著者
川喜田 敦子
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.321-342, 2019-09-30

冷戦下,朝鮮戦争後の南北朝鮮の復興にあたり,東西両陣営は競い合うかのように援助を投下した。東側陣営においては,ソ連を中心として東側諸国がそれぞれに北朝鮮の復興を支援した。本論文は,東側諸国による北朝鮮支援がどのような国際政治上の文脈にあったのかについて,第二次世界大戦後の東側陣営の戦争賠償枠組の変容との関係において検討するものである。主として旧東ドイツの文書館史料に依拠しつつ,東側諸国の北朝鮮支援の実態を明らかにするとともに,旧東ドイツの文書に当時の北朝鮮のどのような姿が映し出されているかについても確認したい。東ドイツの北朝鮮支援は,1950~60年代初頭にかけて,民間レベル,国家レベルの二つのルートを通じて行われた。とくに注目すべきは,咸興・興南という二つの重要都市の復興への協力である。この支援がその後の東ドイツと第三世界との関係構築のモデルとなるものであったことについても論じたい。
著者
山城 雅江
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.33-59, 2022-09-30

本稿はアメリカ市民宗教の中でも非常にポピュラーな象徴で,視覚に訴えるシンボルとして独自の地位を占める星条旗を扱う。先行研究で明らかなように,星条旗はその意味や使用方法,規則といった関連事項・習慣が,幅広い要素の相互作用や歴史的紆余曲折を経て創出されてきた,緊張度の極めて高い文化的構築物である。本稿では特にトランプ政権下という比較的に短い期間において浮き彫りになった星条旗に関わるいくつかのイシュー(愛国心をめぐる政治的駆け引き,国旗崇敬/冒涜,白人ナショナリズムとの関わり)を取り上げる。それぞれに関連する歴史・政治的文脈を概観し,星条旗の今日的な意味内容や使用の来歴・接合を確認する。その上で,今日の星条旗をめぐる表象や言説のせめぎ合いを検証し,トランピズムの部分的解析を試みるとともに,ナショナル・シンボルの意味構築・変遷と社会的コンテクストの輻輳に顕在化するアメリカ的自己表象の文化政治を考察する。
著者
金澤 忠信
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.263-289, 2022-09-30

ソシュールは1903年から1910年にかけて伝説・神話研究を行っていた。1904年には書物の出版を予定していたが未完に終わる。草稿では『ニーベルンゲンの歌』をはじめとするゲルマン伝説が5-6 世紀ブルグント王国での歴史的出来事にもとづいていることが示されている。叙事詩と年代記の様々な細部を照合してまず目につくのは,伝説にはフランク族が不在であり,フン族に置き換えられている点である。ソシュールはその理由として王権への配慮と呼称の問題をあげているが,前者は推論的考察,後者は社会学的考察と言える。ソシュールの伝説・神話研究の方法論は,ごく些細な手がかりによって深い現実を捉えようとする点ではギンズブルグの推論的範例に近いが,医学的症候学にもとづいておらず,徴候的読解とは言えない。ソシュールの関心はあくまで伝説の起源としての歴史的事実にあり,必ずしも隠されざるをえなかった重大事にあるのではない。
著者
渡邉 浩司
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.321-350, 2022-09-30

「武勲詩」は,『ローランの歌』を皮切りとして11世紀後半に生まれ,12世紀中頃に初期の作品群が成立し,13世紀に₃ つの詩群が形づくられた。そして,こうした潤色過程で「アーサー王物語」の特徴的な要素を取りこみ,ジャンルの革新を行った。「ギヨーム・ドランジュ詩群」に属する『ロキフェールの戦い』の「アヴァロン・エピソード」がその典型例であり,その中ではアーサー王の異父姉妹モルガーヌが中心的な役割を演じている。現世の勇者レヌアールを異界アヴァロンへと連れ去る妖精モルガーヌは,妖女であると同時に極端な母性愛を見せる両義的な存在である。
著者
尾留川 方孝
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.100, pp.33-58, 2021-09-30

古代日本では国家の象徴の一つとして『日本書紀』にはじまる六つの歴史書が編纂されたが、『三代実録』を最後に編纂は頓挫する。しばしば『栄花物語』や『大鏡』などが、これらの後継もしくは代替のように扱われるが、本稿では、儀式書が六国史の後継もしくは代替の一つとして理解可能であることを論じる。現在および過去の了解や把握方法の一つとして歴史書を位置づけたうえで、六国史に見える儀礼の記事がしだいに増加するとともに、規範との異同に意識が払われるようになり、『類聚国史』で六国史を分解・分類し儀式書と同様の形式に再編されたことをたどる。歴史書が儀式書へと移行したとする解釈が可能であり、その根底には現在および過去の了解や把握方法の変化があることを示す。
著者
木村 晶子
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.369-401, 2019-09-30

初期中世アイルランドの修道院はcivitas とされた。修道院すなわちcivitas は様々な罪を犯した者をそのコントロール下に置いた聖域を含む周縁地に保護した。聖域は3つに分かれ,俗人が立ち入れる区域は限定的であり,またその周りに周縁地が広がり,そこでは農業的活動が行われた。さらに修道院の周辺には寄進を行う俗人や施しを得る貧者が集まった。修道院は社会的核となり農村地域の中心地となった。また聖人の祝日を祝う集会が行われ多くの人が集まった。そこでは,交換取引を手工業者と農業従事者が行い,契約の締結なども行われた。この時代のアイルランドの修道院は社会的中心となる空間を提供し,犯罪者や貧者を含む様々な階層の俗人が集まる場であった。
著者
尾留川 方孝
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.97, pp.27-54, 2020-09-30

『日本書紀』神代巻が、本文に複数の一書を加えるという特徴的構成になった理由について、根底にある観念や認識から考察する。『日本書紀』は複数ある帝紀・旧辞の正誤を判断し取捨選択し、国家の基礎とすべき「正しい」ものを残すことが、編纂の動機であった。したがって、神代紀に複数記される一書は、たとえ資料の姿をとどめていたとしても、すでに取捨選択の結果「正しい」と判断されたものである。ところで崇神紀で象徴的に記されているように、神の意思は再現せず一定しない。神は、いわば自己同一性が成立していないと言いうる存在であり、収束する単一の「正しい」内容は想定しえない。『日本書紀』の編纂者の根底には、不足する情報をも集め合わせて「全体」を記述すべきという観念もあるので、神が「不測」であることをあらわすためには、矛盾する複数の説をも併記することが必要とされた。だからこそ『日本書紀』神代巻は本文と一書を併記する構成となったのである。
著者
北舘 佳史
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.343-368, 2019-09-30

本稿では13世紀末にシトー会レ・シャトリエ修道院で作成された『サルの聖ジェロー伝』を分析の対象として共同体が創建者をどのように記憶し,その記憶がどのような機能を担ったのかを検討する。院長トマは聖ジェロー崇敬を振興する事業を行ったが,その一環として聖人伝は作成された。伝記では改革者・創建者としてのジェローと地域の治癒者・聖域の保護者としてのジェローという二つの像が描かれ,聖人の墓を守る共同体・巡礼を集める聖域として修道院は再定義された。また,ジェロー派の過去とシトー会修道院の現代をつなぎ,共同体の同一性を保証する役割が聖人の身体に与えられた。ロベール・ダルブリッセルやクレルヴォーのベルナールといった普遍的な人物も修道院の在地的な記憶に歪曲されて取り込まれた。このように修道院のアイデンティティの再編の契機となった聖ジェロー崇敬はシトー会修道院と地域社会の霊的関係という点で先駆的な試みと捉えられる。
著者
近藤 弘幸
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.29-49, 2017-09-30

宇田川文海は、『何桜彼桜銭世中』の作者として、その名前だけがシェイクスピア研究者に記憶されている存在である。当時の文壇に君臨した人気作家であったにもかかわらず、彼が『何桜彼桜銭世中』以外にもシェイクスピア物を残したことは、ほとんど知られていない。その背景には、ほぼ同時代に日本におけるシェイクスピア受容・研究の泰斗としての地位を築いていった坪内逍遥の〈原典原理主義〉とも言うべき態度の影響があったものと思われる。逍遥にとって、文海が活躍した大阪は未開の地であり、文海の仕事は旧幕時代の残滓でしかなかった。そして逍遥の存在があまりに巨大であるがゆえに、文海の仕事は、今まで真剣に顧みられることがなかったのである。しかし彼もまた、まぎれもなく「日本のシェイクスピア」の一部を構成している。私たちは、そろそろ逍遥的パラダイムを脱し、文海のような人々に光を当ててもいいのではないだろうか。
著者
近藤 弘幸
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.79, pp.41-73, 2014-09-16

本論の目的はふたつある。ひとつは、鶴屋南北の『心謎解色絲』を『ロミオとジュリエット』の翻案であるとする主張を退け、一八七九年の春から夏にかけて刊行された『遊戯雑談 喜楽の友』という雑誌に連載された「ロミオとジユリエットの話」を、日本最初の『ロミオとジュリエット』として位置づけることである。そしてもうひとつの目的は、この無署名の連載の作者を、小栗貞雄と推定することである。小栗貞雄は、現在では消毒剤アルボースの発明によって財を築いた経済人としてその名を記憶されているが、その前半生においては、兄の矢野文雄とともに『郵便報知新聞』を支えた新聞人であり、翻案悲恋小説『色是空』を上梓した文人でもあった。そして「ロミオとジユリエットの話」をめぐるさまざまな断片をつなぎ合わせると、この小栗貞雄がその作者として浮かび上がってくるのである。
著者
倉田 賢一
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.82, pp.95-103, 2015

『浮世の画家』の邦訳者によれば,翻訳にさいしてカズオ・イシグロは,作中の「大正天皇の銅像」を「山口市長の銅像」に訂正した。この天皇の抹消は,その場面が持つ意義から,主人公の「戦争責任」をめぐる思考における,天皇の無視を反復するものとして見ることができる。「戦争責任」をめぐる言説における天皇の位置と,この作品で「浮世」(あるいは「浮遊する世界」)と呼ばれているものが,主人公の疑心暗鬼をかきたてるホンネとタテマエの使い分けにほかならないことを考えあわせると,この天皇の抹消は重層的に決定されていることがわかる。すなわち,主人公がおそれる左翼の文脈では,天皇が「浮遊する世界」に関連しているが,彼がかつて属した右翼の文脈では,天皇はむしろ「浮遊する世界」の克服に関連している。さらに,この両者を同時に抑圧する天皇の無視は,昭和天皇に帰せられる空虚な自己批判の身振りの反復によってなされるのである。
著者
林 邦彦
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.90, pp.261-288, 2018

フェロー諸島においてフェロー語で伝承されているバラッドの中に,アーサー王伝説等を題材にしたと考えられる作品Ívint Herintsson(『ヘリントの息子ウィヴィント』)がある。この作品の物語には,中世のアイスランドで著されたサガ(saga)と呼ばれる散文の書物の一つで,アーサー王伝説に題材を取った作品Ívens saga(『イーヴェンのサガ』)の物語の影響が色濃く見られるが,このバラッドの物語中,Ívens saga とは相違が見られる箇所の中に,グラスゴーの司教Kentigern(ケンティゲルン)を扱った聖人伝Vita Kentigerni(『聖ケンティゲルン伝』)のHerbert(ハーバート)版の内容と類似が見られる箇所が存在する。本稿ではフェロー語バラッドÍvint Herintsson の物語とHerbert 版Vita Kentigerniの内容の類似点と相違点,および関連他作品との関係のありよう等を手掛かりに,上記フェロー語作品の物語とHerbert 版Vita Kentigerni の内容との関連性の有無を明らかにすることを試みる。
著者
林 邦彦
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.81, pp.115-139, 2015

フェロー語によって今日まで伝承されている多数のバラッドの中に,Ívint Herintsson と呼ばれる,アーサー王伝説に題材を取ったと考えられる作品がある。この作品は18世紀後半から19世紀半ばにかけて,一般にA,B,C と呼ばれる3 つのヴァージョンが採録されており,これらはいずれも複数のバラッドから構成されるバラッド・サイクルである。本作品の先行研究ではしばしば物語の素材に焦点が当てられたが,本稿ではこの作品の3 ヴァージョン間の異同に着目し,個々のヴァージョンの形が生成・伝承された過程を浮き彫りにすることを目指し,バラッド・サイクルとしての本作品を構成する複数のバラッドのうち,まずはKvikilsprang と題されたバラッドに対象を絞り,Kvikilsprang の3 ヴァージョン間の比較を行い, 3 ヴァージョン間で見られた主な異同箇所について,Kvikilsprang と同じ題材を扱ったノルウェー語バラッドKvikkjesprakkの該当箇所とも比較を行う。

2 0 0 0 OA 土方巽試論

著者
中村 昇
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.297-320, 2019-09-30

1960年代,日本の舞台芸術,そしてアンダーグラウンドの世界を席巻し,後にヨーロッパでも,BUTOH という新たなジャンルを生みだした土方巽の暗黒舞踏について論じる。土方の舞踏とは,どのような芸術であり,どのようなパフォーマンスだったのか。土方の稀代の名著『病める舞姫』を中心にすえ,その内容を分析することによって,土方の世界のとらえ方,存在論,認識論を解明していく。世界を構成するさまざまな要素の融合や多層化によって,世界の見方を根底から覆す土方の方法論の秘密を探っていく。最終的に,土方の舞踏の定義「命がけで突っ立った死体」という概念をあらためて考え再定義する。
著者
寺本 剛
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.78, pp.237-259, 2014-09-16

デレク・パーフィットは『理由と人格』においてある思考実験を提示している。そこでは,地球にいる人物の全ての情報をコピーし,その情報に基づいて火星に新たなレプリカを作成した場合,それは地球にいた人物の火星への移動と見なされるべきか,それとも地球にいた人物は死に,火星でその人物そっくりの別人が生きはじめると考えるべきなのか,ということが問題とされている。通常私たちは以上の事態を「私の死」と見なしがちであるが,これに対してパーフィットは火星にレプリカが生まれることは,私が普通に生き続けるのと同じくらいよいことだと主張する。この主張の正否を明らかにするために,小論ではパーフィットの議論を必要な範囲で跡づけ,それに対して批判的に検討を加える。その過程で「私は自分自身が何であると信じた方がよいのか」という問いについて一定の見通しをつけるよう試みる。
著者
平山 令二
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.353-378, 2022-09-30

1879年11月にベルリン大学教授ハインリヒ・フォン・トライチュケが発表した論文「我々の展望」は,「ユダヤ人は我々の不幸だ」という言葉に象徴されるあからさまな反ユダヤ主義的姿勢により,ベルリンを中心として大きな論争を巻き起こした。当然ながら,多くのユダヤ人学者やジャーナリストがトライチュケの論文に激しい批判を浴びせた。とりわけトライチュケがユダヤ人の「傲慢さ」の象徴として批判した『ユダヤ史』の著者ハインリヒ・グレーツはトライチュケの論文に反発し,トライチュケによる歴史的事実の意図的な誤認と彼の反ユダヤ主義的な歴史観の両面にわたり厳しく批判した。これに対して,歴史家としてのプライドを傷つけられたトライチュケも激しい反論を行った。反論のなかでトライチュケは,グレーツとの論争が反ユダヤ主義論争の核心にあるものを示している,と書いている。ベルリン反ユダヤ主義論争のもっとも重要な論争であるトライチュケとグレーツというふたりの歴史家の主張を紹介したい。
著者
尹 青青
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.81-109, 2017-09-30

『山海経』に見る帝俊説話について、先行研究ではこの人物を舜或いは帝嚳として解釈するが、客観性が十分であるとは考え難い。 本稿では、従来の先行研究と相反する視点を仮説に立て、『山海経』に見る帝俊説話を検討する。黄帝とあまり関係性を持たないとされた帝俊だが、『山海経』に見る帝俊説話と黄帝説話に関して、一言で無関係だとは判断できない。『山海経』に見る帝俊説話は如何なるものか、そして黄帝説話とはどのような関係性を持つのか、これらの疑問を明らかにするのが本稿の目的である。 帝俊の独自性を仮定した上、『山海経』に見る帝俊説話では、帝俊の神格がかなり強調されていることを確認する。その上で『山海経』に於いては帝俊説話が黄帝説話より優位に立つと考える。一方、黄帝説話が帝俊説話と関係性を持たないとは言えず、寧ろ帝俊説話を吸収する傾向が見えると推測できる。その傾向は既に『山海経』に見えると思われる。
著者
竹中 真也
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.93, pp.279-304, 2019-09-30

本稿は,ティモシー・モートンの環境哲学の一端を解明することを目指す。そうするにあたって,ここでは鍵概念のmesh とstrange staranger に焦点を当てる。まずはモートンの哲学を生み出した時代背景「人新世」に触れ,しかるのちにmesh とstrange stranger に関する論述を紹介する。最初に豊富な具体的事例を『エコロジーの思想』から取り上げ,次に,『コラプス』に掲載された論文を軸として,それらの事例を哲学的水準から捉え返す。最後に,これらのmesh やstrange stranger の議論を,モートンが与すると言われているオブジェクト指向存在論の旗手ハーマンの議論と接続し,モートンの議論の特徴のひとつを浮き彫りにする。
著者
岩本 剛
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.225-253, 2017-09-30

ベンヤミンのアナーキズムは,個人にのみ暴力行使の権利をみとめ,個人の暴力を神からの贈与=負託として擁護するものだが,暴力批判論は,そのような特異なアナーキズムを詳述した論考として解釈することができる。法的暴力の作動/機能の批判的究明を基調とする同論は,法と暴力の共依存的結合を発生させる神話的=運命的な「法措定」のうちに,法的暴力(神話的暴力)の根源を発見した。ただし,同論に提示された法的暴力の「解任」の理念を,一般的なアナーキズムにいわれる意味での法(国家)の廃絶として一義的に理解することは,解釈としてはいまだ不十分である。隠微な両義性を孕んだ暴力批判論の考察は,法的暴力の「解任」がもたらすやもしれぬアナーキー/未開状態の到来に対するベンヤミンの危倶を明かすとともに,法的暴力の「救出」の理念をはからずも提示している。ベンヤミンは,神の正義が個人に贈与=負託した暴力(神的暴力)を,法における「法措定」の契機を未然に阻止することで,法的暴力の自己目的化した作動/機能を抑止し,法を凋落から救出する暴力として擁護する。