著者
佐々木 亘
出版者
経済社会学会
雑誌
経済社会学会年報 (ISSN:09183116)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.98-109, 2019 (Released:2021-09-10)

Martha C. Nussbaum has argued that Sen should endorse one definite list of valuable capabilities, if he wants to apply the capability approach to social justice. And she has herself drawn up such a list of capabilities, i.e. 1.Life, 2.Bodily Health, 3.Bodily Integrity, 4.Sense, Imagination, and Thought, 5.Emotions, 6.Practical Reason, 7.Affiliation, 8.Other Species, 9.Play, and 10.Control over One's Environment. On the other hand, Amartya Sen has refused the listing of capabilities. The search for given, pre-determined weights is not only conceptually ungrounded, but it also overlooks the fact that the valuations and weights to be used may reasonably be influenced by our own continued scrutiny and by the reach of public discussion. According to Sen, it would be hard to accommodate this understanding with inflexible use of some pre-determined weights in a non-contingent form. Nussbaum says that the list itself is open-ended and has undergone modification over time, but her list is fixed, like a grand mausoleum to one fixed and final list of capabilities. On the other hand, according to Sen, the capabilities are the substantive freedoms to choose a life that has value. But, there are many sorts of freedoms. There may be a terrorist who wants the liberty of performing terrorism for his revenge. Now, Thomas Aquinas has said as follows. The order in which commands of the natural law are ranged corresponds to that of our natural tendencies. Here, there are three stages. There is in man, first, a tendency towards the good of the nature he has in common with all substances. Natural law here plays a corresponding part, and is engaged at this stage to maintain and defend the elementary requirements of human life. Secondly, there is in man a bent towards things which accord with his nature considered more specifically, that is in terms of what he has in common with other animals. Thirdly, there is in man an appetite for the good of his nature as rational, and this is proper to him, for instance, that he should know truth about God and about living in society. I would like to make one suggestion here. As far as the capabilities are human ability, they can be classified according to human nature. And according to Aquinas, there are three stages in human nature. So, we can make up the list of capabilities according to these stages. To supply something both new and old is the aim of classical study.
著者
井上 舞 杉浦 勝明
出版者
公益社団法人 日本獣医師会
雑誌
日本獣医師会雑誌 (ISSN:04466454)
巻号頁・発行日
vol.75, no.6, pp.e128-e133, 2022 (Released:2022-06-15)
参考文献数
8
被引用文献数
1

犬や猫の死亡時年齢や死亡原因を把握することは,健康診断の設定や健康増進の対策を立てるうえで有用な情報となりうる.著者らは全国の40病院の協力を得て,2020年4月1日~2021年8月31日までの間に死亡した2,133頭の犬及び猫の死亡状況についてのデータを基にコホート生命表を作成したところ,犬の平均寿命は13.6歳,猫の平均寿命は12.3歳であった.犬の死亡原因は腫瘍が18.4%と最も多く,循環器疾患が次いで17.4%,続いて泌尿器疾患が15.2%であり,猫での死亡原因は多い順に泌尿器疾患が29.4%,腫瘍が20.3%,循環器疾患が11.8%であった.死亡原因として多い疾患の影響を除いた平均寿命を算出した所,犬の腫瘍では0.6歳,循環器疾患では0.5歳,猫の泌尿器疾患では1.6歳,腫瘍では1.0歳平均寿命が延びると推計された.このような研究をもとに優先順位をつけて疾患対策を行うことで効率的な健康増進が可能になると考えられる.
著者
生島 博之
出版者
徳島文理大学
雑誌
徳島文理大学研究紀要 (ISSN:02869829)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.15-28, 2017-09-09 (Released:2018-04-18)
参考文献数
7

本論文は,大学生298名と教員113名に箱庭を制作してもらい,その作品の中に,「犬」や「猫」が置かれたもの を取り上げ,そこに表現された「犬」イメージと「猫」イメージについて考察したものである。全体の21.7%が「犬」 や「猫」を置いたが,その中で,「犬」や「猫」が主人公(副主人公も含む)であった21の箱庭作品(大学生19,教員2)を分析したところ,「犬」イメージとしては,①番犬,②忠犬,③癒しを与える犬(ペット),④冒険する犬,⑤恋する犬,等がみられ,「猫」イメージとしては,①女神に使える猫,②留守番する猫,③猫になった少女,④癒しを与える猫(ペット),⑤捨て猫,⑥恋する猫,⑦陣地を守る猫,等がみられた。このように,二つの動物の間には,似た意味もあれば,異なる,あるいは独自の意味がある。また,「犬」と「猫」が同時に置かれた箱庭作品においては,「ペットと幸せに暮らす」というものと,逆に,「飼い主に見放されたペット」というテーマが見られた。これらの結果を踏まえ,「犬」イメージと「猫」イメージの差異についても考察した。
著者
今井 真士
出版者
日本比較政治学会
雑誌
比較政治研究 (ISSN:21890552)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.57-82, 2021 (Released:2021-09-10)
参考文献数
37

執政制度の形式的側面(執政府・立法府関係)は民主主義体制だけでなく権威主義体制においても重要である。しかし、これまで権威主義体制を分類するときには実態的側面(支配エリートの組織的基盤)のみが重視される傾向にあった。本稿では、体制横断的に形式的側面を捉えるためのデータセットとして「憲法の明示的規定に基づく執政府・立法府関係」(CELR)を提示する。まず、各データの趣旨として、政治制度の設計と運用に基づく政治体制、実効性の有無と執政府の二元性に基づく執政府・立法府関係の分類枠組み、権限行使の経路の違いに基づく各アクターの憲法的権限を順次説明する。次に、CELRの応用方法を主に3つ提案する。すなわち、複数の類型の統合に伴う事例群の拡大、特定の権限の追加に伴う事例群の絞り込み、CELRの憲法的権限とV-Demの慣例的権力のデータの併用に伴う権限行使の形式と実態の乖離の識別、である。最後に、CELRの対象範囲の拡張可能性を指摘して議論を締め括る。
著者
渡部 和雄
出版者
長崎大学教育学部
雑誌
長崎大学教育学部人文科学研究報告 (ISSN:03882772)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.一-一二, 1982-03
著者
中山 淳
出版者
信州医学会
雑誌
信州医学雑誌 (ISSN:00373826)
巻号頁・発行日
vol.52, no.5, pp.303-304, 2004-10-10 (Released:2016-09-21)
著者
清水 美知子 シミズ ミチコ Michiko SHIMIZU
雑誌
研究紀要
巻号頁・発行日
vol.6, pp.87-98, 2005-03-31

本稿は,1930年代に東京と横浜でおこなわれた2つの社会調査から,住み込み女中の実態を明らかにしようとする試みである。女中の多くは農村出身の10代後半から20代前半までの未婚女性で,小学校程度の学歴を持つ。就職の経路として最も多いのは親戚や知人の紹介で,民間・公共の紹介所で仕事に就いた者は少ない。職務限定で雇われている者は少数にすぎず,大半は座敷仕事も台所仕事も何でもこなす,いわゆる「一人女中」である。定まった休みのある者は半数以下で,ある場合も不定期である場合が少なくない。女中の属性や就労状況を女工と比較すると,年齢や学歴の構成は変わらないものの,就労条件は大きく異なる。すなわち,月給30円以上の者は女中では1%にも満たないのに対し,女工では半数近くを占め,公休日も女工の場合はすべて月極で定められており,大半は毎週もしくは隔週で休みがある。就労理由についても,女工のほとんどは「家計補助」「自活」など経済的な必要に迫られ働いているのに対し,女中の場合,過半数が「嫁入支度」「行儀見習」などの理由をあげている。「結婚を目標にした結婚準備のための修業」。このような意識が強いからこそ,安い給料で休みがなくても,何とか我慢できるのであろう。日本の家庭女中を考えるさいには,この点を見逃すことができないのである。
著者
板垣 竜太
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.293-315, 2009-09-30 (Released:2017-08-18)

本稿は、1990年代末から2000年代にかけて日本と韓国にまたがって展開してきた歴史をめぐる対話を事例にしながら、新自由主義が一つの大きな力となって進行しているグローバル化の状況における知的な緊張関係について考察するものである。この時期の対話は、ポスト冷戦期の日本および韓国における歴史研究の同時代的な流れが相互に出会ったものとしてとらえられる。ここでは3つの流れが注目される。(1)ポストマルクス主義:日本の「戦後歴史学」の見直しと、韓国の民主化運動のなかで培われてきた歴史学のパラダイムに対する再考の流れがあった。(2)国民国家論と民族主義批判:国民国家の形成過程を批判的にとらえ直す日本の研究動向と、民族主義的な歴史認識に対する韓国での論争があった。(3)近代性批判:問題の起源を近代に遡って探求する、あるいは近代性そのものの問題を明らかにする研究視角が歴史研究で強まった。それとともに「日本」という時空間で完結し得ない「帝国史」研究の方向と、植民地主義と近代性をめぐる議論の深まりがあった。こうした知的脈絡が出会っていくなかで、いくつかの問題にも突き当たった。特に、以下の3つの徴候が考えるべき問題を投げかけている。(1)「国史」について:ナショナル・ヒストリー批判とひとことでいっても、そこには複数の力のベクトルがせめぎあっており、そこから同床異夢も生じている。(2)植民地主義と近代性:近代性批判が、逆説的にも近代性への問題の還元論となり、植民地主義批判が曖昧になっている。(3)「和解」の政治:「加害」「被害」を単純化しながら、和解のメッセージを読み取る言説が増殖している。以上のような動向は、ポスト冷戦およびグローバル化のなかでのポストコロニアルとポストモダンの緊張関係という観点から考えることができる。