- 著者
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丹羽 文生
- 出版者
- 拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター
- 雑誌
- 拓殖大学台湾研究 = Journal of Taiwan studies, Takushoku University (ISSN:24328219)
- 巻号頁・発行日
- vol.2, pp.1-22, 2018-03-25
1972 年9 月29 日,田中角栄と周恩来との間で「日中共同声明」が交わされ,日中国交正常化が実現した。それに伴って日本は,日華平和条約に基づき過去20 年間に亘って外交関係を維持してきた台湾の「中華民国」と国交を断絶した。しかし,外交関係は断たれたものの,経済,貿易,技術,文化といった実務関係は従来通り維持していくことで合意し,その結果,双方の窓口となる「民間団体」として,日本側に「交流協会」,台湾側に「亜東関係協会」という実務機関が設置される。それ自体は周恩来も容認していた。ただ,設立に至るまでの「外交関係なき外交交渉」は難航を極めた。中でも最大の焦点として浮上したのが,日本側の実務機関の名称問題だった。台湾側は「中華民国」という国号,あるいは,それを意味する「華」の文字を入れるよう求めるが,日本側は通称として用いられる「台湾」を表す「台」の文字を入れることを提案する。台湾側にとっては自らの正統性に関わる事案である。しかし,日本側とすれば日中共同声明で「中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認」した以上は「中華民国」の存在を肯定するような表現を用いるわけにはいかなかった。この間,日台間で,どのような鍔迫り合いが演じられたのか。本稿では,主に台湾側の外交資料を用いながら,その実相を描いていく。