著者
加藤 正春
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.65, no.3, pp.209-229, 2000-12-30

かつての沖縄では,若者の死の直後に若者仲間が墓に赴き,歌舞音曲をともなった伽をする習俗がみられた。ワカリアシビー(別れ遊び)などと呼ばれたこの儀礼は,死んだ若者のモーアシビー(野遊び。青年男女の野外交遊のこと)仲間が夜毎に墓前に集い,そこで一時を遊び過ごすものであった。儀礼はほぼ一週間ほど続けられたが,いくつかの報告では,幕内から死者の棺箱を出したり,その蓋を開け,死者を座らせて行われることもあったとされている。また,墓前の仮小屋に短く織った手拭い(いんきや織りの手さじ)を飾って集う例も報告されている。儀礼は昭和時代に入ると行われなくなった。本稿では,19例の報告事例の検討から,この儀礼が野遊びの形態をとって死後に行われる若者仲間の追悼儀礼であり,幕内の死者の霊魂を幕前に招き出して行う,生者と死者との直接交流・交歓であることを明らかにする。若者たちが墓前に集まり,棺箱を墓から引き出すのは,死者に近づいて交流しようとする意図であり,短い手拭いをさげるのはそれを霊魂の依代として用い,そこに寄り憑いた死霊を実感するためである。また,引き出した棺箱を開け,死者を座らせるのは,生前と変わらぬ形で死者と直接に交流しようとする試みである。ただし,このような儀礼行為の前提には死の認識があり,死体の変化に対する人々の知識と経験が存在する。なお,儀礼には死霊の危険性に対する忌避観念が表出されていないようにみえる。これは,若者たちが死んだ仲間を追悼するために,死霊の危険性を受け入れた上で儀礼を行っているからである。それは,若者仲間の同輩結合の強さを示すものである。
著者
浜本 満
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.1-28, 1993-06-30

ケニアのコーストプロビンス,クワレ州に住むドゥルマの人々の間では,ムラムロ,ムブルガという2種の占いの形態が知られている。本稿の目的は,ムブルガの語りのテキストの検討をおこない,もう一方の占いムラムロとの違いを明らかにするとともに,両者の語りのありかたの違いが占いによる問題解決の様式のいかなる違いに対応しているのかを考えることにある。ムラムロでは相談内容が相談者自身によって前もって伝えられるのに対して,ムブルガでは相談者は自分からは相談内容をあかさず,占い師にそれを手探りで語らせることになる。このムブルガにおける占い師による問題の「再記述」が,問題状況にいかなる変容をもたらし相談者に何を与えることになるのか。これは,実際のテキストを分析することによってのみ答えるのとができる問いである。ムブルガにおける占い師の語り,手探りでおこなう「再記述」がどのようなイディオムにしたがって組織され,そこに登場させられる妖術や憑依霊などのエージェントが,この語りの中でどのような役割を演じているかを検討することによって,ムブルガにおける説明のモードの特徴が明らかになる。
著者
梅屋 潔
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.59, no.4, pp.342-365, 1995-03

新潟県佐渡島の人々の間では,ムジナ(貉(ムジナ))ないしトンチボ(頓智坊)と呼ばれる動物がしばしば話題に上る。この動物は動物でありながら神であり,ときに人間にも変身する存在として知られている。ところが,注意深くこの概念を巡る語りをみてみると,その意味が極めて同定し難いことがわかる。われわれからみると明らかに異質な存在が,同じものであるかのように「あたりまえ」のものとして語られるのである。本稿の目的は,そのムジナについての語りの分析を通じて,従来人類学者が「象徴」という概念を用いる衝動に駆られるとき,いったいなにが起きているのか,また,語りの中でそのような概念の果たしている役割は何か,という問いに答えようとするものである。「あたりまえ」と考えられていることを相対化し,考察するために,従来の中間的話体に加えて,テキストの微視的な分析を行うことにより,われわれ,そしてかれらの中で起こっているコンテキストのくむかえや矛盾の無視などが明らかにされる。
著者
板橋 作美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.43, no.2, pp.156-185, 1978-09-30

Y is a village in the southwest of Gumma Prefecture, consisting of 181 households, rearing silkworms and planting konjak (devil's tongue). Y villagers believe that extremely lucky success, especially economical success, of neighbors can be attributed to two kinds of supernatural forces. One is mystical power of osaki, a folk-zoological term for a small animal resembling a mouse or a weasel, which, by order of his master or his own will, thieve silkworms, cocoon, wheat powder or other properties of neighbors and make his master wealthy, or possess neighbors who then become mentally or physically ill and at times die. Those who keep osaki in their houses are called osakimochi or osaki-holders, and they are segregated in terms of marriage, for osaki-holding is believed to be transmitted to all relatives of the spouse of the osaki-holder and to all the children of the osaki-holders, paternally and maternally. Another is evil magic of sanrinboo, who are believed to practice magical rites secretly in order to deprive properties of neighbors. Usually they are very stingy but on the day of sanrinboo they present food to neighbors generously, and if neighbors receive it, all their wealth wil be taken away. Y is devided into 13 koochi, small local units whose members are bound in co-operative mutual aid relations. These units, however, vary in terms of their social cohesion or solidarity. Koochi which have few or no osaki-holders and sanrinboo keep, in general, strong social cohesiveness, while those koochi which have many osaki-holders and sanrinboo and suffer from much osaki-possession have a looser social structure. These koochi have been increasing in the number of households by new comers from outside and branch families from other koochi. They have co-operative mutual aid relations and religious relations with the members of other koochi, rather than own, and their relations between main and branch families cut across the koochi boundaries. Moreover, the socio-economic hierarchy in such koochi is unstable : old families become poorest and new families become wealthy suddenly. In contrast, those which have few osaki-holders and sanrinboo maintain their social hierarchy or order : old families keep their social and economic prestige, new branch families are organized in patrilinial kinship, mostly in their main families' koochi. As mentioned above, the beliefs of osaki-holders and sanrinboo seem to be related to the weakness and instability of social structure of the local community, and seem to regulate and make clear the individuals' ambiguous social position caused by such social circumstances. The osaki-holders and sanrinboo are believed to be wealthy. In fact, those who are suspected as sanrinboo are rich and, moreover, they have become rich suddenly, mostly by unfair and not traditional means of acculating wealth. On the other hand, the socio-economical status of all osaki-holders are not high, but notorious osaki-holders, whose osaki-spirits have possessed neighbors frequently or brought much misfortune on neighbors, have become remarkably rich in a brief period of a few decades. In most cases of osaki-spirit posession, osaki-holders belong to the middle or high classes economically and victims to low or middle. This fact may be interpreted as : alleging the occurrence of osaki-possession, the victim may try to accuse a neighbor of extremely rapid accumulation of much wealth by immoral economic activity.
著者
箭内 匡
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.58, no.3, pp.223-247, 1993-12-30

この論文は,チリ南部に住む先住民マプーチェの一老人のある語りの分析を通じて,今日のマプーチェの信仰に対する疑い,そんな疑いを持っていた頃にみたきわめて印象的な夢(「ヘリコプターの夢」),そしてその夢の本当の意味を理解するに至った数年前の儀礼での出来事,を回想する。筆者はまず,この語りの部分部分が喚起するイメージの連鎖と,全体の中で反復されるイメージを追ってゆくことにより,この語りが目指しているマプーチェ的な「真実」の全的な反復を跡付けする。そのあと,そうした反復の試みの中に含まれている差異を引き出して,老人の思考の中の新しいものを表出させる。筆者は,彼の思考の中にみられる,こうした伝統との間の差異と反復の運動を,今日,マプーチェの人々が自らの伝統を生きている姿の一端を示すものとして提出したい。
著者
佐藤 斉華
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.73-95, 1998-06-30

民族問題/ナショナリズムという表現が示す問題群は, 国民国家の規約体系を挟むそれ「以前」/「以後」の「民族」の動態を考察することを要求する。本稿は, 1990年の民主的体制への転換以降, ネパール複合社会を縦横に走る社会・宗教・民族的境界がより顕在化/問題化している状況を受けつつ, 北東ネパールの一地域に由来する「ヨルモ」という民族範疇の変容過程を検討することにより, その一断面を切り取ろうとするものである。「ヨルモ」は元来地名であるが, 伝統的に, 文脈に依り指示範囲を微妙に変えつつその(主な)住民や言語にも柔軟に適用されていた。近年カトマンヅの一遇に形成されたヨルモ・コミュニティのなかで, 従来とは性格を異にする「ヨルモ」の用法が特に90年代に入り急速に広まっている。即ち固定的な社会文化的実体=民族の名としての使用であり, 「ヨルモ」をめぐる社会・文化・言語・地理的諸境界間のズレは克服されるべき課題となったのである。新たな用法のなかでは, このズレにどう対処するかにより二つの方向性が現れた。「ヨルモ」により多くの成員を取り込もうとし結果として文化的異質性の拡大するのも黙認する拡大派と, 「ヨルモ」の人口がたとえ目減りしても文化的均質性の水準維持または向上を優先しようとする純粋派であり, 両者の間を「ヨルモ」の境界は揺れ動くことになる。「ヨルモ」は, 伝統的用法に加えて移住地での議論の過程を包含し, 幾重もの位相がずれながら重なってせめぎあう重層的かつ動態的な様相を呈することになる。こうした「ヨルモ」をめぐる事情は, 国民国家概念の浸透にされされた少数民族の反応と対応の一例であり, またその浸透が民族的範疇についての意識と言説の複雑なダイナミクスにいかに寄与するかということの例示ともなっているのである。
著者
安藤 直子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.344-365, 2001-12-30

本論文においては、岩手県盛岡市の2つの祭礼「チャグチャグ馬コ」と「さんさ踊り」を題材に、祭りが「伝統性」保持と観光化という対立する文脈において変化していく複雑なプロセスと、そのプロセスの中での祭りに携わる人々の「伝統」保持及び観光化への関わり方を分析した。その結果、担い手による多様な「オーセンティシティ(真正性、本物性)」追求の様相が確認された。従来の観光人類学においては「ゲスト(観光地を訪れる人々)」「ホスト(観光を担う人々)」といった二項対立の枠組み上で、ゲストとホストとの関わりが議論され、オーセンティシティ概念も同様の枠組み上で論じられてきた。ゲストが「オーセンティシティ」を追求し、一方ホストは「疑似イベント」を創出しゲストに提供すると論じられ、主にゲストに主体性をおいた「オーセンティシティ」論が展開されてきた。しかしながら、2つの祭りにおいてはホストが訪問者を制して主体性を獲得し、多様な方法でオーセンティシティを主張する様相が確認された。担い手によるオーセンティシティの追求は、ゲストによるそれとは比較できないほど重要かつ切実な問題であると言える。なぜなら、担い手にとってオーセンティシティの追求は、地域社会における中心的な地位の追求と重なっているためである。2つの祭りにおいては、オーセンティシティにより近いと主張し、担い手内部でそのように評価されるほど、祭りの中で中心的な位置を占めることができる。祭り運営組織の役職に就き、運営上の主導権を獲得することは、結果的に担い手の地元内部における社会的プレステージ(威信)を上昇させる。観光化が進むほどにこの傾向は強まり、ホストによるオーセンティシティの主張は活発化し、主張の方法も複雑化している。本論文においては、観光の現場でホストがオーセンティシティを追求する理由を議論し、その概念を深めることを目的とする。
著者
今関 光雄
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.67, no.4, pp.367-387, 2003-03-30

本稿は、「ファン・コミュニティ」の文化人類学的研究というテーマの下に、あるラジオ番組のリスナーたちの行っている「集い」を、フィールドワークによる調査研究に基づいて分析し、オーディエンス/ファン同士のコミュニケーションの重層性を明らかにするものである。リスナーが番組に「告知」を投書し、行う集会を「集い」と呼ぶ。実際に出会うことで友人関係を構築しようという試みである。そこでは、同じ番組に関する情報を持つ「比較可能で代替可能な者」同士の関係を、具体的な「個別性を持った顔のある誰か」同士の関係に変換していくという実践が見られる。これは、メディアを介して作られたファン・コミュニティにおけるコミュニケーションを情報交換のみの関係として語ってきた「おたく」論の一面性を批判するものである。また、オーディエンス研究において「受け手」の能動性を考える場合、受け手の行う「流用」がよく議論される。ここで明らかになるのは、その「流用」がメディア上だけで、すなわち顔の見えない「サイバースペース」だけでなされるのとは違って、「個別性を持った顔のある誰か」との繋がりにおいてなされることが重要であるということである。本稿は、そのような顔の見えない「サイバースペース」における繋がりを「個別性を持った顔のある誰か」との繋がりに変換し、コミュニケーションの重層性を創りだしていることに注目する重要性を明らかにする。それらの実践がメディアによる人びとの分断や抽象空間としての「国民文化」への回収に抵抗する「流用」であるということを示唆する。
著者
森 雅雄
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族学研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.p229-236, 1988-09
著者
中生 勝美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.265-283, 1991-12-30

華北村落では,異なる宗族でも,あたかも同一宗族であるような擬制的世代関係を形成している。本稿ではこれを「世代ランク」と称するが,近隣者間の擬制的世代関係である。世代ランクの社会的機能は,挨拶・年始回り・擬制的親族関係・席順・村民資格の取得・社会的威信がある。世代ランクは,宗族の世代関係と,姻戚の世代関係の組み合わせによって形成され,親族としての交際が消滅した後でも,世代関係が近隣者の間に残存したのだろうと考えられる。中国全体で,近勝者への親族名称を拡張することは普遍的である。しかし親族名称の拡張原理に年齢が関与しない世代ランクの習俗は,村落の成員権と強く結びついている。これらの特徴は,華北村落のみに観察される。その社会的要因は,華北村落の共同体的規制の強さと,村落内の統合性の高さにあるのだろう。世代ランクは,社会集団ではなく,社会的カテゴリーである。
著者
関 一敏
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.402-407, 1997-12-30
著者
窪 徳忠
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.41, no.3, pp.185-211, 1976

A number of festivals, manners and customs, and religious practices of Chinese origin are still prevailing in Okinawa. The author has been engaged since 1966 in research into some of those customs and practices which are apparently more or less related to Taoism. An attempt has been made to determine to what degree they are associated with those customs, etc., of China. A large part of the research done before 1974 has already been published, so the remainder, including the result of the research of 1975 is presented here. However, the research concerning religious practices of Chinese origin is not included here because space forbids. The areas covered are a part of each of the following islands of Okinawa : Iheya-shima, Izena-shima, Okinawa-honto, Miyako-jima, Ikema-jima, Irabu-jima, Kohama-jima. Kuro-shima. Taketomi-jima, Yonaguni-jima. Just behind the front gate of every house in Okinawa, there is something like a wall made of stones or block of some kind. This is called "himpun" in many parts of Okinawa-honto. This construction is still commonly found in those areas as in the areas previously researched by the author and even newly built houses usually have one. Though different names are given to this construction in different areas, Okinawa-honto, Miyako, and Yaeyama areas have a similar structure. Though it is commonly said to be built there so that the inside of the house is protected from the eyes of outsiders, some people and Yutas consider it to be a protection against devils. Since, in Fu-chien, China, too, a similar construction is built of wood and regarded as having a talismanic value, the assumption is that it is from China. As it is believed in Miyako and Yaeyama areas that it came from Okinawa-honto, it is suspected that this structure originated in Fu-chien and was introduced to Okinawa-honto first, then diffused to Miyako and Yaeyama. Another thing to be found in Okinawa is Shih-kan-tang, as it is locally called. This is a stone pillar of talismanic value built at the corner of an intersection or where a narrow passage meets a main street. Usually, the Chinese 石敢当 (pronounced Shin-kan-tang) are carved on its face and some have animal faces designed above the characters. In Amoi, I have heard, it is transformed into a stone lion figure. In Okinawa in all three areas, it is built exactly at the same location and with the same intention as in China. However, Miyako and Yaeyama areas (some parts of Miyako excluded) have fewer of them than Okinawa-honto. It is suspected that in these two areas it was combined and fused with the local belief in a god of stone. The first people to take up this custom in Okinawa seem to have been Sanjin-so's (who professionally told fortunes by the sun) , for they are in possession of Chinese books on the construction of Shih-kan-tang. Also, the people in Miyako and Yaeyama areas believe this custom was brought from Okinawa-honto. What is different from China is that Shih-kan-tang is quite rarely, if ever, worshipped here in Okinawa. The third custom found in Okinawa is the writing of the Chinese characters 天官賜福紫微鑾駕 (pronounced Tun-kuan-tzu-fu-tzu-wei-luen-chia) or 紫微鑾駕: (pronounced tzu-wei-luen-chia) on the ridge beam for the ceremony of setting up the framework of a house. These characters serve as a spell to guard against evils and to envite good fortune-ideas closely related to Taoism. In Formosa this custom was widely observed as late as the period of the Japanese Occupation. In Okinawa-honto this started early in the eighteenth century but was followed only by a small portion of the natives living in tile-roofed houses. It seems that Yuta and Sanjinso had something to do with this custom. It is understood that it came to Miyako and Yaeyama areas years later.
著者
煎本 孝
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.125-154, 1988-09-30
被引用文献数
1

アイヌの狩猟の象徴的意味と行動戦略を、文献資料、調査資料に基づき、生態学的および民族生態学的視点から分析した。アイヌの狩猟技術の特徴は、矢毒(トリカブト)、自動装置(仕掛弓)、手持ち弓と狩猟犬の使用である。矢毒と犬は、それぞれトリカブトの神、庭にいる神と考えられており、火の媼神の使者として山の神(熊)を招待する役割を持つ。アイヌ(人間)とカムイ(神、精霊)との間の互酬性は、山の神(熊)の招待と送還という肯定的機序、および、悪い神(悪態;狩猟の不確定性、危険性の象徴)に対する防御、反撃、制裁という否定的機序から成る。熊祭は人間界で飼育された子熊を、特別な使者として熊の先祖のもとに送還することにより、互酬性の反復を意図とする発展した肯定的機序として解釈される。また、占い、夢見は良い狐の頭骨の神、森の樹の女神からの伝言と考えられており、狩猟行動の意志決定における重要な機能をはたす。以上の分析から、狩猟における行動戦略は、人間によって認識された自然と、現実の自然との間の相互作用の動的過程として理解される。
著者
立川 陽仁
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.64, no.1, pp.1-22, 1999

カナダ, 太平洋沿岸部の先住民族クワクワカワクゥ(クワキウトル)の「貴族層」が経験した植民地統治期における権威の衰退は, これまでの研究においては政治・経済的要因によるものと前提されてきた。つまり, 貨幣経済の浸透によって「貴族」と「平民」の経済的格差が埋まり, あるいは新たなリーダーが誕生したために「伝統」的な貴族の権威が相対化され, かつそれらのリーダーたちによって貴族の役割が剥奪されたと想定されてきたのである。しかしながら, 実際には, これらの貴族は宗教・象徴的な次元においても権威を保持していたのである。このような宗教・象徴的権威の拠り所となるのがクワクワカワクゥ独自の世界観によって「神聖」さを与えられてきたランクであり, 貴族とはその所有者なのであった。本稿は, そのような宗教・象徴的な権威がいかにして植民地統治期に凋落していったのかを探ろうとするものである。具体的には, ポトラッチにおけるヨーロッパ物資の採用や, 天然痘などの疫病の流行がクワクワカワクゥの世界観およびランクの衰退にどのような影響を及ぼしたのかを考察し, 最後に貴族による「抵抗」の手段としてのポトラッチの変化について述べることにしたい。
著者
築島 謙三
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, pp.41-51, 1950

Kroeber insisted on man's "social" nature-a trait which distinguishes him from animals. Sapir doubted this, and thus the problem of why man is essentially "social" still remains. Here lies a psychological issue, which in recent years has given rise to emphasis on the concepts of symbol and sign. The existence of culture is necessarily connected with the symbolic faculty, as White has ponited out. But White does not explore the final implications of this. When we consider the creative development of culure by Homo sapiens and when we consider the psychological nature of the symbolic faculty, we cannot but admit the creative power of this symbolic faculty. In this faculty of using the symbol we see likewise the faculty of creating the symbol. White regards man as a constant ; culture as an independent variable. We see, however, that men are not really constant because of their unique psychological creative faculty. Enculturation into a given culture depends essentially on the exercise of this faculty. It seems we are obliged at least in principle to admit that the individual may have the power to change culture, although the cultural stream in the long view appears generally so determining that the individual seems powerless. Obviously we cannot neglect the concept of the super-individual nature of culture and deny that we are able to study culture as if it were an independent entity. For example, we must know the structure of any culture before we study the process of enculturation of an individual into that culture. The most important inquiry would seem to lie in the area of the interdependence between the individual and cultural process, especially when investigating a small community culture intensively and minutely. Thus we may conclude that culture is not entirely super-individual.
著者
三尾 裕子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.243-268, 1990-12-30

本論は, 台湾において最も人気の高い<神々>のうちの一つである王爺の分析を通して, 台湾の漢民族の霊魂観の構造的特徴及びそれらと台湾の歴史的社会的背景との関係を検証する。本論で王爺を取り上げたのは, 王爺の分析が, 台湾の漢民族の世界観の特色を理解するのに役立つと考えられるからである。王爺は, 従来台湾人の民俗分類概念といわれてきた3種の霊的存在-<神>, <鬼>, <祖先>-では捉えきれない。その問題点は, 従来の見方があまりに静態的であったために, 霊的存在の変化の可能性やその過程を説明しきれない点にあったといえる。本論では, このような視点の下に, まず従来の王爺研究をふり返る。そして, これらの文献資料及び筆者の調査した王爺信仰及び「迎王」儀礼を通して, 王爺にみられる霊魂の内的構造を分析する。更に, 「王爺」の<鬼>から<神>への変化が, 台湾の歴史的環境のなかで生み出されてきたことを明らかにする。
著者
黄 智慧 宮永 國子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.292-309, 1989-12-30

本稿は天理教の台湾における布教とその受容過程を分析対象とする。それは近代日本と外なる世界との接触の一環をなしている。まず教義面においては、天理教は世界宗教への志向を内面に備えていた。ところが台湾進出という宗教行動を促した政治・社会的要因を検討していく中で、日本人による布教と台湾人信者の受入れかたが注目される。特に戦後一時的に日本人布教師が引揚げた間に台湾人信者によって守られた信仰の形態が、どのように変化したかは興味深い問題である。天理教は戦後、神名や参拝の対象や儀式を変えることによって台湾の民間信仰と結合していたことが調査によって明らかとなった。しかし、その後再び台湾進出をめざす天理教は、台湾の民間信仰に同化されてしまう危機を覚えて民間信仰の要素を排除しようとしている。以下では、宗教的権威の問題も絡めつつ、他者との差異と同一性をいかに克服するかに焦点をあてて記述を展開していく。