著者
前島 佳孝
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.91, pp.235-260, 2018

政権がその統治領域をどのように区分し、どの地域・都市を重要視していたのかは、政治・経済・国際関係の状況と密接に関わるものであり、相互に検討を深めていくことができる。その際には地図を描き起こすことが重要である。西魏政権については、かつて毛漢光氏が府兵制に基づく地域区分がなされていたという主張に基づいて地図を作成されたが、本稿はその所説に若干の批判を加えるものである。主な問題点として、仮説のベースとなった根本史料たる『周書』巻一六・末尾部分の信憑性が、史料批判の結果、大いに揺らいでいること、地域区分が地理的に不自然なこと、検討対象者に付与する属性の項目に問題があること、判断材料とするデータの採否に恣意的な例が見られること、検討対象者が少ないことなどが挙げられる。
著者
小嶋 洋介
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.77, pp.263-291, 2013-10-10

本論稿は、その目的の大前提に、副題に示した「自然の存在学」というテーマがあり、このテーマの展開上に位置づけられている。その中の一主題である絵画をめぐる問題に即して、ファン・ゴッホは取り上げられている。ただ、この論稿は純粋なファン・ゴッホ論として立てられているのではない。軸はハイデガーの思想の方にある。何故ハイデガーなのか。それはハイデガーが、ファン・ゴッホの絵を梃子にして独自の思索へと発展させた重要な一論を出しており、そこで論じられている内容を無視してファン・ゴッホを論究することはできないからである。そこで第一節では、その著名な論文『芸術作品の根源』において、何が論じられているかを解明することに努めている。第二節では、今度はファン・ゴッホの側から見て、ハイデガーの思想との連関性を探る。ここで両者に響きあう主要概念が「大地」と「自然」である。ただ最終節で、我々はこの論題をファン・ゴッホとハイデガーの問題領域の内部に収斂させて終えるわけではない。「大地と自然」の問題の元型性を探求するために、東洋思想との接点を模索する。この論稿をステップに、「自然の存在学」をさらに展開させていくための道を呈示することが、根本的目的となっているからである。
著者
林 邦彦
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.81, pp.115-139, 2015

フェロー語によって今日まで伝承されている多数のバラッドの中に,Ívint Herintsson と呼ばれる,アーサー王伝説に題材を取ったと考えられる作品がある。この作品は18世紀後半から19世紀半ばにかけて,一般にA,B,C と呼ばれる3 つのヴァージョンが採録されており,これらはいずれも複数のバラッドから構成されるバラッド・サイクルである。本作品の先行研究ではしばしば物語の素材に焦点が当てられたが,本稿ではこの作品の3 ヴァージョン間の異同に着目し,個々のヴァージョンの形が生成・伝承された過程を浮き彫りにすることを目指し,バラッド・サイクルとしての本作品を構成する複数のバラッドのうち,まずはKvikilsprang と題されたバラッドに対象を絞り,Kvikilsprang の3 ヴァージョン間の比較を行い, 3 ヴァージョン間で見られた主な異同箇所について,Kvikilsprang と同じ題材を扱ったノルウェー語バラッドKvikkjesprakkの該当箇所とも比較を行う。
著者
林 邦彦
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.90, pp.261-288, 2018

フェロー諸島においてフェロー語で伝承されているバラッドの中に,アーサー王伝説等を題材にしたと考えられる作品Ívint Herintsson(『ヘリントの息子ウィヴィント』)がある。この作品の物語には,中世のアイスランドで著されたサガ(saga)と呼ばれる散文の書物の一つで,アーサー王伝説に題材を取った作品Ívens saga(『イーヴェンのサガ』)の物語の影響が色濃く見られるが,このバラッドの物語中,Ívens saga とは相違が見られる箇所の中に,グラスゴーの司教Kentigern(ケンティゲルン)を扱った聖人伝Vita Kentigerni(『聖ケンティゲルン伝』)のHerbert(ハーバート)版の内容と類似が見られる箇所が存在する。本稿ではフェロー語バラッドÍvint Herintsson の物語とHerbert 版Vita Kentigerniの内容の類似点と相違点,および関連他作品との関係のありよう等を手掛かりに,上記フェロー語作品の物語とHerbert 版Vita Kentigerni の内容との関連性の有無を明らかにすることを試みる。
著者
榎本 恵子
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.76, pp.61-87, 2013-10-10

「喜劇の父」と評価され,フランス演劇に大いなる影響を与えた古典ラテン喜劇作家テレンティウスの作品の翻案が初めて17世紀フランスの舞台で上演されたのは1691年である。同じように「喜劇の父」と称されていたプラウトゥスの喜劇の翻案が上演されてから,約60年後のことである。ブリュエスはパラプラと共同でテレンティウスの『宦官』を『口の利けない男』として翻案し上演した。彼らの前には,ラ・フォンテーヌが翻訳し出版されているが,上演された記録はない。 テレンティウス原作『宦官』が如何に劇作家や観客の興味を引く作品であったかを考察し,この作品が17世紀のフランスの風習と,演劇の規則にそぐわない側面があることを浮き彫りにする。それにもかかわらず,時代の流れに適応させていったラ・フォンテーヌ,ブリュエスとパラプラの視点を検討する。そしてそこから17世紀フランスの劇作家にとって古典喜劇作家「テレンティウス」が意味するものを改めて確認していく。
著者
齋藤 道彦
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.91, pp.37-66, 2018

現在に至るまで中国地域史上もっとも民主的な憲法である「中華民国憲法」を決定したのは、国民大会であった。国民大会は、一九二四年一月の孫文の『建国大綱』に基づく構想であり、民主的な性格を持つとともに、訓政下での政治的実践であった。 国民政府は一九三六年五月五日に憲法草案を公布し、「中華民国憲法草案」と名づけた。 制憲国民大会は当初、一九三五年三月に開催される予定であったが、六回延期された。日中戦争中、いわゆる国共合作に乗っていた中国共産党といわゆる民主党派は、一九四六年一月の政治協商会議までは国民大会の議論に参加していたが、その後、この国民大会にボイコットを表明した。 国民大会予備会議は、一九四六年十一月十八日から十一月二十二日まで開催され、「中華民国憲法草案」が確定された。
著者
森松 健介
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.82, pp.1-28, 2015

ジョン・クレア(1793-1864)とトマス・ハーディ(1840-1928)には明らかな共通性がある。両者とも社会派作家として社会悪の《真実》を暴いた。クレアに上位階級批判が多いと同じく,ハーディは初期小説から社会派的批判を濃厚に示し,中期,また特に後期小説では上位階級批判を主題とした。詩においてもハーディのギボン(Edward Gibbon, 1737-94)礼賛も社会悪の直視だ。《真実》を語れば文筆家は弾圧されるという感覚は両者に顕著である。それでも二人共,農村労働者の勤勉と優しさを描き,具体例としてはクレアの農耕馬,ハーディの馬車馬描写が酷似し,また荒れ地の植物ヘザーと針エニシダも二人の共通の愛を受けている。クレアは旧式のパストラルを批判したが,これはハーディが『緑の木陰』で実践した。その小説の最終章冒頭の緑の木の蔭とクレアの詩の類似は驚くべきだ。クレアの荒地変貌への嘆きもハーディに受け継がれた。最後に,クレアの「原野」と「恋と記憶」を読み,二人の郷土愛・恋愛観の類似を示した。
著者
高橋 大樹
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.78, pp.67-85, 2014

本論文では,ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)の『ユリシーズ』(Ulysses, 1922)の第6 挿話「ハデス」("Hades")を取り上げ,そこに描かれる都市と死者の関係性について考察する。本挿話「ハデス」では,レオポルド・ブルームが友人ディグナムの葬儀に出席するため,他の出席者とともに馬車に乗り込む場面から描かれる。その馬車はダブリン市内を移動し,埋葬が行われるプロスペクト墓地へと向かう。墓地へ向かう車窓からブルームが目にするものは,ダブリンの街に住む顔見知りやさまざまなダブリンの様子である。さらに墓地ではこれまで多くのジョイス研究者がその正体を論じてきた「マッキントッシュの男」(Macintosh)として知られる謎の男をも目撃する。第6 挿話「ハデス」を死者と都市を描く文学作品の系譜において考えたとき,それまでの作品との差異はどこにあるのか,さらにブルームがどのように表象されるのか,そして読者はそれによってブルームと共同体との関係性についてどのような解釈が可能となるのかに関して考察を試みる。
著者
齋藤 道彦
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.85, pp.1-52, 2016

南シナ海の領有権をめぐる歴史としては、第一期、領有権は問題にならなかったはずであるが、現在、中華人民共和国が漢代から中国の固有の領土だったなどと主張している前近代、第二期、清朝・中華民国が領有を主張した時期、第三にフランスが一九-二〇世紀にインドシナ地域を植民地化した時期、第四に日本が二〇世紀前半に統治した時期、第五に日本の敗戦後、中華民国が領有権を主張し、一九五〇年代以降、中華人民共和国がそれを引き継いで領有権を主張しているが、フィリピン・ベトナム・マレーシアなども領有権を主張し、対立して今日に至っている時期、そして第六に中華人民共和国が礁を埋め立てて建設した人工島によって領土・領海を主張しているが、アメリカなどが人工島建設による領土・領海主張は国際法違反と指摘している現在の時期などに分けられる。それらについて主として浦野起央の資料集によって整理を行なった。
著者
岩本 剛
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.87, pp.225-253, 2017

ベンヤミンのアナーキズムは,個人にのみ暴力行使の権利をみとめ,個人の暴力を神からの贈与=負託として擁護するものだが,暴力批判論は,そのような特異なアナーキズムを詳述した論考として解釈することができる。法的暴力の作動/機能の批判的究明を基調とする同論は,法と暴力の共依存的結合を発生させる神話的=運命的な「法措定」のうちに,法的暴力(神話的暴力)の根源を発見した。ただし,同論に提示された法的暴力の「解任」の理念を,一般的なアナーキズムにいわれる意味での法(国家)の廃絶として一義的に理解することは,解釈としてはいまだ不十分である。隠微な両義性を孕んだ暴力批判論の考察は,法的暴力の「解任」がもたらすやもしれぬアナーキー/未開状態の到来に対するベンヤミンの危倶を明かすとともに,法的暴力の「救出」の理念をはからずも提示している。ベンヤミンは,神の正義が個人に贈与=負託した暴力(神的暴力)を,法における「法措定」の契機を未然に阻止することで,法的暴力の自己目的化した作動/機能を抑止し,法を凋落から救出する暴力として擁護する。
著者
曾 文莉
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.86, pp.165-189, 2017

台湾社会の発展と変化を論じる時,台湾ニューシネマが重要な研究対象になる理由は,台湾意識が見えるからである。台湾ニューシネマに台湾意識が現れる理由は,1977年の郷土文学論戦の影響だと思われる。本稿は台湾の文学思潮の流れに沿って,台湾人のアイデンティティーの変化を観察する。アイデンティティーによって映画に登場する日本の表象も違ってくるので,ニューシネマにおける日本の表象をまとめ,ニューシネマ以前および以降の映画と比較する資料にしたい。 台湾ニューシネマの日本の表象は七つの類型に分けられる:日本人,日本語が話せる台湾人,日本に行く設定,日本式建築,日本語の歌,文化面での日本の表象,そして日本と関係がある話題の登場である。 これらの表象をポストニューシネマと比べて見ると,いくつかのことに気付く。一,日本人役の人物設定。二,言語の使用状況。三,日本語が話せる台湾人の役割。四,「台湾人が日本に行く」目的の変化。五,時間を超えた文化面での日本の表象の登場である。最後に,もう一つ注目すべきことは,映画を撮る視点が中国中心史観から台湾中心史観に変わった点である。
著者
落合 隆
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.84, pp.237-267, 2016

ルソーは,宗教を政治との関係においてどうとらえているであろうか。この考察を通して,彼の政治思想に宗教の側面から光を当て,彼の思想がもつ現代的意味を探りたい。『社会契約論』によれば,歴史的には,政治と一体化した「市民の宗教」,国家の中に国家をつくる「聖職者の宗教」,政治から切り離された「人間の宗教」ないし自然宗教があった。そして,ルソーは,市民の宗教と人間の宗教それぞれの利点を結びつける「市民宗教」を提起する。市民宗教は,政治体に参加する市民であるための神聖な宣誓として政治を支えるが,同時に政治体の中に人間の宗教への指向性を確保する。元来排他的な政治体が市民宗教を通して人間性に向けて開放され,祖国愛は人間愛へつながる。市民になることによってしか人間になれない。そして,市民宗教の教義の1つである不寛容の排除によって,個人の信教の自由は互いに尊重されて,さまざまな宗教・宗派を超えて人々が市民として共同体に結集し,社会的不平等のような人間自らが招いた悪に協力して立ち向かうことができるようになるのである。
著者
堀田 隆一
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.81, pp.293-319, 2015

本稿の目的は,言語変化研究における多種多様な視点を5W1H の切り口で整理し,概観することである。近年の言語変化研究は,共時言語学と通時言語学の知見の蓄積を取り込みながら発展し,多様化してきたが,一方で多様性ゆえに全体像を概観することが困難となっている。本稿では,まず言語変化研究において基礎となる概念を導入した後,これまでに提案されてきた3 つの言語変化モデルを紹介する。続いて,言語変化の様々な視点を「いつ」「どこで」「だれ」「なに」「どのように」「なぜ」という切り口にしたがって整理し,それらを一望できる形で概括する。言語変化研究に体系的な着眼点を与えることにより,本稿が今後の研究の発展に資する一参照点となることを期待する。
著者
和田 忍
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.85, pp.125-153, 2016

アングロ・サクソン期のイングランドにおけるゲルマン民族の民族的特徴を示す証拠は数少なく,詳細な記述はほぼない。ブリテン島が政治的にキリスト教化されたのは6世紀末になってからといわれているが,そこへ侵略してきたアングロ・サクソン人や,その後のデーン人が,ブリテン島に定着してからすぐに完全にキリスト教化したとは考え難い。そのため,デーン人がブリテン島を侵略した9世紀から11世紀半ばまでのデーンローに関する資料を用いてゲルマン民族的異教信仰の痕跡を調査することで,当時のイングランドにおけるゲルマン民族の特徴を考察した。今回は調査資料を限定して,グズルム(Guthrum)がアルフレッド大王(Alfred the Great)およびエドワード(King Edward)と取り交わした条約(ウェドモアの条約,the Treaty of Wedmore)と,クヌート(Cnut)がイングランド王として制定した世俗法(第2クヌート法典,II Cnut)の2点を中心に扱った。これらの資料を考察した結果,そこで述べられているゲルマン民族的異教信仰および元来のゲルマン民族による慣習は古アイスランド語文献で述べられている内容とほぼ一致した。このことからアングロ・サクソン期のイングランドにも,ゲルマン民族的異教信仰やゲルマン民族的な慣習が少なからず行われていたことはわかるが,その程度までは測れないという考えに至った。アングロ・サクソン期の末期までにイングランド国民がゲルマン民族的な慣習をすべてなくしてしまったと結論付けられるが,キリスト教に対峙する内容のものが消え去り,地名や曜日の名称など,キリスト教社会に容認された内容が残っていることは興味深い。
著者
栗原 健
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.84, pp.67-83, 2016

近世ヨーロッパを見舞った「小氷河期」と呼ばれる寒冷期は,嵐や洪水など多くの気象災害をもたらした。この気候変動に応えて16世紀後半のドイツに登場したのが,「嵐の説教」と呼ばれるルター派の説教文学である。この中で聖職者たちは民衆の疑問に対応して,気象現象は悪魔や魔女からではなく神から来ること,神は人を改心に導くため嵐や自然災害を用いることなどを,マルティン・ルター以来の神学伝統に基づいて説き聞かせている。彼らによれば,気象災害から逃れるためには人はまじないなどに頼るのではなく,改心して行いを改めるべきである。しかし,敬虔な信仰者であっても命が守られるとの保証はない。このため人々は神の慈愛を信頼し,自らの生死を神の手に委ねるよう勧められた。これらの講話は災害被災者に対するカウンセリングの先駆と言うべきものであり,環境危機の時代に住む現代人に対しても種々の示唆を与えてくれるものである。