著者
吉野 正敏
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.149-160, 1989

この論文は先ず気温・霜・降雨・霧・日照などの気候条件について論じ,次にそれらがゴム,茶,米,サトウキビなどの栽培に与えるインパクトについて論じた。寒波はまれではなく,上記の熱帯作物にひどい被害をもたらす。斜面では冬もなく夏もないよい気候は1,300mから1,650の高度に認められる。谷間や盆地底では周辺の斜面とは異なる条件をもっており,違った作物栽培や異った収穫季のために利用される。春の干ぽつは年によりひどい。灌潮iがその対策のために必要である。また,気候変動,寒波,局地循環などの気候条件が西双版納の山地農業の発展を考える上で重要であることを論じた。
著者
貝塚 爽平 木曾 敏行 町田 貞 太田 陽子 吉川 虎雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.37, no.2, pp.89-102, 1964
被引用文献数
2

木曽川・矢作川流域には,第三紀~第四紀に形成された小起伏侵蝕面,河成あるいは海成の段丘面,断層地形など各種の地形がみられる.本文は,この地域でおこなわれた日本地理学会の現地シンポジウムでの討論をもとに編集した総合的報告である.ここには,木曽川・矢作川の段丘と濃尾平野東縁の段丘の対比,それらの形成過程や気候環境なども取上げられているが,主な論点は,むしろ鮮新世末の地層とその堆積面(土岐面・藤岡面),ならびに新旧いくつかの小起伏侵蝕面の形成環境・古地理・地形発達史などの問題にある.ほかに断層地形の形成時代などについても論じた.
著者
森山 昭雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.56, no.4, pp.243-261, 1983-04-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
20
被引用文献数
1 1

筆者は,まず人工地形を「人間の諸活動が自然の地形に対して直接的にあるいは間接的に作用することによって生じた地形」と定義し,直接的に造られた地形(第一次人工地形)と間接的な影響によって生じた地形(第二次人工地形)とを区別した.第一次の人工地形は,改変前の地形・地質条件,改変主体の性格,改変方法,法的規制等の詳細な分析により成因論的に説明することが可能であることを述べた.その考えに立って,瀬戸市およびその周辺地域に分布する陶土・珪砂採掘鉱山の人工地形について分析した.その結果,本地域の陶土・珪砂採掘に伴う人工地形は,改変主体の零細性に起因する鉱区の狭小性が数多くの巨大な採掘穴を無秩序に分布させたこと,ベンチカット方式と重機械による採掘方法および法的規制によって,ベンチの高さや幅,道路の幅や配置,穴底の沈澱池などの人工地形に著しい規則性をもたらしたことを述べた.また, 1m2当たり改変土量が約35m3にも達する強度の改変は,露天掘鉱山特有の性格であることを強調した.
著者
服部 〓二郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.38, no.3, pp.162-178, 1965
被引用文献数
1

数百万以上の人口集団に支えられた巨大都市の内部,とくに中心市街地を機能地域 (Functional Region) の視点から観察すると,一見複雑な構造のように見えるが,その地域構造は比較的単純でシスティマティックな中心地群の統合構造として浮きぼりにされる.すなわち, (1) 都心関係圏……都心を高次で複合的な機能核とする広大な圏構造的な関係圏, (2) 副都心関係圏……副都心をかなり強力なサービス機能核とする扇状の関係圏, (3) 地域中心関係圏……地域住民の日常消費生活にサービスするローカルな中心地群の狭い関係圏などの三つの異質な関係圏から構成されている.それらの中心地群は,各々統合・競合・補完などの関係を保ちながら併存している.しかも,その空間秩序は,いたって自然な経済地理的な法則の支配を受けていると考えられる.あたかも市場網の構造で A・Lösch が提示した蜂房構造に比肩されるような空間構造が巨大都市内部にも検出されるのである.
著者
溝口 常俊
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.83-102, 1987
被引用文献数
1

現在のバングラディシュの商品流通において,定期市とならんで重要な役割を果たしているのが行商人である.本稿は,従来ほとんど顧みられることのなかった行商人に焦点をあて,その空間的,時間的行動を明らかにすることを目的としている.種々雑多な行商人の中でも,最もポピュラーなアルミニウム食器の行商人を選び,行商先の村,販売額,掛売額等を聴き取った.<br> アルミニウム食器の生産・流通経路は,まず諸外国から輸入されたアルミインゴットが,チッタゴンからダッカへと運搬され,工場で各種の食器が生産される.それが卸売店を経てマーケットタウンの小売店および全国に散らばる行商人販売網を通して消費者にわたる.<br> ミルザプール(ダッカ北西70kmの町)に拠点を構える行商人の行動様式をみると,年間のスケジュールでは,乾期に出稼ぎ地で行商をし,雨期は自村で漁業をおこなう.行商活動は9人のグループを組み共同生活をしながらおこなわれる。食料,生活必需品は共同購入するが,行商であげた利益は各自の財産となる.販売圏は根拠地からおよそ6km圏内で,それぞれ天秤棒を担いで売り歩く.各自得意先の村と顧客を持っており,一週間のスケジュールとしては金曜日(ムスリムの休日)に休みをとる傾向がみられる.仕入れはダッカおよび近隣の町カリヤクールの卸売店でおこない,グループの1人が交代で月に1~2回でかける.<br> 各自200人前後の顧客を持っており,彼等に対して,中古品を回収するとともに,掛売をしている.この販売方法が買手にとって都合がいいばかりでなく,売手にとっても結果的には高収益をもたらすことになっている.<br> さて,ムスリムが多数を占める社会ゆえかムスリムの女性はもちろん,ヒンドゥーの女性すらめったに外出しない.高密度に分布している定期市への買物も男性がおこなう.それゆえ,戸別訪問してくれる行商人が彼女たちに強く求められるのである.事実,筆者がある1日,行商人につきそって取材した時,女性がいききと品定いめに現われた.また,行商人の「未収金帳簿」の顧客リストに少なからず女性の名前が連ねられていた.サリー,腕輪などもその多くをほとんど行商人から入手している.<br> 今後の課題として,アルミ食器以外の多種多様の行商人の行動様式を,本稿で試みた空間的および時間的行動調査を通して分析し,明らかにしていきたい.
著者
斎藤 功
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.77, no.11, pp.734-759, 2004
被引用文献数
1

カリフォルニア州のチュラーレ郡を対象に,本郡が大規模な酪農家の転入によりアメリカ最大の酪農郡となった過程を分析し,工業的酪農の実態を明らかにした.酪農の担い手は当初のイギリスやアルプス山麓のヨーロッパ系移民からポルトガル系,次いでオランダ系移民の子孫に変わった.1980年代以降,特に1990年代にロサンゼルス郊外のチノバレーから転入したオランダ系酪農家は,土地の販売代金を元手に2,000~3,000頭を搾乳する酪農場を複数立地させた.彼らはヒスパニック労働力と一度に70頭搾乳できるヘリンボーン式搾乳機等を使い,流れ作業方式の工業的酪農を成立させた.酪農家の耕地には畜舎から出る雑廃水を吸収させるためトウモロコシ・小麦が栽培され,それは家畜用サイレージとされ,循環利用される.また,酪農家にアルファルファベイルの干草棚が並ぶのは,それらがインペリアルバレーやユタ州などから購入されたものであることを示している.加えて,綿実,オレンジ残澤,アーモンドの皮などが酪農家に利用され,酪農家の堆肥も綿花栽培や果樹栽培に利用されている.このような地域間結合の存在も工業的酪農を支える基盤になっている.さらに,チュラーレにはLOLやCDIという農協系の乳業工場に加え,クラフト,サプートなどのチーズを生産する多くの乳製品工場が立地し,飼料会社,肥料散布会社などを含めアメリカ最大の酪農複合地域を形成している.
著者
森山 昭雄 淺井 道広
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.53, no.9, pp.557-573, 1980-09-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
18
被引用文献数
1 2

これまでに調べられた多くの河川堆積物は, -2~0φの粒径がヒストグラムの谷となるのに対して,矢作川河床堆積物はおよそ-2φおよび0φの付近にピークが現われる.その原因について,粒径別に礫種・鉱物種の構成比を調べ,さらに流域の大半を占める花醐岩類の造岩鉱物とその風化マサの粒度組成を調べた結果,次の結論を得た.すなわち, -2φおよび0φ付近にピークを持つB・C集団は,それぞれ伊那川・小原岩体の粗粒花歯岩と武節・下山岩体の細粒花歯岩類の造岩鉱物およびその風化マサの粒度組成と密接な関係があり,両岩体の岩石が流送過程で破砕・分解されて鉱物粒子となり,それに風化マサが加わって河床で混合したものであると解した.
著者
深石 一夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.46, no.11, pp.741-754, 1973-11-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
20

釧路での気象観測資料から霧の出現頻度,季節的変化,侵入速度,消散速度,侵入時の風向風速について調査した.また1972年7月, 8月には市内各地で気象観測を実施し,霧の侵入時の気温分布,風系,霧前線の移動等を明らかにした.さらに,霧の侵入時の風が夏の卓越風を代表しているので,偏形樹の調査を行ない,霧の侵入と関連が深いことがわかった.
著者
野尻 亘
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.129-144, 1992
被引用文献数
1

わが国の地理学においては通勤の研究は主として都市圏の分析に応用されてきたが,海外の地理学においては,交通手段の選択の問題に大きな関心が示されている。それは特に非集計モデルの発達,社会交通地理学研究の進展によって,自動車を利用できない状況にある人々,移動制約者の空間行動に関心が向けられてきたからである。しかし,わが国では既存の統計の不備もあって,自動車通勤や自家用車普及率の地域的な違いは地理学研究では看過されてきた。現在でも1960年代より急速に進展したモータリゼーションの勢いはなお衰えていない。それと同時に,東京をはじめとする大都市圏に人口が集中し,衛星都市が外延的に拡大していく一方で,農山漁村や衰退産業地域の斜陽化は著しい。そこで, 1980年の国勢調査ならびに運輸省等の統計によって,全国各都道府県・都市の通勤利用交通手段の選択比率・世帯あたりの自家用車普及率を調べたところ次のような地域的なパターンがあきらかとなった。公共交通利用通勤者が自家用車利用通勤者を上回っているのは,東京・大阪の2大都市圏と札幌・仙台・名古屋・広島・北九州・福岡の広域拠点都市とその周辺の限定された地域に認められること。公共交通利用通勤者の比率が高く,世帯あたりの乗用車普及率が低いのは東京・大阪2大都市圏内の衛星都市に著しいこと。東京・大阪2大都市圏を除いた国土の大部分で通勤に最もよく利用されているのは自家用車であること。しかし,特に関東北部から中部地方にかけての日本の中央部において,自家用車の利用率と普及率が著しく高いのが目だつことがわかった。以上の結果は,過密する大都市圏においては,道路渋滞や駐車用地の不足が自家用車の保有や通勤利用の抑制要因となっていることを反映していよう。さらにわが国では,公共交通を利用して通勤することが一般的である大都市圏と,自家用車を利用して通勤することが一般的である地方中小都市・農山漁村との生活様式の違いが著しいことが確認できた。モータリゼーションは,利便性だけではなく,公共交通の衰退をはじめ,移動制約者などの交通弱者のモビリティ剥奪などのさまざまな問題を生じさせつつある。本研究は,基本的な事実を統計上から再確認したものにすぎないが,今後の交通行動研究の基礎資料とすべく,さらに1990年国勢調査のデータとの変化を分析することを予定している。
著者
村田 陽平
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.75, no.13, pp.813-830, 2002
被引用文献数
3

本稿の目的は,従来の地理学ではほとんど検討されてこなかったセクシュアリティの視点に注目して,公共空間における男性という性別の意味を解明することである.日本のセクシュアルマイノリティの言説資料を基に,「外見の性」という性別に関わる概念を分析軸として検討する.まず「外見の性」が現代の公共空間といかに関連しているのかを考察する.次に,男性の「外見の性」に意味付けられる女性への抑圧性を検討し,その意味付けを行っている主体は,女性のみならず男性でもあることを示す.そして,公共空間における男性という性別は,「外見の性」が男性である状態を意味することを明らかにする.この知見は,日本における「女性専用空間」の意味を考える上で有意なものである.
著者
松沢 光雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.39, no.9, pp.618-624, 1966

(1) 渋谷繁華街を繁華街核心域(中心回遊路・回遊路内包域),回遊路外接域,周縁域の3地域に区分する. (2) 副都心を形成する新宿・渋谷・池袋の繁華街の構造上の共通点から,副都心構造の類型を導きだすことを試みた・しかし,副都心とよぼれる繁華街は,その数が少なく9特殊的事象と類型的事象との区別が困難である場合が多い.また,これら繁華街の構造および規模は,時代の経済事情に影響され装身具の流行(毛皮店)や,遊戯内容の変化等(トルコ風呂,スーパーマーケット,つり堀,レーシングカーなどの消長)の条件に反応すると思われる点もあって,固定的解釈をもつことは困難である.しかし,出来る限り,類型性をもつものを整理するようつとめた. (3) 繁華街構造の研究は,人間の快楽的要求と集落構造との関係の研究に外ならず,従って,心理学的立場からの考察が必要であるが,本論ではその面にはふれなかった.
著者
漆原 和子 吉野 徳康 上原 浩
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論. Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.71, no.7, pp.527-536, 1998-07
参考文献数
10
被引用文献数
2

福島県あぶくま洞内の小気候調査から,入洞者の影響により生じるCO<sub>2</sub>濃度の変化について考察した.観測は1995年夏季と秋季の2回実施し,気温・CO<sub>2</sub>濃度・風速の測定を移動観測と定点観測によって行った.その結果,閉鎖的な上部洞を中心に高温域とCO<sub>2</sub>濃度の高濃度域が形成されており,その持続時間は長かった.一方,下部洞では,夏季に洞窟内大気の流出,秋季に外気の流入が生じている.それは,洞窟内外の気温差が季節や日変化によって生じるためである.また,上部洞の三山の樹林では,夏季・秋季とも累積入洞者数とCO<sub>2</sub>濃度との関係に高い相関があり,得られた関係式から,約1500人で鍾流乳石の再溶食が生じるとされる2400ppmに達し,約4800人で人体に有害とされる5000ppmに達することが分かった.
著者
小池 洋一
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.33, no.12, pp.615-625, 1960
被引用文献数
4 3

レクリェーションはそれぞれ:地域によつて独自の形態を示すが,とくに都市においてそれがどのような地域的関係を示すか,大阪市を例にとり,主として場所的移動を伴うものにつき,この関係を検討した.<br> その結果は,市内でのレクリェーションは全体の約85%以上を占め,市外へ遠ざかるにつれて減少する.しかも市内では映画観賞など受動的なものが主で,市外におけるものとその形態が異なる.市外でも1時間までのところでは通勤者の休息が主となり, 3時間までは日帰りが多いが, 3時間以上になると日帰りはなく,宿泊による観光旅行となる.<br> このような都市を中心とする地域における都市住民のレクリェーションの頻度と形態の違いは,ひいてレクリェーション景観の違いをもたらしてくる.そこで市内には歓楽商店街などが発達し,1時間以内の地域には住宅群を中心に緑地遊園地が発達し, 3時間以内の地域には,ハイキング・ドライヴなどの能動的なレクリェーションの対象景観が発達する. 3時間以上の地域は広範に亙り,温泉・景勝地・史跡地など特定の観光地が不連続に分散し,それらの場所に市内歓楽街と同様なサービス施設が伴い,いわゆる観光地景観を呈する.このように都市を中心とするレクリェーション地域は都市圏と類似した構造を示す.
著者
阿子島 功
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.231, 2013 (Released:2013-09-04)

2011.3.11地震によって福島県中通り(阿武隈川沿岸)の内陸盆地では、丘陵地の谷埋め造成地の地すべりや沖積低地の地盤液状化が生じたが、さらに河岸段丘面上にある須賀川市(震度6強)の中心市街地でも建物被害が顕著であった。福島県中通り中央部の地盤災害が大局的には更新統「郡山湖成層」の分布域に一致するという指摘もある(小林2011JpGU)。須賀川中心市街地の震害は中世城館廃城の後に埋められた濠の位置に一致していたと考えられる例もあることを報告する。 [被害個所調査] 被災直後~数ケ月以内の調査報告・写真が多く公表されており現地比定ができる。2012年後半に現地で震災前の住宅地図と比較しながら被災個所の分布と微起伏を調査した。このとき中心市街地では更地、駐車場への転用、工事中の建物、道路の修復工事が目立ち、市役所やまちなかセンターなど大型建物の取り壊しが始まっていた。福島県中通りは震災の後の航空写真撮影やGoogleEarth画像の更新はされていない。 [中世末の二階堂氏時代の町割りの復元] 二階堂氏居城時代は、文安年間(1429~1449)築城より150年後の天正17(1589)年[伊達政宗の攻略によって落城]までであり、伊達・蒲生・上杉氏の支配を経て江戸時代初期に廃城となり宿場町として整備された。このとき二ノ丸を貫いて南北の街道が開かれた。須賀川町は近世を通じて奥羽地方の交通の結節点として大きな宿場町を形成していたが、そのために近世城下町地割をひきつぐ多くの都市とは異なって、城の遺構と城下町地割が明瞭ではない。 二階堂氏居城時代の町割は江戸時代になって記憶で描かれた城下町地割の絵図[須賀川市博物館蔵。絵地図1]があり、さらに現地比定を行うにあたって江戸時代後期の文化年間(1805-1815)の精密な鳥瞰図[白河藩絵師白雲筆による「岩瀬郡須賀川耕地之図」。同博物館寄託展示。絵地図2]および明治時代末の1:50,000地形図[M41年。地図3]が参考になる。絵地図2には段丘崖や開析谷の表現がなされているので現地比定の参考になり、寺なども対照点となる。ただし後代の地図3には城下町特有の“鉤の手“のくいちがいがよく表現されているのに絵地図2には表現されていない。 絵図1によれば二階堂氏居城は南北に細長い段丘面の中央を占め、城下町を含めてその西と東を段丘崖、その南と北を(浅い開析谷を利用した)堀切によって区画している。町屋は城の南に新町・本町、東に中町・道場町、北に北町がおかれた。江戸時代後期の絵図2には本丸の西側水濠(現在は道路)、二ノ丸の南西外縁の谷間の水田(現在は埋められて加治町公園)が描かれているが、二ノ丸東側の濠跡と二ノ丸の北側(搦手)の堀切の窪地(堀火掛の注記)はすでに埋められて読めない。江戸時代の白河藩(儒官広瀬典著)白河風土記巻十二によれば、(1)(中)町ノ地、元ハ二階堂氏城郭ノ内ニシテ、町ハ東ノ方ヲ回リシトナリ、今ニ町家ノ西裏ニ古ノ土居ノ残リ、高サ二丈計リ、長サ百間計リ、・・・(2)(本町ト)中町ノ接セシ所ハ、古二階堂氏城郭ノ堀アトニテ、町屋トナセシトキ土石ナントヲ以テ填ケレドモ、容易ニ埋メラザリシ故ニ、桁ヲ亘シ、上ニ土ヲ置キ、今ノ街トハナセシトナリ、云々[須賀川市史3(近世)1980,p.181-188]。現在の中心市街の中町筋は二ノ丸城内を南北に貫いたのであるが、(2)は南側濠大手付近を指し、(1)は本町筋を北へ延長した(新しい)中町筋ではなく、もともとの中町筋の西側に土塁があったことを述べているのであろう。[震害個所と埋没濠] 本丸跡の西側水濠(現在は道路)にそって路盤損傷、二ノ丸南西縁の濠跡(加治町公園)の両岸斜面で建物損壊、その南の延長の谷頭の浅く広い谷筋(加治町)の南岸で建物倒壊、谷中央で墓石倒壊が起きた。東側濠に沿う(と考えられる裏)通りに沿って建物損壊が起きている。しかし、二ノ丸城内にあたる現中心街(前述(1)の県道須賀川・二本松線沿い)でも多くの建物被害・路盤損壊が生じている理由の説明が残されている。
著者
谷口 博香
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100094, 2016 (Released:2016-04-08)

グローバル化の中で、国境を越えた人口移動が盛んに行われ、移民の存在とその処遇はすべての国家において重要な課題となっている。人文地理学の移民研究では、1980年代以降移民のエスニシティとエスニックな空間に注目した研究が数多く行われてきた。しかし、日本においては1990年以降になってようやく研究が進められている段階であり、まだ十分な展開が見られない。 本研究では、1980年代後半以降に「アジア系労働者」として来日した東京都周辺に在住するバングラデシュ人たちの日常生活の一端にアプローチした。1990年代の研究との比較により、現在日本で生活するバングラデシュ人国内の出身地、年齢、家族・友人関係、社会階層といった個人が持つ背景や彼らのネットワークがどのように変化したのか。そして在日バングラデシュ人のエスニック空間が、移民自身の戦略や葛藤、ホスト社会の権力関係等と絡みながらどのような形で生成されているのか、それは移民とホスト社会の双方にとってどのような意味合いを持ちうるのかを検討した。 研究方法は、文献・資料研究のほか、在日バングラデシュ人が多く集まるイベント、ハラールフード店、モスクなどでのフィールドワーク、ならびに当事者である在日バングラデシュ人や関係者、イベントを後援している自治体へのインタビュー調査が中心である。インタビューに際しては、筆者自身がボランティアとして活動に携わっていたNPO団体APFSからご紹介を得たほか、知人からの紹介やフィールドワーク中に出会った方など個人的な伝手を利用し、10名からの協力を得た。 調査の結果、現在の在日バングラデシュ人は東京都北区、中でも滝野川地域や東十条地域周辺に集中していることが明らかとなった。また、ほとんどの者が正規の在留資格を持ち、自らビジネスを行ったり事務職に就いたりと、労働市場の底辺を担う単純労働者としてみなされていた1980年代末とは異なる様相を見せている。そして、彼らのネットワークや生活圏は、彼ら自身の持つ属性(宗教や職業、滞在資格など)の違いによって細分化されており、よりミクロなスケールでの関係性にもとづき構築されている。 一方、彼らの構築するエスニック空間については、大別して2点の特徴が挙げられる。第一に、彼らは上述地域への集住傾向を示すものの、当該地域においては彼らのエスニシティが顕示されず、恒常的なエスニック景観は極めて不可視的である。第二に、彼らが集い、エスニシティを前面に出しうるのは、池袋西口公園で開かれる「ボイシャキメラ(正月祭り)」など、限られた一時的な機会のみである。このイベントは、公園という開かれた空間で行われ、彼ら個々人の存在自体が持つエスニシティ(服装や言語、容姿など)、そしてナショナルな性質を帯びるエスニシティ(国旗や国歌、文字など)が際立って可視化されている。すなわち、本国における彼らの「日常」がホスト社会においては「非日常」となり、ホスト社会である日本の政策と権力の影響を受け、普段の生活において戦略的、あるいは必要性のなさから自分たちのエスニシティや存在を隠していることとは対照的に、それらを示す重要な機会となっている。 以上から、移民によるホスト社会におけるエスニシティの体現は、様々な権利獲得や、観光資源あるいは商業上の必要性による「戦略的」なものであるが、在日バングラデシュ人にとってはこの一時性こそが、日本社会における生存戦略の一環となっていると考えられる。また、在日バングラデシュ人が、ホスト社会における公共物としての性格が強い公園において、その権力性を乗り越え、自らのアイデンティティと差異を誇示しつつも日本社会との良好な関係や友好を示す機会を継続して作り出しているという点は、移民コミュニティとホスト社会が関わり合うことによる多様な空間生成の可能性を示唆している。ある程度の可視性や持続性を前提とした文化的景観に加え、こうした一時的かつ非日常的に構築されるエスニックな空間の持つ意味を検討したこと、そして移民による空間形成の背後にあるホスト社会の権力とアクターを含めた検討ができたことは、エスニック地理学における新たな見方を提示することができたのではないか。
著者
鈴木 康弘 廣内 大助 渡辺 満久
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100262, 2015 (Released:2015-04-13)

2014年長野県北部の地震は糸魚川-静岡構造線(糸静線)の北部、神城断層が活動して起きたものである。長野県はこの地震を神城断層地震と命名した。政府の地震調査研究推進本部(地震本部)は、110の「主要活断層」を定めて地震発生長期予測を行ってきたが、この地震は主要活断層が起こした初めての地震となった。震源断層面が浅かったために局地的に強い揺れが発生し、白馬村神城・堀之内地区では甚大な被害が生じた。気象庁は正式に認定していないが、震度7相当の揺れに見舞われていたと推定される。地表のずれ(地表地震断層)は、既存の活断層地図で示された場所に出現した。しかし、この地震は糸静線のごく一部が小規模に活動して起きたものであり、地震本部の予測とは異なっていた。地震規模が小さく死者は出なかったが、活断層地震の長期評価(発生確率)や強震動予測に再考を促す重要な地震であった。
著者
林崎 涼 鈴木 毅彦
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100171, 2015 (Released:2015-04-13)

長石を用いた新たな光ルミネッセンス(OSL)年代測定法として, post-IR IRSL(pIRIR)年代測定法 (Thomsen et al. 2008) が近年確立された.pIRIR 年代測定法では,それまでの長石を用いた OSL 年代測定の際の Fading という問題が解決され,過去数十万年間の堆積年代を見積もることが可能となった(Thiel et al. 2011 など).しかし,pIRIR 年代測定法では正確な堆積年代を見積もるためには,長時間(数ヶ月)太陽光へ露光し,ブリーチしていることが必要である(Buylaert et al. 2012).そのため,一般に露光しにくい河成堆積物の堆積年代を求めるのに,pIRIR 年代測定法は不向きだと考えられる.しかしながら,時間指標となるテフラなどに覆われていない中期更新世の河成堆積物の堆積年代を求めることは難しく,pIRIR 年代測定法を試みる価値は大きい.本研究では,立川市/武蔵村山市の榎トレンチにおいて,まず年代の明らかな立川面の段丘構成層を対象として,pIRIR 年代測定法により河成堆積物の堆積年代を見積もることが可能か検討した.次に,榎トレンチ底から採掘されたボーリング試料(TC-12-1 コア)から,青梅砂礫層に相当すると考えられる埋没礫層の堆積年代をpIRIR 年代測定法により推定した.トレンチ壁において立川面の段丘構成層中の砂層に塩ビパイプを挿入し,太陽光への露光を防いで試料を採取した.ボーリング試料は暗室において半割し,礫層中に挟まる砂層において,太陽光へ露光していないと考えられるパイプの中央部分から試料を採取した.暗室において,OSL 強度が減衰しにくいとされるオレンジ光源下で試料処理を行い,180〜125μm のカリ長石を抽出した.抽出したカリ長石は,ディスク上へ直径 2 mm の円盤状に接着し,東京大学工学部所有のデンマーク Risø 研究所製 TL / OSL-DA-20 自動測定装置を用いて OSL 測定を行った.pIRIR 年代測定は Theil et al.(2011)と同じ測定手順を用いた.河成堆積物は,運搬・堆積過程において露光が不十分であると考えられる. そこで,pIRIR 年代測定によって求められた各ディスク試料の等価線量から,最もよく露光していたディスク試料を抽出することができると考えられる,Minimum age model(MAM: Galbraith et al. 1999)を適用し,堆積物の等価線量を見積もった.得られた等価線量を試料採取箇所の年間線量で除することにより,扇状地礫層の OSL 年代を求めた.榎トレンチは立川Ⅱ面(山崎1978)に位置しており,段丘構成層の堆積年代はAT (30 ka)降灰以降で,UG(15〜16  ka)降灰以前だと考えられている.pIRIR 年代測定法の結果に,MAM を適用した段丘構成層最上部(OSL-5)の OSL 年代は,22.7 ± 2.4 ka となり,先行研究の年代と矛盾しない.OSL-5 から約 3 mほど下位のOSL-3 において MAM を適用した OSL 年代は30.3 ± 3.1 ka で,立川Ⅰ・Ⅱ面のどちらの段丘構成層とも解釈できる. MAM を適用して見積もられた OSL 年代は,先行研究の堆積年代と整合的であり,運搬・堆積過程で充分に太陽光に露光し,ブリーチしていた鉱物粒子を抽出することができたといえる.以上のことから,pIRIR 測定法の結果に MAM を適用することで,段丘構成層の真の堆積年代を見積もることができる可能性があるといえる.武蔵野台地西部では,古くから段丘構成層の下位に厚い礫層が埋没していることが知られている(寿円 1966 など).これは青梅砂礫層と呼ばれ,堆積開始年代の解釈には下末吉面形成以前(角田 1999 など)と以降(高木 1990;貝塚ほか 2000 など)があるが,正確な堆積年代は明らかでない.pIRIR 年代測定法の結果に,MAM を適用したボーリング試料上部(3.62-3.66 m)の OSL 年代は,65.4 ± 8.2 ka で,武蔵野礫層に相当すると考えられる.ボーリング試料の下部(17.25-17.30 m)では,MAM を適用して 235.7 ± 25.7 ka という MIS7-8 頃の OSL 年代が得られた.本研究の結果から,青梅砂礫層は少なくとも 2 つの堆積時期に分けられる可能性があることが分かった.高木(1990)では,青梅砂礫層中から Hk-TP と考えられるテフラを見出しており,これはボーリング試料の上部で求められた堆積年代と一致する.植木・酒井(2007)では,青梅砂礫層はMIS 6 以前の間氷期に形成された谷を埋積した地層の集合だと考えているが,ボーリング試料の下部の OSL 年代は矛盾していない.
著者
大和田 道雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.51, no.4, pp.283-300, 1978

北海道平野部のうち6地域の卓越風向および風速の分布を偏形樹調査によって明らかにした.1973~74年にかけて十勝平野,サロベツ原野およびサロマ湖周辺地域を調査し,先に発表した石狩平野,斜網地域,根釧原野の調査資料も加えて考察した.<br> 十勝平野では,約140地点のカラマツの偏形樹を調査した結果,5つの風系すなわち狩勝峠から吹き出す西よりの風は (1) 石狩山地に沿って南西風として吹き上がるもの, (2) 十勝平野を西風として吹き抜けるもの, (3) 芽室付近から向きを変えて北あるいは北西風として吹いているものと,太平洋からの南東風が, (4) 十勝川の河川低地に沿って吹き上がるもの, (5) 日高山脈に沿って南風として吹き上がるもの,とに区分できた.なお, (1) の風道では風下波動の影響と思われる強風域が10~15kmの間隔で分布する.サロベツ原野では,約70地点について調査した.そこでは日本海からの西よりの風は, (1) 西風として吹いているもの, (2) 局地的な地形の影響によって南西風に変化しているもの, (3) 天塩川に沿う河川低地に沿って北西風に変化するもの,の3つの風系に分類できる.<br> さらに,平均風速と偏形度との関係は,W<sub>sp</sub>(m/s)=1.1+1.19G<sub>spl</sub>で表わされる.ここでW<sub>sp</sub>は,春(3・4・5月)の農業気象観測所の平均風速(m/S)であり, G<sub>sp1</sub>はカラマツの偏形度である.また夏季においては,W<sub>s</sub>(m/s)=0.86+1.07G<sub>sfa</sub>となる。同様にして付字sは夏季(5~9月)を示し,G<sub>sfa</sub>は石狩平野とサロベツ原野におけるヤチダモ・ハンノキの偏形度である。根釧原野における夏の平均風速とカラマツの偏形度:との関係式(大和田,1973)と,前記2式から,6地域における平均風速の分布図を作成した.平均風速4.0~5.0m/sの強風域は, (1) 石狩平野においては石狩川河口, (2) 斜網地域においては南側山地およびオホーツク海岸沿いの地域, (3) サロマ湖湖岸の周辺, (4) 根釧原野においては尻羽岬・浜中湾および昆布森の周辺, (5) 十勝平野においては新得町の周辺および瓜幕付近,および (6) サロベツ原野においては日本海に沿って約5~10kmの海岸地域,にみられる.一方,弱風域は,根釧原野の中央部,十勝平野における日高山脈に沿う風陰地域および石狩平野における札幌市の周辺地域に見出された.
著者
ミデール ライムンドS.
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.59, no.6, pp.362-369, 1986

第2次大戦後のポーランド経済,とくに工業の急激な発展によって,急速な都市化過程が生じた.1950~80年の間に,都市人口割合は総人口の38.4%から58.7%へ増大した.この時期に,ポーランドの市・町の人口は1,140万人(54.3%)増加した.そのうち,ちょうど42.4%は自然増加, 33.9%は農村地域からの流入, 23.7%は行政区域の変更によるものである.<br> 1980年末には,ポーランドには804の都市と都市的集落とがあった.ポーランドの町のうちでは,小さい集落(人口1万人以下)が圧倒的に多い.それらの小集落は,都市的集落総数のうち55.9%を占め,同時に全都市人口の約10%を占めている.同年,人口5万人以上の町は75(都市的集落総数の9.3%)を数え,全都市人口の62%以上を占めている.<br> 空間的視点から見て,最も都市化しているのはポーランド西部および南央部であり,全国の都市化指数を超えている.国土には16の都市アグロメレーションがつくり出され,その中で9つが充分に発達したもの(上シロンスク,ワルシャワ,ウッジ,クラクフ,プロツラフ,ポズナニ,シュチェチン,グタニスク・グジニア,ビドゴシュチ・トルニ)であり, 7つがある程度発達した都市アグロメレーションである(スデーティ,スタロ・ポルスカ,ビエルスコ,オポーレ,チェンストホバ,ルブリン,ビアウイストック).顕著な16の都市アグロメレーションは,全国人口の20%以上,都市人口の60%以上,全産業人口の約65%以上を占めている.別に, 4つの都市アグロメレーションの発生が目立つ.すなわち,タルノブジェック—スタロバ・ボラ—サンドミエシ,周カルパチア,下シロンスク,カリシュ・オストルフである. 20世紀末には,ポーランドの総人口は, 3,900~4,000万人の水準に達し,そのうち65~75%は都市人口と推定される.現在目立つ16の都市アグロメレーションは,多中心地結合集落システムの内部で主要な経済的中心地の機能を果たし,ポーランドの都市人口の約80%が集まっているであろう.
著者
太田 勇
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.115-129, 1985
被引用文献数
1

シンガポールの今日の経済繁栄は,全国民の英語化政策に象徴される強力な国民統合への努力に負うところが大きい.政府関係者はもちろん,ほとんどすべてのシンガポール人学者が,この政策を高く評価している.しかしその反面,独立後20年間に強行された華語系人への抑圧は語られず,現在の政治的安定と物的生活の向上にのみ注意が払われがちである.ここへ至るまでに,英語系エリート主導の人民行動党政府が,いかに華語教育を衰退させたか,いかにアジア系公用語の地位を低下させたかがもっと重視されてよい。筆者はこの観点から,シンガポールの経済繁栄は多数派の華語華人の文化的敗北をもたらし,華語の社会的機能を少数派言語のマレー,タミル両語並みに低めたことに言及した。<br> また,英語国化をとげつつあるが,シンガポール独自の文化的特色を反映させた言語の土着化には賛成が少なく,イギリス英語至上の思想が指導者層に一般化している.彼らにとっては,国際的に通用する英語こそが習得に価いするのであり,局地的にしか使われない型の英語は異端なのである.それは,国の経済規模が小さく,政治的には国際情勢の影響を大きく受ける小島国が,もっとも効率よく自言語を発展させる智恵の表れでもあろう.かくして,シンガポールはその経済発展の基盤と,将来の言語文化の方向とを,植民地時代の遺産継承の形で確立している.