著者
吉野 愼剛
出版者
東京海洋大学
巻号頁・発行日
2018

東京海洋大学博士学位論文 平成30年度(2018) 応用環境システム学 課程博士 甲第524号
著者
伊東 章子 イトウ アキコ Akiko ITO
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2003-09-30

本稿は、両大戦間期以降の科学・技術に関する諸言説を文化的・社会的文脈に即して分析する作業を通じて、戦後日本社会におけるナショナル・アイデンティティのあり方について考察することを主な目的としている。日本社会には歴史的にみて、いくつかの特徴的ともいえる科学・技術をめぐる言説が流布されてきた。古くは明治期以来の「和魂洋才」から、近年の「メイド.イン.ジャパン」まで、科学・技術をめぐる言説は時代の推移とともに変遷を遂げてきた。そしてこれらの言説は、ある時は直接的に、またある時は間接的に、「日本文化」や「日本人」の枠組みを描き出してきたと考える。また同様に、日本という国家や「日本人」にとっての他者に対する認識や表象のあり方にも、科学・技術を軸にして揺れ動いてきた面がある。科学・技術をめぐる言説を詳細に検討することを通じて、戦後日本社会においてナショナル・アイデンティティがどのように構成されてきたのかを明らかにしたい。 その際に課題の一つとしたいのが、科学・技術をめぐる言説に戦中期と戦後を通じて保たれている、連続性に焦点を当てることである。科学・技術についての様々な議論が活発化したのは、総力戦体制へと向かうなかで科学・技術振興の重要性が認識されてきた時からだった。この時期には、科学者や技術官僚を中心にして、科学・技術の「日本的性格」をいかに確立するかについて、盛んに意見が戦わされた。これらの議論の多くは、「日本精神」と呼ばれるような精神性や道徳性に依拠していたために、戦後においてはほとんど省みられることがなかった。しかし極端な国粋主義や日本主義が過ぎ去ったはずの戦後においても、科学・技術をめぐる言説には総力戦体制期に見られたものを、そのまま引き継いでいるところがある。このような連続性が見られる以上、戦後日本のナショナル・アイデンティティの構成を問うためには、総力戦体制期の諸言説についても詳細な分析が必要であると考える。 本稿では、ナショナル・アイデンティティは大衆社会の想像力と大きな関わりを有しているとの立場にたっている。そのため科学・技術に関する諸言説を抽出する際に、いわゆる専門家の議論へ偏らず、戦後の考察については大衆社会の科学・技術認識が反映されやすい、新聞広告を主な資料として用いる。また総力戦体制期の考察についても、上述した科学者や技術官僚らによる議論ばかりではなく、同じ時期に大衆メディアにおいて広まりを見せていた「科学戦」ブームについても着目する。 以上の点を踏まえて、本稿の構成は以下のようになっている。まず第1章では、1920年代後半から30年代にかけての、「科学戦」に対する社会的な関心の高まりと大衆メディアにおけるイメージの広がりについて考察を行う。「科学戦」人気は、次の戦争がすぐそこまで近づいており、科学・技術の優劣が戦争の行方を決めてしまうことを強く印象づけた。第1節においては、「科学戦」のイメージが具体的にどのようなものであったのかについて、ラジオドラマ、科学読本、科学雑誌、軍事読本など幅広い分野を横断的に検討することで明らかにする。これらの出版物などは新兵器や空襲などの「科学戦」に関する知識を普及させたのはもちろん、科学振興の重要性についても訴えていた。つづく第2節と第3節では、当時少年達を中心に人気の高かった平田晋策、海野十三という二人の作家の未来戦記物を取りあげる。これらの作品を通して、日本と主に敵国とされたアメリカの科学・技術の比較や、科学・技術が戦争や社会に果たす役割がどのようなものとして考えられていたのかを分析する。 第2章では総力戦体制下における科学・技術をめぐる言説について、主に科学者や技術官僚などの視点から考察する。科学・技術をめぐる言説において、「日本文化」や「日本人像」が語られていたのは戦後的な現象ではなく、総力戦体制期から続く潮流である。この章は戦後のナショナル・アイデンティティを論じるうえでの前史にあたる。第1節では、科学・技術をめぐる言説の背景として、総力戦体制へと向かう科学動員の過程と、科学・技術の必要性や有用性が国家危急の事態においていかに認識されていたのかを概観する。続く第2節では、日本の精神性や道徳性を損なわないようにして、「西洋の所産」である科学・技術の振興を唱える、その訴え方のありようを、「物質文明と精神文化」という基本的な対立軸に基づいて考察する。第3節では、第2節で示した科学・技術を振興する必要性を説く議論からさらに進んだ、「西洋」とは異なる科学・技術の「日本的性格」を確立させようとする言説を分析する。これは「物質文明と精神文化」を単に対立させるのではなく、科学・技術の基底に「日本精神」や民族性を位置づけようとする試みだった。その際にあみだされた論法が、戦後における科学・技術をめぐる言説のひとつの雛型になったと考える。 第3章は、敗戦から1950年代初め頃までの短い時期を取り扱う。この時期は第2章と第4章のちょうど谷間にあたる。第1節では、総力戦体制期にその必要性が叫ばれた科学・技術の欠如が、敗戦直後に保守主義・自由主義・左翼陣営のそれぞれの思惑から「敗因」とされたことを論じる。陣営間の対立を越えて「科学・技術立国」というスローガンが、総力戦体制から引き継がれていった点を指摘する。第2節では、女性と科学・技術の関係性を「主婦」や「化粧品」をとりまく諸言説から考察する。戦前戦時にもう一度遡り、女性と科学・技術を取り巻く環境がどのように変化していったのか、科学・技術の振興一関して女性はとのような役割を求められていたのかについて論じたい。さらにはそのような役割がこの章で取り扱う敗戦とともに、いかに変化を遂げたのかについて考えてみることとする。 第4章では、1950年代から1960年代までの新聞広告を資料に用い、時計やカメラ、家電製品などの広告における科学・技術をめぐる言説について分析する。第1節においては、次節以降で新聞広告の言説分析をおこなう準備として、この時期の科学・技術行政および技術開発状況を概観することと、科学・技術にとって新聞広告という言説空間が持つ意味合いについて考察をおこなう。第2節では、1950年代の新聞広告において外国の技術と日本の技術がいかに比較・対置されていたかについて分析する。欧米諸国との比較を通じて、日本の科学・枝術についてどのような認識がなされていたのかについて考える。つづく第3節では、1960年代を境に頻出するようになった「日本の誇り」という言説を中心に、1960年代の新聞広告を考察する。日本の科学・技術が「日本の誇り」として語られるようになると、次第に「日本文化・日本人・日本民族」と結びつけられるようになった。その際、いかに日本という国家や「日本人」像が新聞広告において表象されていたかを論じる。最後、第4節では、日本製品や日本の科学・技術が「国境」を越えるという現象を、広告がどのように描いていたのかを中心に考察する。他者=世界が日本製品をいかに受け入れ、「愛用」していると広告が伝えていたのか、そしてそのような他者の存在が「日本の誇り」をさらに高めていった点について論じる。 第5章では、前章に続いて1970年代の広告を分析する。またこの章は新聞広告を資料として考察を行う最後の章でもある。1970年代の広告文には、今までには見られなかった変化が現れていた。第1節においては、公害問題を契機にした反科学的思想の興隆が、新聞広告の言説にどのような変化を及ぼしたのかについて考察する。科学・技術の進歩や経済成長の追求に対して批判が高まったことによって、今までの「日本人」や日本という国家のあり方に反省を迫る言説が増えた点に注目する。第2節は、1970年代後半になると、戦後一貫して科学・技術を介して「日本人」像や国家像を描いてきた新聞広告が、ナショナル・アイデンティティ表象の場として機能しなくなったことに着目する。強固な編成を保っていた新聞広告という言説空間に何が起こったのかを、新聞広告の媒体上の変化と、広告言説に起こった変化の二つから論じる。 最後、終章ではまず、新聞広告からは探ることができなくなっていた1980年代の科学・技術に関する言説を他の領域から抽出し、そこへ補足的に考察を加えることから始める。1980年代初頭に、戦後日本の科学・技術行政は従来の民間企業による技術導入や技術開発を主体とする方針から転換し、「科学・技術立国」を明確な国家戦略に位置づけるようになった。そのため80年代には言説の担い手として、政府や国家が急浮上するようになった。また80年代から90年代にかけては、技術開発を扱うルポルタージュが量産されてもいた。ルポルタージュの多くは日本製品や技術者の優秀さを文化的特殊性などと結びつけて論じており、その語り口に第4章で考察した新聞広告における言説の構図がそのまま継承されていた。そして、これら80年代以降の動向も踏まえて、今までの議論をもう一度振り返りながら、現在の私たちの科学・技術に対する認識の枠組は戦争を契機に培われたのであり、戦後日本のナショナル・アイデンティティもその枠組みの上で形成され続けてきた点を論じ、全体のまとめとする。
著者
鈴木 正崇
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.186, pp.1-29, 2014-03-26

伝承という概念は日本民俗学の中核にあって,学問の成立の根拠になってきた。本論文は,広島県の比婆荒神神楽を事例として伝承の在り方を考察し,「伝承を持続させるものとは何か」について検討する。この神楽は,荒神を主神として,数戸から数十戸の「名」を単位として行われ,13年や33年に1度,「大神楽」を奉納する。「大神楽」は古くは4日にわたって行われ,最後に神がかりがあった。外部者を排除して地元の人々の願いを叶えることを目的とする神楽で秘儀性が強かった。本論文は,筆者が1977年から現在に至るまで,断続的に関わってきた東城町と西城町(現在は庄原市)での大神楽の変遷を考察し,長いサイクルの神楽の伝承の持続がなぜ可能になったのかを,連続性と非連続性,変化の過程を追いつつ,伝承の実態に迫る。神楽が大きく変化する契機となったのは,1960年代に始まった文化財指定であった。今まで何気なく演じていた神楽が,外部の評価を受けることで,次第に「見られる」ことを意識し始めるようになり,民俗学者の調査や研究の成果が地域に還元されるようになった。荒神神楽は秘儀性の高いものであったが,ひとたび外部からの拝観を許すと,記念行事,記録作成,保存事業などの外部の介入を容易にさせ,行政や公益財団の主催による記録化や現地公開の動きが加速する。かくして口頭伝承や身体技法が,文字で記録されてテクスト化され,映像にとられて固定化される。資料は「資源」として流用されて新たな解釈を生み出し,映像では新たな作品に変貌し,誤解を生じる事態も起こってきた。特に神楽の場合は,文字記録と写真と映像が意味づけと加工を加えていく傾向が強く,文脈から離れて舞台化され,行政や教育などに利用される頻度も高い。しかし,そのことが伝承を持続させる原動力になる場合もある。伝承をめぐる複雑な動きを,民俗学者の介在と文化財指定,映像の流用に関連付けて検討し理論化を目指す。
著者
中森 一郎
出版者
大谷学会
雑誌
大谷学報 = THE OTANI GAKUHO (ISSN:02876027)
巻号頁・発行日
vol.77, no.2, pp.1-25, 1998-01
著者
和泉 博之
雑誌
北海道医療大学歯学雑誌 (ISSN:18805892)
巻号頁・発行日
vol.29, no.1, pp.33-62, 2010-06

味覚性発汗とは何かを述べたうえで、Frey症候群、汗腺・血管・唾液腺の自律神経支配、胸腔鏡下交感神経遮断術、味覚性発汗で発汗のみでなく発赤も起こる機序、味覚性発赤、血管拡張反応と発汗反応との違い、味覚性発汗の臨床的処置について概説し、最後に具体的な胸腔鏡下胸部交感神経遮断術に関する臨床報告を紹介した。
著者
中山 泰一
雑誌
情報処理
巻号頁・発行日
vol.63, no.2, pp.79-80, 2022-01-15

文部科学省は2021年7月30日,2025年の大学入学共通テストから「情報」を出題教科として,「情報I」をその科目とすることを決定した.現在,国立大学協会(国大協)で,2025年に実施する入学者選抜制度が議論されている.これまで,国立大学は一般選抜においては,第一次試験として大学入学共通テスト(原則5教科7科目)を課してきた.これに「情報」を加えた「6教科8科目」を原則とすることが検討されている.本稿では,その経緯と,国立大学の入試科目に「情報」が加わることの意義について述べる.
著者
張 天恩
出版者
東洋文庫
雑誌
東洋学報 = The Toyo Gakuho (ISSN:03869067)
巻号頁・発行日
vol.102, no.4, pp.27-56, 2021-03-15

During the Sino-French confrontation in the summer of 1883, not only Chinese diplomats overseas, but also several mandarins in China tried to take advantage of the conflict brewing between the French government and Parliament to make gains in their diplomatic negotiations with the French side. In particular, the Chinese minister in Paris, Tseng Chi-tse, attempted to manipulate French public opinion and lobby members of the Parliament to influence French policy towards Vietnam. To begin with, the present article elaborates how such activities were conducted and the responses of the Chinese and French governments at the time, followed by a clarification of the ways in which these activities influenced Chinese policy toward France, and finally considering their significance for the overall character of the Qing Dynasty throughout the 1880s. As Tseng Chi-tse kept constant watch in Paris over the conflict between the French government and Parliament, and took every opportunity to influence French policy towards Vietnam, the Superintendent of Northern Trade Li Hung-chang, while not always complicit with Tseng, did cooperate with Tseng’s Parliamentary lobbying strategy by refusing to further negotiate in deadlocked talks with French Minister Arthur Tricou, by abruptly departing for Tientsin in July 1883. After the conclusion of the Treaty of Hue of 1883, Tseng held high expectations for an anti-government movement by the opposition forces in Parliament, which did not go undetected by the French Minister of Foreign Affairs. After winning a vote of confidence, the French government proceeded to use it to put pressure on China. After the resumption of Parliament, Tseng countered by launching an intense campaign to publish diplomatic documents damaging to the French government and winning praise in the press for brandishing a “new diplomacy.” The author concludes that it was this “new diplomacy” that provides a significant clue for reassessing Chinese diplomacy during the 1880s.