著者
井上 弘樹
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.8, pp.61-87, 2016

本稿では、一九六〇年代から七〇年代の台湾での寄生虫症対策と、そこでの日本の医療協力に焦点を当て、医学分野において日台関係が再構築される過程を分析した。従来の研究では、一九四五年から一九五〇年代の台湾医学界の様々な場面に植民地期からの連続性が確認され、一九五〇年代から六〇年代にかけては、「米援」の下で台湾医学界の「アメリカ化」が進み、医学体系の「脱日本化」が図られたことが指摘されている。その一方で、一九五〇年代以降に日台医学界の関係の再構築が進展したことは等閑視されている。当該時期の日台の医学分野における関係の再構築をめぐる本稿の議論は、中国国民党政権と「米援」の下で台湾医学界の脱植民地化が進む中で、日本がそこにどう関わったのかという問題に通じる。<br>一九五〇年代以降、米援の下で台湾の医学制度や組織の「アメリカ化」が進展したことは確かである。ただし、それは必ずしも台湾と日本の医学界の関係断絶を意味せず、特に戦前の人的関係に支えられた学術交流という場面で、日台医学界の関係は再構築された。この関係は、一九七〇年頃に政府間の制度化された医療協力へと移行する。寄生虫症対策に限れば、当時の台湾では米援終了や国際機関からの寄生虫症対策支援の中止、及び疾病対策の変化に伴い、寄生虫症対策の技術や資金が不足していた。一方の日本は、寄生虫症対策の経験を生かした海外医療協力を推進し始めた時期にあった。<br>こうした状況下に始まる日本の医療協力は、環境衛生改善を中心とする台湾の従来の寄生虫症対策から、学校保健を基盤とする定期的な集団駆虫政策への転換を後押しした。ただし、台湾医学界でも回虫症研究や対策が着実に進められており、その成果は医療協力を含む寄生虫症対策に生かされた。他方、日本の寄生虫学界は、台湾での医療協力を通じて東アジアに再び活躍の場を見出し、その成功経験はその後の日本の寄生虫学の世界展開に繋がった。
著者
菅野 敦志 すがの あつし Sugano Atsushi 名桜大学国際学群
出版者
名桜大学総合研究所
雑誌
名桜大学総合研究 (ISSN:18815243)
巻号頁・発行日
no.25, pp.77-86, 2016-03

本稿は,日本における台湾研究の理解につなげることを目的として,戦前・戦後の台湾教育史をめぐる研究動向とその変遷について論じるものである。教育史に限らず,台湾史研究の特殊性は,1945年を境としてそれ以前が国内史,それ以後が外国史として扱われることにある。戦前は日本統治がもたらした「文明化」としての教育近代化の成果を誇示するものであった他方,戦後はかつての植民地教育が,天皇制に基づく国家主義の下での異民族に対する民族性剥奪の教育であったとして批判される傾向にあった。とはいえ,第一,第二世代の研究者を経て,第三世代の研究者の登場や,1987年の戒厳令解除に伴う日本統治時代をめぐる歴史観の見直しという台湾内部の変化を受けて,日本の学界においても日本統治時代の教育を,「抑圧―被抑圧」の二項対立だけでなく,統治された側の主体性の点に着目して再検討されるようになり,研究の枠組みは大きな転換を果たすこととなった。本稿では,それら第一世代から第三世代の研究者の成果を紹介しながら,「制度から人へ」,そして「支配―被支配」から「台湾人の主体性」へと変容を遂げていった日本の台湾教育史研究の変容と回顧を概観したうえで,今後の研究についても展望を試みる。In this paper, I would like to briefly review the transition of the research trends and analytical frames regarding the History of Taiwanese Education in Japan, from the Pre-WWII Period to the present, mainly by reviewing the most important book publications during the period. The scholarship on the History of Taiwanese Education can be divided into two periods: one is the Japanese Colonial Era from 1895 to 1945, and the next is the Republic of China Era from 1945 to the present. The turning point came after the lifting up of martial law in Taiwan in 1987, when Kuomintang's historical view of an anti-Japanese narrative began to accept more moderate and objective views in the evaluation of the past Japanese rule. This change in historical discourse in Taiwan had also influenced trends in Japanese academic circles. Gradually, new research and publications came to focus and underscore the importance of the subjectivity of the Taiwanese people during the Japanese Colonial Era, rather than the long dominant framework which often presupposes a binary opposition between the colonizer and the colonized, oppressor and oppressed.
著者
陳 虹彣 Hung Wen CHEN 平安女学院大学国際観光学部
雑誌
平安女学院大学研究年報 = Heian Jogakuin University journal (ISSN:1346227X)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.34-42, 2016-03-01

日本統治下の台湾において、1930年代には都市と農村の教育格差が議論されるようになった。本研究は台湾人向けの国語教科書を対象に、都市と農村の格差問題について検証を行った。検証の結果によると、農村の公学校においては確かに教育上の格差問題が存在しており、当時の公学校及び社会教育に属する国語講習所の国語教科書の使用や編さんにも影響を与えていた。そして、使用対象が異なることにより、教材の選択においても違う方針が取られていた。In Colonial Taiwan, the educational gaps of urban and rural areas were discussed during the 1930s. I analyzed the Japanese language textbooks for Taiwanese to discover the disparity of materials and how the materials be used in the classroom. Then I found the disparity between Urban and Rural was actually existed and it influenced the editorial policy of the language textbooks of public elementary school and Japanese continuation school. And also by the users of the textbook are different, different policy of choosing teaching materials had been taken.
著者
加藤 靖子
出版者
一般社団法人中国研究所
雑誌
中国研究月報 = Monthly journal of Chinese affairs (ISSN:09104348)
巻号頁・発行日
vol.70, no.2, pp.15-29, 2016-02

1980年代までの旧幹部制度期においては,女性はエリート地位獲得に不利であると言われてきた。そこで,女性エリートの経歴分析を行うことにより,エリート女性の特徴やこれまで明らかにされていなかった専門職から党政職及び下級管理職から上級管理職への移動に関する選抜要素を明らかにすることを試みた。その結果,専門職から党政職(管理職)への移動では,政治姿勢に問題がないと認められることが第一であり,教育的資格はさほど重視されないが,上級幹部に選抜されるためには学歴(実務能力)に加え,人事権を握る党グループメンバーからの評価が重要である可能性のあることが示された。