著者
永田 憲史
出版者
關西大學法學會
雑誌
關西大學法學論集 (ISSN:0437648X)
巻号頁・発行日
vol.67, no.3, pp.568-602, 2017-09-20
著者
杉田 収
出版者
新潟県立看護大学
雑誌
学長特別研究費研究報告書
巻号頁・発行日
vol.17, pp.33-39, 2006-06

紅茶の抗酸化能をクメンヒドロペルオキシド/へモグロビン・メチレンブルー法で測定した.市販の紅茶11種類を用いた.スリランカ産のヌワラエリアがもっとも高い抗酸化能で320nmol/mlであり,中国産のキーモンがもっとも低い抗酸化能の103nmol/mlであった.これらの紅茶11種類の抗酸化能の平均は201 nmol/mlであった.紅茶の抽出液を魔法瓶で保存すると,抗酸化能は3時間で10-15%減少した.また紅茶の残留農薬試験を行ったが,調べた5種類の農薬(DDTBHC,アルドリン,ディルドリン,エンドリン)は検出されなかった.これらのことから紅茶は活性酸素を消去する安全な健康飲料と言えるので,健康維持・病気予防に活用が勧められる.
著者
小林 和夫 Kazuo KOBAYASHI
出版者
創価大学社会学会
雑誌
SOCIOLOGICA (ISSN:03859754)
巻号頁・発行日
vol.43, no.1・2, pp.29-56, 2019-03-20

本論では,ザカート(喜捨)を原資とする社会基金であるバイトゥル・マルを事例として,日本占領期ジャワにおけるイスラーム教理の制度化の歴史的背景を考察した.分析の結果,バンドゥン県のイトゥル・マルの導入というイスラーム教義の制度化は,ウィラナタクスマのロイスの構想とエリート官吏としての指導力,困窮者救済を義務とするイスラームの教理,そしてジャワ軍政当局のイスラーム対策の構造的欠陥と住民の動員・統制の必要性―という3つの歴史的条件が重なって行なわれたことが明らかになった.また,1942 年6月という軍政初期に導入されたバンドゥン県のバイトゥル・マルは,その規模や機能は限定的とはいえ,ジャワ軍政における事実上はじめての大衆組織としての性格をもっていたことが指摘された.
著者
市来 弘志
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2013-10-10

本論文は五胡十六国時代における華北の遊牧民の歴史について、多角的に考察したものである。\第一部「五胡十六国時代民族史への視点――研究史」では五胡十六国民族史の研究史と諸先学の問題意識について述べた。\一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、多民族を包括する「帝国」としての清朝を、近代国民国家としての「中国」に改変するために、全く実態のない方便あるいは仮説的概念として提唱された「中華民族」論は、複雑な政治過程の中で次第にあたかも実態を持つかのように取り扱われ、晩年の孫文に至って大漢族主義と変わらぬものと成り果てた。当時の学術界にはこれとは立場を異にする顧頡剛のグループなども存在したが、結局費孝通によって集大成された「中華民族」論は、中華人民共和国の体制イデオロギーと化していった。費孝通は漢族と他の「少数民族」を対等の立場に置くと標榜して民族識別工作に従事したが、歴史観としてはやはり漢族に主たる地位を認め、大漢族主義への傾斜を拭い去れなかった。魏晋南北朝民族史研究においては、胡と漢に対等の歴史的地位を認め胡の側の主体性を重視する日本・韓国の研究に対し、中国の研究は胡漢の民族融合を認めながらも、あくまで漢の側が主であるという立場に固執する。このような大漢族主義的傾向は中国の最も良心的な研究者にもあり、民族に関する考え方が根本的に異なることが浮き彫りとなる。\第二部「五胡十六国時代前期における民族関係――冉魏政権をめぐって」では当時の激しい民族対立の例として、五胡十六国時代前期を代表する大国である後趙の末期に起きた、冉閔による胡人虐殺事件を中心に取り上げ、その背景及び冉閔政権の性格について検討した。\冉閔と冉魏政権の軌跡は、当時における胡漢の激しい対立を象徴するものであるが、同時に胡漢が入り乱れて単純に「胡漢対立」だけでは説明できないこの時代の複雑な状況をもよく示している。第四部で詳述するが、四世紀の河北地域は徙民政策により大量の胡人が居住し、人口の上では先住民である漢人を上回っていた。また胡人は鄴や襄国の周囲で牧畜を営み、農業は主要産業ではなくなっていた。胡人が後趙の政治軍事の主導権を握り支配者として君臨していたのは言うまでもない。当地の漢人の地位はあらゆる意味で大幅に低下していた。それ故に漢人の胡人への反発と敵意は反って激烈なものとなった。冉閔の胡人虐殺の背景にはこのよう\な状況があった。しかし当地の胡化・牧畜化という滔々たる流れはこの事件を経ても止まることはなかった。三五二年の時点において当地に漢人政権を存立させる社会的基盤は既に無く、冉閔の政権は短命に終わらざるを得なかったのである。\第三部「五胡十六国時代後期における遊牧民の活動――大夏と統万城」では、前秦崩壊後の五胡十六国時代後期を代表する大国の一つ大夏について、建国者赫連勃勃の築いた統万城を中心に歴史地理的観点から分析を加えた。\劉衛辰以来の匈奴鉄佛部と大夏国の軌跡は、四世紀以前は長城線周辺にあった遊牧民が次第に中国内地に進出し、先住の諸民族を征服支配していくという当時の趨勢の代表的なものである。劉衛辰から赫連勃勃にかけての匈奴鉄佛部・大夏国の軌跡を通観すると、関中平原を征服するまでは一貫して遊牧地区及び半農半牧地区を活動領域としており、中国本土に居住して長い南匈奴、羯、氐、羌とは明らかに性格が異なる。大夏は北魏と並んで、塞外の遊牧民が中国本土を征服統治した国である。大夏の発展は華北地域の胡化・牧畜化の深化を示すものである。\第四部「華北における牧畜民と牧畜業」では、華北に移住した遊牧民達が持ち込んだ牧畜業の影響および自然環境の問題について論じた。\この時代においては、黄河下流の河北、河西、黄河上流の関中など各地で牧畜民の進出と産業の牧畜化が進行していた。これは当時の気候変化の影響を強く受けたものだが、同時に牧畜民の進出は各地の自然環境を変化させていった。こうして華北各地の景観は次第に牧畜的なものに改変され、この地はさながら内陸アジアの一部と言って良い状態になっていった。自然環境・産業・景観までが様相を一変させていったのである\以上のように民族観、民族関係、政治、考古遺跡、牧畜業などの産業、自然環境など様々な角度から五胡十六国時代を論じてきた。全体として言えるのは、この時代を通じて「胡化」「牧畜化」現象が華北の政治・軍事・経済・社会・生活・自然環境・景観などあらゆる方面で進行し、それ以前とは全く異なる時代を生みだしていったことである。華北の各地各階層各方面に牧畜民の確固たる社会が成立し、従来の漢人社会と厳しい緊張関係を孕みながらも共存し、時に激しく対立しながらも相互に影響し合っていた。五胡と呼ばれる牧畜民は少数の「ゲスト」などではなく主人公であり、彼らの進出は一時的現象ではなかった。彼らは当時の情勢や環境に巧みに適応し、先住民である漢人の文化を吸収しながら、時代に即した政治制度や新しい産業形態、生活文化を発展させた。そしてやがて様々な文化が混じり合う中から、それ以前とは全く違う社会を作り出していく。五胡十六国時代を通じて華北社会は根本から変容を遂げたのである。
著者
本多 美樹
出版者
[出版者不明]
巻号頁・発行日
2006-02

制度:新 ; 文部省報告番号:甲2261号 ; 学位の種類:博士(学術) ; 授与年月日:2006/6/19 ; 早大学位記番号:新4290
著者
南 聲鎬
出版者
[出版者不明]
巻号頁・発行日
2005

制度:新 ; 文部省報告番号:甲2083号 ; 学位の種類:博士(文学) ; 授与年月日:2005/4/19 ; 早大学位記番号:新4047
著者
阿部 勝征
出版者
東京大学地震研究所
雑誌
東京大学地震研究所彙報 (ISSN:00408972)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.289-303, 1988-12-23

日本周辺で1894年から1985年までの92年間に発生した地震津波について基礎データを見直し,前報のカタログにある津波マグニチュードMtや表面波マグニチュードMs気などの改訂と追加を行う.Mtは,計器観測による津波の最大振幅とその伝播距離から津波の大きさを表すスケールとして定義されたもので,かつ津波を起こした地震のモーメント・マグニチュードに関連づけられている.Mtからみて最大の津波はMt8.5の1918年ウルップ島沖の津波であり,次いでMt8.4の1963年エトロフ島沖の津波,Mt8.3の1933年岩手県沖の津波が続く.Mtが決定された104個の地震のうちの約1割はMsの割にMtが著しく大きな津波地震である.Mtから津波エネルギーEtを求める式はlogEt(erg)=2Mt+4.3で表される.これによれば,過去92年間の津波の総エネルギーは1.0×10-22ergである.これはMt=8.9の津波エネルギーに相当するが,1960年チリ津波の津波エネルギーの13分の1,同じ期間に環太平洋で発生した津波の総エネルギーの1/30に過ぎない.1年当りの平均の津波エネルギーは1.1×1020erg/年であり,Mt=7.9の津波エネルギーに相当する.
著者
阿部 勝征
出版者
東京大学地震研究所
雑誌
東京大學地震研究所彙報 = Bulletin of the Earthquake Research Institute, University of Tokyo (ISSN:00408972)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.289-303, 1988-12-23

日本周辺で1894年から1985年までの92年間に発生した地震津波について基礎データを見直し,前報のカタログにある津波マグニチュードMtや表面波マグニチュードMs気などの改訂と追加を行う.Mtは,計器観測による津波の最大振幅とその伝播距離から津波の大きさを表すスケールとして定義されたもので,かつ津波を起こした地震のモーメント・マグニチュードに関連づけられている.Mtからみて最大の津波はMt8.5の1918年ウルップ島沖の津波であり,次いでMt8.4の1963年エトロフ島沖の津波,Mt8.3の1933年岩手県沖の津波が続く.Mtが決定された104個の地震のうちの約1割はMsの割にMtが著しく大きな津波地震である.Mtから津波エネルギーEtを求める式はlogEt(erg)=2Mt+4.3で表される.これによれば,過去92年間の津波の総エネルギーは1.0×10-22ergである.これはMt=8.9の津波エネルギーに相当するが,1960年チリ津波の津波エネルギーの13分の1,同じ期間に環太平洋で発生した津波の総エネルギーの1/30に過ぎない.1年当りの平均の津波エネルギーは1.1×1020erg/年であり,Mt=7.9の津波エネルギーに相当する.
著者
石井 米雄
出版者
京都大学東南アジア研究センター
雑誌
東南アジア研究 (ISSN:05638682)
巻号頁・発行日
vol.6, no.3, pp.663-664, 1968-12

この論文は国立情報学研究所の学術雑誌公開支援事業により電子化されました。
著者
孟 偉
出版者
Nagasaki University (長崎大学)
巻号頁・発行日
2014-09-03

長崎大学学位論文 学位記番号:博(生)甲第314号 学位授与年月日:平成26年9月3日