著者
鶴岡蘆水//画
巻号頁・発行日
1781

鶴岡蘆水画、隅田川画巻。2巻(東巻は当館請求記号:寄別1-4-9、西巻は当館請求記号:寄別1-4-10)。天明元年(1785)5月跋刊。彫工、関根柯影。題字、跋とも沢田東江。跋(補写)に「両岸一覧図鶴岡生所手摸也」とあり、本来、書名の手掛かりはこれしかない。東巻は、隅田川の東岸に向かって、川下から永代橋、新大橋、両国橋、大川橋を経て、向島に至り、最後に千住大橋と筑波山を描く。中程に川幅を広く取って、遊船を浮かべる人々、また渡橋する群集の様子を描くが、とくに両国橋の描写は圧巻である。西巻は、川上から西岸に向かって、神明社と真先稲荷から、今戸瓦焼き、橋場、待乳山、浅草、御蔵前、柳橋、中洲を経て、河口に至り、住吉社を描いたのち、富士山を遠望する。所々、小紙片による地名等の書き入れがある。色摺り豪華巻子本としては、空前絶後であるが、狩野派の同様の趣向による両岸図に基づき、当世化させたものといわれる。(鈴木淳)

1 0 0 0 OA 源氏物語

著者
紫式部
出版者
巻号頁・発行日
vol.[42], 1650
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.15-41, 2016

0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられたベトナム侵略戦争反対の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対—―日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ—―ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以上,本誌11号に掲載)4. 承前(1)5. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1960年代初頭~1967年12月5-1. 福岡での反米軍基地運動5-2. 米国のアジア反共産主義軍事戦略と九州北部5-3. 改憲・核武装阻止福岡県会議5-4. 小林栄三郎5-5. 福岡県下米軍基地を通したベトナム戦争への加担への抗議5-6. 福岡県反戦青年委員会の結成5-7. 田川地区反戦青年委員会5-8. 日韓条約闘争後の福岡でのベトナム反戦運動6. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6-1. カリフォルニア大学「ベトナムの日委員会」に署名電報6-2. ベト数懇の発足6-3. 若き数学者たちの運動――東大SSS6-4. 九大数学教室の戦後7. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7-1. 直接のきっかけ7-2. 社会党を良くする会7-3. 渡辺毅,倉田令二朗7-4. 倉田ヒデ子7-5. 山田俊雄7-6. 金原ヒューマニズム7-7. 十の日デモの由来7-8. 東京ベ平連との関わり――意識していたが無関係7-9. 十の日デモは誰が参加して始まり,どのように行なわれていたか7-10. 十の日デモの特色8. 小括(2)(以上,本誌12号に掲載)9. 承前(2)10. 東京ベ平連との連携 1966年6月~10-1. 福岡での全国縦断日米反戦講演会10-2. 山田俊雄の日米市民会議(東京)への参加11. 労働者と学生の参加11-1. 九大医学部生による「ベトナム戦争反対に起ち上がる会」11-2. 個人として参加した学生たち11-3. 東京ベ平連と連携した講演会を継続開催11-4. 九大以外の学生の参加11-5. 既成組織の行なうベトナム反戦運動との違い12. 安保以来最大の九大生デモ――樽神輿と仮装行列13. 十の日デモの広がりとその評価13-1. 福岡市民の十の日デモ評価13-2. 組織による運動と市民個人による運動14. まとめにかえて日本各地域に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,息の長い運動を続けたのが福岡市におけるベトナム反戦市民運動(「福岡ベ平連」)であった。その活動の前身となったのが「十の日デモ」と呼ばれた定例デモで,1965年から1973年までの間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民によって続けられた。本論考は3部構成の第3部に当たり,「福岡ベ平連」が発足する前の1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付けて検討対象とし,福岡におけるベトナム反戦市民運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにするものである。本誌11号および12号掲載の第1部,第2部の論考で明らかにしたように,福岡における十の日デモは九州大学の数学者たちが重要な担い手となって発足したものであった。しかし,1966年6月からは,福岡以外の日本諸地域におけるベトナム反戦市民運動との連携が東京のベ平連を媒介にして始まっている。本稿では,福岡における十の日デモが,そうした全国的なベトナム反戦のための連携ネットワーク形成にどのような経緯で接続,参与していったのかという点をまず検討する。ほぼ同じころ,十の日デモの参加者にも変化が見られるようになる。労働組合に組織された若い世代の労働者たちがデモに参加するようになった。また,九州大学の学生たちの参加も,医学部の学生たちが独自の反戦グループを作って主体的に参加するようになる。また,個人として十の日デモに主体的に参加するようになった九州大学の学生についても,3事例で具体的に検討していく。さらには,九州大学以外の学生の参加も次第にみられるようになる。その事例についても紹介する。1965年2月のベトナム北爆から68年1月の佐世保闘争までの約3年のあいだ,九大学生が大衆的な規模で最もこだわった問題は,ベトナム反戦でも日韓条約闘争でもなく,67年初夏の教養部田島寮の寮祭の樽神輿コースおよび九大学生祭の仮装行列コースの変更問題をめぐるものだった。このいわば「フェスティヴァル」の自治と自由に対する警察の介入に対してみせた九大学生たちの行動には,その後の大学闘争やベトナム反戦運動を予見させるものがあった。その点をみていく。最後に,十の日デモに対する当時の福岡市民の評価と態度を確認しつつ,さまざまな批判に応えつつ,デモ参加者たちがどのように自らのデモを位置づけていたのかを確認してみたい。Amongst many anti-Vietnam War movements in Japan, one of the longest sustained is that of Fukuoka city in Kyusyu. The focus of the movement was Jū-no-hi-demo' or Tō-no-hi-demo, citizen's protest walks in the city centre, organized every 10th day of the month from 1965 to 1973.However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as Tō-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the third, the final part of that essay.As discussed in the previous parts of the essay, Tō-no-hi-demo no kai (Association for the Tenth Day Protest Walk) started with several mathematicians of Kyusyu University as its main membership. But by June 1966, Tō-no-hi-demo no kai began to collaborate with an anti-Vietnam War movement in Tokyo. This, so-called 'Tokyo Beheiren', proposed a nation-wide lecture tour on war on Vietnam, and Tō-no-hi-demo no kai accepted that it would host a public lecture in Fukuoka. This article firstly examines the process in which Tō-no-hi-demo no kai began to make connections with other anti-Vietnam war movements outside Fukuoka.Along the gradual formation of the anti-Vietanm war network with groups of other regions, To-no-hi-demo began to attract participants of more varied backgrounds. Trade union members of younger generations, an anti-war group of medical students, and students from universities other than Kyusyu University joined the demo. The second topic the article examines is the expansion of participants in Tō-no-hi-demo.Thirdly, the article looked at the Kyusyu university student's protest actions against the local police who tried to regulate the student's festival procession on the main city road. The procession had been running annually for many years, and the attempts from the police to limit it gave rise to the massive direct protest action from the students. Although this was not an anti-war protest in any sense, it seems to have revealed the ethos and attitudes of the students at the time.Lastly, the article examined the reaction to Tō-no-hi-demo among the general public in Fukuoka, as well as evaluates the self-awareness of the participants.
著者
松亭金水 作
出版者
大黒屋平吉
巻号頁・発行日
vol.二, 1836

1 0 0 0 OA 高麗史節要

出版者
朝鮮総督府
巻号頁・発行日
vol.19, 1938

1 0 0 0 OA 毎日記

出版者
巻号頁・発行日
vol.[490],
著者
高梨 信博
出版者
早稲田大学国文学会
雑誌
国文学研究 (ISSN:03898636)
巻号頁・発行日
vol.113, pp.84-92, 1994-06-15
著者
山本 昌木 野津 幹雄
出版者
日本林學會
雑誌
日本林學會誌 (ISSN:0021485X)
巻号頁・発行日
vol.54, no.5, pp.150-157, 1972
被引用文献数
1

<i>Taphrina cerasi</i> (FUCKWL) SADEBECKによるソメイヨシノ(<i>Prunus yedoensis</i> MATSUMURA) のてんぐ巣病組織の超薄切片を電子顕微鏡で観察した。本菌は感受体組織の細胞間げき,中層ならびに細胞壁に認められる。菌体が細胞壁に入った場合,細胞壁は厚くなるが,菌体と細胞壁が接触している部分とそうでない部分に厚さの差を認めることはできなかった。また菌体は細胞壁へ侵入することができても,細胞壁を貫通したり,感受体細胞質に接触したりすることなく,吸器様構造も観察されなかった。組織中の菌糸が感受体細胞と隣接している場所には粘質物質様のものが認められるが,中層や細胞壁に侵入した菌体周辺には認められない。組織内の大部分の葉緑体<br>にはインターグラナラメラ,グラナラメラ,好オスミウムか粒が認められる。気孔孔辺細胞にでん粉が認められる以外には葉緑体にでん粉は観察できなかった。病葉は子のうを形成する蒔期になると組織がもろく,折れやすくなるので,組織細胞壁は変性していると思われるが,超薄切片の観察からは,これに関して知見を得ることはできなかった。
著者
本田 正美
出版者
一般社団法人 情報科学技術協会
雑誌
情報プロフェッショナルシンポジウム予稿集 第14回情報プロフェッショナルシンポジウム
巻号頁・発行日
pp.137-141, 2017 (Released:2017-11-01)
参考文献数
11

自由に二次利用可能な形式でデータを公開し、その利用の促進を図るオープンデータの取り組みが広がりを見せている。日本政府においては、2012年に「電子行政オープンデータ戦略」が策定され、各種の取り組みが展開されているのである。政府CIOポータルの「オープンデータ100」には、オープンデータを活用したアプリケーションが36事例紹介されている。この事例数を見ると、日本では、オープンデータの取り組みは自治体も含めて広がりを見せているものの、その利用は必ずしも広まっている状況にはないと判断される。これはオープンデータとして公開されるデータの量は増加しても、その利用が広まっていないということで否定的な評価を下される要因になり得る。しかし、公共機関によるオープンデータについては、まずは公共データの公開に注力されているのであって、それだけではアプリケーションの開発などに直結せず、公開と利用を一旦は分けて考える必要がある。
著者
吉田 秀紀 中西 佳世子 藤沢 仁子 田中 珠 松邑 勝治
出版者
一般社団法人 情報科学技術協会
雑誌
情報プロフェッショナルシンポジウム予稿集 第14回情報プロフェッショナルシンポジウム
巻号頁・発行日
pp.125-129, 2017 (Released:2017-11-01)
参考文献数
8

一般的に、新たな発見や発明は、論文として出版されるよりも前に先ずは学会で発表されることから、適時的に科学技術の動向を測る手段の一つとして、学会予稿集に着目した。 国内25学会の予稿集(2012~2016年)を対象にJ-GLOBAL knowledgeを用いて準ディスクリプタを抽出し比較検討した。特に、日本金属学会において“高エントロピー合金”や“積層造形”など実際の研究動向を反映する抽出結果が得られた。また、情報処理学会について抽出結果とCRDS俯瞰報告書との照合を行い、両者ともにAI関連の語が頻出しているものの、前者はユーザインタフェイス,認知科学系の語が多く、後者はオントロジーやLOD(リンクト・オープン・データ)関係の語が頻出するなどの差異が認められた。 本手法の実用可能性の片鱗は認められたが、方法論の更なる検討を進めることが必要で、その際、学者や有識者ら外部との意見交換が有効であろう。
著者
中澤 敏明
出版者
一般社団法人 情報科学技術協会
雑誌
情報プロフェッショナルシンポジウム予稿集 第14回情報プロフェッショナルシンポジウム
巻号頁・発行日
pp.95-100, 2017 (Released:2017-11-01)
参考文献数
2

世界の科学技術の進歩のスピードが速まっており、また発信される情報も年々増加の一途をたどる中、必要な最新の情報にタイムリーにアクセスし、その概要を素早く把握する必要があることは明白である。JSTでは外国で発行される文献を収集し、その抄録を日本語で読めるようにするために、独自に高精度なニューラル機械翻訳エンジンを開発した。これにより、日本語への翻訳のための時間的、金銭的コストを大幅に縮小することができた。また開発したエンジンは機械翻訳の国際的な評価ワークショップの科学技術論文翻訳の全タスクにおいて最も高い精度を達成した。本稿では開発したエンジンの仕組みを解説し、その現状の翻訳精度や今後の課題について述べる。また科学技術論文だけでなく特許文など他のドメインへの適用可能性などについても述べる。
著者
田畑 文也
出版者
一般社団法人 情報科学技術協会
雑誌
情報プロフェッショナルシンポジウム予稿集 第14回情報プロフェッショナルシンポジウム
巻号頁・発行日
pp.89-93, 2017 (Released:2017-11-01)
参考文献数
1

AI(人工知能)の急速な進歩に伴い、自然言語処理技術が急速に進化を遂げている。これにより、機械翻訳のアルゴリズムについても、ニューラル翻訳(NMT)が登場した。また特許調査については、中国特許の急激な増大により、中国語で書かれた特許を査読する頻度も多くなり、その際には、まず日本語または英語に機械翻訳したもので、内容を理解しようとするのが通常である。しかし、現状では中国特許の機械翻訳の精度は高くないことも多い。中国特許についてNMTを用いて翻訳した場合、その翻訳精度を調べた。ただし、本稿を記した時点(2017年9月)では、中国語から日本語へのNMTに対応したものは少なく、中国語から英語へのNMTシステムも合わせて調べることにより、翻訳精度を評価した。 評価した結果、従来のルールベース翻訳や、統計翻訳とNMTを比べると、NMTの方が、単語レベルでの翻訳精度では必ずしも高いとは限らず、むしろ翻訳精度が低下する場合もあることが分かった。しかし、文としての意味を理解する上では、NMTの方が文の構成を理解し易い傾向があり、これについては発表までに詳しくまとめる予定である。また、中国語から日本語への翻訳より、中国語から英語への翻訳のレベルの方が高く、翻訳精度を求めるならば、日本語より、英語で見る方の効果の方が現時点では大きいことが分かった。