるにもかかわらず,各段丘面の形成過程に沈水期が挾まれているのは,氷期後の海面上昇速度が地盤の隆起速度を上回ったからに他ならない. 室戸岬面は,その地形発達の過程より判断して,約9万年前にはじまる. Riss- Würm問氷期に形成されたと考えられる.室戸岬付近の大地震1周期の問における地盤隆起の平均速度は約2mm/年と算定され,もしRiss-Würm問氷期以後かかる性質の地殼変動が一様に継続したとすれば,室戸岬面は室戸岬付近において約180mの高さにあるはずであるが,これは事実と一致する.また水準測量の結果によると,安田の水準点を基準とした吉良川の水準点の高度は,大地震1周期の問に平均1.2mm/年の割含で増大しているが,もしRiss.Würm間氷期以後このような地殼変動がつづV・てきたのであれば,室戸岬面は吉良川において安田よりも細10m高いはずであるが,これも事実とほぼ一致する.したがって, Riss-Würm間糊以後,室戸岬付近は現在と同じく平均2mm/年の速さで北西へ傾動しつつ隆起してきたと考えられる. このような地殼変動と第四紀における海面変化とを複合した結果は,この海岸の地形発達の過程とよく一致するので,この地域の海岸段丘の分化を生じたのは,地殻変動の緩急ではなく・海面変化の結果であり,その間地殼変動はほぼ一様に推移したと考えられる.
著者
原沢 文弥
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.31, no.5, pp.277-291, 1958-05-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
57

The consolidation of the post towns on the five main highways, and on the other roads designated. by the Tokugawa government, was originally for the supply of men and horses for official needs, chiefly for the going up to and coming down from Edo for the alternate-year residence of daimyos. In using the regularly stationed men and horses at these post towns, official needs were first met on priority basis and the transportation of common travellers and merchants' goods and luggage was always deferred. The chief duty of post towns was to offer men and horses for official traffic, which was indeed a heavy burden to these towns. Although taxation on the lands they lived on was exempted in compensation for the expense and service, it was not sufficient to make up for the loss. Therefore, these towns were permitted to cover it by gaining profit offering service for common travellers and carrying merchandise in their leisure hours, or by obtaining the license of keeping inns and shops in the towns. The profit thus gained by transporting goods and luggage of common travellers was very importan_??_ to maintain the functions of post towns. But private travellers and goods were not only deferred in transport but were transshipped at every post town. And this transsipment had such shortcomings as damage in the goods, delay in the time of transport, and more cost in carriage and commission. It was only too natural, therefore, that merchandise in general tried to avoid being forwarded in this relay system; they would have avoided if they had been able to. But the system was protected and carried out by the authority of the government; the five main highways and the other roads designated by the government were privileged traffic routes located with the strong governmental protection at their back. The inconveniences of these routes were not keenly felt in the earlier stages of the Edo government, when traffic was not so dense and transport of merchandise was small. Besides, the authority of the government made it impossible for people to resist. But as more merchandise came to be transferred and more people began to travel, the inconveniences and conflict of interests became more and more apparent. By and by there appeared gradually an indication that people would try to avoid the privileged routes. In addition, the gradual loosening of the government in the enforcement of laws and regulations accelerated the tendency. Consequently, there arose a new means of transport contrived by private transport agencies to forward merchandise through by carriers using horses or oxen. These carriers and horses (or oxen) sometimes avoided certain post towns on the way; mostly they tried to utilize only the byways if available. Thus the new means of transport was born by the need of cheap and puick way of forwarding goods, while the old privileged routes had the protection of the government or feudal lords in their background. As the traffic on the byways prosperd, more goods came to be sent by them and the main highways wera more neglected, which was a vital problem to post towns since their functions must be paralyzed in the end. The two were destined to conflict and the power of the government was another factor to complicate the matter. This made a characteristic feature of the traffic system in the Edo period, especially in its middle and later stages. Whether one liked it or not, the situation turned favorable on the byways and the traffic on them became more and more heavy while it became impossible in the end to maintain the post-town system. The Present study has chosen a certain area with the Usui Pass in its center where byways developed most remarkably and using litigious document and maps of villages preserved in places which used to be post towns, has considered the relation between the post towns and the byway traffic.
著者
松本 正美
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.50, no.11, pp.617-634, 1977

地図は地理学の生命であり,地図作成は地理学者が最も精魂を傾ける側面の1つである.地図は「地理学の言語」である.地理学者は1枚の白紙を地図という言語(記号系)に転化し,それを媒体として自己の主張を表現し伝達する.この転化過程は,次の2つの要件を満足しているはずである.第1に,その過程は無矛盾な記号系への転化過程でなければならない.さもなくば,地図は最も基本的な機能ですら果たすことができない.第2に,その過程は同時に地図が研究手段としての有効性を獲得していく過程でなければならない.さもなくば,地図は単なる表現・伝達の道具に終始する.しかし,この転化過程の真相,すなわち「地図を描く」ことの本質は,具体的作業の裏に隠蔽されている.もしその本質が解明できるならば,研究手段としての地図の能力は高まるであろう.本稿はその転化過程の掘り起こしを試みたものである.このような議論は,「カルトグラフィ」を超えた「メタカルトグラフィ」とみなされよう.