- 著者
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先山 徹
- 雑誌
- JpGU-AGU Joint Meeting 2020
- 巻号頁・発行日
- 2020-03-13
兵庫県南部の六甲山地の大部分は花崗岩からなり,それらは古くから石材として利用され,「御影石」として各地に流通していた.この段階で「御影石」は六甲山地の花崗岩を示す用語であったが,現在では他地域のものであっても花崗岩石材を一般的に「御影石」と呼ばれようになっている.「御影石」がいつ,どのようにして六甲山の花崗岩から花崗岩石材の代名詞となったのか.そしてその理由はなぜなのか.その詳細は分かっていない.本発表では,筆者がこれまで続けてきた花崗岩の石材産地同定研究と名所図会の記述および六甲山地の地質から,その過程を考察する.これまで,六甲花崗岩で製作された石造物は中世から西日本各地に分布していることが,その岩相と帯磁率の研究から明らかにされてきた(先山,2014).一方,瀬戸内海沿岸や島嶼部には17世紀初頭の徳川大坂城築城をきっかけに多くの採石場が開かれ,特に北前船の時代には日本海側をはじめ全国各地にこの地域の花崗岩石材が広まった.それに対して六甲山地の花崗岩の流通範囲は縮小されていく傾向がみられる.一方,六甲山地の御影石については江戸時代後期の名所や名産を既述した絵図「摂津名所図会(1798年発行)や「日本山海名産図会(1799年発行)」にも記載されている.それらの「御影石」の項目では,「もともと御影村の浜から出荷されたことによって命名された」ことが記されている.この段階での「御影石」は六甲山地に由来する岩石のことを指している.さらに読み解くと,「山口(山麓)の石は取りつくされて,今は奥山の住吉村で採石したものを海岸まで運んでいる」という旨の記述がある.このことは,この図会が作成された時点では山地内の岩石が採石されているが,もともとは海岸近くの平地に転がっていた石を利用していたということを示唆している.さらに石材の品質についての項目があり,「御影石」についての項目であるにもかかわらず,その石質は「京都の白川石が硬くて良く,大きな鳥居などにも利用されている」旨の内容が書かれている.地理的にみてこの岩石が御影の浜から積み出されることは考えられない.このことから,その当時にはすでに六甲山地以外の花崗岩についても「御影石」と称されるようになっていたと推察される.前述のように,六甲山地は大部分が花崗岩からなり,その主体は淡紅色のカリ長石が特徴的な六甲花崗岩である.六甲山地では大名の刻印が刻まれた岩塊が多く存在し,その集中域は徳川大坂城築城のための採石場として知られている.その刻印集中域を地質図と重ね合わせた場合,花崗岩域だけでなく周辺の第四紀層中にも分布している.六甲山地山麓ではしばしば江戸時代の採石遺跡が発掘され,その多くは土石流堆積物である.なかには土石流堆積物上に鍜治場があり,堆積物中の岩塊に矢穴が見られることもある.つまり,そのころには過去の土石流堆積物中の岩塊を利用していたことになる.海浜に近い平野部は現在市街地となっているため不明であるが,六甲山麓ではこれまでに土石流の記録が多く残されていることから,江戸時代以前にも頻繁に土石流が発生していたと考えられる.それによって当時は海岸近くまで土石流による岩塊が多く存在していた可能性がある.以上のような情報を総合すると,以下のようになる.(1)頻繁に発生する土石流により,六甲山南麓では海岸近くまで岩塊が存在していた.(2)他地域に先駆け,それらの岩塊を加工し御影の浜から積み出した.その結果この岩石を御影石と呼ぶようになった.(3)この時点ではまだ大量に石材を出荷するところがなく,六甲花崗岩が各地に大量に広まったことから,次第に類似の花崗岩も御影石と呼ぶようになっていった.(4)大坂城築城にともなって瀬戸内各地の良質の石材が利用されるようになった.(5)六甲山南麓に転がっていた岩塊も取りつくされ,その後第四紀層の礫を利用し,さらに山地の岩石を使用するようになっていった.(6)江戸時代後半には石材産地の主体は瀬戸内海の各地に移っていったが,「御影石」という名称は他の花崗岩石材の俗称として残された. 現在,六甲山地に採石場は存在しない.しかし土石流の石材を利用してきた歴史は現在の建造物の石垣に見られる.それは人々が災害と関わりながら暮らし,現在の街を作ってきたあかしでもある.文献先山 徹(2013)花崗岩の識別と帯磁率による産地同定.御影石と中世の流通-石材識別と石造物の形態・分布-(市村高男編),高志書院,45-58.