- 著者
-
吉水 眞彦
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.179, pp.199-228, 2013-11-15
天智天皇の近江大津宮は667年,後飛鳥岡本宮から遷都され,5年数ヶ月を経た672年の壬申の乱によって廃都と化した短命の宮都である。7世紀代の宮都で大和以外の地へ宮都が移されたのは前期難波宮と大津宮だけである。その一つである大津宮跡は,現在,琵琶湖南湖南西岸の滋賀県大津市錦織に所在することが判明している。大津宮の実像を知るために宮の構造や白鳳寺院の実態,周辺の空間構造を発掘調査で確認された遺構や出土遺物である第一次資料を再評価することと新たな発掘資料も加えて検討した。その結果,大津宮の特殊性が見えてきた。すなわち,対高句麗外交や軍事上の拠点整備を推進するために陸上・湖上交通の整備に重心が置かれ,大津宮の形が短期間のうちに推進されていた点である。大津宮遷都前夜までの比叡山東麓地域は,渡来系氏族の大壁建物や掘立柱建物の集落が営まれ,また各氏族による穴太廃寺や南滋賀廃寺などの仏教寺院も建立されており,周辺には萌芽的な港湾施設も存在していたものと推定される。このように遷都を受け入れる環境が一定程度整備されていた地域に大津宮は移されたのである。そして遷都の翌年,錦織の内裏地区の北西方の滋賀里に周辺寺院の中では眺望の利く最も高所に崇福寺を新たに造営し,対照的に宮の東南方向の寺院の最低地にあたる現在の大津市中央三丁目付近の琵琶湖岸にほぼ同時期に大津廃寺を建立した。つまり崇福寺跡と大津廃寺は川原寺同笵軒丸瓦を共通して使用していることから,大津宮と密接な関係がみられ,前者には城郭的要素があり,後者には木津川沿いの高麗寺と「相楽館」のような関係を有する港湾施設を近隣に配置し,人と物の移動ための機動力を重視して造営された。これらに触発されたかのように周辺氏族は穴太廃寺の再建例にみられるように再整備を行なっている。このように大津宮の内裏地区や,大津廃寺を除いた仏教寺院は高燥の地に立地し,かつ正南北方位を意識した配置がみられるのに対して,木簡などを出土した南滋賀遺跡の集落跡などは低地に営まれ,かつ正南北方位を意識しない建物を構築している。おそらく内裏地区や白鳳寺院,諸機能を分担した各施設は整斉に計画され,その周辺には地形に左右された集落などが混在した空間を呈していたものと思われる。近江朝廷の内裏や寺院・関係施設などを短期間に新設し,ハード面を充実させていくにつれて渡来系集落的景観から大津宮の交通整備重視の未集住な空間へと変遷していったものと考えた。