著者
島津 俊之
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.80, no.14, pp.887-906, 2007-12-01 (Released:2010-03-12)
参考文献数
137
被引用文献数
1

近年の英語圏地理学史研究では, 地理的知識の生産・流通・消費における空間の意義を問題化する知の空間論の視点が勢いを増している. 本稿では, 京都帝国大学教授として日本で最初の地理学教室を主宰した小川琢治が, 紀州を中心とする多様な空間的コンテクストの中で, 地理学に関わる思想・実践をどのように育んでいったのかを検討した. 少年期に紀州で育まれ, 後年の中国歴史地理研究に活かされた漢学の素養は, 不眠症に陥った青年期の小川を熊野旅行へと導いた. 熊野の物質的景観との遭遇は小川の地学への志向性を呼び覚まし, そこでは地表の外形や地表諸現象の相互関連への関心が表明された. 慶応義塾で地理学を教えた紀州出身の養父の理解は小川の理科大学地質学科入学を可能にし, 地学への志向を標榜する地質学教室は彼の地理学的想像力の内的進展を促した. 知の空間としての東京地学協会は, 小川に地理学を新たな専門分野として明視させる契機を与えた.
著者
島津 俊之
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.75, no.2, pp.88-113, 2002-02-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
110
被引用文献数
2 2

本稿は地理学史におけるクリティカル・ヒストリーの潮流に鑑み,明治政府の地誌編纂事業を新出史料に基づいて再構成し,近代日本の国民国家形成との関係性を考察した.一国地誌の編纂は当初民部省・文部省・陸軍省で個別に構想され,文部省は『日本地誌略』を,陸軍省は『兵要日本地理小誌』などを刊行した.陸軍省から正院に移った塚本明毅は『日本地誌提要』を編纂し,さらに「皇国地誌」の編纂を推進した.それを「大日本国誌」に発展させた内務官僚桜井勉の異動は,その中止や地誌編纂事業の帝国大学移管と規模縮小につながり,井上毅文相の裁定と死は当該事業の命運を断った.正院-内務省系統のキーパースンは,地誌編纂の表象的な国土統合機能を主権強化の要件としたが,国民統合の構想には欠けていた.しかし,対外的な国威発揚の用具ともなった『日本地誌提要』は,その記載内容が実質的に国民統合に向けて動員された.かかる「意図せざる結果」は,国土統合や主権強化の諸過程とあいまって,国民国家形成に寄与し得るものであった.
著者
島津 俊之
出版者
和歌山大学
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
1997

十九夜講とは、月の十九日の夜に女性(おもに主婦)が当番の家や地域の公民館に集まって、如意輪観音の掛輔に念仏を唱えて安産や健康を祈る民俗行事である。これは一般に近世期に始まったとされ、如意輪観音の彫られた十九夜供養碑が建立されるのが通例である。それゆえこの行事は、ある種の<宗教景観>をつくりだす要因ともなる。講の行事を担う社会集団の規模は、近世の藩制村の構成要素としての、いわゆる村組レヴェルの小地域集団であることが多く、藩制村の枠を超えるケースはほとんどない。十九夜講は関東から東北にかけて盛んであるが、西日本では大和高原の北部地域(「東山中」と呼ばれる地域)に集中的にみられることが、これまでの研究からわかっている。それゆえ全国的にみると、東山中は十九夜講の分布における待異な飛び地をなしているといえる。この研究では、(1)<制度>としての十九夜講が、どの村落からいかなるかたちで空間的に伝播していったのか、(2)十九夜講が伝播した各村落において、いかなるレベルの社会集団が十九夜講の行事を担い行い、かつ十九夜供養碑の宗教景観をつくりだしたのかを、明らかにすることを目的とした。2年間の研究の結果、(1)については、十九夜講が現在の奈良市忍辱山地区からおおよそ同心円状に伝播してゆく過程が明らかになってきた。(2)については、十九夜講行事を担う社会集団は近世の藩制村レベルではなく、それを構成する小地域集団(村組や近隣組など)であるケースが多いことがわかっててきた。そのような小地域集団が、十九夜講伝播の担い手となり、十九夜供養碑の宗教景観をつくりだしたと考えられる。
著者
島津 俊之
出版者
The Human Geographical Society of Japan
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.38, no.6, pp.544-560, 1986-12-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
75
被引用文献数
1

In der Siedlungsforschung in der Geographie Japans ist die Betrachtung der räumlichen Seite der die Ortschaft bildenden Sozialgruppen eins der Fächer, für die sich Forscher bisher interessiert haben. In diesem Bericht nennt der Verfasser die räumliche, hierarchische Anordnungsform der Sozialgruppen in der ganzen Ortschaft die räumliche Sozialstruktur der Ortschaft und macht sich die Erfassung der räumlichen Sozialstruktur und ihrer Verwandlung im Zenjoji-Dorf in der Kyoto-Präfektur zur Aufgabe.Anschaulich sind die kleine Ortschaft, das Dozokushudan (die Gruppe der Verwandtshaft), das Miyaza (die Gruppe mit einem Vorrecht für die Feier des Gottes) und das Kinringumi (die kleinste örtliche Gruppe) als die das Zenjoji-Dorf bildenden Sozialgruppen gefunden worden. Der Verfasser hat die Zeit von 1705 bis 1984 in vier Zeitabschnitte geteilt und die räumliche Sozialstruktur am Ende jeden Zeitabschnittes und ihren Verwandlungsprozeß geklärt (Abb. 8). Die Ergebnisse werden folgenderweise zusammengefaßt:(1) Der erste Zeitabschnitt (von 1705 bis 1845)Das Zenjoji-Dorf teilte sich in zwei kleine Ortschaften (Kamimura und Shimomura) und darin wurde ein Dualsystem entdeckt. Kamimura setzte sich aus etwa sechs Kinringumis (Goningumis) zusammen und Shimomura aus etwa acht Goningumis. Es gab je drei Miyazas in Kamimura und Shimomura, und in Kamimura wurden zwei Dozokushudans gefunden und in Shimomura vier Dozokushudans. Das Tempelchen des Sainokamis, das ein Grenzgott ist, lag am Punkt der Grenze zwischen Kamimura und Shimomura.(2) Der zweite Zeitabschnitt (nach 1845 bis vor 1906)Beide, Kamimura und Shimomura, verloren das Ujigami (der die Gemeinschaft vereinigende Gott), und jede von beiden Vereinigungen wurde schwach. Das Goningumi wurde neu ins Eiseigumi umgruppiert. Daher kam es, daß sich Kamimura aus vier Eiseigumi zusammensetzte und Shimomura aus sechs Eiseigumis. Die Vereinigung des Dozokushudans wurde schwach. Das Sainokami erlosch, und daher kam es, daß der Ort, an dem das Tempelchen lag, Sainokami genannt wird.(3) Der dritte Zeitabschnitt (von 1906 bis vor 1945)Kamimura und Shimomura als Sozialgruppen hörten auf zu existieren, und daher kam es, daß die beiden Räume, an denen Kamimura und Shimomura lagen, Kamide und Shimode genannt werden. Sainokami verlor die Funktion der Grenze, und neu war, daß der Seradani-Fluß als die Grenzlinie zwischen Kamide und Shimode erkannt wird. Das Dozokushudan erlosch. Das Eiseigumi wurde ins Tonarigumi umgruppiert, und daher kam es, daß je fünf Tonarigumis in Kamide und Shimode verteilt werden.(4) Der vierte Zeitabschnitt (von 1945 bis 1984)Das Miyaza verlor das Vorrecht für die Feier des Ujigamis, und seine Vereinigung wurde schwach. Dagegen verstärkte sich die Vereinigung des Tonarigumis. Darauf wurde die Vereinigung des Zenjoji-Dorfs relativ schwach.
著者
高木 彰彦 遠城 明雄 荒山 正彦 島津 俊之 中島 弘二 山野 正彦 源 昌久 山本 健児 熊谷 圭知 水内 俊雄 久武 哲也 山野 正彦 源 昌久 山本 健兒 熊谷 圭知 水内 俊雄 内田 忠賢 堤 研二 山崎 孝史 大城 直樹 福田 珠己 今里 悟之 加藤 政洋 神田 孝治 野澤 秀樹 森 正人 柴田 陽一
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2006

公共空間と場所アイデンティティの再編について、地理思想史、理論的研究、経験的研究の観点から検討を行った。研究成果として、『空間・社会・地理思想』10(2006)、『空間・社会・地理思想』11(2007)、『空間・社会・地理思想』12(2008)を毎年刊行したほか、英文報告書として『Reorganization of public spaces and identity of place in the time of globalization : Japanese contribution to the history of geographical thought(10)』(2009)を刊行した。
著者
島津 俊之
出版者
和歌山大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2010

19世紀後半のベルギー王国では,以前のハプスブルク家領南部ネーデルラントに散在していた重要な文化的諸事象を「国家化」し,国民国家統合のシンボルとして祭り上げてゆく動きが生じた。地理学と芸術は,さまざまな関係性を取り結びつつ,この動きに巻き込まれていった。南部ネーデルラントの歴史的建築物や美しい景観,そしてメルカトルやオルテリウスといった16世紀の地理学者は,いずれも美術というメディアに媒介されつつ,ある種の「国家的遺産」として表象され,消費されていった。