- 著者
-
永井 豪
- 出版者
- 一般社団法人 日本農村医学会
- 雑誌
- 日本農村医学会学術総会抄録集 (ISSN:18801749)
- 巻号頁・発行日
- vol.60, pp.11, 2011
岐阜県の県紙,岐阜新聞で長年,記者として県内各地を歩いてきた。「地域医療」に正面から取り組んだ体験はないが,地域と地域医療は切り離せない。地方新聞の一記者のささやかな体験にすぎないが,取材で出会った「地域医療」を振り返ってみた。<BR> 直近の地方勤務は下呂。名泉と下呂膏で名高い下呂温泉に太平洋戦争末期,旧陸軍傷病兵のための医療施設ができ,これを母体に戦後,県立に移管された下呂温泉病院は,一時は温泉を活用した独自の療法でも話題を呼んだ。自治体病院はどこも大概は経営難であることは承知していたが,ちょうど地方独立行政法人に移行する直前のころで,合併により市立となった金山病院とともに,老朽化した施設の整備改修が迫られる中,現場の医師や看護師らが懸命に日々の仕事をこなしていた。地域住民にとって,さまざまな健康や病気に対する不安に応え,診療や治療を受けられる総合病院はかけがえのない存在だったが,診療科も医師数も減り,患者だけでなく医師や職員が腹ごしらえをする食堂も閉鎖された。診る側も,診られる側もいらだちや漠然とした不安は募る一方のようだった。もう2年がたって,事態はもっと深刻化しているのではないかと危惧している。<BR> 出張先のJR 下呂駅構内で倒れ,心肺停止となった男性を,たまたま通りかかった18歳の娘さんが機敏な対応で救命した。この娘さんは高山の看護学校を卒業して下呂温泉病院に就職する直前の「看護師の卵」で,実習で学んだ通りの救命措置が役立った。大きな病院も,こうした一人一人の働く人の知恵と力と勇気によって成り立っているのだろう。<BR> 地域の「あかひげ先生」に贈られるノバルティス地域医療賞がかつてチバ地域医療賞といわれていたころ,美濃加茂の開業医,黒岩翠さんの受賞式を取材した。今から15年前,原因不明の川崎病の500症例を経験,診断,治療,後遺症予防に好成績を上げ,表彰を受けた黒岩さんは「医は仁術と思って励んできた」と話しておられた。5年前に86歳で他界されたが,その診療姿勢は患者と症状をよく診るという,医の原点ともいうべきもの。平成の大合併で今は恵那市所管となった国保上矢作病院の大島紀玖夫名誉所長も故郷の先年,同じ賞を受けている。「無医村の悲劇をなくしたい一心で」「病気を診るのではなく,人を診るのが医師」など,受賞に際し,語られた言葉は一つ一つ印象的だ。<BR> 岐阜,愛知県境に位置する笠松町の松波総合病院を,木曽川に雄姿を映す現在の病棟ができた1988年に取材した。まるでホテルのロビーのような広大なエントランスホールは,大規模災害時を想定し,ここでトリアージができることをも想定したものだ。分厚い堆積層の軟弱地盤を考慮した地震に強い耐震構造で,ハード,ソフトの両面において,県境にかかわらず,このビルが見える限りの広い地域の住民の健康と安心を平時も災害時も確保できる地域医療の拠点病院であろうとした志は高い。近くヘリポートを備えた施設も増築されるという。今後は医療の質をより高め,地域の信頼に応えてほしい。<BR> 最後に,これはそもそもの話だが,今は地域がさまざまな病気に苦しんでいるといってもいい。地域が元気でなければ,地域医療もよって立つ基盤を失ってしまう。長年,地域を取材してきた記者として,地域とともに歩む地域医療であってほしいと願っている。