著者
丸山 茂徳 戎崎 俊一 大島 拓
出版者
日本地球惑星科学連合
雑誌
日本地球惑星科学連合2016年大会
巻号頁・発行日
2016-03-10

生命の起源は、おそらく生物学者だけでは解けない問題だろう。この問題は、生物学のみならず、天文学、地球物理学、化学、地質学などを総動員した超学際研究によってのみ解明できるはずである。われわれは、地球史研究を通して、生命を育んだ器としての地球の歴史を、横軸46億年研究と特異点研究の2つの手法を利用して解明してきた。そこから導かれる生命誕生場はどのようなものであり、最初の生命はどのようなものだったのかをまとめたのが、地球生命誕生の3段階モデルである。本モデルでは、生命は、第一次生命体、第二次生命体を経て第三次生命体(原核生物)が誕生したことを提唱する。以下に、各段階における生命体について詳述する。第一次生命体は、それぞれの個体そのものだけでは生存できなかったが、多数が外部共生することによって生き延びることが可能であった生物群だと考える。第一次生命体が持っていたワンセットの遺伝子をミニマム遺伝子と考える。おそらく、ミニマム遺伝子は約100個の遺伝子からなっており、「膜+代謝+自己複製」を可能にした。しかし、生存するためには細胞外共生をする必要があった。当時、ミニマム遺伝子の周囲には、この微小生態系の100倍以上の量のオルガネラ(現代のウイルスに酷似の状態)が存在していたが、これらの微小生態系が活動するためには、連続してエネルギーを供給することが必要で、当時の冥王代地球表層では太陽エネルギーが利用できなかった。その代わりに、地下の自然原子炉から供給される強力なエネルギーによって地表と間欠泉内部をつなぐ環境でのみ存在が可能だった。自然原子炉間欠泉は、熱湯が周期的に噴出するため、内部の温度は100℃が上限がとなる。従って、高温によるRNAの損傷を受けることは少なかった。 間欠泉から地表に投げ出される第一次生命体は、地表に降り注ぐ原始太陽風(現在の1000倍の放射線)によって分解され死滅する。それによって、これらはタールと化す。冥王代表層環境の厚い大気(CO2100気圧)が薄くなり、次第に太陽が顔を出し始めると、可視光(太陽エネルギー)を利用することができるようになった新しい生命(第2次生命体)が生まれる。これは地下の自然原子炉間欠泉で生まれた第一次生命体を基本とし、太陽からの弱い電磁エネルギーを利用するために、半導体(FeSなど)を利用した反応システムを創り出した。第一次生命体に引き続き、第二次生命体も無限に近い種類のアミノ酸の高次有機物からできるので、第二次生命体の多様性はさらに増加し、種類は無数にあったと考えられる。第二次生命体も細胞外共生していた。原始海洋は猛毒(pH<1、超富重金属元素濃度、塩分濃度は現在の5-10倍)である。したがって、淡水をたたえる湖沼環境で生まれた第二生命体は、原始海洋に遭遇すると大量絶滅する。大陸内部のリフト帯の湖沼環境で生まれた生命体は、リフトが割けて海洋が浸入することによって大量絶滅を起こすことになる。このプロセスが何度も繰り返され、幾度となく第二次生命体は大量絶滅を経験する。一方、プレート運動によって、海洋の重金属は鉱床として硫黄とともに固定され、マントルへプレートと共に沈み込むことによって海洋から取り除かれていった。更に、陸地の風化浸食運搬作用によって、細かく砕かれた大陸の岩石と海洋が反応することによって、海洋の中性化が進む。このように浄化されていった海洋にやがて適応した生命体は遺伝子の数を桁違いに増加して、細胞壁を作り、耐性強化した。これが真正細菌でシアノバクテリアの起源だと考えられる。 こうして、原始生物は、生き延びるための防御構造を、次々と発明して、遺伝子数を急増させた。理論的に可能なアミノ酸の種類はほぼ無限(1020)に近いが、現代地球の生物は20種類のアミノ酸だけを使う。これは、第二次生命体が、無限に近い種類のアミノ酸を組み合わせたものであったが、猛毒海洋への適応戦略で淘汰された結果であろう。これが地球型生命体の起源である。
著者
箸野 照昌 田中 寿美玲 野口 愛天 峯元 愛 園中 智貴 徳田 佳秀 山畑 雅翔 内田 海聖 大城 新秀 畑島 康史 吉盛 巧人 園田 倭可 谷口 大介 兎澤 瑛太郎
雑誌
JpGU-AGU Joint Meeting 2020
巻号頁・発行日
2020-03-13

研究の動機 過去4年間「関口日記」「二條家内々御番所日次記」「妙法院日次記」「守屋舎人日帳」「弘前藩庁日記」に記述された天気を分析した。 そこで、今年は「鶴村日記」を分析した。「鶴村日記」とは、江戸時代の石川県の儒学者、金子鶴村が書き残した1801年(文化4年)から1838年(天保9年)までの災害、文化、生活等の記録である。 研究の目的(1)過年度に調べた「関口日記」「二條家内々御番所日次記」「妙法院日次記」「守屋舎人日帳」「弘前藩庁日記」と合わせてデータベースを作る。(2)インドネシアのタンボラ火山の1812年からの噴火の影響で「夏のない年」と言われた1816年と、天保の飢饉で一番被害が苛烈であった1836年を比較検証する。 研究の方法 天気は現在の気象庁の分類に近づけて、雪>雨>曇>晴れと判別した。1年の1/3の欠測のある年は集計から削除した。ただし、1836年を検討する際は、欠測のない5月~7月、及び9月のみデータを使った。 取得したデータは21年間で、7,148日だった。 データ1 鶴村日記の天気の全期間の出現率と、タンボラ火山の噴火を含む期間である1812年から1816年を算出した。火山の噴火期間は晴れの出現率が低下し、雨の出現率が上昇していることが分かった。 また、1836年の天保の大飢饉においてはさらに晴れの出現率が低下し、雨の出現率が大幅に増えたことが分かる。 データ2 1808~1832年の天気の出現率を季節ごとにグラフにすると、タンボラ火山の噴火の続く、夏の期間の雨の出現率が晴れの出現率を上回っていることがわかる。 データ3 4つの古文書で1816年と1836年の5月から9月の天気を比べると、7月の曇りの出現率が高いことが共通している。 1816年と1836年の違いは、1816年の8月の晴れの出現率の持ち直しが顕著である。 データ4 雷の発生率を四季でみると、1816年の夏の雷は前後の年に比べて減少している。一方、秋は1816年が一番高く、大陸からの季節風の影響の可能性が高い。 データ5 国立情報学研究所の市野美夏さんの論文を参考に天気階級と全天日射量を計算して比較した。市野さんの論文に倣い、日記天気階級は(1)晴れ、(2)曇り、(3)雨天・雪の3つに分類した。そして、現代の気象庁データの平均から得られた地上の全天日射量Qd、地理的データ及び天候から得られるQsを使い、qを求める。 qは地球上にそそぐ太陽のエネルギーの減衰する割合を表している。 求めたQsと天気階級の積を平均したものがQeである。このQeを平年値と比較する。 古文書の天候の情報から毎年の全天日射量に換算し、複数年で比較したのがグラフ6で、1816年、1836年のいずれも1821年から1850年の平均値より低い量になっている。つまり、この2年に関しては、年間通して、全天日射量が低く、寒い時期が続き、農作物などへの影響があったことが読み取れる。 考察(1)データ1のように、タンボラ火山の噴火活動期の1812年~1816年の晴れの出現率は36.12%で、全期間より1.88%低いことから、日照時間が低下し気温も低かった可能性がある。 さらに、データ2から、1816年は鶴村日記の夏から冬において、雨の出現率が晴れの出現率を上回る。夏や秋の気温が上昇しない年だったと考えられる。(2)天保の飢饉は特に東北の冷害が深刻だったとされるが、調査した古文書の緯度があがるにつれて1816年と1836年の晴れの出現率の差が大きいことがわかった。(3)鶴村日記において、 1821年から1850年までの全天日射量の平均と、1816年と1836年の夏の全天日射量を比較すると、両年とも通年で全天日射量が低いことから、気温も低下していたことを示唆する。 まとめ(1) 「鶴村日記」のタンボラ火山の噴火活動期の晴れの出現率は36.31%で、全期間より1.71%低く、日照時間が低下し気温も低下した可能性がある。(2) 天保の飢饉は特に東北の冷害が深刻だったとされるが、古文書の書かれた地点の緯度が上がるにつれて、1816年と1836年の晴れの出現率の差が大きくなっていく。(3)「鶴村日記」の全天日射量をみると、1816年、1836年のいずれも1821年から1850年の平均値より低い量になっていた。 つまり、この2年に関しては、年間通して、全天日射量が低く、寒い時期が続いたことがわかる。 今後の課題 「鯖江藩日記」(福井)をデータ化してデータベースを作り、気象変動を調べて、本年までの分析を裏づけるとともに、オリジナルな全天日射量の計算式を作り、江戸時代の日射量を算出する。
著者
原田 靖 菊沢 悠斗
雑誌
JpGU-AGU Joint Meeting 2020
巻号頁・発行日
2020-03-13

地磁気は宇宙放射線や太陽風が地球表面に侵入することを防いでいる.しかし,地磁気が逆転するとこれらが地表に到達し,その放射線の影響で地球上の生物に絶滅や突然変異などの影響を与えるのではないかと考えられている.本研究ではA Concise Time Scale 2016と, Hounslow et al., 2018 から得られた地磁気逆転数データと Alroy, 2010 及び Rohde and Muller, 2005 を用いた遺伝子レベルの多様性データとの相関を調べることを目的とする.検証の結果,この内 375Ma と 250Ma の大量絶滅イベントと逆転頻度の相関が見られた.さらに Shaviv, 2003 の鉄隕石の宇宙線照射年代との比較をすると,250Ma,375Ma で宇宙線が強くなった時期と生物絶滅から回復した時期が一致し,かつ 375Ma(Alroy,2010), 250Ma (Alroy,2010, GTS2016) の地磁気逆転頻度との同期が見られる.さらに一億年スケールで両者共に移動平均を取ると最小値と極大値,極小値を取る位置が一致していることがわかった.これらのことから地球磁場が弱くなったことにより宇宙線放射線が増え,そのことが生物の遺伝子の変異を促したと解釈できるが,170Maの磁場逆転頻度の極大値の時にはこの現象が起こっていない.地磁気逆転頻度データの問題点として,ジュラ紀後期以降の古地磁気極性データは海洋底地磁気縞模様由来であるのに対して,三畳紀以前は陸上の地層由来であるのでデータに連続性がなく,各研究によってもばらつきがあるため,信憑性が低い.また,遺伝子レベルの多様性は海洋属のデータであり,陸上生物よりも太陽風や宇宙放射線の影響は低いと考えられる.
著者
加瀬 七夏美 中村 友紀 植木 毅 桑原 直子 松尾 侑希子 三巻 祥浩 立川 英一 山田 陽城
雑誌
日本薬学会第140年会(京都)
巻号頁・発行日
2020-02-01

【目的】コルチゾールは、血糖上昇、蛋白質異化促進、脂質分解促進、抗炎症や免疫抑制作用を有する生命維持に必須のホルモンである。生体がストレスに晒されると視床下部-下垂体-副腎皮質(HPA)系が活性化され、コルチゾールが大量に産生されてストレスに拮抗する。一方で過度なストレスによってHPA系機能が亢進され続けるとネガティブフィードバック機構が破綻し、過剰に分泌されたコルチゾールが精神疾患や代謝性疾患、悪性腫瘍、記憶障害などを引き起こす。近年、難治性うつ病患者ではHPA系機能障害が起こり、コルチゾール濃度の顕著な増加が持続されていることが知られている。演者らは漢方薬の香蘇散に見出された抗うつ様作用に、HPA系機能の改善作用が関わっていることを既に報告した。また先に、新たなHPA系機能改善物質を探索するため、35種類の漢方薬について副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)刺激によるコルチゾール産生に対する影響をスクリーニングし、生薬ダイオウが活性に関与することを見出した。今回、引き続きコルチゾール産生抑制活性を指標にダイオウの成分探索を行ったところ、活性成分を単離・同定したので報告する。【方法・結果】ダイオウ(日局、5.0 kg)の水抽出エキス(575 g)をDiaion HP-20カラムクロマトグラフィーに付し、順次極性を下げながら溶出させ5個の粗画分に分画した。このうち最も強い活性が認められたエタノール溶出画分について、各種クロマトグラフィーを用いて分離・精製を行い、6種のアントラキノン類を単離した。単離された化合物のACTH刺激によるウシ副腎皮質細胞のコルチゾール産生抑制活性を評価した結果、2種の化合物が強い活性を示した。
著者
原田 智也 西山 昭仁 佐竹 健治 古村 孝志
雑誌
日本地球惑星科学連合2019年大会
巻号頁・発行日
2019-03-14

慶長十六年十月二十八日(1611年12月2日)の三陸地震(以下,「慶長三陸地震」)は,地震動による被害の記録は未発見だが,東北地方・北海道の太平洋岸で津波による犠牲者が多数出たと記録されている.この特徴が,1896年明治三陸地震(M8.1)や1933年昭和三陸地震(M8.1)の特徴と似ていることから,慶長地震は,これらと同タイプの地震であったと考えられてきた(羽鳥,1975;相田,1977;渡辺,1998).ところが,2011年東北地方太平洋沖地震(M9.0;以下,「東北地震」)の発生後,慶長三陸地震による津波が,東北地震による津波と同様に広域的に高かったと判断し(例えば,蝦名,2014;岩本,2013),この津波を再現するためには,東北地震と同規模の断層面を持つプレート間地震(Mw8.4〜8.7)(今井・他,2015),あるいは,Mw9.0の津波地震(福原・谷岡,2017)を考える必要があることを,津波シミュレーションに基づき議論している.この判断は,三陸地方や仙台平野に伝わる津波の伝説や伝承を含む歴史記録に基づく津波高や浸水範囲(例えば,羽鳥,1975;都司・他,2011;蝦名・今井,2014)の推定が,東北地震と同等以上であることを主な根拠としている.しかし,津波高や浸水域の推定方法,推定に使われた歴史記録の信頼性について十分な検討が行われたとは言い難く,歴史研究者からも疑問が呈されている(例えば,菅野,2014;佐々木,2014;斎野,2017). そこで本研究では,同時代史料による慶長地震の特徴と東北地震を比較することにより,慶長三陸地震の震源像を考察した. 東北地震の発生時,東京は震度5弱〜5強の強い揺れに長時間見舞われ,本震後24時間以内の有感地震は200回を越えた(気象庁震度データベースによる).さらに,長野県北部でMw6.7,静岡県東部でMw6.4の誘発地震が発生し,被害も出た.よって,慶長三陸地震が東北地震と同規模のプレート間地震であれば,江戸では長時間の強い揺れとそれに伴う大被害,さらに,数日以上にわたる余震・誘発地震による揺れが記録されている可能性がある.実際に,寛政五年一月七日(1793年2月17日)の宮城県沖の地震(M8.0〜8.4)では,江戸で小被害と地震後2日間で約50回の有感地震が記録されている(宇佐美・他,2013). 慶長三陸地震発生時の江戸には,京都の公家の山科言緒と舟橋秀賢が滞在しており,それぞれ,『言緒卿記』に「(廿八日)辰刻大地振,(廿九日)至夜地動」,『慶長日件録』に「(廿八日)午刻地震,(廿九日)丑刻地動」と記している.本震の震度は3程度と推定され,長時間揺れたという記述はない.また,余震によると思われる揺れは,本震翌日の“地動”が1回記録されているのみである.さらに,両日記には,地震翌日に武蔵野見物に行った様子が記されており,有感地震が続発した状況はみられない.『駿府記』によれば,徳川家康は十月廿六日以降に現埼玉県内で何事もなく鷹狩りを挙行している.また,東北地震後のような誘発被害地震の記録もない.したがって,関東において,本震の揺れが弱く,活発な余震活動や誘発地震の記録がない慶長三陸地震が,東北地震と同規模の断層面を持つプレート間地震であったとは考え難い. 斎野(2017)によれば,仙台平野の考古遺跡からは,岩沼市の高大瀬遺跡を除いてこの地震によると考えられる津波堆積物は確認されていない.また,岩手県宮古市の沼の浜,福島県南相馬市の井田川低地においても確認されておらず(Goto et al. 2019; Kusumoto et al. 2018),慶長三陸地震の津波の規模は東北地震より小さかった可能性が高い. 以上より,この地震は,三陸海岸で10m以上の高い津波を発生させたが,東京において本震の揺れが弱く,余震もほぼ感じられなかった明治三陸地震か昭和三陸地震と同タイプの地震であった可能性が高い. なお,後世に成立した史料や成立年不明の史料の中には,慶長三陸地震の5年後の元和二年(1616年)十月廿八日に地震と津波があったことを示す史料が含まれる.例えば,『大槌古館由来記』では「元和二年丙辰年大津波,其日十月廿八日八日市日ニて,朝よりゆり出度々地震仕候,」の記述がある. 元和二年には,七月廿八日に仙台城の石垣・櫓に大被害を与えた大地震が記録されており,(『伊達治家記録』),時刻は異なるが江戸における長時間の地震の揺れの記述もある(『イギリス商館長日記』).商館長日記には,翌日にも江戸で2,3回の地震があったと記述されている.したがって,『大槌古館由来記』のような史料では,慶長三陸地震と元和二年の大地震とが混同されている可能性がある.今後,慶長三陸地震の地震像を考えるに当たり,元和二年の大地震を含めた検討が必要である.
著者
前田 拓人
雑誌
日本地震学会2019年度秋季大会
巻号頁・発行日
2019-08-15

WINファイルは卜部・他(1990)により開発された地震波検測システム(WINシステム)の地震波形ファイルである.防災科学技術研究所よって制定されたWIN32を含めたWIN/WIN32(以下まとめてWINと略す)ファイル形式は,現代の日本国内における連続地震波形流通おける事実上の標準である.WINはデータ容量の小ささやデータの結合性など優れた点を持つが,その反面ファイル形式はやや難解であり,WINシステムで地震波形を使う場合以外には,他フォーマットへの波形記録変換ツールを介するのが常であった.しかし,観測網が稠密化したいま,大容量・連続地震波形記録の解析においては,この波形フォーマットの変換がデータ解析における最大のボトルネックであり,その傾向は今後ますます顕著になっていくと予想される.そこで本研究では,これまでよりもはるかに高速にWINファイルの読み出しができるライブラリを作成した.本ライブラリは,Fortran2008言語のモジュールとして作成した.FORTRANは古典的な言語ではあるが,Fortran2003/2008といった最近の規格では,動的なメモリ確保やオブジェクト指向といった現代的な機能が含まれている.特に,Fortran2008で規格が制定され,最近になって多くのコンパイラで実装された非同期入出力は,WINファイルのような複雑かつ多数のファイルの入力にきわめて有効である.本研究で開発したライブラリでは,他形式へのファイルの変換・保存や,複数のWINファイルの結合などの処理を一切必要とせず,時間的に連続した複数のWINファイルから目的のチャネルの記録をFortranの配列として直接取得できる.中間処理が不要になったことで,処理の単純化のみならず高速化に対して劇的な効果が見込まれる.さらに,本ライブラリはWIN形式とWIN32形式の両方に対応し,ファイル形式の簡易自動判定機能も備えている.また,開発したライブラリでは,WINファイルのファイル内容をそのままメモリイメージとして読み込むロード部分と,メモリ上に格納されたWINファイルから必要なデータを抽出するデコード部分を分離実装した.これらとFortran2008の非同期入出力機能を用いて,あるファイル内容のデコード中に次のファイルをメモリに読み込む並列動作を実現した.このことにより,ロードとデコードのうち片方の処理時間を隠蔽することができ,多数のファイルを読み込む場合に高速化が期待される.このような隠蔽処理は並列数値計算においてCPUやGPU間の通信時間の隠蔽にしばしば用いられてきたが,本報告ではこれをファイル入力に対して活用した.開発したライブラリの性能を評価するため,WIN32波形を読み込むdewin_32プログラムを比較対象とした実験を行った.防災科学技術研究所Hi-net により収録された任意の日付時刻の連続速度波形ファイル1時間分を対象とし,そこに含まれる全てのチャネルを読み出す.WIN32ファイルはLAN上のNASに格納されているものとする.dewin_32と同等の機能を持つツールを今回開発したライブラリに基づいて作成し,読み込み速度を比較した.実験の結果,dewin_32で1時間分のファイルの全チャネルの読み込みと出力に最大621秒かかったところ,本ツールでは,非同期入力なしで267秒,非同期入力ありで236秒で読み込めた.また,Fortran言語上で利用する場合は,そもそも読み込んだデータを一旦ファイルに保存する必要がない.そこでデータの出力に掛かる時間を無視すると,読み込み時間は非同期入力なしで38秒,ありで21秒まで短縮された.実際の解析でHi-net全チャネル1時間分データが利用可能になるまでの時間は,本研究で開発したツールではdewin_32と比べて最大約20倍短縮されたことになる.読み込みのみに限定すると,非同期入力の導入によって性能がおおむね倍になった.比較に用いたWIN32ファイルの1時間分の総容量は約1GBであり,この結果はデータ通信速度に換算すると約400Mbpsに相当する.これは実験環境におけるLAN(1Gbps)の通信の実効速度の上限に近い.すなわち,ネットワークファイルシステムに連続記録が配置されている環境においては,もはやこれ以上の劇的な速度向上は望めない.本研究で開発したライブラリは,周辺ツールや利用マニュアル等を整備の上,オープンソースとして公開する予定である.講演ではアルゴリズムの詳細の説明,高速データ読み込みとその利用の実演,およびコードの公開を行う.謝辞 本研究では防災科学技術研究所により登録ユーザーに対して配布されているwin32toolsを利用しました.記して謝意を表します.