著者
榧根 勇
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.36, no.3, pp.143-158, 1963-03-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
18

関東地方の区内観測所約170地点の値をもとにして作成したP1957年12月から1958年11月までの毎日の日最高および日最低気温分布図を比較検討した結果,平均分布図だけからでは知ることのできない特徴が判つたので,今回はすでに1961年に報告し却暖候期の日最高気温分布以外の場合について報告する.最低気温分布については冬の季節風吹走時・寒冷前線停滞時・春秋の快晴静穏時・夏の晴天時の4つの場合について,代表的な日の分布図の解析結果とともに各型の平均状態を図的に表現し,地形や水陸配置との関係を考察して該地域の気温分布の中気候的特徴を明らかにした. 寒候期の最高気温分布については,全般的に該地域が高温の場合に,東京湾沿岸に局地的低温が現われること,それが東京湾特有の海風(湾風)の影響であること,また,曇天で日中気温が上昇しない時は東京湾の影響は現われず,外洋沿岸に高温域が生じることなどを明らかにした.後者については平均状態の図を示し,最低気温分布と比較できるようにした。
著者
式 正英
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.57, no.11, pp.757-760, 1984
著者
岩塚 守公
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.25, no.2, pp.56-62, 1952
被引用文献数
1

In the marginal place of Kanto mountainland, and in the hills adjacent to Kanto mountainland, there are several erosional surfaces that are shown by the flatness of ridges and spurs. Especially in Tama hills, we find four erosional surfaces. The upper most erosional surface in Tam hill is correlated to the pediment-like erosional surface which exists in the southern slope of Mt. Ogi, and to the flat spurs which exist in the north-eastern slope of Mt. Sekiro, the neighbourhood of N akano Town and the southern slope of A, It. Ogura.<br> Upon finding those erosional surfaces, it is inferred that the T plane or the Di plane, an old name for the to pographic plane made at the beginning of the dilubial period, in separated into several erosional surfaces and is extended in the Katsura river basin.<br> Also, the above results show that the intermittent uplift . took place after the intensive tectonic movement which took place at the end of the Tertiary period.
著者
久野 久
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.12, no.1, pp.18-32, 1936

洪積期の初期多賀火山・湯河原火山の斜面が形成され,地殻運動によつて此斜面上に隆起部(玄岳一池〓山峠附近)と沈降部(田代・丹那盆地)とを生じ,斜面上には谷系も出現した後,丹那斷〓の著しい活動が起つた。そして斷〓を境にして其の西側の地塊が東側地塊に對し南方に役1粁水平移動をなし,且つ池ノ山峠附近では東側地塊に對しさらに役100米〓の隆起運動を行つた。<br>丹那斷〓は丹那盆地の盆地地形成因の重要な要素ではない。同盆地は多賀火山斜面が楕圓形に沈降して生じた構造盆地である。丹那斷〓は此盆地の中央を横ぎつて生じ,盆地の外形を稍複雑なものにしたに過ぎない。
著者
伊東 勇貴 熊木 洋太
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100199, 2016 (Released:2016-04-08)

房総半島の千倉付近には,元禄関東地震(1703年)と同様の地殻変動(数mの隆起)を伴う地震(以後,元禄型地震)によって離水したと考えられている4段の明瞭な海成段丘面がある。これらは上位から沼Ⅰ~Ⅳ面と呼ばれ,それぞれ沼Ⅰ面:7200年前頃,沼Ⅱ面:5000年前頃,沼Ⅲ面:3000年前頃,沼Ⅳ面:AD1703年の元禄関東地震時に離水したことが明らかにされている(中田ほか,1980;藤原ほか,1999など)。この地域に河口を持つ河川沿いでは,これらの海成段丘面に連続する河岸段丘面が存在し,地震時の相対的な海面低下による河床低下が上流に波及して河岸段丘が形成されたと考えられる。これらの河川は丘陵域に発する小規模なもので,この期間の上流側の環境変化は小さいと考えられ,相対的海面低下による河岸段丘形成過程を検討するのに適しているが,これまでほとんど研究されてこなかった。本研究では,千倉平野とその北側の古川平野を流下する河川沿いの段丘面を区分し,各面の分布や形状,縦断形の特徴を把握した。また各段丘面構成層の観察を行った。特に後述する古川Ⅳ面および千倉Ⅳ面の段丘構成層については,堆積物中に材化石,貝化石を発見したので,加速器質量分析法による14C年代測定を行った。これらの結果に基づいて,河岸段丘の発達過程について考察した結果,以下の結論が得られた。 1)千倉平野を流下する瀬戸川と川尻川の両河川沿いには4段の段丘面(千倉Ⅰ~Ⅳ面)が存在している。古川平野を流下する三原川,温石川,丸山川沿いにも4段の段丘面(古川Ⅰ~Ⅳ面)が存在している。これらはいずれも両地域にまたがって発達する沼Ⅰ~Ⅳ面に連続するか,最下流部での面高度がほぼ一致することから,沼Ⅰ~Ⅳ面を離水させた地震性隆起が原因となって形成されたと考えられる。 2)千倉Ⅱ面・古川Ⅱ面の形成は7200年前以降5000年前までのおよそ2200年間(期間1)に,千倉Ⅲ面・古川Ⅲ面の形成は5000年前以降3000年前までのおよそ2000年間(期間2)に,千倉Ⅳ面・古川Ⅳ面は3000年前からAD1703年までのおよそ2700年間(期間3)に形成されたと考えられる。 3)瀬戸川下流での露頭観察と年代測定結果から,千倉Ⅳ面の構成層(層厚約6m)の堆積開始は906~743 cal BP頃の少し前だと考えられる。したがって,瀬戸川下流での千倉Ⅳ面堆積物は,500~700年あまりの短期間で堆積し,これ以前の2000年間程度はもっぱら侵食傾向にあったと考えられる。 4)各期間には,谷が下刻による峡谷の状態から,側刻・堆積による幅広い地形面を形成する状態へ変化すると考えられる。また上述の瀬戸川下流のデータからは,その変化が生じるには,相対的海面低下後2000年近い時間が必要であると考えられる。 5)千倉Ⅳ面・古川Ⅳ面は,千倉Ⅱ面・古川Ⅱ面や千倉Ⅲ面・古川Ⅲ面より上流側にまで分布している。期間3がそれ以前の期間1,2より相当長いことから,遷急点がより上流側まで後退し,側刻・堆積作用によって段丘面が形成された範囲がより上流側にまで達したからと考えられる。 6)温石川,丸山川,瀬戸川,川尻川の現河床に見られる遷急点から求められる遷急点の平均後退速度は,それぞれ3m/y,6m/y,3m/y,2m/y程度である。また,各期間の終了時の遷急点の位置が幅広い段丘面分布範囲のやや上流にあり,当時の河口の位置が段丘面分布域の最下流部にあったと仮定すると,丸山川における期間1・2での遷急点の平均後退速度は,それぞれ1.7m/y,1.4m/y程度,瀬戸川における期間3の遷急点の平均後退速度は0.8m/y,川尻川における期間3の遷急点の平均後退速度は0.6m/y程度となり,期間が長くなると平均後退速度は小さくなる傾向が認められる。これらの値は,柳田(1991)が日高山脈の西側で段丘が発達するが最終氷期に堆積段丘は発達しない河川で得た値(1~3m/y)とほぼ同等である。
著者
河野 忠
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.83, 2006 (Released:2006-05-18)

大分県には84ヶ所,総数にして400体ほどの磨崖仏が存在しており,日本全国の8割近くの磨崖仏が集まっているといわれている.これまでの湧水調査の中で磨崖仏には必ずといってよいほど湧水が見られたので,便利な指標として利用していた.従来,磨崖仏の造立は密教との関係を指摘され,深い信仰心から造立されたといわれていたが,水の存在から磨崖仏をみた研究は知られていない.石像文化財保護の観点からみると,磨崖仏に湧水が存在する事は風化が早まる可能性があり好ましい事ではない.にもかかわらず,大分県の磨崖仏に湧水が存在する事は,そこに何か理由があるのではないかと考え,磨崖仏と湧水の悉皆調査を開始した.これまでに54ヶ所の磨崖仏を訪れ,湧水の存在を確認した結果,確実に湧水が存在するものが35ヶ所,湧水跡のみられたものが16ヶ所,存在しないもの3ヶ所となった.未調査の磨崖仏が30ヶ所ほどあるものの,9割以上の磨崖仏に湧水が確認された.しかも湧水のない3ヶ所の磨崖仏は,移動可能な石仏と横穴式墳墓に彫った磨崖仏であった.従って,調査した磨崖仏には必ず湧水が存在するといってよい.磨崖仏における湧水の存在理由は自然科学的には次のように説明できる.大分県には9万年前に噴火した阿蘇の溶結凝灰岩が大野川流域を中心に堆積し,各地に垂直の懸崖を形成しており,磨崖仏の格好の造立地を提供している.溶結凝灰岩はよい帯水層ともなっているので,多くの湧水が見られる事も確かである.磨崖仏に湧水が存在するその他の理由としては,制作者の硯水(作業の合間にとる水)と磨崖仏への閼伽水等が考えられる.製作現場での実質的な問題として,飲み水がなければ長期間にわたる磨崖仏製作は不可能といってよいだろう.また,閼伽水は神仏に毎日欠かさず供えるもので,近くに水場がなければならない.閼伽は密教と密接な関係を持つ言葉であり,磨崖仏に塗られている赤い塗料である水銀から作る朱(しゅ,アカ)にも通じている.しかも大分県には水銀産地である事を示す丹生地名が3ヶ所も知られている.このことから,大分県の磨崖仏は密教の影響を強く受け,水の存在に対する感謝の念と実用的な問題から,湧水の存在する場所に造立されたと考えるべきである.また,大分県外でも磨崖仏に湧水が存在する例は多く,海外の磨崖仏(中国のキジルや莫高窟など)にもその例が見られる事は特筆すべきであろう.
著者
山鹿 誠次
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.23, no.7, pp.231-237, 1950-07-31 (Released:2008-12-24)
参考文献数
7
被引用文献数
1
著者
木内 信藏
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.15, no.3, pp.212-233, 1939-03-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
18

This article is based on observations and data collected during my visit to Peking in the autumn of 1938. 1) Peking as the capital of the Han-culture. (Han is the crown name of cultural China) _??_pp. 213-18_??_. Important descriptions: (A) Town wall and the reason why it has been required, on the contrary to Japanese towns which have had no, wall _??_p. 241-_??_. (B) Races which set Peking as their capital were the Manchurians Mongolian, and Turkistan people, but town planning of Peking has been derived of Chow, and has very intimate relation to Chang-an and Loyang, two old capitals of the proper chinese states. 2) The Plan of Peking _??_pp. 218-25_??_ (A) The difference between Peking or Fengtien and Kyôto or Changan as to the situation of imperial palace (Fig. 1, 2, 3) (B) Compari-sion of the length of wall on 5 different maps of Peking _??_p. 220-_??_. (C) Classification of roads _??_p. 222-_??_: (i) Tache (Large street), (ii) Che (Street), (iii) Hoton (Side street, most developed name of mongolian origin), Kow, and etc., (iv) Fang, Wan., Kan, and etc. (these mean engulfed places). (D) Systems of roads (Fig. 9).: (a) Regular Hoton-system, (b) Irregular system composed of roads of (iii) and (iv) types (c) Pseudo radial system in the south castle 3) The Elevation of Peking _??_pp. 225-230_??_ Peking is called the capital of Sophora which, mixed with other trees such as ulms and willows, make a green ocean when, one views from Chingshan at the north end of the Tzu-chin-chemg palace. Important descriptions: (A) Residential houses _??_p. 225-_??_, one house-type, Su-ho-fang is illustrated in Fig. 10. (B) Retail streets _??_p. 226-_??_. After the classification of Japan Commercial and Industrial Congress, varieties of shops in. Wong-pu-ching near the Legation quarter re-sembles to Ginza in Tôkyô, showing a cosmopolitan character compared to Dahshi-lan, the most thriving retail centre in Peking, of which shops are almost typical Chinese (Fig. 12). 4) The increase of population from 1925 to 35, is 24.2% and in the year of 1935 it amounts to 1, 573, 200 of which 1.1 million live in the wall and others are in suburbs. Kyôto and Nagoya, one million cities in Japan are able to be compared to Peking-proper, but they show 30.8% and 41.7, increase respectively in the same period. The comparision of occupational population is described in page 231 (see the table), and it shows that Peking has a very small percentage, of manu-facturing population, i. e. 7.7%. In near future Peking will be enlarged in the suburb for the use of manufacture and residence.
著者
松本 豊寿
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.33, no.9, pp.473-482, 1960-09-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
6

Yamaguchi and Sumpu which newly became capitals of “Han” in the middle of the 19 th century had peculiar characteristics in their town-area formation. Firstly their castles had been turned into administrative offices and had lost their military significance. “Samurai Yashiki” existed in fact, but “Samurai Machi” had not been set up yet. It was a residental quarter for scattered bureaucratic retainers. “Machiya” had lost their privileged township characteristics. “Machiya” had been abolished and the phenomenon of confining a special trade to a special section had ceased to exist, so that business in general had been diffused all over the town. A new centrall street had taken the place of the old business center, and the core of the town had moved to the centrall street from the castle. In short, this new capital was by no means a castle-town, and the writer of this article calls this new capital “Hanto” and considers this phase the last stage of a feudal castle and the forerunner of a modern city.
著者
千葉 晃
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.93, 2004 (Released:2004-07-29)

1.目的 気候学・気象学辞典(1985)によると、日最低気温とは「24時間内にもっとも低い気温」と定義され、「晴れた日は日の出前後に出現する」と言われている。 日最低気温の出現時刻を場合分けをせずに単純に集計すると、日界に近接した時間帯にその出現頻度が大きくなり、辞典の内容とは矛盾している。晴天日のみを抽出したいが、雲量データがないので他の方法を使用するしかない。 また1時間値よりも詳細な検討を期待して10分値を使用すると、情報量こそは単純に6倍となるが時刻特定を行おうとするといくつかの問題点が介在してくる。そこで本報告では、アメダス10分値を使用して最低気温の出現時刻の特定を行う場合、その問題点と手法について、北海道内の地点を一事例として試案を提示する。2.資料 解析資料は、気象庁提供のアメダス観測日報10分値(1999・2000・2000年の3冬期の1月と2月、計179日)とした。1979年以降のアメダス1時間値により日本低極を記録している(気象庁WEB・千葉,2000による)北海道旭川市江丹別の事例を用いた。 アメダス江丹別は、旭川市江丹別町にある地点で、「江丹別そば」で有名な地区である。石狩川水系の江丹別川流域の小盆地で、谷は南北に走る。放射冷却の発生しやすい地形となっており、気象官署の旭川と比較した報告なども存在するので比較検討に適した地点と判断した。3.方法と問題点 従来のように日界を午前0時とし24時間全てを解析対象とすると、当日日中の寒気流入などで午後に日最低気温が記録されるケースを拾ってしまう。晴天日の最低気温の出現時刻を特定するという意味があるので、午前0時10分から午前9時までに絞り、この区間を解析対象とした。 また、前夜半からの放射冷却が順調に進行したとしても、暖気流入などにより放射冷却が鈍化し最低気温が午前0時10分に記録されるケースもある。このような日界の影響による最低気温の抽出を極力避けたいので、場の統一も不可欠と考えた。さらに、擾乱や日変化の小さい曇天日を事例に含まないことが重要となる。しかしながら、各アメダス地点では雲量計測はなされていないので、179例の中で最低気温が低い事例を36例(20%)を抽出し、雲量が少なく放射冷却が進んだ日と見なした。抽出例からモデルケースとして、気温の低い方から5番目までの事例を示す。 さて、次にアメダスの分解能は0.1℃であるがその誤差は±0.25℃ある。気温最低値とその2位の値が0.2_から_0.3℃以内でかつ、両者に時間的な隔たりがあれば、2位のデータも軽視すべきではない。逆に最低値のみで議論するのは危険である。従って、当日朝の低い方から1位から6位までのデータも含め統計をとることにした。この抽出方法を使用すると、日界付近の事例は抽出されにくくなる。4.この方法による結果 上記の手法で抽出した結果、アメダス江丹別では午前6時30分の15例を最大に6時から7時20分まで7時10分まで9事例以上を記録し、日の出時刻(旭川7時4分_から_6時10分)とほぼ対応していることが明らかになった。
著者
淺井 治平
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.1, no.6, pp.562-582, 1925-08-01 (Released:2008-12-24)
著者
板倉 勝高 井出 策夫 竹内 淳彦 北村 嘉行
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.37, no.8, pp.403-424, 1964-08-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
25
被引用文献数
3

本研究は日本の工業を地域的に把握するために,最大の集中地域である京浜工業地帯の地域構造を明らかにしようとしたものである.そのために,まず工業地帯の領域を合理的に設定したうえで, 30人以上全工場の業種別分布図を基礎にして地帯内の工場分布を分折するとともに,工場間の地域的結合関係,すなわち生産構造を明らかにした. 京浜の工業において占める重化学工業の割合は厳密にみると極めて低く,工業地帯を特色づけるものではない.したがって,重化学を主体としている臨海地域のもつ意義は小さい. 京浜の工業を特色づけるものは自動車,テレビ,カメラなど耐久消費財を中心とする組立工業と,日用消費財を中心とする雑貨工業とであって城南と城東とを核心とした生産組織をそれぞれ形造っている.核心地域における工場は両部門とも,技術的にも特殊化され,また,同一製品の生産量が少ない製品を小単位ずつ,多くの種類にわたって生産している,すなわち「多種,小単位,特殊」生産を特色としており,それらが相互に強い結合関係を有しながら集中しているものであり,これを中心的大都市工業の特質と考えることができる.工業地域の拡大も,核心地域内における生産関係の変化によるものであり,したがって,京浜工業地帯の地域構造も,この核心地域によって規定されている.
著者
林 正巳 實 清隆
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.52, no.2, pp.97-101, 1979-02-01 (Released:2008-12-24)

Most of Japanese municipalities, which were incorporated first in 1899, have experienced annexation or consolidation. However, there are municipalities which have not been annexed by adjacent large municipalities. This symposium was intended to focus on the problems of such non-annexed small corporate units. In order to handle the problems, we must pay attention not only to their geographical location, but also totheir administrative, financial and historical background. This symposium was carried on by two chairmen, four commentators, and ten speakers. Chariman: Osamu NISHIKAWA (Univ. of Tokyo) and Yoshio WATANABE (Tokyo Metropolitan Univ.), Commentators: Shoichi YOKOYAMA (Univ. of Ehime), Hideo TSUKADA (Univ. of Nara), Yasuo MASAI (Univ. of Tsukuba), and Naoki YOSHIZU (Univ. of Nagoya). We got the following ten reports. 1. FUKUHARA, H.: Case Study of Waki-cho Bordering Hiroshima and Yamaguchi Prefecture. 2. HIGAKI M.: Case Study of Yoshitomi-cho Adjacent to Nakotsu City, Ohita Prefecture. 3. SAEKI, I.: Case Study of Fuchu-machi Adjacent to Hiroshima City, Hiroshima Prefecture. 4. IDO, S.: Historical Approaches to Several Non-annexed Muras in Shiga Prefecture. 5. SAKAGUCHI, K. MIZUYAMA, T. and KOTANI, M.: Case Study of Iwataki-cho, Kyoto Prefecture. 6. YOKOTA, T.: Case Study of Kasugai-cho, Yamaguchi Prefecture. 7. CHIBA, T.: Minami-kawahara-mura, Saitama Prefecture. 8. OHISHI, T.: Demographical Approach to the Distribution of Non-annexed Municipalities. 9. OGURI, H.: On the Changes in Communities with the Consolidation of Local Government. 10. MIIDA, K.: Case Study of Some Non-annexed Small Corporate Units. Discussions were focused on the following points. 1. Merits and demerits of the non-annexed municipalities 2. Management and control of the budget of the municipalities 3. Community sentiment and non-annexed municipalities 4. Moderate scale of local government 5. Connection with other local governments in terms of consolidation.
著者
中村 豊
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.1-21, 1978-01-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
25
被引用文献数
7 3

近年,わが国でも,メンタルマップに対する関心が寄せられているにもかかわらず,実証的な研究はほとんどなされてこなかった.そこで,筆者はわが国における都市域のメンタルマップの名古屋市における事例研究を行なった.都市域のメンタルマップについては,リンチLynchのエレメント抽出以後も,地理学においてはほとんどなされなかったが,1960年代後半にアダムスAdamsがくさび形のメンタルマップの仮説を示すことにより,1つの議論の材料が与えられた。しかし,アダムスの仮説は実際のメンタルマップを説明するには不十分であったので,それは再検討をせまられた.再検討の方向は,1つにはアダムスの仮説を,分析方法を洗練させることによって修正するものであり,もう1つはメンタルマップの操作的な概念の変更であった.本研究では,筆者はこの2つの方向に従って実証的に両者を比較検討した.その結果,アダムスの仮説は概念化が不十分であり,メンタルマップの概念化は行動的アプローチを基礎に行なわれる方がよいことが理解された.そして,その行動的アプローチによって,都市域のメンタルマップはより一貫した説明が可能になることが理解された.
著者
白 迎玖
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.212, 2006 (Released:2006-05-18)

1.はじめに 近年、先進国のみならず、途上国においても、都市ヒートアイランド現象(以下 UHIと略記)が顕著になり、都市の熱環境が悪化している。特に、中国・上海をはじめとする途上国の大都市では、産業や人口等の一極集中化に伴い、人口密度が過度に高くなっているため、UHI現象が頻繁に発生し、さらに夏期の日中の最高気温が40℃を超える日も出現している。先進諸国が経験した経済成長と環境悪化の関係に照らせば、今後も急速な経済成長が見込まれている東アジア地域において、UHI現象による環境・社会問題は一層顕在化することが予想される。最近、上海においては改革開放経済のもとでの急激な開発に伴う高温域が都市中心部から黄浦江の東側に拡大していることが指摘された。しかし、自動気象ステーションの設置点数と観測範囲が限られているために、都市全体における高温域の分布を詳細に把握したとは言い難い。また、衛星データを用いた上海におけるUHIに関する研究も行われているが、地表面温度と気温との関連が明確にされておらず、UHIの分布とその変化を必ずしも十分に解明できなかった。そこで、発展の著しい上海におけるUHI実態を把握するために、UHIの時間的・空間的の変動を正確に捉えることが重要であり、特に測器の設置場所、設置点数および観測時刻を十分検討した上で、都市全体を高密度で覆う精度の高い観測網を設置する必要がある。本研究は、日本で蓄積された研究成果を有効利用し、途上国の実情に鑑み、観測およびシステム保守のコストを抑えながら、中国・上海において高密度自動観測システムを初めて構築し、長期間にわたって気象観測を実施して得られたデータに基づいて、上海におけるUHIの実態を解明することを目的としている。また、本研究で構築された観測システムおよび研究手法は、中国におけるUHIの研究だけなく、途上国における都市気候研究の発展にも貢献することが期待される。2.観測概要本研究では、2005年4月から上海市をカバーする39箇所で気温と湿度の自動観測が実施されている。図1に示すように、公園緑地・公用緑地で百葉箱(箱内の小型自動記録式温度・湿度ロガー)が設置され、直射日光を受けずに自然通風状態で測定を行うことができた。観測点の選定にあたっては、なるべく地点の配置に偏りがないように努力し、さらに、設置場所の環境が等しくなるように配慮した。また、UHIの中心部に相当する都市中心部には高密度に配置した。百葉箱はすべて公園緑地と住宅地内の公用緑地に設置されており、センサーの高さは地上約1.6mとした。10分間隔で記録したデータを約50日ごとに回収すると同時に、得られた観測記録のデータベース化を進めてきた。3.観測結果2005年の観測によると、月平均気温が上昇していることが確認された。2005年6月1日から8月31日までの真夏日日数(日最高気温>30℃)は、都市の中心部は73日、郊外は68日となった。また、熱帯夜日数(日最低気温>25℃)は、都市の中心部は45日、郊外は37日となった。また、2005年7月の最高気温は39.8℃(南園公園)となり、都市中心部には日最高気温35℃を超える日数は17日であった。日最低気温の最大値は31.0℃(南園公園)であり、熱帯夜日数は、都市中心部は26日、郊外は19日であった。風の弱い晴天夜間にUHIがはっきり存在し、春季の場合、UHIも発生している。2005年7月のUHI強度の最大値(月平均値)は4.3℃で(図2)、8月のUHI強度の最大値(月平均値)は3.4℃であった。また、図2に示すように、UHI強度は日没後急速に増加し、その後は同じような状態が日の出頃まで続くことが明らかになった。UHIのピーク値は、22時_から_午前1時までに現れた。特に、観測点の環境によって、UHIのピーク値とピーク値の出現時間が異なったことから、公園緑地の暑熱緩和効果が明確にされた。図2に見えるように、7月の場合、住宅地内の公用緑地より公園緑地のUHI強度の最大値が約1.3℃低かった。
著者
福井 幸太郎 菊川 茂 飯田 肇 後藤 優介
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100277, 2015 (Released:2015-04-13)

はじめに 「新湯」は立山カルデラの底にある熱水をたたえる池で現在の立山の火山活動の中心である地獄谷の南3.5 kmに位置する。かつてのマグマ水蒸気爆発でできた小規模な火口湖で直径は30 m、水深は5.6 m、表層の水温は65~70℃である。池中央にある複数の噴出口から熱水が湧出し続けているため常に満水で、熱水は北側の切れ口から溢れだし、立山カルデラ内を東西に流れる湯川に流れ込む。 近年、噴気や地熱活動が活発化している地獄谷周辺と異なり、新湯では水位や水温に全く変化がみられなかった。ところが2014年春先から突如激しい水位や水温の変動を起こすようになった。本発表では2014年6月中旬~10月末に発生した水位と水温変動について報告する。 方法 ・水位の変化を明らかにするため池の岸にインターバルカメラを設置して30分間間隔で湖面を連続撮影した。観測期間は2014年6月11日~10月29日である。 ・水温の変化を明らかにするために水深30 cmと水深2 mに自記温度計を用いて10分間隔で水温の連続観測を実施した。観測期間は2014年6月15日~10月29日である。 結果 ・インターバルカメラの画像の分析から、2014年6月11日~10月29日に新湯は合計11回干上がったり満水になったりを繰り返していたことが分かった(図1)。満水の熱水は噴出口に吸い込まれて1日で完全に排水し、干上がった状態が3~4日続いた後、噴出口から熱水が湧き出して4~5日で再び満水の状態に戻った。したがって、2014年春先から新湯は熱水をたたえる池から間欠泉に変化したといえる。 ・2014年6月15日~10月29日までの満水時の新湯の水温は平均で74℃であった(図2)。2006年10月22日~2007年8月9日の新湯の水温(水深30 cm)は平均64℃で(図2)、平均水温は10℃も上昇した。
著者
藤田 佳久
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.41, no.5, pp.297-309, 1968-05-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
23

わが国における林野所有形態の地域差に関連し,大井川上流域旧田代村(現井川村の北部)の明治初期官民有区分時の土地台帳の変化を通じ村持林野成立の要因を把握しようとした.その結果,水田を欠き焼畑が生活基盤であったこの村では旧天領であったことも関連し,農民層分解がみられず自作農民からなっていたこと,それゆえ総有的な奥山林野が村側の名目的個人分割化の対応もふくみながら一括村持山として認定されたことが認められた.このような山間焼畑地域における地域的性格は官民有区分に大きな意味をもったと思われる.
著者
鏡味 完二
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.28, no.5, pp.237-248, 1955-05-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
32

Bis heute ist der Wortsinn des Berges “Fuzi”, Fudschi-jama auf Deutsch, von vielen Gelehrten erklirt worden durch ein Aino Wort “Huchi” (=die Grossmutter, die Göttin des Feuers). Aber Dr. K. Kindaiti bewies, dass die Auslegung ein Missverständnis war. Doch es gibt hieriiber noch keinen treffenden Aufschluss in der N issenschaftlichen Welt. Hierauf land der: Verfasser überzeugende Beweise, dass das Wort “Fuzi”, ein altes echt japanisehes Wort ist, das die Schönheit der langen Abdachung des Berges bedeutet. (1) Auf Japanischen Inseln gibt es den Dialekt “Fuzi” welehes die lange Abdachung des Berges bedeutet. Auch der Regenbogen und die Glyzinie, die sehön in der Luft hängen, werden noch jetzt im Dialekt als “Fuzi” bezeichhnet. (2) Die vielen Ortsnamen “-fuzi”, deren Ursprünge die wie obenstehende Bogengestalten sind, verbreiten sick auf den Japanischen Inseln. (Siehe Abb. I). (3) Der Verbreitungstypus der Ortsnamen von “fuzi” hat eine Struktur der konzentrischen Kreise, deren Zentrum sick in Yamato befindet. Es g_??_bt keine Beziehung zwischen dem Gebiete der, Verbreitung und Hokkaido als Heimat der Aino. Der Verfasser ermittelte auch, dass die Ortsnamen “-fuzi” nicht so alt sind, wie bis heute von vielen Gelebrten angenommen wilyde; nämlich die Namen der Berge “-fuzi” kamen in der Zeit vom 3. _??_7. Jahrhundert vor, und die der vielen Siedlungen “-fuzi” (Siehe Abb. 1) im 9. J. H.. Die Verbreitung des Namens “Fuzi-san” (-san=-yama=Gebirge) mit dem Namen “Asalma- yama” (“Asama” stammt von “Azama” =Name des Seevolkes in alter Zeit) entsprechen der Entw icklungsregion der Berg-religion von “Fuzi-sengen” (“-sengen” ist die Japanische Farallele des chineschischen Zeichens “Asama”). Der Zasanlmenhang zwischen dem beiden Verbreitungen von Berg und Religion bedeutet, dass diese Bergreligion sich im Gesichtsfeld von “Fuzi-san” entwickelt hat. Das Gesichtsfeld von “Fuzi-san” ist ebenso ausdehnbar, wie die Kreisflache mit dem Halbmesser von 223 KM. (Siehe Abb. 3). Auch die Name “Fuzimi” (Von aus kann man den “Fuzi-san” sehen) verbreiten sich in diesem Kreise (Siehe Abb. 4). Abb. 1: Verbreitung der Namen “Fuzi”, die die lange Abdachung des Berges bedeuten. Abb. 2: Verbreitung der Namen “Azumi”, “Azuma” and “Asama”. Diese N amen sind für Berge and Siedlungen. “Azwni” ist der älteste. “Azuma” and “Asama” folgen nach “Azumi. Diese stammers von Seevolksnamen. Abb. 3: “Fuzi” and “Asama” -Bergnamen Zeichen des Hiihnerauges ist “Fuzi-san”. Kleine Kreise sind Namen des Berges “Fuzi”, schwarze Punkte sind Namen des Berges “Asalma-yama”. Abb. 4: Verbreitung des Namens “Fuzimi” “Fuzimi”. bedeutet, dass von -aus man den “Fuzi-san” sehen kann.
著者
辻村 千尋
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100084, 2015 (Released:2015-04-13)

リニア中央新幹線計画は、JR東海によって計画されている、東京~大阪間をほぼ直線で結ぶ超伝導方式の鉄道計画である。昨年の12月に起工式が行なわれ、着工となり、2027年までに名古屋までの区間を完成させる予定である。本計画ではその8割が地下トンネルで残りの2割が橋梁という計画で、南アルプスを土被り1400mで通過する計画となっている。これらのことを踏まえ、関連する自治体、環境省、自然保護団体からは環境への影響が甚大になることへの危惧について意見が表明されてきた。演者は昨年秋の大会において、本計画に関する自然保護上の問題点を、手続きの観点、国土デザインの観点、合意形成の進め方の観点から提起し、地理学分野が果たすべき役割について問題提起をおこなった。本報告では、自然保護の観点から環境行政上の改善点を提言する事により地理学会の果たすべき役割について議論を深めたい。