著者
村井 敏邦
出版者
日本評論社
雑誌
一橋論叢 (ISSN:00182818)
巻号頁・発行日
vol.62, no.4, pp.1-18, 1969-10

論文タイプ||論説
著者
北濱 圭一郎 吉川 貴久 田島 佑樹 竹ノ谷 隆 尾戸 一平 矢部 信成 村井 信二
出版者
日本外科系連合学会
雑誌
日本外科系連合学会誌 (ISSN:03857883)
巻号頁・発行日
vol.43, no.6, pp.1065-1070, 2018 (Released:2019-12-27)
参考文献数
34

症例は82歳女性,下腹部痛を主訴に受診した.下腹部に著明な圧痛と反跳痛があり,CT所見と併せて小腸絞扼性イレウスを疑い緊急手術の方針とした.腹腔鏡で骨盤内の血性腹水と子宮を穿通した子宮内避妊具(IUD:intrauterine device,以下IUD)に嵌頓した回腸を確認した.直視下で絞扼の原因となったIUDの環状部分を切離し回腸の絞扼を解除した.絞扼された回腸は完全に壊死しており,回腸部分切除を行った.術後経過良好で術後第8病日に退院した.本症例のIUD子宮穿孔の原因は,子宮萎縮とその後の子宮収縮が最も考えられた.小腸がIUDに嵌頓して生じた絞扼性イレウスは非常に稀である.高齢女性が避妊していた時代は輪状閉鎖型IUDを用いる例が多かったが,現在では使用頻度が減ったため医療者側も想起しにくくなっている.IUD挿入や抜去歴の聴取が重要になる.
著者
村井 源 松本 斉子 佐藤 知恵 徃住 彰文
出版者
情報知識学会
雑誌
情報知識学会誌 (ISSN:09171436)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.6-17, 2011
被引用文献数
1

本論文では,計量的な物語構造の分析を実現するために,人文的な物語分析の古典的手法であるプロット分析を援用し,分析結果に対する計量的解析を行った.プロット分析は人文学的手法であるが,一致度の計算を実施することでプロット分割と分類の正当性の数値的評価を行った.プロット分類の結果に対してn-gram分析を行うことで物語構造の連続的パターンを抽出した.また同様にχ二乗検定を用いて頻出プロットの時代的変化を抽出した.さらに,テーマとプロットの関係を分析するために計量的手法で物語のテーマ語を抽出し,作品をテーマごとに分類した.このテーマの分類結果を用いて,各テーマのプロット的な特徴を抽出した.本論文での分析はプロットへの分割と分類を計量的指標を用いつつも人手で行うという点で,完全な自動化の実現ではないが,本論文の成果は将来的な物語分析の完全な自動化の基礎になると期待される.
著者
持丸 正明 稲見 昌彦 野嶋 琢也 暦本 純一 杉浦 裕太 小池 英樹 村井 昭彦
出版者
国立研究開発法人産業技術総合研究所
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2016-04-01

本研究は,幅広い身体特性の人が一緒にスポーツ参加できるシステム構築を目標として,環境身体ダイナミクスを解明して運動・感覚能力を拡張する技術を開発した.そして,開発した要素技術を組み合わせ,オーグメンテッド・スポーツ“超人ペナルティキック”,“LunaGBall”を開発,イベント等で発表した.トレーニングなしに経験や技量にかかわらず運動・感覚能力を拡張することで競技を伯仲させ,高齢者を代表とする体力的・技術的弱者の幅広いグループスポーツ参加の促進を実現し,健康な社会の実現に寄与する.
著者
村井 康真
出版者
[出版者不明]
巻号頁・発行日
2005-09

制度:新 ; 文部省報告番号:甲2111号 ; 学位の種類:博士(学術) ; 授与年月日:2005/6/27 ; 早大学位記番号:新4089
著者
饗場 直美 金田 雅代 中馬 和代 遠山 致得子 廣田 美佐子 村井 栄子 赤松 美雪 川本 輝子 西尾 佳代 亀ヶ谷 照子
出版者
神奈川工科大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2016-04-01

栄養教諭制度の導入以降10年間の学校給食の変化と給食の食育展開や、学校での食育の連携について実態調査を実施した。 全国7県の研究チームで、平成17年、21年、26年の3年間の給食献立内容について解析した結果、主食+主菜+副菜が明確な献立の増加、野菜の提供の増加、和洋中の献立の区別の明確化、献立中の食塩量の減少などが明らかになった。一方、設備などの環境要因も献立作成に影響を与えていた。給食を活用した食指導状況をみると、食育の6つの観点の中で、「食事の重要性」の観点をもたせた献立が増加していた。 以上のことから、栄養教諭はより意図の明確な献立を作成し給食指導を行って来たことが明らかになった。
著者
村井 則夫
出版者
西田哲学会
雑誌
西田哲学会年報 (ISSN:21881995)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.51-71, 2017 (Released:2020-03-21)

Provided that philosophy is fundamental knowledge of the relation between world and spirit, it must be a radical reflection that includes not only the object of inquiry, but also the knowledge itself and its origin, which is transcendental thinking. Both Heidegger and Nishida, facing critical change in the traditional European sciences in general, were engaged in the rethinking and revival of the possibilities for the philosophical foundation of knowledge, the former based on the existential activities of life, and the latter on the ‘pure experience’ as base of all realities. In contemporary philosophy, these two insights are realized to have affinity with each other in the aspect of phenomenology. Hence, for the purpose of comparing the two creative philosophers, it is indispensable to take the problem of phenomenology into consideration, especially its thier deep investigation of the ‘medium’, through which phenomena show themselves. What is called ‘Dasein’ by Heidegger, ‘pure experience’ by Nishida, is nothing but the central sphere that conceives the whole reality and pure knowledge about it. The proximity of their modes of thinking, furthermore, extends to the dimension of fundamental and transcendental reflection on the occurrence of the unity of reality and spirit. Indicating such a thinking process, which would finally lead to the formation of transcendental speculation as ‘image’, is the aim of this article.
著者
村井 実
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1984, no.50, pp.1-15, 1984-11-10 (Released:2010-01-22)
参考文献数
7

Among researchers the problem has frequently been discussed how the relation between the liberal and enlightened thinking which Mori maintained as a Deputy Ambassador in America and the nationalistic and centralistic attitude he took as Minister of Education in Japan is to be interpreted. By making a distinction between nationalism in education and nationalism in general, this paper attempts to point out the possibility of a new understanding of this problem, more in line with the interest of the history of educational thought.Looking at the problem from this angle, it turns out that Mori in his fundamental thinking was an educational nationalist throughout. This study tries to establish the logic of this assumption by means of an examination of Mori's works and at the same time it points out that this type of nationalism possessed characteristics, in terms of educational thought, peculiar to the Japanese in their entirety and consequently the attempt is made to emphasize the importance of interest in educational research of this type of nationalism.
著者
村井 実
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1980, no.42, pp.56-66, 1980-11-25 (Released:2009-09-04)

私は、それがどういう形態をとるにせよ、平和教育と呼ばれるものにかねてから積極的な関心を抱いてきた。それは、単に平和ということが、現代の世界状勢上、子どもたちの教育において当然に強調されなければならないという理由からだけではなくて、さらに、いずれ分っていただけるように、すべての教育活動の目的は結局は人間の間での平和な生活の恒久化に帰着すると見なしうるという、いわば純粋に理論的な理由からでもある。今回のこの小論は、この後者の観点からの教育の現状への批判であり、問題提起の試みである。