著者
鈴木 生郎
出版者
The Philosophy of Science Society, Japan
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.41, no.1, pp.15-28, 2008

The paradox of coincidence, a paradox about the relation between a material object and its stuff, has been paid a great attention to in recent metaphysics. In this paper, I compare two influential approaches to this paradox; sortalism and fourdimensional worm theory, and defend sortalism. I give the following two arguments. (1) Worm theory, like sortalism, must introduce sortal concepts to resolve the paradox. So both approaches owe the (almost) same theoretical burden to explain how sortal concepts work. (2) Worm theory, unlike sortalism, introduces sortal concepts in a very problematic way.
著者
手島 邦夫
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.52, no.3, 2001-09-29

幕末から明治初期にかけ新造語を多く生産した西周の訳語が,現在も多く用いられていることはよく知られている。本発表は,同時代の思想家や知識人の中で,なぜとくに彼の訳語が現在も多く通用しているのか,という点について考察したものである。発表では,西の主要な著作や翻訳書等から採った訳語の語種別の内訳,現在も通用の語の割合,訳語の出自についての分類,推定される新造語の数,さらに『致知啓蒙』での造語方法等について述べた上で,訳語の定着要因について考察した結果を述べた。定着の要因を,言語的要因と言語外要因(社会的要因)に分けた。まず言語的要因として,(1)訳語の的確さと近代性,(2)原語を示すルビつきの語の多さ,(3)訳語の意味や造語理由に関する自注の多さ,が挙げられた。(1)については,『明六雑誌』における同一原語の訳語の比較により,他の中村正直等の訳語より的確さや近代性において優っていることが確認された。(2)(3)については,そうしたルビや自注が読者の理解を助け,西周の訳語が広まっていくことに貢献したものと考えられた。言語外要因としては,(1)『哲学字彙(初版)』によって西の訳語が(とくに『心理学』から)多く採用されたこと,(2)西の訳語はその『哲学字彙』を経て『英和字彙(2版)』に採用されたことによって広められたこと,(3)アカデミズムにおける西周自身の権威が訳語の流通に影響を与えたこと,などを指摘した。(1)(2)については具体的な数量や訳語で示し,(3)については,東京大学における「哲学科」の設置とともに,西周が当時いかに尊敬され,そのことが訳語の流通に影響を与えたかということを文献により示した。これらの要因のうち,私見では言語的要因の(1)「訳語の的確さと近代性」が中心的な要因と考えられたが,発表後の質疑では,言語外要因(上では(3))の方が大きいのでないかというご意見を頂いた。また西周の造語方法や,「近代性」という語の概念についてもご質問があり,今後それらの問題点についてさらに考察していくこととしたい。
出版者
京都大学哲学論叢刊行会
雑誌
哲学論叢 (ISSN:0914143X)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.74-87, 1993-09-01
著者
橋本 憲幸
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.74, no.3, pp.348-359, 2007-09

本稿の目的は、一般に開発途上国と呼ばれる国々のとりわけ初等教育に対する国際的な教育援助の正当化を、留保を付しつつ行なうことである。2000年の「世界教育フォーラム」を経て、開発途上国(政府)-<彼/彼女ら>-の教育の内容・価値に関わる問題が国際共同体-<われわれ>-の問題としても位置付けられている。しかし、そういった<彼/彼女ら>の教育問題は、政治・文化を越えて<われわれ>の問題になりうるのか。<われわれ>は国境線を越えて<彼/彼女ら>の教育問題に関与・干渉できるのか。本稿では、ポール・リクール、ジョン・ロールズ、そしてマーサ・C・ヌスバウムといった哲学者の所論と国際レヴェルでの合意事項を手がかりに、<われわれ>による<彼/彼女ら>への教育援助は「適切な教育」に向けられる限りにおいて正当化されるとの結論が導かれる。だが、「適切な教育」とは何であるのか、その回答が課題として残された。
著者
若林 明彦
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.77, no.3, pp.703-725, 2003-12-30

環境問題を根本的に解決するための思想や哲学の構築において、日本は七〇年代に「水俣病」をその象徴とする悲惨な公害被害体験をしたにもかかわらず、欧米に比べて遅れていると言わざるを得ない。近年になってやっと、欧米の「環境倫理学」が注目され、その研究が盛んになったが、そのー方で、そうした「環境倫理学」に対抗するかのように、その倫理学的アプローチを皮相的なものとし、古代日本に見られる自然共生的エトス(心的傾向)を再生することこそが根本的な解決に繋がるとする梅原猛・安田喜憲らの「森の思想」や岩田慶治の「ネオ・アニミズム」論も注目されている。本論文では、まず欧米の環境思想の主要な理論を概観し、それらが共通して倫理学的アプローチをとっていることを指摘し、次にそれと対比的にエトスからのアプローチをとる「森の思想」や「ネオ・アニミズム」論の問題点を指摘する。最後に、両アプローチの相補的関係について述べる。
著者
林 泰成
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.271-284, 2005-09-30

本稿の目的は,道徳教育のさまざまな立場で前提されている他律から自律への発達図式を検討することである。まず,ピアジェの発生的認識論を取り上げ,ついで,それを精緻化したものととらえられるコールバーグの道徳性発達論を取り上げる。つぎに,それに対する批判として,ギリガンやノディングズのケア倫理あるいはケアリング倫理の考え方を検討する。こうした流れの中では,社会関係との関わりが十分に取り上げられないので,社会律を発達の一段階としたブルの考えを吟味し,さらに,ピアジェに対して社会関係の視点が抜け落ちている点を批判したワロンに言及する。最後に,心理学的な研究ではないが,自律から他律へと発達の図式を逆転させて考え,その後に,目的律あるいは神律を想定するフェニックスやティリッヒの考え方を取り上げる。結論として,他律から自律への発達図式には,それのみを妥当なものとして認める論拠はないということを示す。しかし,こう述べることはその図式を全面否定するということではない。さまざまな図式が同等の権利で主張可能であることを明らかにすることになる。
著者
戸田山 和久
出版者
Society for Human Environmental Studies
雑誌
人間環境学研究 (ISSN:13485253)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.5-10, 2003

Philosophical naturalism is made up of two basic claims as follows. (1) Ontological claim (physicalism); Only 'physical entities and phenomena' and what supervene upon them really exist. (2) Epistemological claim; There is no 'first philosophy', that is, every method of investigation including philosophy itself must consist of the methods which are regarded as legitimate in empirical sciences. One consequence of the latter claim is called 'naturalization of philosophy of science' which has grown to be a powerful alternative to the traditional philosophy of science such as logical positivism or Bayesianism. The main concern of this paper resides in the question whether a philosophical naturalist could believe in these two claims at the same time. For, if naturalized philosophy of science found, in empirical data from the real history of science, the fact that the ultimate aim of scientific investigation is not to reach the literally true description of the world but to attain some other epistemic values (e.g. to control the nature or to make better predictions), it might undermine the realistic reading of the ontological claim of philosophical naturalism. This possibility is overlooked by virtually all the naturalists, but might pose a serious difficulty on their philosophic research program. In the last section of this paper, I tired to propose a way-out from this predicament for a philosophical naturalist like myself. The proposal consists of these two measures. (1) to adopt a Hackingean operationist criterion concerning what exists and what not, (2) to reinterpret scientific theories not as sets of theoreteical sentences but as semantic models.
著者
仲島 陽一
出版者
早稲田大学哲学会
雑誌
フィロソフィア (ISSN:05540690)
巻号頁・発行日
no.87, pp.99-112, 1999
被引用文献数
1