著者
宇津 徳治
出版者
東京大学地震研究所
雑誌
東京大学地震研究所彙報 (ISSN:00408972)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.253-308, 1979-12-25

Only one catalog has been available for moderate to large earthquakes occurring in the region of Japan in the years 1885 to 1925. However, this catalog, published by the Central Meteorological Observatory in 1952, has often been criticized as misleading, because no con- sideration is given to the depth of focus and magnitude values are unreasonably large for many earthquakes. A new catalog of earthquakes of M≧6 is prepared in this study to meet the demand in earthquake prediction and earthquake risk studies in Japan. Both instrumental and macroseismic data are used in the determination of focal parameters. Most of the data are taken from either published reports of the Central Meteorological Observatory, the Imperial Earthquake Investigation Committee, or written station reports collected and stored by the Japan Meteorological Agency and the University of Tokyo. The hypocenter location is mainly based on the S-P time intervals and the magnitude determination is mostly due to the maximum amplitude recorded by old-fashioned seismographs. For older events, the determination is more dependent on the seismic intensity distributions. The catalog (Table 7) lists 555 earthquakes of M≧5.9 and 53 destructive earthquakes of M ≧5.8. The procedure for the focal parameter determination is explained in detail using six sample earthquakes. Referring to the epicenter maps constructed from this catalog, characteristics of the seismicity of Japan in the period 1885-1925 are described. More detailed studies using this catalog will be given elsewhere. A special description of 79 selected earthquakes of particular interests is given in the last half of the paper.
著者
森田 信博 MORITA Nobuhiro
出版者
秋田大学教育学部
雑誌
秋田大学教育学部研究紀要 教育科学 (ISSN:03870111)
巻号頁・発行日
no.48, pp.61-71, 1995-12-01

The porpose of this study was intended to investigate a formation of concept "physicaleducation" in the Meiji era.As the generalization of this study, I present foIlwing points.1) A first concept formes "gymnastics" in military training before the Meiji era.2) "Physical education" in intellectual, moral and physical education is interpreted as "education of physical through activites and hygiene". The Word "taiiku" was coined byMr. Kondo in 1876. "Taiiku" has been used formally after the establishment of the national institute of gymnastics.3) "Taiiku" formes "education through only activites", light gymnastics, military gymnastics and outdoor games.4) The traditonal "Jujutu" is included in teaching materials with gymnastic systematization and gradually develops into the independent education "Budo" (Japanese military arts).5) "Sport" and "athletic" are not different from "physical education". All Kinds of physical activites are generally called "Physical education".6) "Physical education" has been formed japanes comprehensive concept in school education.
出版者
北海道大学
雑誌
北大百年史
巻号頁・発行日
vol.通説, pp.29-74, 1982-07-25

第一節 札幌農学校の創設; 第二節 札幌農学校の教育と生活; 第三節 開拓使廃止後の札幌農学校
著者
平川 知佳
巻号頁・発行日
2010-03-25

本研究では、近年人々がどのような生き甲斐や意義を余暇に見いだすことができるのか観光学の領域で議論されていることをふまえて、余暇が確立された歴史的・社会的な背景を学問的な視点に立って改めて考察した。事例の対象としては、余暇が初めて確立されたイギリス社会に焦点をあて、余暇がどのような過程で成立されたのか検証した。またイギリスについて考察を進めるにあたり、階級に着目した。具体的にはそれぞれの階級社会によって娯楽の指向性に違いがあるのかどうか検証した。さらに論述を進める過程で、娯楽を通して階級間の関係性はどのようなものであったのか、分析を試みた。第1章は序論とし、研究の背景、研究の目的と研究方法、研究の構成、研究の意義、先行研究の概要をそれぞれ述べた。第2章では前近代のイギリス社会に焦点をあて研究を進めた。農村社会の労働は天候や突然の出来事によりたびたび中断されることがあったため、一時的な小休止がたびたび点在していた。また季節に応じて多種多様な祝祭が祝われていたため、労働時間と労働以外の時間(spare time)は、現在のように時間によって明確に区別されていたわけではなかったのである。その当時の支配層は生産に従事することなく、華やかに着飾り社交や観劇、狩猟などを楽しみ時間を潰すことがステイタス・シンボルであった。一方で民衆は一時的に祝われる例祭行事や娯楽活動の時間になると、日常生活から解放され、酒に酔いしれながら歌や踊りに熱狂し村中の裕福な家々を訪ね祝儀をねだっていた。貴族はそうした民衆の非日常的な振る舞いや言動を容認し、伝統的な祝祭や娯楽活動における費用や食事を民衆のために提供していた。農村社会における伝統的な娯楽の時間は、民衆だけでなく貴族も積極的に参加することが社会的な義務として課されていた。そして最終的には娯楽を通じて共同体の安定を図っていたのである。つまりそれぞれの階級間には娯楽を通して柔軟な相互理解があったとのではないかと推測した。第3章では近代のイギリス社会に焦点をあて、近代以前の労働以外の時間がどのように変容し、余暇が確立されたのか検証した。その上で、近代に入り貴族に代わる社会の指導者として地位を高めた中流市民と労働者階級の人々に焦点を絞り、それぞれ階級ごとにどのような娯楽の指向性があったのか明らかした。そして研究を進める過程で、近代社会に入ってから娯楽活動における階級間の関係性にはどのようなものであったのか、考察を試みた。その結果、近代に入ると資本主義経済の下、工業や産業の発展に伴い、人間はその日の作業量ではなく時間によって束縛されるようになった。それまで農民として働いていた民衆の多くが土地の囲い込みによって仕事を失ったため、都市部に移住し工場労働者として働き始めた。1847年に10時間労働法が制定されると、労働と余暇が明確に分離され、自由時間(free time)が確立された。それまでの労働以外の時間とは異なり、個人が自由な判断で娯楽を享受することができるようになったのである。近代以降、貴族に代わり社会的・政治的に権力をもちはじめた中流層の人々は、新たな指導者として社会改良を進めた。中流市民層は勤勉こそ美徳であるという信条を近代社会にふさわしい土台として定着させようとしたのである。そのために中流層は労働者層の伝統的な祝祭や娯楽を排除し、中流的な価値に基づく合理的レクリエーションを労働者層に推奨した。合理的レクリエーションとは、労働力の再生産を高めるための休養として位置づけられていた。このような中流的な娯楽の提案が中流層の思い通りに成功することはなかった。つまり労働者の人々の娯楽の指向性が中流層と同化することはなかったのである。その後、商業的な余暇が誕生したことによって労働者層の指向に見合った娯楽が提供されると、階級によって娯楽の指向性の違いが明らかとなっていった。第4章では第3章をふまえて、合理的レクリエーションに代わり商業的な余暇が誕生したことで階級によって余暇の指向性にどのような違いが見られたのか、分析した。事例としてはイギリス全土で発展した海浜リゾートに焦点をあてた。その結果、明らかに階級によって海浜リゾートにおける娯楽の指向性は異なっていたことがうかがえた。言い換えれば、それぞれ階級の指向性に見合う複合的な要素を海浜リゾートが潜在的に内在していたことが明らかとなった。終章では第2章から第4章をまとめ、考察した。その結果、その時代の社会状況によって娯楽に対する位置づけや意味合いは明らかに異なっていた。前近代のイギリス社会では労働と労働以外の時間の区別はなく、娯楽を通して共同体の維持を図っていたことから、娯楽の社会的機能に価値をおいていたことがうかがえた。近代社会に入り、時間によって人々の日常生活が規律化されるようになると、労働と余暇が明確に分かれていった。個人が自由な裁量で娯楽を楽しむことができるようになった一方で、中流市民は自らの信条に基づいた真面目な娯楽活動こそ近代社会にふさわしい普遍的な余暇の過ごし方として位置づけた。つまり伝統的な娯楽に対する社会的な価値は失われ、代わりに中流的な余暇の過ごし方が社会秩序の安定を図るために重要視されるようになった。しかしこのような娯楽の統制を労働者は受け入れなかった。むしろ労働者層は合理的レクリエーションの代わりに商業的な余暇を選び、巧みに自由時間を利用して、限られた時間や空間の中で日常社会を忘れ、非日常的な娯楽を享受していたのである。すなわち労働者の娯楽に対する指向性を分析してみると、農村社会におけるカーニヴァル的な要素と通底する部分が垣間見られることから、明らかにヴィクトリア朝の社会理念と相反していることがうかがえた。また娯楽活動における階級間の関係性について分析を試みたが、近代以降の社会では空間的にも時間的にも階級の違う者同士が関わり合いをもつ機会がなくなってしまったこと、また近代に入り個人が主体となって娯楽を享受することが正当化されたため、娯楽を通しての階級間の意思の疎通が失われてしまったのではないかと分析した。
著者
福元 健太郎 古田 紘也
雑誌
東洋文化研究 (ISSN:13449850)
巻号頁・発行日
no.14, pp.243-265, 2012-03-31

We study to what extent the amount of newspaper reports on China and North and South Korea affect how much Japanese like or dislike these countries. Some news is good news, while others are bad news. Thus, we are not sure whether more reports on a country make people either like or dislike the country under consideration (expected value constant hypothesis). On the other hand, since more reports provide more information, more people change their minds in either direction(variance increase hypothesis)。 We analyze monthly data from 1960 to 2010 and find that these hypotheses are supported. In addition, it turned out that, as trade with a country increases, more peoPle tend to dislike the country in the long run.
著者
林 謙三
出版者
奈良学芸大学
雑誌
奈良学芸大学紀要. 人文・社会科学 (ISSN:04695569)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.70-85, 1964-02-29

Some of the studies concerning the ancient score of pi-pa of four strings and four frets, a sort of lute, have already been made public by me but a certain problem has been left unsolved. The new data, however, could been found lately which enabled me to dispel the question. So, the new studies added, here is my seeks after the changes covering 1,200 years history of pi-pa score in this country.
著者
岩本 理恵 北條 敬之 渋谷 真希子 木村 幸文 亀倉 更人 藤澤 俊明
出版者
北海道歯学会
雑誌
北海道歯学雑誌 (ISSN:09147063)
巻号頁・発行日
vol.34, no.2, pp.114-119, 2014-03

最近5年間(2007~2011年)に局所麻酔薬アレルギーを懸念して当科を受診した患者を対象に,受診のきっかけとなったエピソード・考えられる原因,皮膚テスト施行の有無,今後の歯科用キシロカインカートリッジR使用の可否判断等について過去の当科における同様の検討結果(1989~1993年)との比較を交え解析し,以下の結論を得た. 1 .当該患者数の全受診者数に対する割合は,今回は0.32%(13/4083)であり,前回の3.5%(54/1545)と比較して大幅に減少した.依頼医における局所麻酔薬アレルギーと他の偶発症との鑑別能力の向上がその一因と推察した. 2 .皮膚テストを行った症例数は,今回2症例であり,前回の39症例と比較して大幅に減少した.これは2004年の厚生労働省からの抗菌薬皮内テストに関する指示が出され,当院でも局所麻酔薬も含め皮内テストを極力行わない方針になったためと思われる. 3 .医療面接や検査の結果ならびにアレルギー防止の観点からみて歯科用キシロカインカートリッジRが使用可能と判断した症例の割合は,今回は82%(9/11)であり,前回の61%(27/44)と比較して増加した.2005年より歯科用キシロカインカートリッジRへのパラベン添加が取りやめになったことが大きな要因と思われ,この結果は依頼元の歯科医師および患者にとって治療遂行上,有益と思われた. 4 .エピソードの原因については,判断困難とした1症例を除き,アナフィラキシーとの鑑別は比較的容易であった.しかし,リドカインのように抗原性の著しく低い薬物でも,アナフィラキシーを発症する危険性が皆無ではなく,全ての薬物においてその使用にあたっては,十分な医療面接に加えて,ショック等に対する救急処置を行うことが出来る体制整備を怠らないことが重要である.