著者
瓜生 濃世
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.49-66, 2013-03

本稿では,筆者が2010 年度から2012 年度春学期に京都産業大学にて行った「フランス文学 概論」での実践を基に,学習者の関心を高めるための技法について考察する。最初に今日の大 学生の性質と特徴に焦点をあて,従来の発想では円滑な授業運営が困難となっている理由を確 認する。次に講義形式の授業において導入可能な技法とその効果について検討し,「文学」を どのような側面から扱えば学習者の関心を呼び起こすことが可能であるか提言したい。今日の 学習者に適合するよう創意工夫すれば,文学の授業が彼らの知的好奇心を涵養する場となるこ とは十分可能であると思われる。
著者
小山 治
出版者
京都産業大学
雑誌
高等教育フォーラム = Forum of Higher Education Research (ISSN:21862907)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.1-12, 2022-03-29

本稿の目的は、全国の4 年制大学の学部4 年生に対するウェブ調査によって、人文・社会科学分野の専門分野別習得度と関連する大学教育は何かという問いを明らかにすることである。本稿の主な知見は、10 個の専門分野ごとにみても、大学教育の中でも授業経験よりも学習経験(特に探究的な学習、授業間を関連づけた理解、授業外での活用)の方が専門分野別習得度と有意な正の関連があったという点である。以上から、本稿の結論は、人文・社会科学分野の専門分野別習得度と関連する大学教育は、授業経験(どういう授業をどれくらい受けたか)ではなく、学習経験(何を考え、どのように学んだか)ということになる。ただし、この具体的な内容については、専門分野間で共通する部分と共通しない部分があり、両者を慎重に見極める必要がある。本稿の知見の含意は、次の2 点である。第1 に、授業形態に過度に着目した大学教育改革・授業改善への警鐘が必要ではないかという点である。第2 に、大学に求められるのは、学生が自らの学習経験を高められるような仕組みづくりではないかという点である。
著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.249-272, 2014-03

山本五十六提督はアメリカ駐在武官も勤め、同国の実力を熟知していたが故に、アメリカとの間の戦争に反対であったといわれている。したがって日独伊三国同盟にも反対であった。しかしながら、日米関係が緊張してくると、アメリカ太平洋艦隊の基地真珠湾を攻撃する計画を作成、その計画実現に向けて強引な働きかけを行った。 これをみると、山本は果たして本当に平和を望んでいたのかどうかについて疑問が起こってくる。一方で平和を望みその実現に努力したと言われながら、実際にはアメリカとの戦争実現に向けて最大限の努力を行った人物でもある。 本論は山本が軍令部に提出した真珠湾攻撃の計画が実際にどのようにして採択されたのか。それは具体的にはいつのことなのか。またその際用兵の最高責任者、軍令部総長であった永野修身はどのような役割を果たしたのかについて言及する。これを通じて、もし山本の計画が存在しなければ、あるいはこれほどまでに計画実現に執着しなければアメリカとの戦争実現は困難だったのではないだろうかという点について論述する。 日米開戦原因については多くの研究の蓄積がある。しかしながら山本五十六の果たした役割についてはいまだに不明の部分が多いと考える。それが、従来あまり触れられることのなかった山本五十六の開戦責任について、この試論を書いた理由である。
著者
平塚 徹
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.211-238, 2014-03

多くの言語において,電気器具のつけ消しを表すのに,火をつけたり消したりすることを表す動詞を用いる(フランス語 allumer/éteindre,日本語「つける/ 消す」など)。これは火による照明器具について用いられた動詞が電灯に転用され,それが電気器具一般に拡張されたものと考えられる。この過程で,電灯は電気器具のプロトタイプの機能を果たしたと考えることができる。 同じ行為を表すのに開閉を表す動詞を用いる言語も多く存在する(フランス語 ouvrir/fermer,中国語「开/ 关」など)。これは,以下の機序に大きくよっている。すなわち電気器具のつけ消しをメトニミーにより電気を流したり止めたりすることで表し,それをメタファーにより電気の通り道の開閉に見立てたのである。 それ以外にも,別の意味の動詞,句動詞,接頭辞付きの動詞を用いる方法がある。エスペラントは電気器具をつけることを表すために新しい単一の動詞を用意している点で特異である。電気器具をつけるという概念はある程度抽象的であり,これを表現するには自然言語は何らかの方略に訴えるのである。
著者
池田 昌広
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 = Acta humanistica et scientifica Universitatis Sangio Kyotiensis (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.50, pp.207-230, 2017-03

書写用の紙は2 世紀初め洛陽で考案された。その理由を通説はこういう。当時の人びとが重くかさばる不便な竹簡に替わるより便利な書写材を追求した結果,紙が開発された,と。しかし竹簡の不便の表白は紙という便利な書写材を入手して以降の文献に限られる。そもそも竹簡の使用歴は過去千年以上あったにもかかわらず,なぜ2 世紀になって新たな書写材が考案されたのか,通説では説明できない。小論は,気候変動による竹材供給の不安定が紙開発の動機であったと考える。竹は高温多湿をこのむ植物である。殷周時代は非常に温暖湿潤で華北でも竹は潤沢に生えていた。しかし六朝時代の小氷期に向かって華北の気候は寒冷乾燥へ変化していった。いきおい中原の竹は衰退していったと推される。竹材は不足がちになり,その状況があらたな書写材の開発をうながしたのではないか。その結論が紙であったと思うのである。
著者
小倉 恵実
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.43, pp.123-153, 2011-03

両大戦間期のアメリカで出版・発表された大衆向けの雑誌や小説の中では「フロイト」や「心理学」「精神分析」と言った言葉がしばしば登場する。小説や戯曲などの文学の中ではフロイトの理論やフロイトという人物について,読者の側が予めある程度の知識を持っていることを前提として書かれたものが多く,大衆向け雑誌の中ではフロイトの理論や精神分析が誤用されたり心理学そのものが堕落してしまったりしていることを嘆く論調のものが多数見られる。これは当時のアメリカの社会事情や人々が持つ不安を如実に表しているものである。
著者
内田 健一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.233-254, 2015-03

ダンヌンツィオの言葉は,マンゾーニ派の目指した「日常的」なものと全く異なる,とりわけ「文学的」なものであった。にもかかわらず,彼の言葉は社会に大きな影響を与え,低劣な「ダンヌンツィオ主義」を生み出した。そこで本稿では,彼の言葉の実像を,彼自身の証言を通時的に検討することによって,彼の人生との関わりも含めて明らかにする。 1888 年の記事〈ジャウフレ・リュデル〉で,カルドゥッチの散文における言葉の音楽性と語源の探求を賞讃するが,実はそれらはダンヌンツィオ自身の理想に他ならない(第1 章)。1889 年の小説『快楽』では,「詩こそ全て」と言葉の全能性を認め,トスカーナ語の伝統への愛着を表明する(第2 章)。1894 年の小説『死の勝利』の献辞で,ダンヌンツィオは自らを言葉の冒険者として描き,イタリアの威信を高める言葉の創出を目指す(第3 章)。1895 年の小説『岩窟の乙女たち』において,言葉と民族主義の深い結び付きを示す。ここで言葉は虚構の道具ではなく現実的な「武器」と見なされる(第4 章)。1900 年の講演〈ダンテの神殿〉でダンヌンツィオは,カルドゥッチに代わる「詩聖」として,言語の崇拝を司る(第5 章)。同じ1900 年の小説『火』で,作品という虚構の中ではあるが,理想的に芸術と人生が一致する。詩人の言葉は,英雄の身振りと同じように,「行為」と見なされる(第6 章)。1903 年の詩篇『マイア』では,「民族の神話的な力」として讃えられる言葉を用いて,詩人は新しい時代の訪れを告げる(第7 章)。1906 年の『散文選集』の出版の経緯から,ダンヌンツィオの言葉に対する誠実さが窺われる。その「前書き」には言葉の「師匠」としての自負が表れる(第8章)。1913 年の伝記『コーラ・ディ・リエンツォの人生』の献辞では,クルスカ学会を揶揄しつつ,言葉の「精華」を追求する自らの姿を描く(第9 章)。『鉄槌の火花』の一つ,1924 年の随筆『ルクレツィア・ブーティの第二の愛人』では,寄宿学校の日々を回想する中で,トスカーナ語への執着とマンゾーニ派への反感を語る(第10 章)。1935 年の自叙伝『秘密の本』で,年老いたダンヌンツィオは言葉を「交流」ではなく「表現」の手段と考える。そして彼の言葉と人生は神秘的な合一に達する(第11 章)。 ダンヌンツィオにとって,はじめカルドゥッチは言葉だけではなく新しい自由の指導者でもあったが,次第に束縛となる。1907 年の師匠の死によって解放されたダンヌンツィオは,劇場と戦場で本当の自分らしい人生を追求する。そこで彼は自らの生命のリズムに言葉を合わせることによって,より広く深い自由の世界を表現することができた。
著者
李 丹慧[著] 吉田 豊子[訳]
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.407-430, 2015-03

中国の新疆におけるソ僑〔ソ連国籍をもつ新疆の人〕及びその膨大かつ複雑な社会関係のネットワークは,ソ連が新疆で影響力を拡大し維持する広くかつ深い社会的基盤となっていた。とりわけ1940 年代の半ばには,このような特殊な集団は新疆において実際にある種の「国の中の国」という状況を作り出していた。このような状態は,中華人民共和国の成立後においても続いたのである。新疆のソ僑協会はソ僑の集団を一層凝集させ,新疆におけるソ連の社会的基 盤を強固にした。そして,1950 年代半ばからグループに分かれて帰国したソ僑は,自分たちと新疆域内の親族及びその社会関係とをつなぐルートを築いた。中ソ関係に亀裂が生じた時に,ソ連は新疆におけるソ連籍幹部を勢力の中核とし,帰国ソ僑をルートにして,中国の反修正主義闘争の方針に対応しようとした。中ソが分裂した後,帰国ソ僑と新疆の辺疆地域の人民との間の相互関係の発展にともなって,潜在していた新疆地区の民族分裂の情緒が噴出し,ソ連の中央アジア地域の各加盟共和国が,ある程度,新疆の民族分裂主義のガソリン・スタンドや大本営となり,新疆は中ソ友好の基地や戦略的大後方から,中国がソ連の修正主義に対抗する中心的な地域となり,イリはさらに反修正主義闘争の前線基地となってしまった。
著者
高山 秀三
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.281-316, 2015-03

三島由紀夫は少年期からニーチェを愛読し,大きな影響を受けた。ニーチェと三島には,女性ばかりに取り囲まれた環境で幼少期を過ごしたという共通性がある。女性的な環境で育った人間が自身のうちなる女性性と戦うなかで生れたニーチェの哲学は,受動性や従順,あるいは柔弱さなどのいわゆる女性的なものに対する嫌悪を多分に含んでいる。それは思春期の自我の目覚めとともに男性的な方向に向けて自己改造をはじめていた三島の気持に大いにかなうものだった。戦時中,十九歳のときの小説『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』は三島自身がニーチェのつよい影響のもとで書いたことを認める作品である。無差別的な大量殺人を行なう「殺人者」の思いを日記体でつづったこの小説にあって,「殺人者」はその「殺人」によって,失われていた生の息吹を取り戻す。この「殺人」は三島が目指す危険な芸術の比喩であると同時に殺人という悪そのものである。ここには幼少期以来,攻撃性の発露を妨げられ,健全な生から疎外されているという意識に苦しみつづけてきた三島の,生を回復するための過激な覚悟が反映している。そしてこの覚悟は,三島と同様に女性に囲まれた幼少期を送り,自分の弱さと世界における局外者性の意識に苦しみながら,男性的なヒロイズムをもって自分を乗り越えていく思想を語りつづけたニーチェの戦闘的な著作への共感から生れている。
著者
若井 勲夫
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.286-264, 2010-03

本誌第四十号(平成二十一年三月)でわらべ歌の二編(「かごめかごめ」「通りゃんせ」)を取上げ、国語学・国文学の研究に基づき、起源の形から歌詞が変化していく過程を跡づけながら、歌詞の言葉と表現を言語主体の意識や感覚を中心に精しく分析し、一語、一句ごとに解釈を施し、主題を明らかにした。本稿はこれに引続いて、わらべ歌の「ずいずいずっころばし」を考究する。 この歌は江戸時代の文献には見られず、明治十六年の綿絵風のおもちゃ絵が初出であり、二、三十年の歌謡集に見られる。内容については従来、意味がはっきりせず、明確な説明がされなかった。通説としては江戸時代のお茶壷道中によるとされるが、これには何の根拠もなく、歌詞の一部をそのように考えれば、その歌の部分的な解釈ができるという程度に過ぎない。この他に、意味不明説、不可解な点に意味を認める説、また、解釈そのものを否定する説などがあり、それ以上に進まなかった。その後、近世近代の歌謡研究家の西沢爽氏が「ずっころばし」と「胡麻味噌」を近世語からの転訛として解釈を試み、大体の全体像が初めて明らかになった。 本稿はこの西沢説によりながら、近世語の用例や関連語を挙げて右の二語の語釈を補い、「抜けたら」その他について新しい解釈を提示し、全体の展開と構成を矛盾することなく、整合的に明らかにし得た。さらに、元の歌詞が転訛していく過程を追い、異なった語句の解釈から逆に元歌の語釈を究め、また、多くの類歌の表現を分析し、そこに共通する意味や言語主体の発想と意識を探り、この歌を初めて総合的に解明することができた。研究の態度としては、先入観にとらわれず、独断やこじつけに陥らず、また、興味本位や卑俗に流れず、あくまで学問的に語釈、評釈し、考証することを心懸けた。わらべ歌は子供の素朴、純真な童心だけを歌うものではなく、特に意識しなくても、その底には善悪、明暗、清濁の入り混った心を表すものである。
著者
髙梨 泰彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 自然科学系列 (ISSN:13483323)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.171-184, 2018-03

本研究の目的は,バレーボールにおけるスパイク跳躍高を増大させるための助走条件を明らかにすることである。助走の歩数,歩幅,跳躍時における腕の振込み動作の3要因について,それぞれ条件を変化させ,跳躍高を調べる実験を実施した。被験者はC大学に所属する大学男子バレーボール選手17名であった。本研究の結果以下のことが明らかになった。 ① 跳躍高を大きくするためには助走歩数は3歩が有効であり,歩数を少なくすると跳躍高は低下する。 ② 助走の歩幅は身長の100%程度の時に最も跳躍高が大きくなった。以下75%歩幅,50%歩幅であり,歩幅が小さくなると跳躍高が低下する傾向にあった。 ③ 腕の振込み動作によって跳躍高は増大することが明らかとなった。特にバックスイング動作が重要で,バックスイング動作を伴った腕振り動作のときに最も跳躍高が大きくなった。
著者
吉田 卓爾
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.53, pp.228-198, 2020-03-31

室町将軍三代義満より六代義教を経て八代義政へと至る間に形成された唐物コレクション「東山御物」に関する研究は膨大な数に上る。絵画史分野においては、資料に限りがある中で、将軍の鑑蔵印を有する現存作品の研究や、『御物御畫目録』、『室町殿行幸御錺記』、『小河御所并東山殿御錺図』、「君臺観左右帳記」(諸本)、『圖繪寶鑑』等、重要史料の精査が蓄積されている。 所蔵品目録あるいは画人録といった要素を有する上記諸史料に対し、『蔭凉軒日録』は相国寺塔頭の鹿苑院内に設置された蔭凉軒主の日記であり、性格が大きく異なるため比較し得る部分が少ない。従来、『蔭凉軒日録』の記述は断片的に扱われることが大半であった。 本課題は『蔭凉軒日録』の精査を経て、当時の相国寺に伝来した絵画に関する記述に注目している。当該絵画に関する記述からは、応仁・文明の乱以降の相国寺における絵画受用の在り方が垣間見られる。本稿では『蔭凉軒日録』の記録内容を詳述・検討し、十五世紀の将軍家及び寺家における宋・元・明絵画の受容と室町絵画の様式変遷について考察を進めていくための足がかりとしたい。
著者
塩谷 芳也
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.63-73, 2021-03-31

本研究の課題は,日本における成人の性行動とパーソナリティの関連性を解明することである。日本全国に居住する20–59 歳の男女を対象に,2019 年9 月にWeb 調査を実施し,性交経験人数とビッグファイブによるパーソナリティ(外向性,協調性,勤勉性,神経症傾向,開放性)を測定した(N=300)。性交経験人数を従属変数,ビッグファイブを独立変数として,年齢,教育年数,個人収入をコントロールしながら男女別に重回帰分析を行った。その結果,男性では,外向性と協調性が性交経験人数に対して有意な効果を持ち,外向性が高いほど,また協調性が低いほど性交経験人数が大きくなる傾向が見られた。しかし,女性ではいずれのパーソナリティも有意な効果を示さなかった。これらの結果について,先行研究と比較しながら議論を行った。
著者
田中 将大 宇佐美 洵 入江 拓郎 川畑 隆司 門 良一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 自然科学系列 (ISSN:09165916)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.27-42, 2012-03

次世代燃料電池材料として有力視されている水素吸蔵マグネシウムにおいて,プロトンの核 磁気共鳴(NMR) の実験を室温と液体窒素温度で行った.高温高圧下で水素を吸蔵させたマグ ネシウムと,市販試薬の水素化マグネシウムの二つを試料とした.室温での測定結果はどちら の試料も結晶相と固溶相の二つの相を有することを示した.液体窒素温度では両試料ともに予 想に反して液体気体で見られるような大きなスピン・エコーが観測された.ドライ・アイスや 冷凍庫で冷やした試料においても同様の現象が見られた.これは低温化することによって試料 に不可逆的な構造変化が起こり,気体水素が発生したものと考えられる.この現象は,吸蔵量 は多くても水素の放出が困難であった水素吸蔵マグネシウムの,燃料電池としての有用性に新 たなブレークスルーをもたらすことが期待される.
著者
吉 基泰[著] 近藤 浩一[訳]
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.425-443, 2013-03

1.はじめに2.仏教医学の受容3.呪禁師の活動4.薬師信仰の展開5.おわりに
著者
小林 卓也
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.181-194, 2013-03

本稿の課題は,フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと,精神分析を専門とするフェリックス・ガタリとの共著『千のプラトー』(1980)に見いだされる言語観の内実とその射程を明らかにすることである。彼らが端的に述べているように,「あらゆる言語(langue)は本質的に非等質的な,混合した現実である」。しかし,チョムスキーによる生成文法を念頭に置きながら,言語学はこうした言語現象の多様性に目を向けようとせず,文法規則や言語の等質的体系性を抽出することだけに終始しており,そこには,われわれの多様な言語活動を均質化し規格化することで,自らの科学性を担保する政治的関心しかないと彼らは批判する。ここには,言語を異質な要素からなる多様体とし,その多様性をいかに捉えるのかという彼らの企図が明瞭 に現れている。本稿は,こうした彼らの言語観がどのような問題意識と結びついているのかを 以下の手順で明らかにする。 まず,『千のプラトー』において彼らがジョン・L・オースティンの発話内行為に見出した論点を確認し(第一章),それが60年代のドゥルーズ哲学の延長上にあることを指摘する(第二章)。というのもドゥルーズこそ,言語の本質を,身体や行為といった物理的なものと,それによって表現される意味や出来事といった非物体的なものの二元性という論点から考察していたのであり,『千のプラトー』の主眼は,その言語の二元性の連接をいかに捉えるのかということにあるからだ。こうした論点からすると,注目されるべきは『千のプラトー』において ルイ・イェルムスレウが占める役割である。イェルムスレウ言語学における表現と内容の連帯性,および形式と実質という概念の導入は,言語における二元性への問いに一定の回答を与えている(第三章)。最後に,彼らの議論がいわゆる言語理論の枠内に留まることなく,とりわ け彼らがミシェル・フーコーと共有するある歴史認識と結びついていることを確認し,その理論的射程を特定したい。