著者
小泉 純一
出版者
日本福祉大学福祉社会開発研究所
雑誌
現代と文化 : 日本福祉大学研究紀要 = Journal of Culture in our Time (ISSN:13451758)
巻号頁・発行日
vol.135, pp.115-126, 2017-03-31

This paper will show how Mahmoud Darwish was introduced in Japan and visited Hiroshima. He was not only the greatest poet of the 20th century but also an activist to fight for the right of Palestine. We should not forget that he once visited Japan. After he was awarded the Lotus Prize for Literature in 1970 some Japanese writers such as Yoshie Hotta got interested in Middle East literature including the works by Darwish and planed to invite some writers and poets from Middle East countries to Japan to have a conference. In 1974 the conferences were held in Tokyo, Osaka and Fukuoka. The members from Middle East included Darwish, Adonis and so one. Because of a political trouble the writers from Egypt refused to attend it on the first day. But Darwish attended all the meetings and also visited the monument and the museum of Hiroshima on the way to Fukuoka. When he suffered from the air raids by Israel at Lebanon in 1982 he began to write a prose poem called Memory for Forgetfulness. He wrote about Hiroshima in it. The visit gave him the chance to connect Hiroshima and the atomic bomb to Lebanon and the air raids. His words were quoted in a local newspaper that“ The Problem of Hiroshima has been stuck in a heart of all the people on the earth. People in Hiroshima has suffered from the cruelty but we should say it is up to all human beings.” I want to say it’s not a coincidence that the poem started at August 6th which is the memorial day of Hiroshima. Just after he became a member of PLO and a speechwriter for Yasser Arafat there was no article on him in the papers in Japan until his death. We should not forget his visit to Hiroshima gave him an inspiration to his poetry.
著者
小学館辞典編集部編
出版者
小学館
巻号頁・発行日
2007
出版者
東洋経済新報社
巻号頁・発行日
2013
著者
浜田 清吉
出版者
山口大学理学会
雑誌
山口大学理学会誌 (ISSN:0372767X)
巻号頁・発行日
no.3, pp.29-34, 1952-07
著者
田村 雅行
出版者
日経BP社 ; 1992-
雑誌
日経情報ストラテジー (ISSN:09175342)
巻号頁・発行日
vol.22, no.8, pp.18-21, 2013-09

当社でもPOSデータの分析はずっとやってきています。それに今後、天気の情報や、地域の催し物、母の日、父の日といったイベントなど、売り上げに影響しそうな要因を分析に加えていくかどうかですね。変数を多く設定できる半面、分析の的を絞ったり目的を明確…
著者
大平 剛
出版者
帯広大谷短期大学
雑誌
帯広大谷短期大学紀要 (ISSN:02867354)
巻号頁・発行日
no.48, pp.11-20, 2011-03-31

はじめに 遠藤周作の小説「黄色い人」は昭和三〇年一一月、雑誌『群像』に発表された。「白い人」と対になる作品で、「アデンまで」「白い人」とともに遠藤周作自ら出発期の代表作としてあげるものである。 この小説はこれまで、遠藤周作による日本人論的なもの、日本人の宗教心について書いたものとして読まれてきたことが多かった。たとえば武田秀美氏は「黄色い人」には「日本の仏教や神道に根ざした汎神論的神仏の世界と、西洋のキリスト教の唯一絶対神の世界との、精神風土と罪の意識の対比」「「黄色い人」である日本人のキリスト教の受容と、白い人である外国人神父の日本へのキリスト教の宣教と司牧」「背教司祭への神の救い」といったテーマが書かれていると評している1。遠藤周作がそのような問題意識を考えて書いていたということに異論はない。しかし、このようにテーマだけを取り出す読み方では「黄色い人」の動的な側面を見落としてしまう。それは遠藤周作の評論やエッセイの思考をなぞるといった作家論的作業から生まれてきた読みであって、小説を読む行為を通して得られる読みからは遠く離れてしまう。宗教をテーマとしている特殊性もあるため、このような作家論的読み方の重要性も理解しているが、本稿ではあくまで小説として「黄色い人」のはらむモチーフを考えてみたい。
著者
松浦 信夫 藤枝 憲二 福島 直樹 三上 裕平 原田 正平
出版者
THE JAPAN DIABETES SOCIETY
雑誌
糖尿病 (ISSN:0021437X)
巻号頁・発行日
vol.30, no.3, pp.225-231, 1987

IDDM小児35例に半合成ヒトインスリン100単位製剤を使用し, その臨床鮪用性, 安全齢よび免疫原性にっいず検討した.ヒトインスリン使用前のインスリン製剤により対照を2群に分けて検討した.A群 (n=15) にブタ純化インスリン (モノタード, アクトラピットインスリン), B群 (n=20) はU-100レントインスリンおよびアクトラピットインスリン使用群であり, ヒト純化インスリン治療に変更後に比較して以下の結論が得られた.<BR>1.同じ組成, 単位のU-100レントインスリンまたはブタ純化インスリンとヒトインスリン注射後の血糖変化, 血漿Total, Free insulinの変化には差がみられなかった.<BR>2.U-100レントインスリン治療群 (B群) のIgG型抗インスリン抗体価はブタ純化インスリン群 (A群) に比し有意な高値を示した.<BR>3.ヒトインスリン変更後, 特にIgG型抗インスリン抗体価は有意に低下した.<BR>4.ヒトィンスリン変更後, A群ではインスリン使用量に大きな変化はみられなかったが, B群では有意にその使用量が低下した.<BR>5.U-100レントインスリンからヒトインスリンに変更するときには低血糖発生の確率が非常に高く, 充分な注意が必要であり, ほぼ20%減のヒトインスリンで変更するのが安全と思われた.
出版者
日本幼稚園協会
雑誌
幼児の教育
巻号頁・発行日
vol.74, no.9, pp.60-64, 1975-09-01
著者
Martin Pauly 青木 和子 市川 あゆみ 島田 啓史 野村 香介 日向 賢
出版者
筑波技術短期大学学術国際交流委員会
雑誌
筑波技術短期大学テクノレポート (ISSN:13417142)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.67-73, 2004

平成15年7月4日から7月18日までの日程で、学生3名、教官2名、技官1名が本学の姉妹校であるアメリカのニューヨーク州立大学バッファロー校(UB)とナショナル聾工科大学(NTID)を主として訪問した。これは、視覚部アメリカ研修旅行としては第4回目である。UBでは、リハビリテーション・サイエンス学部、障害補償技術センター、障害者サービス室、スポーツ医学施設見学やELIの英語のクラスへ参加した。さらには、バッファロー市の視覚障害センターや自立生活センターの訪問などを通じアメリカにおける高等教育の現状や障害者へのサービス、社会自立の状況について理解を深めた。ロチェスターではNTIDの施設見学を行った。他には、ナイアガラの滝、エリー運河、博物館なども訪れ、アメリカの自然、歴史に触れる機会となった。参加者各自がそれぞれの視点で今回の海外研修についてレポートする。
著者
塩野 和夫 シオノ カズオ SHIONO KAZUO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.30, no.2, pp.15-20, 2016-02

舘野泉は現在「左手のピアニスト」と呼ばれている。脳溢血(脳出血)のため2002(平成14)年に右半身不随となったが,04年には演奏活動を再開する。09年以降は海外各地でも精力的に活動を続けている。舘野泉ファンクラブ九州が主催する「舘野泉氏を囲む親睦会」(2014年9月20日,ホテルオークラ福岡)では,午前11時15分より「《演奏曲目》秘密です」のピアノ演奏を堪能した。会食の後に持たれた懇親会で,各テーブルから舘野泉先生に「フィンランドの空気の色」,「お正月の過ごし方」,「奥様のマリアさんはいつ日本に来られるのか」などと質問が寄せられる。質問内容が多様であっただけに際立ったのは,ほぼ全員が「今日の演奏は素晴らしかった」と異口同音にスピーチを始められたことである。しかも,聞いたばかりの演奏に対する感動を込めて「素晴らしかった」と語るスピーカーの顔は,いずれも紅潮しているように見えた。聴衆の心をとらえてやまなかったピアノ演奏の素晴らしさとは何なのか。いくつかの視点から考えてみたい。