著者
横田 忠夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.25, no.12, pp.470-477, 1952-12-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
2

The author investigated some village at the upper streams of the River Oi and Abe, Shizuoka Prefecture. Consequently I understood that tie internal social relation of the village at the upper stream of the river was extremely different from that of the village at its lower stream. I also noticed that the difference in the possession of forests was greatly related to the difference in the social relation as a result of an investigation in regard to the possession of forests in each village. Having researched how the difference in their possession occured in those villages, I observed that ultimately it had been caused by the geographical conditions of facility or difficulty of trafic (communication), the difference in agricultural productivity etc. I could understand that at the lower stream of the river, the forests were mnonopolized by a few men who lived in the village, while in the upper stream: of the river, they had been trausfered to timber merchants or other ones who were outside those villages. It was also known that the difference in the powers of the forest-owners had caused the difference in the social relation in each village.
著者
河本 大地
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100268, 2016 (Released:2016-04-08)

Ⅰ 背景と目的 「持続可能な開発」は、「将来の世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、現在の世代のニーズを満たす開発」とされる。そのための教育が「持続可能な開発のための教育」で、持続発展教育などとも呼ばれる。以降、本研究ではESDと呼ぶ。日本が大きく関わる形で、ユネスコが世界的に主導してきた。 ジオパークは、日本ジオパーク委員会(2014)によると「地球活動の遺産を主な見所とする自然の中の公園」で、「ユネスコの支援により2004年に設立された世界ジオパークネットワークにより、世界各国で推進されて」きた。 ESDとジオパークは、持続可能な開発を志向する点、ユネスコと密接な関係を持つ点が共通する。そこで本研究では、日本におけるESDとジオパークの関係のこれまでをふりかえり、今後の可能性を検討する。 なお、日本地理学会2015年春季学術大会のシンポジウムにおいて、発表者は「ESDとジオパーク」と題する発表の機会を得た。本研究は、その際にいただいたコメントや、その後の調査や経験等をふまえ、内容を整理しなおしたものである。 Ⅱ 方法 まず、ESDの考え方とこれまでの経緯をみる。次に、ESDとジオパークの関係のこれまでを振り返る。ここでは第一に、両者を掛け合わせた研究や実践事例のレビューをおこなう。第二に、ESDを実践展開する拠点として文部科学省が位置づけるユネスコスクールと、ジオパーク活動との関係を確認する。 続いて、ESDとジオパークの掛け合わせで社会にどんな可能性が開かれうるのか、そのためには何が必要かを議論する。ここではまず、2015年以降のESDのベースとされる「持続可能な開発のための教育(ESD)に関するグローバル・アクション・プログラム(GAP)」の「優先行動分野」が、ジオパークに関してどう実践可能かを検討する。そのうえで、ジオパークは地球科学と地域づくりの掛け合わせという視点から、ESDでジオパークに開かれる新たな可能性を考察する。 Ⅲ 結果と考察 ジオパークでは教育や持続可能な開発が重視されており、理念的にはESDとの親和性が高い。また、ESDとジオパークの双方にユネスコが深く関係している。しかし両者の関係や、ジオパークにおけるESDの実践について、明示的に書かれたものは少ない。また、日本のジオパークでは、文部科学省によってESDの実践拠点とされているユネスコスクールに関して、ほとんど意識されてこなかったことが判明した。ESDとジオパークは基本的にそれぞれ別の道を歩んできたと言える。 では、ESDとジオパークの掛け合わせで社会にどんな可能性が開かれうるのだろうか。そのためには何が必要だろうか。「ESDの可能性を最大限に引き出し、万人に対する持続可能な開発の学習の機会を増やす」ことを目的とするGAPの「優先行動分野」についてジオパークの場合を検討すると、学習環境を整え学習機会を充実させるための組織運営に関して、多くの改善すべき点が見出された。それはたとえば、ジオパーク学習をおこなう学校をユネスコスクールにするとともにESDの実践拠点としての機能を発揮させること、ジオパークに関わるすべての組織において組織全体としてESDに取り組む態勢を整えること、教員養成やスタッフ研修、ガイド養成等にESDを導入すること、ユースの主体的な動きを大事にすること、運営組織を多様な主体が参加できるようにすること、すべての人々がジオパークから学べるよう意識して様々な学習機会をつくることなどである。 一方、学習内容については、GAPからは、学習指導要領に盛り込まれている「持続可能な社会の構築」の観点でジオパークを扱うこと、地形・地質等と気候変動や生物多様性との関係を扱うこと、国際開発協力の視点を持つこと、資源の効率化や社会的責任等の観点を導入すること、ユースが変革の担い手となるよう参加型技能を習得できるようにすることなどが見出された。 続いて、地球科学および地域づくりの観点から、ESDとしてのジオパーク学習の内容を検討した。その結果、地球科学の観点からは第一段階として身近な地域の自然が、第二段階として地球活動のメカニズム理解が見出された。地域づくりの観点からは、第一段階として暮らしと自然の関わりが、第二段階として社会的「折り合い力」の育成が見出された。また、それらの第三段階として、ジオパーク活動を通じた国際理解・国際協力も重要なテーマとなることが示唆された。 以上から、ジオパークを活用して「持続可能な社会づくりの担い手を育む教育」であるESDを進めるには、組織運営と学習内容の変革が必要と言える。ESDの態勢を整え、地球科学と地域づくりから得られる学びを最大化することで、ジオパークを持続可能な社会づくりの担い手を育む場にすることができる。
著者
長井 政太郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.15, no.11, pp.822-852, 1939-11-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
8

The Yamagata Kyôdo Kenkyû-kai (Society for Geographical Reserach of Yamagata Prefecture) has collected about 40, 000 place names in its prefecture, each of which beside the Chinese letters, are printed in the Japanese syllabary to give their correct pronoun-ciations. It is explained that the number of places having names relating to rice field forms 10 percent of the total, followed by names relating to plants, fields, beasts, and geographical features after which come those of castle, buddhist temple and various graves. The use in names of the old distributions of pasture, deccangrass (Hi-e in Japanese, ) formerly the chief crop in this region, Sanka (a kind of vagapond in the past) and many other points that are very interesting from the historical point of view, are also explained by this study.
著者
貝塚 爽平
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.31, no.2, pp.59-85, 1958-02-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
72
被引用文献数
7 68

関東平野の第四紀後半の地形面は,関東ロームを鍵とすることによつて編年することができる.そのためには,まず関東ローム自体の層序区分と対比を行う必要があつた.関東ロームの区分や対比には層位学的,地形学的考察とともに,重鉱物組成の調査が有力な手段として用いられた.関東ロームの編年と,主としてそれにもとつく地形面の編年は第8図に模式化して示されている.この編年によつて,関東平野の地形面は, DlI, DuIa, DuIb, DuI, Aの各面に区分され,その地理的分布は第11図に示された.地形面の編年と地形面の性質あるいはその成因についての考察から,区分された各地形面形成時代の古地理図を描くことができ(第9図),そして,関東平野の発達史の概略を知ることができた.それは第2表に要約されている.
著者
神田 孝治
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.321, 2013 (Released:2013-09-04)

Ⅰ. はじめに 近年,映像メディアの撮影地を訪れて映像の世界を追体験する、フィルム・ツーリズムが注目を集めている。こうした観光が既存の観光地を舞台とする場合、映像メディアによる同地の空間表象は、それまで魅力を生じさせていたものと必ずしも同じではない。本研究では、映像メディアによってかつてない新しい空間表象が観光地にもたらされた場合、現地の地域社会がどのように反応するのかについて、映画『めがね』の舞台となった与論島と、アニメ『ひぐらしのなく頃に』の舞台のモデルとされる白川郷を取り上げて検討する。Ⅱ.映画『めがね』と与論島 与論島は、沖縄本島の北方約23kmの距離にある、周囲約21.9kmの小さな島である。この地は、1953年から1972年の沖縄本土復帰まで、南西諸島における日本最南端となっており、1970年前後にはサンゴ礁と美しい海の観光地として人気を博した。かかる観光ブーム時の与論島は、若者にとっての「自由」の島、「恋愛」の島であるとされ、ある週刊誌ではそこを奔放な性の楽園として描き出した。そうした与論島の空間表象や、それをもとに展開される若い観光客たちの実践は、地域社会の大きな反発を招いた。しかしながら、沖縄観光の本格化などを背景に、1979年をピークに観光客が漸減するなかで、次第に観光客と地域社会の対立は表面化しなくなっていった。 2007年に公開された映画『めがね』は、この与論島をロケ地としており、そこに新しいイメージを付与している。「何が自由か、知っている」をキャッチコピーとする同映画は、都会から南の島にやって来た女性が、いわゆる観光をするのではなく、何もせず「たそがれる」という内容になっている。この映画は、1970年代の観光ブーム時と同じく、与論島に自由のイメージを喚起する。しかしながらその表象は、男性にとっての性的な楽園から、恋愛等をせずにゆったりとした気持ちでたそがれるという、特定の働く若い女性にとって魅力あるものへと変化している。こうした映画に対して、与論島の住民から反発の声を聞くことはない。そうしたなかで、地元の観光協会は、製作会社の意向や自分で情報を探して来島しようとする観光客の性質などから、大々的に観光宣伝を行わない方針をとっているが、時間が経過するなかで、映画『めがね』を観光に活用する取り組みを着実に進展させている。Ⅲ.アニメ『ひぐらしのなく頃に』と白川郷 白川郷は、1995年に世界文化遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」に登録され、観光地として人気を博している地域である。1994年に日帰り宿泊計約67.1万人であった観光客は、2009年には約173.1万人にまで増加している。同地は近年、観光パンフレット等において、しばしば「日本の原風景」と表象されている。 この白川郷は、2006年に公開されたアニメ『ひぐらしのなく頃に』の舞台のモデルであると考えられたことから、惨劇の村・雛見沢という新しいイメージを喚起することになった。雛見沢のイメージは、のどかな日本の原風景と、その裏に存在する隠された惨劇の村という両義的なものである。かかるイメージを消費する観光客は、世界遺産としての白川郷を訪れる人々とは異なる特徴を持っている。そうした観光客は、主として2~3名グループの若い男性で、多くがインターネットで情報収集し、しばしば白川郷のガイドマップを改変して作成された雛見沢の地図を持参して、アニメで登場したと考えられるポイントを見物するのであり、場合によってはアニメキャラクターのコスプレをしている。 地元の観光協会は、先の与論島の事例と同じく、こうした観光客の性質上、積極的な宣伝を行わない方針をとっている。しかしながら、住民の反応は大きく異なり、一部で許容する声があるものの、アニメの内容やこうした観光客に対して嫌悪感を抱き、そのイメージが白川郷にふさわしくないと考える住民が存在する。こうしたなかで、白川郷においては、同アニメを活用した観光振興の動きを確認することができない状態にある。
著者
西村 雄一郎 森田 匡俊 大西 宏治 廣内 大助
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100321, 2014 (Released:2014-03-31)

1.はじめに 東日本大震災以降、携帯電話やカーナビゲーションシステムのGPSログ、ソーシャルネットワークサービスなどにおける位置情報がついた書き込み、災害情報報道などを含むいわゆる「震災ビッグデータ」の分析が進んでおり、特にそれらに含まれる位置情報を活用したGISによるビジュアライゼーション・空間分析が行われている(渡邉 2012)。これらは、「マスメディア・カバレッジ・マップ」「報道カバレッジマップ」と名付けられており、音声の書き起こしテキストから地名を抽出し、地域区分に基づいて集計されたデータを地図化することによって、報道の地域的な偏りや報道空白地域を明らかにするものであった。 一方、これらの分析で権利処理の関係などから利用されなかったのが震災発生時の放送映像である(村上 2013)。しかし、放送映像には、多くの地理的な情報が含まれており、被災地域のフィールドワークと組み合わせることによって、被災当時の状況や変化を復元することの可能な資料として、また報道と実際の被災状況のギャップを相互に検証することの可能なデータとして利用することが可能である。そこで、本発表では、2012年度に実施された「NHKアーカイブス学術利用トライアル研究Ⅱ」において、2000年9月東海豪雨のニュース映像の閲覧に基づくデータ化・地図化を行うとともに、ニュース映像に基づくデータと被災地域における地理学的なフィールドワークの結果をオーバーレイすることで比較を行い、こうした災害映像の被災状況復元のための利用可能性や限界、また報道内容と実際の被災状況の間にどのようなギャップや齟齬が発生したのかについて検討した。2.NHKアーカイブス災害映像からの地理的情報の抽出 今回東海豪雨を対象として取り上げた主な理由としては、映像が数多く存在し、また報告者らがこれまでに複数回調査を行うなど、被災地域の地理的な環境や詳細な地理的情報を熟知しているためことによる。東海豪雨に関する映像資料の検索・閲覧は、NHKアーカイブズ(川口)で報告者自身が行った。ここでは、全国放送のニュース映像・並びに取材VTR素材の閲覧が可能であり、保存VTRの検索を行うことが可能なデータベースを利用して、東海豪雨に関連する映像の検索を行った。データベース・放送された映像のほとんどには、映像の撮影地点を特定する情報が入っていなかったため、検索された映像にみられるさまざまな地理的要素(交差点名の標識・店舗名を示す看板や広告、また道路・鉄道・街路樹等の形状や起伏、空撮の場合は道路網の形状、建物や堤防等の形状、被害状況など)を既存の地図情報や被災地域でフィールドワークによる景観的な特徴と照合し、撮影地点の特定を行った。3.報道マッピングとフィールドワークによるデータの比較分析 このようにして作成した位置つきの撮影地点情報についてGISを用いてマッピングを行った。当日の発表では、特に名古屋市や周辺地域を含むマッピングの結果ならびに、フィールドワークや実際の被災状況と比較した結果を報告する。文献 渡邉英徳:散在データ間の地理的・時間的関連性を提示するマッシュアップコンテンツの Web アクティビティによる制作,2012.https://sites.google.com/site/prj311/event/presentation-session/presentation-session3#TOC-Web- 村上圭子「震災ビッグデータ」をどう生かすか−災害情報の今後を展望する−,放送研究と調査,pp. 2-25,2012.
著者
片平 博文
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.1-17, 1980-01-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
30
被引用文献数
1 1

いわゆる集村化は,わが国の平安~室町期にかけて,広く展開した集落形成の特異な現象である.本報告のフィールドとした奈良盆地においても,そのことが確認された荘園村落は少なくない.そういったなかで鎌倉中期にあたる文永年間(1264~1275)に,すでに明確な集村形態を呈していた乙木荘は,かなりユニークな存在といえる.乙木荘における荘園の組織化は,少なくとも3次にわたってなされ,その時期は平安末~鎌倉初期を大きくはずれるものでないことを,筆者はすでに報告した.その結果に基づいて,屋敷地の分析を行なったところ,乙木荘は,最初から集村形態を呈していたのではなく,初期には小村ないし疎集村と呼ぼれるべき形態をとっており,それが数次の段階を経て集村を形成するに至ったことが判明した.またその時期については,当荘の組織化が結果的にいわゆる均等名形態をともなっているとみなされることから,平安末~鎌倉初期の可能性が強い.さらに荘園村落の発達過程の背後には,耕地の影響が作用しているものと考えられる.
著者
卯田 卓矢 矢ケ﨑 太洋 石坂 愛 上野 李佳子 松井 圭介
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100193, 2014 (Released:2014-03-31)

初詣や初宮、七五三などの年中行事・人生儀礼を通じた地域の社寺との関わりは、日本人の宗教的行動の一つとして位置づけられる。この行動に関しては、主に宗教社会学において各種の宗教意識調査を用いた経年的分析が行われてきた。ただ、既往の研究では日本人全般を分析対象とする傾向が強く、特定の地域に視点を置いた考察は十分ではない。特に、農村部とは異なり地域の社寺との関係が希薄な居住者が多く存在するニュータウン地区については、現代日本の宗教的行動と地域との関係を検討する上で重要な対象地域であるが、これまで本格的に論じられることはなかった。一方、宗教地理学では、特定の宗教の地域受容過程や信仰圏を主なるテーマとしており、地域住民の宗教行動(参拝行動)に主眼を置いた研究は行われていない。 以上を踏まえ、本研究ではニュータウン地区を対象に、住民の年中行事(初詣)および人生儀礼(初宮、七五三、厄除け)をめぐる参拝行動と地域との関係について検討することを目的とする。対象地域のきぬの里は常総市の南西部に位置し、常総ニュータウンの一部として1990年後半ごろより開発が行われた。
著者
水津 一朗
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.44, no.8, pp.565-580, 1971-08-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
23
被引用文献数
4 2

近代歴史地理学の創始者小川琢治は,ヴァローの「集団事実としての景観」概念をその地理学の直接の立脚点としたが,めざすところはフンボルト地理学にあった兜かれの歴史地理学は歴史的考察を重視する人文地理学そのものであり,ヘットナーの「時の断面の地理学」とはちがう.まず「垣内集落」や「孤立荘宅」などをはじめとする集落研究にすぐれた業績をあげ,日本集落地理学の源流の一つを形成した.いっぽう,中国に関する歴史地理学研究に精魂をうちこみ,まずリヒトホーフェンの中国研究を検討し,『山海経』から中国最古の地理的知識を復原したほか,孜々として中国地理書の実証研究の途を開拓して,中国学にも大なる寄与をなした.かれの地理学には,現代の地理学本質論からみても再評価すべき内容が多い.中でも自然環境決定論的立場をさけたこと,生態学と政治地理学的立場を綜合して,集落から国家に至るまで,地表全体の体系的把握につとめたことなどが,とくに注目をひく.歴史時代から現代にわたる地理的事象の計量的理解にも先駆的な成果をおさめた.以上の点からみて,明治後期から昭和初期における小川地理学の学術的価値は,かれのすぐれた自然研究を除外しても,なお無双のものというべきであろう.
著者
白坂 蕃
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.191-211, 1988-12-31 (Released:2008-12-25)
参考文献数
14
被引用文献数
2 2

東南アジアの熱帯や亜熱帯に属する地域には,一般にhill stationと呼ぼれる山地集落がある。これらは, 19世紀に植民地活動をしたイギリス人やオランダ人が熱帯の暑い気候環境から逃れるために開発した集落であり,元来,地元の人々が開発したものではない。日本でも6-9月は暑さの厳しい気候であるが,かってのイギリス領マラヤやオランダ領東インドなどでは,1年を通してそのような気候の下にある。 マレーシアでは,このような植民地起源のhill stationとしてカメロンハイランド (the Cameron Highlands) が最も良く知られている。カメロンハイランドは,マレーシア半島中部の中央山地にあり,標高は1,000~1,500mに広がる高原である。今日では, summer resortであると同時に,その冷涼な気候を利用して,一大温帯蔬菜生産地域となっている。筆者はカメロンハイランドにおける農業的土地利用や温帯蔬菜栽培の特色を分析し,熱帯アジアにおけるhill stationのもつ今日的意義を考える。 カメロンハイランドは, 1885年William CAMERONによって発見されたが, hill resortとしての開発は1926年以降のことである。カメロンハイランドではhill resortとしての開発と同時に,華人による温帯蔬菜の栽培が始まった。また第二次大戦後の疏菜栽培発展に伴い,新しい集落が形成されている。 カメロンハイランドにおける人口 (24,068人, 1894年)の約50パーセントは華人(中国系マレーシア人)で,彼らが蔬菜栽培の中心となっている。カメロンハイランドにおける温帯蔬菜の栽培は,標高1,000m以上の地域にみられる。この地域では,こんにち,約25種にのぼる温帯蔬菜が栽培されているが,白菜,キャベツ,そしてトマトが三大蔬菜となっている。これら蔬菜の種子は,その殆どが日本から供給されている。 蔬菜栽培農家における労働力は,殆どが家族のみである。また蔬菜栽培には大量の鶏糞が使用されており,耕作はきわめて労働集約的である。また,ほうれんそう,ピーマン,セルリなどの蔬菜には,雨除け栽培がおこなわれている。どのような蔬菜を栽培するかは,市場価格を念頭において,個々の農家が選択するために,明確な輪作体系は存在しない。 こんにち,カメロンハイランドで生産される蔬菜は,マレーシア半島の主要都市に大型のトラックで輸送されているが,総生産量の25~30パーセントは,シンガポールに輸出されている。
著者
田林 明
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.41-65, 1987-06-30 (Released:2008-12-25)
参考文献数
87
被引用文献数
2 5

この報告では,日本の灌概システムを用水源に基づき類型化し,それぞれの類型の実態と分布状態を説明した.さらに灌漑システムの特徴を明らかにするために,その形成過程を検討した. 日本の灌漑システムは,(1) 河川, (2) 溜池, (3) 湖沼, (4) 地下水, (5) 溪流,そして (6) その他の灌漑システムに分類することができる.そのうち最も重要なものは河川灌漑システムであり,溜池灌漑システムはそれに次いでいる.日本列島の大半では河川灌漑システムが卓越しているが,特に東日本においてその傾向が強い.また,瀬戸内地方や近畿地方を中心にして溜池灌漑システムが優勢な地域が広がっている.さらに,より局地的であるが,関東平野では多様な灌漑システムが併存し,本州中部や四国,九州の山間部では溪流灌概システムが多くみられる。これらの地域差は1つには,降水量や地形などの自然条件の差異と対応するが,より本質的には社会的・経済的・文化的諸条件に規制されながら歴史的過程を経て形成されたものと考えることができよう.そこで日本の灌漑システムの形成過程を検討すると,弥生時代には天水や溪流を利用した個別的水利用がまず始まり,これが小河川の利用に進んだ.古墳時代になるとさらに溜池や中小河川利用が盛んになった.大河川の上中流を利用し扇状地性平野の開発が進んだのは江戸時代前半であり,江戸中期から大河川下流の三角州性平野の開発がすすんだ.明治期以降は灌漑システムの改善の時期であり,新しい施設や技術が導入された. 西日本においては古代の条里制遺構や中世の荘園制のもとで整備された小用水路が最近まで広く利用されており,現在の灌漑システムの基礎が古い時代に確立されていたと考えることができる.他方,戦国時代から江戸時代にかけての大河川を利用した用水創設と新田開発は,東日本で著しい水田増加をもたらした。河川灌漑に基礎をおく日本の灌漑システムの基本的性格は,この時期に成立したといえよう。ことに,樹枝状に分岐する水路系統を基盤として形成されている階層的・重層的配水システムとそれに対応する組織体系は日本の灌漑システムの特徴であるが,江戸期に確立し今日に至っているといえよう.
著者
IKEDA Mariko
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan series B (ISSN:18834396)
巻号頁・発行日
vol.91, no.1, pp.1-16, 2018-06-29 (Released:2018-06-30)
参考文献数
35
被引用文献数
6 5

Temporary use of vacant urban spaces has received increased attention during the last 20 years, especially in German-speaking countries, as a viable strategy in urban planning to revitalize unused vacant lots and buildings, which result from ongoing structural changes in industrialized countries. Particularly in the eastern inner-city districts of Berlin, a high number of vacant lots and buildings existed after the fall of the Berlin Wall. For many of these spaces, temporary uses, such as art houses, galleries, music clubs, bars, urban gardens, and alternative living spaces, were established during the 1990s and 2000s. From the end of the 1990s, in a particular area along the River Spree in Berlin’s former eastern inner-city district Friedrichshain, a high concentration of temporary uses have been observed. The reasons for this concentration have not been studied in detail. Therefore, this study clarifies the reasons for this geographic concentration by examining three case studies of temporary uses, using surveys and interviews conducted in 2013 and 2014. Additionally, this study exemplifies the characteristics of temporary uses in the surveyed area and shows what can be learned from the conflicts regarding temporary uses. The study concludes that temporary uses can be more than an interim utilization of vacant spaces and are a viable long-term alternative for sustainable urban planning in post-growth cities.
著者
FUJIBE Fumiaki MATSUMOTO Jun
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan series B (ISSN:18834396)
巻号頁・発行日
vol.95, no.2, pp.55-68, 2022-12-29 (Released:2022-12-28)
参考文献数
32
被引用文献数
1

Warm season precipitation in most parts of Japan comprises early summer (Baiu) and autumn (Shūrin) rainy periods with a relatively dry mid-summer. We aimed to determine details on the features of the seasonal progress of precipitation during the warm season in Japan. We assessed the timing of maximum and minimum precipitation based on daily records of Japanese dense local Kunai observations and AMeDAS networks collected at 522 stations for 95 years from 1926 to 2020. The maximum precipitation during Baiu has a northward delay, with a transition zone from the end of June to around July 10 at about 37°N, whereas Shūrin has three precipitation peaks corresponding to late August, mid-September, and early October over a wide area of Japan. The timing and intensity of the precipitation maximum varies according to the El Niño-Southern Oscillation (ENSO) phase, but the northward delay of the Baiu peak and multiple Shūrin peaks are found both in El Niño and La Niña years. Toward the past 30 years, the Baiu has lengthened, the mid-summer minimum is earlier, and the main peak of Shūrin precipitation has become less distinct.
著者
三上 岳彦 平野 淳平 財城 真寿美
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.18, 2013 (Released:2013-09-04)

江戸幕末期の1850-1860年代は,小氷期の終了期に相当するが,日本では公式の気象観測記録が無いために気温変動の詳細は不明であった。一方,演者らの研究グループでは日記天候記録に基づく18世紀以降の気候復元や19世紀前中期の古気象観測記録の発掘とデータベース化を行っている。そうした一連の研究によって,江戸幕末期に相当する1850-1860年代の夏季気温が一時的にかなり高温化していたことが明らかになった。本研究の目的は、日本の小氷期末に出現した夏季の一時的高温化の実態を明らかにし、気象観測データの得られるヨーロッパや北アメリカにおける同年代の気温変動と比較しながら、高温化が半球的な大気循環場の変動とどのように関連していたのかを考察することである。
著者
Edward BOYLE
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan series B (ISSN:18834396)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.66-79, 2016-09-30 (Released:2016-09-30)
参考文献数
98
被引用文献数
1 4

A renewed focus on the notion of empire has prompted an interest in questions of modern Japanese imperialism after the Meiji Restoration, both in Japan and abroad. It has also focused attention on the issue of comparing empires across Eurasia during the early modern period, under the rubric of ‘global history’. Japan has not really been incorporated into this latter discussion. This article begins by examining the reasons for this lack of incorporation, before moving on to discuss the value of considering early modern Japan as an imperial formation. The lens it adopts is one of cartography, that quintessentially imperial practice that has featured heavily in discussions of a Eurasian early modernity. The article examines the cartographic incorporation of Japan’s northern region of the Yezo into Japan itself, culminating in the area being newly designated as Hokkaido in the early Meiji period, the newest circuit within Imperial Japan’s administrative map. This political outcome was the result of varied practices that found reflection across the Tokugawa–Meiji divide. Yet this intense variety of practices, constantly shifting in response to contingency, served to form the state-effect, through which the land of Yezo was granted its unity and represented on the map. The territory on the map provided the visual, graphic representation of the demarcation of authority of the state that authorized the practice of its own mapping. In this manner, the state mapped itself into Hokkaido and from this perspective, the division between the early modern and modern eras is far less significant than is frequently assumed.
著者
新井 祥穂 永田 淳嗣
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.79, no.4, pp.129-153, 2006-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
14
被引用文献数
1

1972年の復帰後の沖縄では農業への政策介入が強化され,農業基盤整備事業はサトウキビの価格支持と並び政策の大きな柱とされた.しかし,県内でいち早く大規模な灌漑整備を伴う土地改良事業が行われた石垣島では,1980年代末以降農家の反対が顕在化し事業が停滞している.本稿では,農家が事業との関わりを通じて得た経験や学習や評価に注目しつつ,事業が石垣島の農業経営に対して持つ意味を分析し,停滞の理由付けを試みた.その結果,面整備は確かに労働節約効果を有するものの,灌概整備がサトウキビの増収に直結しないことや,面整備が果樹生産にはマイナス効果を持つことなどを学んだ農家は,土地改良事業の効果が限定的であることを理解し,それが事業に対する消極的・否定的な態度につながっていることが明らかになった.土地改良事業の大前提ともいえる短期の生産性向上効果が限定的である点は,沖縄の土地改良事業が抱える本質的な問題であるといえる.