著者
石川 義孝
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.31-42, 1986-06-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
25
被引用文献数
1 1

空間的相互作用の概念は,今日では一般的に,人・物・情報といった多様な地表上の流れ全般をさすと考えられている.資金の空間的流動も当然その中に含まれるが,このデータを使った空間的相互作用モデルによる分析は従来皆無であった.ところで,無制約型・発生制約型・集中制約型・発生集中制約型の4つのモデルからなる空間的相互作用モデル族は,現在のバラエティに富む空間的相互作用モデルの基礎をかたちつくっている.しかし,既往の経験的研究は,このモデル族に含まれる諸モデルの一部のみを利用してきたにすぎず,当該モデル族の包括的な行動が,現段階で十分に明らかになっているとは言い難い. 本稿は,1899(明治32)年の資料『全国要地為i換取組高地方別表』を利用して,わが国の57都市間送金額のこのモデル族による分析を通じて,上記の課題に答えることを意図している・まず,出発地・到着地の質量項や距離減衰関数の複数の種類を考慮した12のモデルを利用して, 3, 192(57×57.57) にわたる全体フローの分析を行なった.そして, (1)距離パラメータ推定値はモデルごとに一貫した変化を示さない, (2)適合度は無制約型→発生制約型→集中制約型→発生集中制約型モデルの順に高まる, (3)負の指数関数を持つモデルが負のパワー関数を持つものより適合度が良好である,といった知見を得た.既往の成果とのずれは,資金流動と人口流動の性格の違いから説明した. また,全体フローの分析は,対象とした都市群の平均的な姿を示すに過ぎず,都市間の差異を隠すことから,集中制約型モデルによる各都市への為替流入のみに着目した分析も試みた・距離パラメータ推定値は,一般的に・いわゆる六大都市や港湾都市が広い影響圏を持ち,一方,城下町起源の地方都市は狭い影響圏を持つことを物語っている.さらに,適合度の都市間変異は,東京・大阪という2大中心との結びつきの程度によって大きく規定されていることが判明した. 最後に,これまでの空間的相互作用研究は,暗黙のうちに人口流動のみを念頭に置いてきたが,今後は各種のフロー現象の特殊な性格も留意されなければならないことを指摘した。
著者
江口 卓 松本 淳 北島 晴美 岩崎 一孝 篠田 雅人 三上 岳彦 増田 耕一
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.43-54, 1986-06-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
10
被引用文献数
3 3

降水量は,世界の気候を明らかにする上で重要な気候要素であるが,全球の降水量分布の詳細な解析は,月より短い時間スケールではこれまで行なわれていない.著者らは, FGGE特別観測中の日降水量資料をもとに作成した旬降水量資料を用い,特に無降水域に着目し,全球の大陸上の降水量分布の季節内変動および季節間の相異を明らかにすることを試みた。そして,無降水域からみた世界の:気候区分図を提示し,大陸の西岸・東岸の気候区界について論.じた。 無降水域の季節重ね合わせ図にもとついて3種類の無降水域,「極小無降水域」・「平均無降水域」・「極大無降水域」を定義した.北半球では, DJF季(12~2月)には,平均無降水域がアフリカ北部からチベット高原にかけて広く分布する.一方, JJA季 (6月中旬~8月中旬)には,それはアフリカ北部から西アジアにかけて分布する.南半球では, DJF季には,平均無降水域は各大陸の西岸に限られて分布するが, JJA季には各大陸に広く分布し,また,極小無降水域が南アメリカの北東部に出現する.無降水域の季節内での変動は, DJF季の北アメリカ北部とオーストラリアで特に大きい. 以上2季節の無降水域の分布の解析結果から, 4つの季節無降水域を設定した。それらは,冬と夏の極小無降水域 (mNPA), 冬と夏の平均無降水域 (wsNPA), 冬のみの平均無降水域 (wNPA) と夏のみの平均無降水域 (sNPA) である.大陸の西部ではmNPAとwsNPAが広く分布し,かつすべての無降水域型が帯状に並列している.各大陸の西部では,各無降水域型がアリソフやヶッペンの気候型とよく対応している.しかし,大陸の東部には, wNPAが現われるか,または無降水域はまったく出現せず,アリソフやケッペンの各気候型との関連も良くない。無降水域の分布からみると,各大陸の東部と西部との境は,各大陸上でもっとも高い山脈の西側に位置することが明らかになった.
著者
ワッソン ロバートJ
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.55-67, 1986-06-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
44
被引用文献数
51 58

本稿はオーストラリア乾燥・半乾燥地域における人間活動に伴なう環境変化に関する日濠共同研究の一環として,オーストラリア砂丘地帯の地学的背景や特徴ならびに,原住民およびヨーロッパ人と砂丘活動との関係について概説したものである。 大陸の約40%は砂丘で覆われるが,バルハンを除く各種の砂丘が分布する (Figure 2). これらの砂丘はシンプソン砂漠のように広域にわたって,単純な線状砂丘が広がる場合から,グレートビクトリア砂漠西部のように基盤地形の複雑さを反映して,モザイク状に分布する場合まで,その分布状態は変化に富んでいる。また,砂丘砂の給源も,基盤岩石をはじめ,河成堆積物など多種にわたる。 砂丘堆積物の性格は2つに類型化される.1つは石英砂を主としたもので,砂質河成堆積物を給源とする。他の1つは粘土と石英粒の混合したものである。後者の堆積物には粘土微粒子が含まれる.この粘土微粒子は比重が小さいため空中を長距離運搬されてきたものである.粘土微粒子の形成は地下水位の低下や日射による塩類晶出および藻類やバクテリア等の生物起源と考えられ,環境変化の指標になる。 砂丘砂層の年代測定は14Cおよびサーモルミネッセンスによって行なった.オーストラリアの砂丘形成開始期はスターレット砂漠で20万年B.P.までさかのぼる.マリー地域(大陸南部の現在の半乾燥地域)では40万年B. P. より若いと推定され,古地磁気の検討からも, 70万年B. P。よりは新らしいと考えられる。したがって,オーストラリアの砂丘形成はナミビ砂漠やサハラ砂漠に比べて,きわめて新らしい時期に始まったと言える.最終氷期の砂丘形成は3万年B.P.前後から始まり, 2.5万年~1.4万年B. P. の最終氷期の極相期に最も活発であった (Figure 3). 完新世後期に砂丘形成は再び活発になり,半乾燥地域では1,000年B.P.まで,乾燥地域では現在まで活動が続いている. 河成,風成,湖成堆積物および地形の検討からは,内陸地域の環境は5万年B. P.~3万年B. P. の湖沼が拡大していた時期と3万年B. P.以降の湖水位が変動する時期とに分けられる.後者の時期には砂丘が活発に形成された.現在の風向・風速,日射,蒸発量およびミランコヴィッチの曲線から推定される最終氷期の日射量等を考慮して,上記の地学現象を検討すると,次のような環境が復元される.すなわち,砂丘形成が活発であった最終氷期の極柑期には,夏には風速が強く,強い日射でもあったため,現在よりも蒸発が盛んで,乾燥していた・冬は低温で,植生の生育;期間は短縮される傾向にあり,雨水の流出は高まっていた. なお,氷期の砂丘の伸長方向と現在の風向との検討から,氷期には亜熱帯高圧帯は現在より50程度北上していたこと,大陸北部では,モンスーンが弱まっていたため南東貿易風が卓越していたことが推定される (Figure 1). アボリジニーズの砂丘形成に対する影響は火(野火)の使用によって引き起されると考えられる.しかし,砂丘形成の主たる原因は気候であることを示す証拠が多く,アボリジニーズの影響を示す証拠はほとんど知られていない. ヨーロッパ人入植後,土地の劣悪化が急速に進み1915~1945年の間に砂丘の活発な再活動もあった・この時期には,気候の乾燥化および風速の増加があり,ヨーロッパ人の入植に加え,気候悪化が生じたため,砂丘活動が発生したと言えよう.一方,1945年以降・オーストラリアの降水量は増加している。しかし,砂丘活動は引き続き継続している.それ故,少なくとも一部の地域では・農耕行ニ為が砂丘活動に大きな影響を与えているものと思われる.(文責・大森博雄)
著者
大島 襄二
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.69-82, 1986-12-30 (Released:2008-12-25)
参考文献数
20
被引用文献数
3 3

オーストラリアの北都,ニューキニア本土との間にあるトレス海峡は,いま,オーストラリア側に18島,パプァ・ニューギニア側に2島の有人の島がある.これらは一般的にいえぽ海に依存する人々,アイランダーズの生活空間として概括されるが,詳細にみればそれぞれの島の自然地理学的特性と,そこに住み着いた人の民族的・歴史的背景の相違を反映して,海への認識のしかたが微妙に喰違っている.それを,海面利用形態・伝統的漁法・資源利用状況・近代的漁業導入などの観点から比較分析し,その生態的・文化的多様性を明らかにする. 結論として以下のような3点をその分類の基準とすることができた。 (1) 両岸からの距離:当然のことながら本土から離れている海峡中央部では海への依存度が高い。東部諸島・中部諸島・西部諸島がそれである.他方,ニューギニア本土に近い北西部諸島・キワイ諸島や,ケープ・ヨーク半島に近いプリンス・オブ・ウェールズ諸島では本土との交易によって農産物を期待できる. (2)自然地理学的・生態学的要因:火山島は肥沃な土壌があり農業を営むことができる.クラン毎の土地区分はリーフ内の水面に及ぶ。サンゴ礁島では土地が狭くかつ痩せているので漁業に頼らざるを得ない.よい漁場は島民共有の財産と考えられる. (3) 歴史的条件:近世以降の外来者の定住によって混血が進んだ島では,伝統的な生活習慣は失われ,資本主義漁業たとえば真珠やエビに志向したし,近世以前でも交易が盛んだった沿岸部の島では対岸の影響を受けることが多かった.
著者
伊藤 悟
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.103-118, 1986-12-30 (Released:2008-12-25)
参考文献数
28
被引用文献数
2 2

本研究は,東京大都市圏を事例として距離の摩擦の側面を解明することを目的とした.そのために,発生制約型のエントロピー最大化モデルを,東京大都市圏内の自動車交通流に適用することによって,第1に,同モデルの距離パラメータの地域的パターンを抽出し,第2に,同パラメータに共存する行動・配置の各要素の効果を峻別し,さらに第3に,距離の摩擦の測度である行動要素に関連する地域的属性を追求した.以下は,本研究の成果を要約したものである. 1. 一般化HYMAN法によって推定された距離パラメータは,東京大都市圏の中心部と縁辺地帯において低く,逆にそれらの中間地帯において高い.すなわち,距離パラメータの地域的パターンはドーナツ状の構造を示す. 2. 指数型の距離逓減を示す仮想的流動を用いて配置要素のみを導出した結果,東京大都市圏の中心部から縁辺地帯に向けて,この要素は次第に増加する傾向を明確に示す. 3. 距離パラメータから配置要素を減じた残差として行動要素を峻別した結果,その行動要素の地域的パターンは,距離パラメータの場合ほど明瞭ではないものの,同様にドーナツ状の構造を示す. 4. 行動要素を規定する地域的属性は卸・小売業,不動産業および,農林水産業の特化であり,行動要素すなわち距離の摩擦と,これらの地域的属性の両者からみた東京大都市圏は, 8つの類型地区が織り成す同心円構造を呈する.
著者
高橋 重雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.119-127, 1986-12-30 (Released:2008-12-25)
参考文献数
25
被引用文献数
5 5

消費者は,食料品の購入に際して, 2ヵ所以上のストップ(買物やその他の目的を果たすために立ち寄る場所)を訪れる場合が多い。このようなマルティプルストップ・トリップが行なわれる場合,従来,多くの研究で仮定されていたシングルストップ・トリヅプの場合に比べ,消費者は一般的に,トリップの始点である家からより遠距離の店舗に出かける傾向がある.マルティプル・ストップが買物距離にどのような影響を及ぼすかという問題は,消費者の目的地選択パターンを理解する上で重要である.カナダのハミルトンで得たデータに対する分析の結果,消費者の家から食料品店までの買物距離は,外出の際に立ち寄るストップの数,成し遂げるトリップ目的の数,および食料品店に立ち寄る時期(トリップの最初の段階で立ち寄るのか,それとも別の目的を果たした後に最後の段階で立ち寄るのか,あるいはトリップの途中段階で立ち寄るのか)という3要因に関係していることが明らかになった.
著者
篠田 雅人
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.128-136, 1986-12-30 (Released:2008-12-25)
参考文献数
17
被引用文献数
5 5

本研究では, 1980年代前半のサヘル干ばつに伴う, 8月の風と水蒸気量の異常について調べた. 1980年代前半の干ばつの特徴は,グリニジ子午線において, 1982-83年の全緯度帯にわたる降水の減少と1984年の降水帯の南偏である. 1984年には,東経35度でも降水帯の南偏が認められる. ニアメ (13°N, 2°E) では, 1982-84年に中上層の東風が強化される。上層の東風の強化は, 1968-73年の干ばつ時には認められない。さ、らに, 1984年に露点差 (T-Td) が極大となるが,この原因としてギニア湾からめ水蒸気供給の減少が考えられる.一方,ハルッーム (16°N, 33°E) では,露点差が1983年に急増し,』1984年に極大となる.このとき,下層の降水をもたらす赤道西風が薄く850 mbに達しない.ハルツームにおいて,西風が1983年には300-500 mbに, 1984年には700 mbに出現するという異常も認められる.
著者
藤原 健蔵 中山 修一
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.130-148, 1985-12-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
21
被引用文献数
1 2

干ばつ常習地域における農村開発の研究は,人間居住地域の安定的拡大の視点から,国際的な重要課題といえよう・本稿の目的は,デカン高原南部の干ばつ常習地域での現地調査を通して,現行の農村開発事業における問題点を明らかにしようとした. 現地調査は,1980年秋,エルドナ村及びビダラケレ村の両村で実施された.前者の農村開発は,1957年以降,大規模な潅漑用水計画を通して進められた.他方,後者では,1950年代後半以降,コンター・バンドや用水井戸の建設など,比較的小規模な開発事業が多様に展開された. 調査の結果,両村をめぐる開発事業は,その手法を異にするものの,農業の発展と生活水準の向上に一定の開発効果を上げていることが評価された.他方,今後解決されなければならない課題の幾つかが明らかとなった.エルドナ村では,潅漑用水路による過剰給水が,生態系のバランスを破壊し,耕地の塩性化という深刻な問題を引き起こしていた.また,ビダラケレ村では,農民がコンター・バンドの適正な維持に消極的なため,強度な表土流出によって耕地の荒廃が進みつつあり,加えて用水井戸の開発も,地下水源の限界から伸び悩みの状態であった。 デカン高原南部の干ばつ常習地域における農村開発は,今や開発手法の再検討が求められる.現行の手法の継続は,行政当局と農民の双方による急速な経済成長への強い期待も加って,生態系の破壊を一層押し進め,さらに農民間の社会的緊張関係をも増長することになるであろう.
著者
田中 実 西沢 利栄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.165-171, 1985-12-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
16
被引用文献数
3 4

1983年に観測されたブラジル北東部(ノルデステ)の干ばつと南ブラジル(イグアス・パラナ川流域)の大雨をもたらした大気循環について解析を行った. 北部ノルデステ(10°Nより北)地方の雨季は,3月から5月に集中しているので,1983年の4月の大気循環を中心に解析を行った.また,北部ノルデステ地方に雨の多かった1974年についても,4月の大気循環の比較解析を行った.さらに,1891年以降の北部ノルデステ地方の干ばつおよび南ブラジルの大雨とエルニーニョとサウザンオッシレーション(ENSO)との対応について調査した。 1983年の干ばつと大雨を伴った循環は,850mbでは南大西洋高気圧が平年より強くノルデステ地方へ張り出し,この高気圧を反時計廻りに回る北よりの風が,南ブラジル上空の前線帯で上昇し大雨を降らせた.また,観測時代における北部ノルデステ地方の干ばつは,ENSOの年か,その翌年に出現しやすいことがわかった.1983年の大干ばつも1982年から1983年にかけての大きなENSOの後半に観測された.
著者
青山 高義
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.172-184, 1985-12-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
14
被引用文献数
2 2

チロル地方の日降水量分布型とそれに関わる気象条件を整理し,さらに山岳の影響について考察した.まず1956年と1957年の日降水量分布図250枚を,4つの分布型(I, II, III, IV型)に分類した.各分布図に10 km×10 kmのメッシュをかけ,日降水量10mm以上の頻度分布を各降水量分布型ごとに求めた.それぞれの頻度分布図は地形の影響を明瞭に示しており,I型は北方せき止め型,III型は南方せき止め型,又はフェーン型,II型はI型とIII型の漸移型,IV型は全域型である.なおIII型とVI型では,しばしばレインバンドを伴う. 次に,各降水量分布型出現時の天候型,上層風向,対流不安定について検討した.I型,III型は上層風型汎天候のもとに発生し,I型は上層風向NW~Nで安定な成層状態,III型では上層風向SW~Sで相対的に不安定な成層状態の中で発生する傾向がある.IV型は上層風向が南寄りであるが,III型より西成分が大きく,大気は最も不安定である. 日降水量分布には,I型とIII型で山岳のせき止め効果と雨陰効果が認められ,III型とIV型ではこれ等の作用に加えて特定地域にレインバンドを形成する作用などが認められる.そこで,これ等の山岳の影響を先に示した降水頻度分布図に基づいて調べた・地形の影響を隣り合うメッシュ間の頻度差で表せると考え,卓越風向に沿って頻度が増加する場合をせき止め効果,減少する場合を雨陰効果としてその分布を求めた.以上の結果に天気界の出現位置(AOYAHA,1985)を考慮して,せき止め効果,雨陰効果による地域区分をI型(第5図)とIV型(第6図)について行った.またレインバンドについては,1948~1957年のIII型,IV型に分類される大雨日の多雨軸分布を示した(第7図).
著者
太田 陽子 ピラツオリ P. 河名 俊男 森脇 広
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.185-194, 1985-12-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
25
被引用文献数
7 11

琉球列島南部の小浜島・黒島・波照間島の3島(第1図)について,海成段丘,離水ノッチ,ビーチロック,貝・フジツボ・サンゴ化石など,完新世に形成されたと思われる海岸地形・堆積物・化石を調査した.調査した島の地形分類図,試料採取地点などは第2, 4, 5図に,試料のC-14年代は第2表に示される.これらの3島では約4,000yBPから1,000yBPの間の海水準は今よりわずかに高い位置にあったと思われる.すなわち,小浜島では海成段丘堆積物中の貝や原地性のサンゴのC-14年代はそれぞれ約2,600yBP, 3,300yBPで,旧海面は海抜約1mの位置にある.黒島ではビーチロック中の貝化石のC-14年代は約4,200yBPで,旧海面の年代を示すビーチロックやフジツボがやはり海抜約1mの高さに見出される.以上のように,これらの3島においては約4,000年前以降に今より約1m高い位置に海面があり,それ以降わずかながら離水したことが認められる.しかし,日本の各地にみられる縄文海進最盛期(約6,000年前)を示す資料はこれら3島から現在のところ見出すことはできなかった.なお波照間島の南東岸,高那崎付近の海抜約20mに達する平坦面上にサンゴ石灰岩の巨礫が多数みられる.これはその配列の方向やC-14年代から,1771年の明和地震による津波の堆積物であることが明らかになった.
著者
源 昌久
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.195-207, 1985-12-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
22
被引用文献数
1 1

明治・大正期の啓蒙思想家であり,地理学者であった志賀重昂(1863~1927)の著作,『地理學講義』(訂正5版,1892)中で紹介されている,ある英国地理学者および彼の著書を書誌学的アプローチを通じて確定することを筆者は初めに試みた.その結果,その人物は,今日の英国の地理学史研究においても忘れさられてしまった地理学者J. M. D. MEIKLEJOHN (1830~1902)であり,その著書は,A new geography on the comparative method with maps and diagrams (1889) であることが判明した.志賀は, MEIKLEJOHNの著作に活用されている比較法に注目し,これを日本の地理事象へ適用している.また,山上萬次郎(1868~1946)・濱田俊三郎(1870?~1946?)は,『新撰萬國地理』(1893)を著述したが,その内容はA new geography…の地誌の部分の翻訳であった.『新撰萬國地理』は,中等学校用参考書として十数版を重ね多数の読者を得た.山上・濱田の二人は,MEIKLEJOHNの比較法を応用して『新撰日本地理』(1893)を刊行し,本書も多数の人々に読まれた.さらに,牧口常三郎(1871~1944)は,『人生地理學』(1903)の中でA new geography…を著述の際に利用した参考文献として記載している. このように日本人地理学者たちの著作を通じて,わが国にアカデミック地理学が確立する以前に,A new geography…が流布していく過程を分析した.
著者
金田 章裕
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.1-20, 1986-06-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
28
被引用文献数
2 1

条里プランの完成・変容・崩壊のプロセスやその古代・中世における機能について,絵図類における表現に注目しつつ,包括的な検討を進めた。 条里プランは, 8世紀の中頃に,すでに存在していた条里地割に加えて条里呼称法が導入されることによって完成した.これは,三世一身法と墾田永年私財法の下での私領の増大と,それに伴う土地の記録・確認作業の急増に対応するものであったと考えられる.従って,条里プランは律令と共に中国から直輸入されたものでも,班田収授の開始と共に完成した形で存在したものでもなかった・また,唐代中国の一般的な土地表示法とも異なっており,古代日本の実情に合わせて次第に完成度を高めていったものであり,この点では都城プランにおける土地表示法とも同一軌道上にあった. このような条里プランは,一条一巻として作製された班田図に明示されて使用されたが,これには条ごとに里を連続して描いたものと,条ごとではあっても,里を一つ一つ個別に描いたものとがあったと考えられる.現存する絵図類には,この双方の様式を反映したものを確認することができる。 このような条里プランは,班田制崩壊後もさまざまな土地関係の許可あるいは権利・義務などの単位として,中世に至るまで重要な役割を果し続けた.とくに坪の区画が果した意義は大きく,これが今日まで広範囲にわたって条里地割を存続させ,村落景観の基盤となっている大きな理由である. これに対して,里の区画の方は条里呼称の単位として以上の機能を本来は有していなかったが,荘園あるいは村の境界として使用された場合もあった. 条里プランは,定着度の高い地域では16世紀まで機能し続けたが,中世には必要:性や情報量の多寡によって,絵図類などの表現にさまざまな間違いを生じていることもあった. 以上のような条里プランの完成・定着・崩壊のプロセスとともに,土地表示法は典型的には,古代的地名の条里地割に対応する分割ないし再編,条里呼称法と古代的小字地名の併用,条里呼称法のみによる表示,条里呼称法と小字地名の併用,といったプロセスをたどり,遅くとも16世紀末までに,現状のように小字地名のみによる表示法へと変化した.これらの各段階は歴史的な社会的・経済的段階と対応するものであり,同時に日本の村落景観の形成プロセスないし画期にかかわるものである.条里プランは,日本の歴史地理研究において,重要:かつ有効な手がかりとなるものである.
著者
千葉 徳爾
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.21-30, 1986-06-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
17
被引用文献数
1 1

本研究で取扱う地域は,中国中南部の揚子江流域と南嶺以南の南海岸に至る流域を含む.これらの地域の河川の水は黄土色か赤茶色で,山腹や山麓にはほとんど緑の森林がみられない.これらの現象ははげしい土壌侵蝕によるものである.本論文ではこれら地域での侵蝕の過程について考察する. この地方の加速的土壌侵蝕のはじまりは,ほぼ16世紀ころにさかのぼる.それは耕地が丘陵の斜面へと拡大したことに起因する.侵蝕の原因と影響については中国方志に記録されかつ説明されている. 耕地の加速的侵蝕の原因は,特に新しい作物として新大陸(アメリカ)から導入された玉蜀黍・落花生・甘藷・タバコなどの商品作物の作付である.これらの商品作物の耕作方法は,丘陵の斜面を伐採し,肥沃な土壌の侵蝕を防ぐことなく,これらの作物を植えつける。これら中耕作物の丘陵斜面への作付方式は,この地方の伝統的農法に存在しないものであった.はげしい雨は新しい農地の表土を容易に侵蝕してしまったのである. 玉蜀黍のある品種はコロンブスの時代以前から中国南西部雲南省には栽培されていた.ところが新らしい玉蜀黍栽培の方法は,伝統的な農法を無視し,加速的な土壌侵蝕の原因となった.このことは重大な文化的誤りの一例である。
著者
平岡 マリオ
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.1-23, 1985-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
69
被引用文献数
18 29

本稿は,ペルー・アマゾンの氾濫原を生活空間としたメスチソの自給的生活様式を,文化生態論的視点から検討したものである。河川を中心とする経済は,土着的な資源利用の技術に基づいており,河川水の水平的および垂直的な運動によって生じる多様なバイオトープを,体系的に利用するものである。河岸に居住するメスチソの自給的生活様式を説明するために,DENEVANが提出した,農業の水平的地帯分化のモデルを用いた。住民の食料および衣料にかかわる需要の大部分は,農耕によって満される。混植型の焼畑移動耕作と,多品種永久畑耕作の二つの農耕システムが存在する。前者は,洪水に見舞われることのない堤防上で行われるが,後者は,毎年増水期に水没する土地で見られる。農耕以外には,食料と市場に出す財を得るための重要な補足的な生業として,採集,漁〓,狩猟が行われている。こうした伝統的な生業技術嫉・市場経済に対して適応力を示してきており,この点で,アマゾソ開発には潜在的な価値を持ち得るものであろう。氾濫原の土壌では,河川の氾濫によって,植物のための栄養物質が周期的に供給されるため,収穫の持続した農業と,余剰食料の生産が可能である。また,多様なバイオトープを利用する農業は,家族農業に適している。したがって,とくに農業の生産性が低く,人口の稠密な地域から,多数の人口を受け入れる潜在力が存在する。大規模な農業開発行為によって,著しい環境破壊が生じている河間地帯に比較して,氾濫原の環境は,集約的で継続的な利用に,より大きな可能性を有するのである。
著者
上野 健一
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.24-48, 1985-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
45
被引用文献数
5 5

関東大震災が起こる以前の大正中期の東京は,江戸時代からの城下町的伝統を一部に保ちながら,近代都市として脱皮しつつある途上で,近代都市としての都市構造が基本的に形成された時期である。 本稿は,大正中期の東京における居住地域構造を因子生態的方法によって解明した。まず,東京市内を816地区に区分し,各地区に関する19変数を入力変数として,データ行列を作成し,これに因子分析をくわえた。その結果,6つの共通因子が抽出され,それらの中で第1因子は家族的地位,第2因子は公務・自由業従事者,第3因子は高齢独身女性とそれぞれ解釈された。さらに,これら6因子の因子得点を入力変数として,クラスター分析を行ない,居住地域に関する5つの基本類型と5つの副類型とに区分した。そして,これらの居住地域に関する基本類型および副類型を利用して,大正中期の東京における居住地域構造の基本的な構造をモデル化した。その結果,この時期の東京における居住地域構造は,従来いわれていた「山手」・「下町」という単純な空間的モデルでは充分説明できないことがわかった。すなわち,東京の中心部は商業従事者の卓越地域であり,また,東部は子もち夫婦の工業従事者中世帯の卓越地域がみられ,この地域が当時の東京で最も広い面積を占めていた。これに対して,東京西部は公務・自由業従事者の卓越する地域であり,東京東部の縁辺部は工業労働者の卓越する地域であった。そして,大正中期の東京における居住地域構造は,江戸の都市構造に明治以後に形成された地域構造が改変・追加されることにより形成されていたとみることができ,したがって,当時の東京は都市的発展段階として,工業化途上の都市と位置づけることができる。
著者
熊木 洋太
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.49-60, 1985-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
47
被引用文献数
11 9

南関東の沿岸域の完新世後期における地殻変動を明らかにするため,房総半島南部,三浦半島,大磯-国府津地域の完新世海成段丘の分布,形成年代,高度などを調査した。 明瞭な完新世海成段丘は,房総半島南部では4段(沼I~沼IV),三浦半島では3段(野比I~野比III),大磯-国府津地域では3段(中村原,前川,押切)に区分することができる。従来よく知られていなかった三浦半島の完新世段丘(野比I~野比III)の形成年代は,約6000年前,4600年前,3100年前であり,沼I~沼III面にほぼ対比できるものと思われる。しかし,沼IV面に対比される段丘面が三浦半島や大磯-国府津地域に見られないことは,段丘面の離水が南関東において一斉に行われているとは限らないことを示している。 完新世最高海面期(約6000年前)に形成された完新世最高位海成段丘面(沼I面,野比I面,中村原面)の高度分布は,内陸への傾動に西北西-東南東方向の軸を持つ波曲が重なっていることを示している。この高度分布は,元禄型,大正型の地震隆起だけでは説明できない。 完新世段面は,三浦半島の活断層および国府津-松田断層により変位しており,これらの断層が完新世後半においても活動していることを示している。 完新世最高位段丘形成後の平均隆起速度は,更新世後期以降の平均隆起速度より大きいので,更新世後期に比べて完新世の地殻変動はより活発であると思われる。
著者
高村 弘毅
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.61-73, 1985-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
13

地下水環境の悪化は,地下水資源の開発ばかりでなく,地形の改変やビルの建設などに起因する場合もある。たとえば,道路の建設や鉄道の敷設に伴う線形掘削は,地下水位の低下や水質汚染,井戸の枯渇といった現象を引き起こす。本研究は,常磐自動車道柏市工区付近における線形掘削工事によって発生するものと予想される地下水位の変動を,1975年~1976年にわたる調査によって得られた資料に基き,数値解析によって予測することを目的とした。 対象地域の地層は,関東ローム層・常総粘土層が全体をおおい,その下に成田層群が存在するが,この地域の東部では,常総粘土層の下位に竜ケ崎砂層が分布して成田層をおおっている。地下水は,ローム層・成田層の砂層中に存在している。この地域の地下水は,おおむね降雨によって涵養されている。この地下水は,台地より低位の部分,すなわち台地端の沖積低地及び洪積台地中にある開析谷へ自然に流出する場合と,人工的な汲み揚げによる場合,さらにより深い層へ浸透する場合とがある。以上のことから,この地域のシミュレーションには自由地下水の水平二次元モデルを用いることとした。また,開放掘削した場合について,鉛直二次元モデルにより水平モデルの検証を行なった。 計算対象領域は幅1 km,長さ3.5 kmの長方形の領域で,境界条件は現状,排水,止水の3種類を設定した。計算は二段階に分けて行ない,第一段階では帯水層常数の決定を,第二段階では線形掘削による影響の予測を目的とした。 数値解折によって得られた結果は以下のとおりである。 (1)排水条件を与えた場合,台地全般にかなりの水位低下が生じることが予想される。 (2)止水した場合,地下水上流側で2m位の水位上昇が生じる場所が予想される。下流側での水位降下は一部で2m以上になることがあるが,排水の場合に比べると,その影響ははるかに小さい。 (3)区間によって条件を変えた場合,条件が変わる地点の前後300m位の区間において,条件を変えたことの影響があらわれる。 (4)鉛直二次元モデルを用いて排水時の計算を行なった結果,鉛直方向の水頭変化はほとんどなく,自由地下水面は水平モデルによって求めたものとかなり近い位置になった。このことから,水平モデルの仮定が無理なく適応できることがわかった。
著者
河村 武
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.83-94, 1985-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
12
被引用文献数
14 16

戦後の東京およびその周辺地域における大気環境の著しい変化を,大気汚染と都市化に伴う都市気候の面から展望した。大気汚染とその直接の影響が反映する視程の推移を見ると,(1)1949年以前,(2)1950-1963年,(3)1964-1970年,(4)1971年以降の4期に分けられ,経済活動や使用燃料の変遷や大気汚染対策などの要因との対応が明らかである。都市域の拡大や都市活動の変遷に対応して,ヒートアイランドが拡大しその強度が強くなったばかりでなく,大気汚染との相互作用が,1960年代の汚染最盛期のクールアイランドの形成やSO2濃度の日変化型の推移に見られる.また都市内外のクーリングディグリーデーや体感気候の差にも言及した.
著者
森川 洋 成 俊〓
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.95-114, 1985-12-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
15

定期市研究では市場の制度や移動商人の研究が中心をなしてきたが,利用者に関する研究も必要である.特に,都市システムの発達した韓国の定期市は低次中心地として利用されており,中心地としてとらえられる. 忠清南道公州付近の定期市に関する前回の調査では,定期市は生活必需品の分配と農畜産物の集荷の両機能をもつもので,周辺地域に居住する農民によって支えられているとしたが,本研究においてもほぼ同様の結論を得た.すなわち,ソウル市の南東50~100kmにある本地域では,定期市の訪問回数は専業農家よりもその近くに住む農家の方が多いが,定期市滞在時間では農畜産物の販売をかねた専業農家の方が長く,農家の生活にとっては重要な役割を果しているものと考えられる. 日本の低次中心地でも,第2次大戦前には農畜産物の集荷機能をもち,低次中心地としての機能は類似したものであった.ただし,日本では都市化の過程で早期に低次中心地が衰退したのに対して,日本統治時代の韓国では農村は旧態依然とした姿をとどめたままで都市化が進行し,伝統的な低次中心地が長く存続してきたものと考えられる. しかし最近10年間には定期市の利用は著しく減少しており,廃市後の集落にもサービス施設が設置され,新しい中心地システムが形成されつつある.本地域では今日人口流出が増加し,また住民の生活圏も拡大しており,定期市や低次中心地は将来深刻な打撃を受けることが予想される。 なお,本研究は昭和58~59年度文部省科学研究費「韓国における中心地システムと定期市」;課題番号:一般研究(C)58580180の補助を受けている.