著者
関根 康正 鈴木 晋介 根本 達 志賀 浄邦
出版者
神奈川大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2016-04-01

関根は、2018年8月~9月に英国現地調査を実施した。移民3世が登場する1990年代以降、インド系移民社会内部に新たに現象してきた「不可触民」差別に対する解放運動の実態について関係組織を訪問しインタビューを行った。また、ロンドン大学SOAS図書館で関係資料収集を行った。2019年1月の研究会でその成果を「英国・ロンドンでのインド系移民のアンベードカラトの反差別運動について」と題して報告をした。根本は2018年8月~9月および2019年2月~3月、インドのナーグプルで計4週間のフィールドワークを行なった。特に仏教僧佐々井秀嶺が現地に保管する不可触民解放運動史料の確認・整理に取り組みつつ、佐々井と仏教徒による創発的な宗教実践と当事者性の拡張について調査を実施した。これに加え、ナーグプルおよび近隣農村におけるダリト(元不可触民)活動家男性と上位カースト女性の異カースト間結婚の調査にも取り組んだ。鈴木は2019年2月にスリランカでのフィールドワークを行った。シンハラ仏教僧や在スリランカ・インド僧(Mahamevnawa僧院)への追加インタビューを通じて、南アジア上座部仏教圏におけるアンベードカライト的言説の評価の輻輳性の考察に資する言説データを蓄積するとともに、巡礼を中心としたインド、スリランカ両国仏教徒のトランスナショナル・ネットワークの実態に関する一次資料の収集に取り組んだ。志賀は文献研究として、アンベードカルによる『ブッダとそのダンマ』の第3部と『改宗(ヒンドゥー教からの離脱)』のテキスト分析と内容の比較を行った。定例の研究会においては、仏教徒のアイデンティティの二重性、改宗が持つ意味、仏教徒の行為主体性等について考察し報告した。また2019年3月にインド・ナーグプルを訪問し、トランスナショナルな仏教者ネットワークや仏教徒の行為主体性などについて現地調査を行った。
著者
関根 康正 杉本 良男 永ノ尾 信悟 松井 健 小林 勝 三尾 稔
出版者
日本女子大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1999

1990年代以降のインド社会において宗教対立が深刻化しているが、それが経済自由化と平行現象であることに注目した。本研究は、近年のグローバリゼーションの進展と「宗教空間」の変容をどのように対応づけられるのかを、具体的な日常現場の調査を通じて明らかにすることをめざした。この基礎研究によって、日常現場から見えてくるHindu Nationalistとは言えない「普通」の人々の宗教実践から、政治的な場やメディアなどでの「宗教対立」の言説を、正確に相対化し、「宗教対立」問題を見直すのである。明らかになってきたことは、生活現場の社会環境の安定性の度合が、「宗教対立」現象に関与的な主要因子である点である。要するに、それが不安定になれば上から「宗教対立」の言説に惹かれて不安の由来をそこに読みとってしまう「偽りの投影」に陥りやすくなるのである。逆に、安定性が相対的高い村落部では現今の「対立」傾向を知りつつも生活の場での「共存・融和」を優先させている現実が明らかになった。各地の現地調査から共通して見出された重大な事実は、そうした村落部でおいてさえ、都市部ではなおさらであるが、宗教のパッケージ化が進んできていることである。これは、生活文化におけるローカルな知識の急速な喪失を意味し、それと入れ替わるように生活知識のパッケージ化が進行し、宗教面においてもしかりである。宗教版グローバル・スタンダードの浸透現象である。これは、「宗教対立」を起こしやすい環境を整えることにもなる。その意味で、私達が注目した宗教の裾野や周辺現象(スーフィー聖者廟、女神信仰、「歩道寺院」、村落寺院、地方的巡礼体系、部族的社会様態など)への関心とそれに関する詳細な実態報告は、それ自体パッケージ化やスタンダード化に抗するベクトルをもつものであり、そうしたローカルな場所に蓄積されてきた知恵を自覚的に再発見する環境づくりを整備することが、「宗教対立」という言説主導の擬態的現実構築を阻止し解体のためにはきわめて重要であることが明らかになった。
著者
坪井 良平
出版者
史迹美術同攷会
雑誌
史迹と美術 (ISSN:03869393)
巻号頁・発行日
vol.49, no.4, pp.p122-124, 1979-05
著者
田中 洋平 Yohei Tanaka
出版者
淑徳大学人文学部紀要委員会
雑誌
研究論集 (ISSN:21895791)
巻号頁・発行日
no.4, pp.97-108, 2019

本論では中等教育段階における歴史教育と歴史学研究の結節を企図し、高等学校で使用されている日本史教科書の記述について、歴史学的知見からこれに検討を加えた。具体的には、近世宗教史分野の研究成果を整理するとともに、これに新たな研究知見を付与したうえで教科書の記述を再検討している。ここでは、これまでの研究史及び『肥後藩人畜改帳』の分析から、寺檀制度の成立に照応させつつ、それを担う寺院が建立されたことを確認し、にもかかわらず、そうした寺院がどの段階で造営されていったかという点について、教科書中には記述がないことを指摘した。併せて近世宗教史研究のうえで長らく議論されてきた「近世仏教堕落論」についても、これを教科書に記載したうえで、歴史事象に関する生徒間の討論を深化させるための素材とすることができる可能性について言及した。
著者
帯谷 博明
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.52-68, 2002-09-30 (Released:2010-04-23)
参考文献数
30
被引用文献数
1 1

本稿は, ダム建設計画を例に, 地域社会の対立の構図とその変容過程を明らかにし, 計画段階における〈開発問題〉を捉える新たな関係図式の提示を行う.高度経済成長期を中心に各地に計画された大規模開発の中には, 近年, 長期間の地域コンフリクトを経て計画の見直しや中止に至る事業が見られるようになっている.数十年間にわたって事業計画に直面してきた地域社会では, その過程でさまざまなアクター間の利害対立とその変容を経験している.本稿は, これを計画段階における〈開発問題〉として把握する.ではこの〈開発問題〉における利害関係のダイナミズムは, どのように捉えられるだろうか.具体的には, 機能主義を背後仮説とする受益圏・受苦圏論を再検討した上で, まず, 開発計画をめぐる受益と受苦が住民にどのように認識されていたのかを分析する.さらに, 主要なアクター間のネットワークに注目する.「よそ者的視点」をもつキーパーソンを結節点とするネットワークが, 運動の拡大のみならず, 住民の受益・受苦認識の変容を迫り, その結果, 利害対立の構図自体が変容していくことを見出す.結論部では, 本稿の分析から得られた関係図式として, 受益・受苦と運動・ネットワークとの「相互連関モデル」を示す.
著者
阿部 宏行
出版者
美術科教育学会
雑誌
美術教育学:美術科教育学会誌 (ISSN:0917771X)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.1-12, 2015-03-20 (Released:2017-06-12)

本研究は,子どもの絵の発達と,その指導のあり方を考えるものである。本稿は,小学校6年間を継続的に調査した「食事の風景」をもとにして,大人の絵に近づく子どもの絵の空間の表現の発達は,様々な方向からの視点でかかれた観面混合などを繰り返しながら進んでいくことを記述した。その変化の過程で,食卓の奥の縁の長さが,手前の縁の長さより長くなる傾向がある。これは子どもの成長と表現との間に,「想像視」の働きがあり,それがやがて,1点から固定的な見方の視覚優位の大人の絵になることを指摘した。その上で子どもの絵の変化をとらえつつ指導することの重要性を論述した。
著者
松浦 律子 田力 正好
出版者
公益社団法人 日本地震学会
雑誌
地震 第2輯 (ISSN:00371114)
巻号頁・発行日
vol.71, pp.103-116, 2018-07-10 (Released:2018-08-09)
参考文献数
30

After the Russo-Japanese War, too little information about earthquakes was published by the Central Meteorological Observatory, and it has made us left in difficulty to examine earthquakes of the Taisho era precisely. Among such earthquakes, the M5.7 destructive earthquake on August 6th, 1916, in Ehime Prefecture was re-examined by the excavated same age documents. Irazu weather station and other stations, which were operated by the company of Besshi copper mine, reported the detail of this earthquake. Identification of reported places about cracks and falling rocks was done, in addition to the examination of the seismic intensity distribution left in newspapers and the Official Gazette. It is proposed to move the epicenter of this earthquake to (33.95°N, 133.4°E), where is six-km south from that in Utsu-catalogue, and closer to the Ishizuchi fault, which belongs to the Median Tectonic Line active fault zone. It is also found that this event has a felt foreshock a half day before, and a felt aftershock an hour later. This event is the first candidate of destructive earthquakes of the MTL active fault zone in the written history.
著者
岐部 公一
出版者
一般社団法人 電気設備学会
雑誌
電気設備学会誌 (ISSN:09100350)
巻号頁・発行日
vol.31, no.5, pp.336-339, 2011-05-10 (Released:2014-09-01)
参考文献数
3
著者
村井俊治総編集
出版者
朝倉書店
巻号頁・発行日
2005
著者
中野 敦 塩入 健太 星野 准一
雑誌
情報処理学会研究報告エンタテインメントコンピューティング(EC)
巻号頁・発行日
vol.2005, no.59(2005-EC-001), pp.61-66, 2005-06-04

近年,CGキャラクタとの対話によってストーリーの進行するコンテンツが数多く見られるようになった.そのためCGキャラクタの表現力を向上することは,これらのコンテンツに没入するための重要な要素となっている.従来の対話型コンテンツでは,CGキャラクタは台詞に対応付けられた振る舞いを行っており,同じ台詞に対して同じ動きを繰り返すといった動きの単調さが見られた.そのため内面に存在するはずの心理状態を感じられない無機質な印象を利用者に与えてしまうという問題がある.そこで本研究では会話内容を補足するジェスチャに加えて,心理状態を表現する姿勢やしぐさを動的に複合することで心理状態を表現した振る舞いを生成する.この技術によって表現豊かな振る舞いを生成した結果を心理コミュニケーションゲームという対話型コンテンツ上で示す.
著者
朱 捷
出版者
京都
雑誌
総合文化研究所紀要 (ISSN:09100105)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.63-81, 2016

Some pairs of the hexagrams in the I Ching (Book of Changes) may be viewed as having the structure of palindromes, and the elements that make them up may be viewed as palindromes as well. The hexagram 師, (shi, Leading), for example, is the reverse of the hexagram 比 (bi, Grouping), and each of that hexagramʼs six yao 爻 (the whole or broken lines that make up the hexagram) is the reverse of the corresponding yao. The first yao of the hexagram 比, for example, is the sixth yao of the hexagram 師, while the sixth yao of the hexagram 比 is the first yao of the hexagram 師. Whether it can be ascertained if there is in fact a reversible, palindrome-like relationship between these pairs of yao and their commentaries, and whether each of these paired yao shows a correspondence with and reversal of its counterpartʼs meaning is the question this paper takes as its subject. This essay looks at seven pairs of hexagrams in which each yao is the mirror image of that of its corresponding hexagram, and, on the basis of the commentaries on each of the forty-two yao, for a total of eighty-four, determines that almost all of the pairs show this palindromic conversion of meaning.論文

1 0 0 0 OA 妙行日課

著者
林鳳宣 著
出版者
平楽寺書店
巻号頁・発行日
1916
著者
松縄 正登
出版者
情報メディア学会
雑誌
情報メディア研究 (ISSN:13485857)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.21-40, 2005 (Released:2006-03-27)
参考文献数
76

2005年9月30日,知的財産高等裁判所でワープロソフト「一太郎」と統合グラフィックソフト「花子」の製造販売差止請求を棄却する旨の判決(知財高裁判平17.9.30)があった.同年2月,東京地裁で,「一太郎」「花子」の製造販売差止請求を認める旨の判決(東京地判平17.2.1)から,約8ヶ月の短期間で決着がつき,ジャストシステム側の訴えが認められた.この事件は,原告の所有する「情報処理装置及び情報処理方法」というハードウェアに関する特許と,「一太郎」「花子」というソフトウェアとの争いである点に特徴を有する.本稿は,この事件に焦点をあてながら,ソフトウェアの知的財産権を巡る問題について考察を加えたものである.
著者
河和田 唯彰
出版者
真宗文化センター
雑誌
親鸞の水脈
巻号頁・発行日
no.1, pp.9-13, 2007-04

1 0 0 0 OA 古代・中世

著者
市毛 弘子
出版者
The Japan Society of Home Economics
雑誌
家政学雑誌 (ISSN:04499069)
巻号頁・発行日
vol.37, no.6, pp.453-463, 1986-06-20 (Released:2010-03-10)
参考文献数
14

It was found by my investigation that the word “Muginawa” meaned “Sakubei” at first, and it changed into “Soumen” in the Edo era. So, I tried to research for its origin, as well as the way of use, and the process of change from Sakubei to Soumen.In China, Sakubei was eaten before 220 A.D. In Japan, some data can be found indicating that it was eaten at the Todaiji Temple in the early days of the Nara era. From these facts, it is supposed that Sakubei was imported from China along with Buddhism, and sold at East and West markets of Heijokyo.In the Heian. era “Sakubei” was very important food in the Imperial Court. It was given to the priests and high society people from the Emperor at the Imperial events.“Sakubei” was served at the first step of dinner table. After ear shell's soup was served to the Emperor it was taken off the table. It came into wide use at the end of the Heian era. High society people had a custom of eating Sakubei on the 7th July according to an old Chinese tradition.From the ancient times on to the 13th century it had been called “Muginawa, ” but in the Middle Age it was very often called “Sakubei.” The custom of eating Sakubei on the 7th July was continued from the end of Heian era to the Middle Ages.On the other hand Soumen became known as food of tea ceremony in the 14th century. It was called “Tenjin, ” which gradually spread wide among priests of temples as their between-meals. It soon became generalized, but Sakubei was not eaten by many people except high society people. It is clear, however, that Soumen and Sakubei were different at all from each other at that time.